20/12/07

 人は自分の原因となってくれるものを愛する。それが自分を構成するものに見え、また自分の現在を説明してくれるののように思われるからだ。こうして大抵の道徳的価値観は形成されていく。たとえば、私達は家族や隣人などを無条件に愛するべきだという価値観をよく知っている。そして、それが生まれた理由もやはりここにある。

 感情のトラブルに苛まれた時、人はその苦しみを癒すために、自らをその感情の発生源に還元させようとする。家庭の問題に苛まれた人は、自ずと自分の今後をその延長線上にあるものだとして捉えようとする。苦しみは説明を求め、解釈を求める。こうして私達の「傾向」が発生する。言い換えるならば、私達が無意識的に正しいとしている道徳観は、このように、条理というよりかは不条理に成立しているのである。

 何故それが不条理だと言いきれるのか。それは私達の思考回路の仕組みに由来する。人は一つのものを浮かべる時、常に別のものを連想する。言い換えるならば、私達の思考は印象の連鎖によって成り立っており、一つの印象は常に別の印象と繋がっている。そして、この印象ともう一つの印象に元々何らかの関係があるわけではなく、ただこちらが「これはこうだからきっとこうに違いない」と思い込むことで、それらの印象の連鎖は発生するのだ。

 このように、思考の本性はその妄想的なところにある。人はいつも、軽薄なやり方で一つのものと別のものを繋ぎ合わせ、全く新しい事実をでっちあげるのである。

 さて今、私達には何故多くの道徳的価値観を不条理がだと言えるのかが明らかとなってくる。前述の通り、感情のトラブルを癒すために、人はよく自分の原因となってくれるものに帰結を与えようとする。つまり、人は病むと、自分と自分の原因でこの世界を完結させようとする。そして、大抵の道徳は弱さを強さから守るために生じるのである。

 しかし待って欲しい。もし原因に帰結を求め、感情をその場に抑制させることを求めるならば、人は益々悪い方向に転がっていくのではないか。何故なら、原因とは常に後になって見出されるものだからだ。私達に先ず示されるのは結果である。そして、人は結果を解釈した末に原因を妄想する。言い換えるならば、私達の推定した原因が常に正しいとは限らないのである。こうして原因と妄想の悪循環が生じる。近くにあるものだけを大切にしようとすれば、人はあやまちを犯すこととなる。何故なら、そもそも自分の近くに何があるかを知らないからだ。

 よって、感情を原因に還元させるような価値観、言い換えるならば自分の近くにあり、原因となるものを大切にせよ(家族は無条件に愛せ、近隣の者には付き合い良くあれ、など)という価値観をその通りに信じ込むことは誤りである。むしろ私達に必要なのは、遠くにある者を、まるで近くにある者のように扱うことなのではないだろうか。こうして私達にとって「正しい」倫理観が導き出される。つまり、正しさとは、常に世界の端から問題を考え始めるということ、遠くにあるものを近くにあるものと同じくらい大切に考えるということ、自分の感情を抑制するのではなく拡大するということを指す。

 ここで私達が突きあたるのは「距離」の問題である。例えばある人達は、側にいる時は相手が愛しく思われるが、離れている時はあることないことを考えて相手を憎み始める。で、相手の顔を見るとまたそんな感情を忘れてしまう。またはある人達はその反対で、離れている時こそ相手のことを愛しく思う。しかし実際に会うと相手との性格の不一致ばかりが目立って、むしろ悲しみ始める。距離とは常に情熱を生み出す。上の二つの例は、どちらも「距離の情熱」の問題だ。

 嫉妬によって成り立つ愛は、相手が近くにいないからこそ憎い。自分と相手の間にある距離を痛切させるほど焦燥感に苛まれているからだ。だからそのような愛は相手の傍に向かえばすぐに収まる。その一方で、執着によって成り立つ愛は、相手が近くにいるからこそ悲しい。相手と自分の間にある違いを痛切するからだ。しかし、執着しているからこそ相手から離れられない。だから距離を置いて愛そうとする。どちらにしても、想像力で感情を拡大させるというよりかは、むしろ感情を抑制することでその場をしのごうとしている。だから距離の情熱の問題に悩まされる事となる。

 こうして先程「軽薄」だと書かれた人間の妄想的な本性が重要な役割を持つようになる。妄想 = 想像力によって感情が共感する幅を拡大するということ。人間は利己的というよりかは偏見的な存在である。どんな思考も自分の信じているものを前提としなければ成り立たない。そして、人は思考をめぐらせることに忙しくて、そもそも自分の信じているものが正しいかどうかを考える暇さえないわけだ。だから先ず、自分の信じていたものを一度失うことから始めなければならない。もし本当にそれが正しければ、一度失ってもやがてそれは帰ってくるだろう。

 次に求められてくることは、想像力によって自分の共感の幅を広げることだ。私達の偏見が皆思い込みによって成り立ってるなら、私達の共感もまた思い込みから始まることとなる。先程も書いたが、何故人が自分の原因となってくれるものを愛するのかとなれば、それが自分に関係しているように見えるからだ。言い換えるならば、人が原因に固執するのは、それが自分の共感 = 感情移入の対象となってくれるからだ。そして、もしそれが偏見的な傾向によって成り立っているのだとしたら、どうだろう。私達はそれを拡大しなければならない。いかにしてか。まさに遠くにあるものを、近くにあるものであるかのように感じ取ることによってだ。そのためには何をすることが求められているのか。先ず自分の妄想的な本性を認めるということだ。そして多かれ少なかれ自分の思っているものと異なる世界の可能性を信じるということだ。

 しかし、「自分の近くにあるものを大切にできない人間が、遠くにあるものを大切にできるわけがない」と、そのような反論も容易に想定できるだろう。なるほど、それはその通りなのだが、しかし次のような場合もあるのではないかというこだけをここで書いておきたい。念の為、一応である。

 そう、それは先日観た『日の名残り』の映画の例だ。主人公のスティーヴンスは、かつて自分と同じ屋敷で働いていたミス・ケントンに、ある日会いに行く。スティーヴンスとケントンはお互いの感情に気づいていたが、スティーヴンスは仕事を優先するあまり、彼女に対していつまでも他人行儀な態度を取り続ける(男性に特有の自尊心ゆえの愚かさ)。やがてケントンは「自分を誰よりも愛してくれる」男スペンサーと婚約し、屋敷を去るのである(女性に特有の功利主義的な性格)。スティーヴンスは何も言わずに彼女を見送るが、長年そのことを後悔し続ける。

 そして彼女が屋敷を去ってから二十年後。彼は再び彼女に会いに行くが、やはり一歩引いた態度を崩さない。そして彼女も、「自分が結婚したことが不幸だ」と話はするが、彼のその素っ気ない態度から、より自分の原因になってくれそうな(未だに自分を愛してくれる)スペンサーのことを思い起こす。彼女は自分を大切にしてくれるものを大切にすることを選ぶ。

 結果として彼らは何もなく別れることとなる。その別れ際、スティーヴンスの顔は憂いに満ち、ミス・ケントンは涙に顔を歪め始める……きっと双方ともに後悔し続けることだろう。これもまた、自分の近くにあるものを優先させ、原因になってくれるものに自らを還元させた末にさせた起きた悲劇だとは言えないだろうか。スティーヴンスは仕事を自らの原因とし、ミス・ケントンは愛しはしないが愛してはくれるスペンサーを原因とさせたわけだ。


 ベルイマンに『冬の光』という映画がある。主人公はある牧師で、しかし牧師でありながらも心から神を信じることが出来ずにいる。彼の名はトマス。物語は、このトマスとその恋人であるマルタを軸に進行する。マルタは神経質で、自分を真っ直ぐに愛してくれないトマスに複雑な愛憎を抱く、孤独な女教師である。ある日、マルタは彼に渡した「手紙」を読むように彼に促す。彼女が去ると、彼はそれを開く。すると、そこには彼女の長い心情の吐露が書かれていた。自分はあなたのように神なんて信じていない、私が苦しんでいる時にあなたは祈ってくれなかった、など。そこに書かれているのは恨みつらみが殆どであった。しかし手紙も終盤になると、彼女ははこう書き始める。「あなたが可哀想でならない、私はあなたを愛しているの、あなたのために生きさせて……」

 彼はそんな彼女を冷たくあしらう。それはあまりにも傲慢な態度であった。にも関わらず、決して彼女を捨てることはしない。何故か。しかし、その理由は映画では描かれずにまま終わる。

 映画では、この二人の話と同時進行で別の話が描かれている。同じ日の内に、トマスはある男の悩みを聞いていたのである。牧師からの慰めを求める男に対して、彼は何も言うことができない。何故なら、自分もこの男と同じように神を、また人間を信じられないことに悩んでいるからだ。やがて彼は、ついに言ってしまう。「自分も神が信じられない、神は暗闇だ、神は私を苦しめる……」トマスの抱える絶望に戸惑い驚き、男は教会を去る。それから暫くして、トマスはその男が自殺したのを知るのである。

 こうして二つの物語が交差する末に、夜の礼拝が始まる時がやってくる。教会には誰も訪れない。暗がりの礼拝堂にはただ一人、彼が突き放したマルタだけが礼拝が始まるのを待っている。そして沈黙の中、トマスは礼拝を始めようとするのである。

 ここで映画は終わる。それもあまりにも唐突で、呆気ない終わり方で。それからもわかるように、この映画の中には明確な起承転結が存在しない。また、劇中で音楽が流れることもほとんどない。映画はいつまでも淡々とした調子を続く。だから正直に言って、面白いか面白くないかで言えば面白くない。

 そのはずなのだが、印象的なセリフとシーンが多いからか、またはその象徴的な内容からか、何かにつけて私はこの映画のことをよく思い出す。実際、私はこの映画を初めて観た次の日に、またそれを再生していた。DVDレンタルで観たのだが、返す前にまたそれを観た。冷たく乾いた作品なのだが、どうも頭から離れない。結局、「面白くない」と書いておきながらこう言うのも何なのだが、私はこの映画のことが好きになのである。

 初めて観て以来、私は度々『冬の光』のことを思い出している。そして、思い出す度にそれについてを考える。日常の些細な瞬間が、私にあの印象的な場面の数々を思い起こさせる。そう、丁度今がそうであるように。

  ベルイマンの映画には、よくこの『冬の光』のトマスのような人物が登場する。一見すると理知的で、紳士的にさえ見える人物なのだが、実際には冷たく、皮肉屋で、傲慢な性格をしている。そのくせ、内心では孤独や不安に苛まれていて、上手く立ち振る舞うことは出来ないが、無意識的に誰かからの愛を求めている。私は別に自分がそうだとは思わないが、心のどこかで、ベルイマンの描く「その手」の人々に共感を覚えている。『冬の光』にしても、実際に似たような経験をしたわけではないが、まるで別の自分の人生を眺めているかのような錯覚をおぼえた。自分がこういう人間からそう遠くないところにいる気がする。思い込みかもしれないが、そう思うのである。だからだろう、私がこうもベルイマンの映画を面白がっているのは。


 陰口を叩くのはあまり好きではない。何故なら、自分が陰口を叩かれていたら嫌だから。陰口を叩かれることの嫌な点は、それがこちらの心を傷つけるからではない。そのせいで、陰口を叩いているその人のことを信用できなくなることだ。そして、信用できるものがなくなっていくほど、自分の近くにあったはずのものが遠くにあるような気がしてくるのである。

 その一方で、本音で何かを語ろうとすれば、自ずと私達は誰かの悪口を口にせざるを得ない。だから、腹を割って友人と話したいと思う時、よく自分が何処まで話せばいいのかで悩むことがある。それは、向こうがそもそもこちらと同じ認識を共有していないというのもあるし、何より誰かへの「本音」を吐き出すことで、不必要な(軽率な)発言までしてしまうのではないかと恐れているからだ。これもまた距離感の問題だと言える。

 転じて、この問題意識は「自分はどこまでこの人に話していいのか」という別の問題にも繋がる。ここには距離感だけでなく、責任の問題もまた付きまとう。自分がこのような態度を取るということは一体どういう事なのか、それは軽率ではないか、ということだ。結果として、話したいことも話せないままその日の人付き合いが終わることも少なくない。

 ここで何となしに、私はラ・ロシュフコーの次の言葉を思い出す。「もしお互いを騙し合わなければ、人間が長い間社会をつくって生き続けるなど到底無理であっただろう」。コミュニケーションの根底にあるのは、相手に自分を合わせ、また自分に相手を合わせるために、ある程度お互いのことを騙すということである。

 ここで更に私が思うのは、『アンナ・カレーニナ』の終盤部分だ。長く苦しい思索の果てに、ついに(女主人公アンナと対比されて描かれるもう一人の主人公)リョーヴィンは神への信仰を手に入れるが、そんな彼を笑って見守る妻の姿を見て、彼は「こいつはきっと俺のことがわかってるんだ」と思い込む。しかし、妻キティが口を開くと、彼女が全然違うことを考えていたのだと知るのである。それに対して、彼は悲しむこともせず、ただ妻にこのまま言わないでいることを選ぶのである。恐らく、言っても理解されないのを悟ったのだろう。そして彼は、信仰に目覚めたからと言って、突如自分を変えてくれる(救ってくれる)ものがあるわけでもなければ、愛する妻との間にさえある心の壁が取り除かれるわけでもないことを知った。

 しかし、彼はそれでもいいのだと考える。確かに自分の悲しみは消えないが、しかし「喜びは断腸の悲しみよりも深い」。『アンナ・カレーニナ』は、このように、自分の生活から暗い影が消えることがないのを知ると同時に、それを割り切ることの出来る心境に至ったリョーヴィンを描くことによって終わる。突拍子もない終わり方に見えるかもしれないが、初めて読んだ時、私はこれにいたく感動した。人と関わる上で、私達を悲しませるものは多いが、しかしそれでも他者との関係が続くのは、やはり人と関わるのが嬉しいからなのだ。