20/12/04

 あるものの美しさは、意識されていないからこそ美しい。もしそれが意識されてしまったならば、その美しさは壊れてしまう。何故か。意識したならば、それを意識する前にあった自然さが壊れてしまうからだ。だから人によっては、一つのものの美しさを知っているが、できる限りそれに気付かないふりをする。触れてしまえば壊れてしまう、そんな意識されないものの美しさを守るためだ。そして、もし意識してしまったら最後、人はそれを踏まえた上でなければ生きていけないのである。

 先日、私がある友人と話している時のことである。大雑把にまとめるが、彼はおよそ次のようなことを話してくれた。「自分は恋人が欲しくない。何故なら、そういった関係になった場合、相手から束縛を受けなければならないからだ。お互いに独立を保てるならいいが、束縛や、自分の自由が制約されたりしてまで、誰かと関係を持ちたいとは思わない。そして、関係を持てば、大体どちらかがどちらかに対して情を抱く。要するに、自分は都合のいい相手が欲しいのである」と。
 
 責任の問題というのは、恐らく他者と関係し続ける限り生じ続けるものなのだろう。正直、私には彼の言いたいことがわからないでもなかった。むしろ殆どの部分に対して共感していた。何故なら、自分も彼と同様に、結局都合のいい相手が欲しいだけだからだ。

 他人と深い関係になりたくないわけではない。ただ、そうまでして何かが得られる気がしないだけだ。言い換えるならば、束縛されたり、責任を負いたいと思える場合でない限り、誰かと深い関係になりたいと思えない。もしそういった感情が伴わずに関係を持てば、私は必ず相手を苦しめることとなる。そして、相手が苦しむこととなれば、むしろこちらが苦しむことに繋がるのだ。こちらにないものを相手に与える振りし続ければ、私の心は追い詰められていくだろう。または相手が私の裏切りに気づいたならば、相手はこちらを憎み、罪人として攻め始めるだろう。で、もしどちらにも耐えられないなら、はじめから何もしないでいるべきなのだ。下手に動いてもろくな結果にはならない。私達が恐れるべきは動かないでいることよりも動きすぎてしまうことだ。

 しかし責任を負いたい相手など、そもそもそう簡単に見出させるものではない。

 私にもやはり、責任がなんだとか、そういった重苦しい問題に悩まされずに他者と関係することの出来たあの頃を懐かしく思うことがある。出来ることなら、あの頃に戻りたい。そこには純粋な戯れがあった。あの頃、私は幸せだった。自分がこれからどうなるかとか、または今の自分達がどういう関係なのか、そういった事を意識しないまま相手と共に過ごしていた。そして、そのように流れる時間の静穏さを愛していた。きっとずっとこういう幸せが続くのだろうと思っていた。しかし違っていた。相手は私と同じくらい単純に(または愚かに)物事を考えていなかった。こちらが楽観的に過ごしている時に、向こうは遥かに複雑な悩みを抱えていたのかもしれない。私はやがてそれに気づいた。しかし向き合うだけの勇気がなかった。向き合えば自分の喜びが壊れるのを無意識的に察したのかもしれない。だからそれを気付かないふりで済ませることを選択した。しかしその結果として、私は全てを失っていった。あとになって自分が間違っていたことに気がついた。しかしその頃には、私は既に悪人として責められる自分の姿を見出していた。

 時折、自分が置いてけぼりになっているような気持ちになることがある。たとえば公園で二人の子供(男の子と女の子)が遊んでいるからと言って、誰も恋愛がなんだとかセックスがどうしただとか言わないはずだ。出来ることなら、私もまたあの二人の子供のように戯れたいのである。しかし、それは無理なのだろう。「あの子供のように」と意識している時点で、既に私は子供と同じ世界線を生きていないのだ。もしまたかつてと同じことを繰り返そうとしても、そこにあるのは偽物の、二流の演技だ。私は大人の世界の一員として生きることが出来ないが、子供として無知のままでいることだって出来ない。ただ周囲と自分のズレだけが深まっていく。

 要するに、私は途方に暮れているのである。

 時折、他者から何らかの期待を寄せられることがある。思い込みでなければ、おそらく恋愛の期待なのかもしれない。だとしたらありがたい話だし、勿体ない話だとも思う。しかし、私には何もできない。相手の期待するものなどはなから持ち合わせてないからだ。

 ただ愚かさから、他人の期待に応えようとすることがある。それは優しさというよりかは寂しさからである。孤独に耐えられないと思った時、もしかしたらここに苦しみから抜け出す何かがあるのではないかと勘違いする。しかし間もなく自分が馬鹿だったことに気がつく。相手と関わるほど、向こうの期待しているものが自分にないことを痛切する。だから早めに手を引く。そうすればろくな事にならない前に、物事は穏便に済む。これが私の生活の中で身につけた、自分なりの利口さである。私にはこうするしかなかった。だから誰も責めないで欲しい。

 

 眠い。最近の生活はおよそ二つに分けられる。つまり、あまり眠れないか、あまりにも寝てしまうか。そのどちらかである。今日はあまり眠れていない。寝ても覚めても、頭がズキズキと痛む。

 書く前は色々と書きたいことがあったのに、いざ書こうとすると「一体これを書いてどうするんだ」という気持ちになる。で、結局書かないまま終わってしまう。日記を書く時には、よくそんな現象がよく起こる。本当に思いついた時は「これは面白い内容だし、言葉に表せたら自分にとってもいい発見になるに違いない」と意気込んでいるのだが、いざそれを言語化しようとすると、「いや、こんな事は既に書かれたことだし、書いて何になるのだろう」となって終わる。こうして、言葉にならなかったことばがどれほど多くあるだろう。私達の心情というものは、常に語られたものよりも語られないものの方が遥かに多いのではないか。

 ドゥルーズはよく「何かのために書くこと」の大切さを説いていた。新しい発見とは、常に過去の誤解が解かれることによって生まれる。だから私達が書くのは、自分のためでもなければ他人のためでもない、見過ごされたもの、見放されたもの、置き去りにされたもの、忘れ去られたもの、つまりは無名なもののためでなければならないのだ。

 ああ、ドゥルーズ。このモノクロに染まる日々の中で、ドゥルーズの著作を読み進めることは、私にとってあるささやかな喜びである。ドゥルーズの著作のいい点は、その一部分に触れたら、他の全てにも触れたくなるところだ。彼の著作を読み進める上で、その文体の読みづらさが一つの難点として挙げられるだろう。私自身、読んでて「どうしてこんな分かりづらく書くのか」と思ってしまうことも少なくない。しかし、それにも彼なりの理由があるのだ。もとい、「原因」と言った方がいいかもしれない。

 彼の著作はどれもその他の著作達と密接な繋がりを有している。ドゥルーズは元々哲学史家であり、ヒューム、ベルクソンスピノザニーチェなど、他の哲学者の研究から自らのキャリアをスタートさせた。また彼にはマゾッホプルーストなどの小説家や、画家フランシス・ベーコン、映画などを論じた文章も少なくない。さて、彼の著作の中でも、とりわけその主要著作(『差異と反復』)が読みづらいのだが、その理由は、まさにそこにある。つまり、彼が上記した他の哲学者/作家を研究する上で見出したものを前提にして書いていて、それら研究されたものへの(言葉の意味や語彙の用い方についての)説明は、まるでしてくれないのである。

 結果として、ドゥルーズの著作は常に一つの謎として私達に現前している。彼の読者は、自ずと謎解きをする探偵のように、奇怪な事件に直面した刑事のように、彼の作り出した迷宮と対決することを求められる。だから彼の著作全体を読む時、私は推理小説の主人公になったような気分になる。ドゥルーズの一つの著作を読んでからまた別の著作に当たると、それまで見えてこなかったものが見えてきたりするのである。

 彼自身、よく次のようなことを書いていた。「古代ギリシアの哲学者は、自らを表すために聖職者の仮面を被る必要があった」と。そして、それは彼の執筆の姿勢に対しても言えることなのだ。ドゥルーズは他の哲学者への言及を通して自らの思想を語り、紡いだ。だから、別々なことに言及しているはずの彼の著作には、常にある一貫性が、一義性が見出される。そして、この一義性がなんであるかを解き明かした時、私達はドゥルーズ思想の謎を紐解いて、その深淵を除くことになるのである。恐らくこの謎が解き明かされるまで、ドゥルーズは私の頭から離れない。そう、まるで何かに取り憑かれているかのように。

 そういう意味では、彼の哲学を読み解くことは、まるでパズルを紐解くかのような楽しさがある。ここの風景を完成させるためにはどのピースが必要なのか。彼のこの思想を理解するためには、次にどの著作を手に取るべきなのか。私はドゥルーズ思想の地図を描いていく。そして、地図の空白を見つけたならば、それを埋めるためにはどうすればいいのかを考える。こうして私の読書計画が完成する。パズルを解読し、失われたピースを求めて。私は彼の本を開く。地図が上手く描けないならば、また初めから読書の計画を見直すこととなる。まるで探偵が謎を解き明かしていくかのように、または刑事が犯人を追い詰めていくかのように、私の謎解きは進んでいく。

 ソーカル事件の影響もあって、ポストモダンの哲学者には胡散臭い印象がつきまといがちである。しかしドゥルーズ哲学の根底にあるものは至って真っ当である。彼の思索の始まりはヒュームとベルクソンにある。そして、ここにこそソシュールフロイトマルクスフッサールらを起源に持つ他のポストモダンの哲学者達との決定的な(本性の)差異がある。そこには彼独特の心理学的な、または存在論的な叙述がある。

 さて、彼の思想にも色々な側面があるが、その一つとして、次のようなものが挙げられる。私達の過去には潜在的な記憶があって、それは普段は表出しないものである。言い換えるなら、人の性格とは常に過去の経験に基づいて発生するが、しかし私達は現行の自分の意識に基づかなければ過去を解釈することが出来ない。ではその解釈はいかにして行われるか。それは私達の抱く知識、すなわち概念である。人は自分の知っているものに自分を寄せていく。こうして私達は自分自身をドラマ化させていく。そして自分をドラマ化させた時、それは自分の知ってるものの仮面を通して別の自分を演じることにつながる。よって、そこにあるのは決して「本当の自分」ではない。現行の自分と潜在的な自分の間には、常に相容れない差異が存在する。そして、人が「本当の自分」を演じることは決してなく、ただドラマ化される自分自身だけが回帰するのである。

 大雑把だし正確なものではないが、これが私なりにドゥルーズを読んだ末に見出されたものの一つである (講義録『ドラマ化の方法』と『差異と反復』の後半部分を参照)。現代とは独学がしやすくなった時代のように思われる。今では講義に出席しなくてもインターネットで情報を集めることが可能である。それでも独学が危険なのは事実だ。知識に偏りがあるのは独学者の常であるが、私にしても、他の人なら当たり前に知っていることも知らなかったりする。それで自分を恥じることもある。ああ、本当に恥ずかしい。自分の特に未熟だと思う点の一つである。

 とにかくここ最近は、こうしてドゥルーズ哲学の読解に没頭することで気を紛らわしている。孤独な、しかし自由な日々。人を苦しめるのが孤独であれば、人を癒すのもまた孤独である。来月の十日には、長く待望されていたドゥルーズによるプルースト論の新訳 (宇野邦一氏の翻訳!) が発売される。そして、既にそれは予約してある。今から読むのが楽しみである。


 文筆家とは本質的に俳優である。どんな場合であれ、人は自分の意識を前提にして何かを書く。そして、もし第三者に読まれることを前提にして書くならば、自ずとその第三者を意識した自分を作り上げることとなる。誰もが他人に予期した印象を与えたいと願いながら文章を書いている。文章を書くとは、常に何者かを演じることなのだ。

 さて、私には以前、部屋にこもり、本を読む以外に殆ど何もしていなかった時期がある。あの頃は本当に、本当にそればかりをしていた。おかげで今でもその時の後遺症(とも呼ぶべきもの)が残っている。つまり、人と話している時、私は時々本が話すような口調になるのだ。今ではそうでもなくなったかもしれないが、昔は本当に酷かった。冗談抜きで、まるでドストエフスキーの小説の登場人物が話すみたいな口ぶりで話していた。かつての私には、これがコンプレックスだった。自分の話す言葉が、何か形式ばった、胡散臭いものに聞こえるからである。

 あの頃、私が話す相手といえば、よく行くコンビニの店員か、はたまた鏡に映る自分自身か、それくらいしかいなかった。ニーチェには次のような言葉がある。「それまでは常に一人だった者が、長い時が経つと二人になる!」ひとりでいる時間が長くなれば、人はよく独り言を呟くようになる。ひとりでいる時間が長くなれば、人は自分と話すことに熱中しすぎてしまう。すると、一人であったはずの者が、知らぬ間に二人になっているのである。いつも自分のやることなすことに意見を出す、別の自分が存在する。これは孤独に生きる者の宿命である。

 私には爪を噛む癖がある。気をつけたいと思っているのだが、人前にいる時でもよくやってしまう。そして、噛む力があまりにも強くすぎて、よく伸びた爪先を噛み切ってしまう(噛み切った爪先は大抵その場で口から吐き捨てている)。おかげで爪切りに頼らなくとも、私の爪はいつでも短いのである。