20/12/13

 ノルウェーにGazpachoというバンドがいる。私のお気に入りのバンドで、ほぼ毎日のように彼らの音楽を聴いている。で、そんな彼らのアルバ厶にMissa Atroposというものがある。そのアルバムにはストーリーがあって、それは「世間との繋がりを一切たった男が、ひとり自分の世界にこもって過ごす」といった内容だ。バンドの演奏も、そんな男の孤独な内面を描写しようと努めている。もう何度聴いたかしれないくらいに好きなアルバムである。

 私には、このアルバムの主人公の気持ちがわからないでもない。可能であるなら、私だって今すぐこの社会との繋がりをたって隠居したい。こんな糞みたいな世界に居残る理由なんて何処にあるのか。そう、何処にもないはずだ。なのに今も居残っている。何故か。それが出来ないからだ。何故出来ないのか。私の生活には後ろ盾がないからだ。今更帰るところもないし、自分ひとりの手でお金を稼ぎ、自分ひとりの力でこれからを切り開いて行こうとしなければならない。そうでなければ、私は生きていけないのである。では、何故そうしてまで生きようとするのか。それは他ならない、諦められないものがあるからだ。

 別に成功したいとか、名誉が欲しいとかではない。恥を忍んで言うならば、私には成し遂げなければならない使命があるの思っている。この世界は腐っている。本来、生活というものは単純である。では何故それが複雑に見えるのか。それは私達自身が勝手に複雑にしているからだ。では、何故それが複雑になるのか。それは、私達が頭に思い浮かんでも上手く言えないことを口に出そうとするからだ。そして、もしこのように言葉にならぬものを表現する、それが新しい知識や概念の発明につながり、この世界の発展に繋がっているのだとしたら、単純なものを複雑に解釈することは、そう悪いことでもない。そして、もしそのような複雑さを生きようとすることが、単純に、ありのままに、あるがままに愚劣であろうとするものを、下劣なものを抑えることにつながるならば、この世界は、そのように複雑に生きようとする誰かの手によって救われているのだと言える。

 社会は腐っている。それは間違いのない事だ。そして、それを見ない振りをして、単純に生きることも出来る。そこにはきっと生活の幸福があるだろう。しかし、そうして見逃していては、愚劣なものは益々愚劣になり、下劣なものは益々下劣になる。下品なものに対して「下品だ」という人間がいなければ、この世は更に悪くなるばかりだ。ならば、誰かが、人間であることへの恥を原動力に生きる誰かが、そのような不潔なもの達と戦わなければならない。街中に落ちているゴミは、気づいた人が捨てなければ街に落ちたままなのだ。誰かがやるべきだ、誰かが。ただそれだけの話なのだ。

 と、大袈裟に書いたが、結局それ以外にやりたいことがないから今の生活にしがみついている、というのが本音である。生きるのは面倒だが、死ぬのはもっと面倒だ。私は死が恐ろしい。毎日死ぬのが怖くて仕方ない。だからしょうがなく生きている。それ以外に選択肢がないからだ。立派なことをかいたが、結局私も惨めで、死ぬのが怖い臆病な虫けらに過ぎない。ただそのいい訳をするために響きのいい言葉を並べているだけだ。それに加えて、どうせ生きるならやりたいことをやって生きていきたい、というわけなのだ。我ながら自分に呆れている。


 ピアノソナタ第三十二番、私がベートーヴェンで最もお気に入りの楽曲である。たった二楽章のみで構成されているのか、通して聴くとそれは優に二十分を超える。だから聴き終わったあとには一種の虚脱感というか、心地よいまでの疲労かに襲われる。真に美しい音楽、それはこちらを疲れさせるものである。

 しかしこれを言い換えるならば、「何故人は疲れてまでしても好んで音楽を聴こうとするのか」という疑問に繋がる。人を癒すはずのものが、むしろ人を疲れさせる。そして、そうとわかった上で、人はその疲れさせるようなものに好んで触れるのである。では、一体何故そのような現象が起こるのか。ただその答えは恐らく、人によって違うだろうから、ここで私だけの答えを示したいと思う。

 こちらを疲れさせる音楽を好んで聴く理由、それは、音楽がこちらと一緒に疲れてくれるような、苦しんでくれるような感覚に襲われるからだ。たとえばベートーヴェンピアノソナタ第三十二番の中でも、特に第二楽章は、内省的で、悲しげな旋律に貫かれた音楽である。そこには静かで穏やかだが、しかし諦めの交じった響きが含まれている。そんな第二楽章の物憂げな曲想は、何かこちらに泣き腫らしたような印象を、死の間際にかつてを振り返る老人にも似た孤独な印象を思わせる。人はよく音楽に耳を傾けるあまり、自分がその音楽の主人公であるかのような錯覚をおぼえることがある。そして、その錯覚が音楽をより一層美しく彩るのである。

 無論私は、ベートーヴェンが自分のためにこのピアノソナタを書いたのだと思っているわけではない。ただ、そこには「これは自分のために書かれたものなんだ」と思わせるだけの何かがある。まるで過去の追憶に思いを馳せるかのような曲展開が、私と一緒に音楽が苦しんでくれているかのような錯覚を与えてくれる。「よく頑張った」とか、「よく今日まで耐えたよ」とか、そんな風に慰められているような気がしてくるのである。時には疲労が慰めを含むことがある。そしてこの美しい誤解に、私は今日までどれだけ支えられてきたかわからない。

 私は別に、自分が不幸な人間だとは思わない。これは本心から言うが、自分は他より恵まれた人間だと思っている。本当に、心からそう思っている。私は恵まれた人間だ。あまりにも恵まれすぎて、時々周囲の人に申し訳なくなる。

 ただ、そう思ってはいても、やはり自分の不幸を憐れみたいような気持ちになることがある。そんな時、私はベートーヴェンピアノソナタ第三十二番を聴くのである。こんな性格だから、他人の同情を引くのは恥ずかしい気がして出来ない。気が引けるのだ。それに何より、私はひとに自分の気持ちを伝えるのが苦手だ。本当は誰かに慰めてもらいたくても、一体どうすればいいかわからない。それならいっそ、冬の夜空を眺めながら、それと音楽の与える印象に(孤独な、寂しくまた悲しい印象に)酔った方が好ましい。お気に入りの演奏者はアンドラーシュ・シフグレン・グールドヴィルヘルム・ケンプである。こうして音楽が私に語りかけてくれる。「よく頑張ったよ。今日までよく耐えた。お前は偉いよ、よくやったよ……」と。

 こうして自分を慰める。実に美しい時間である。


 髪が長い。自分の長く伸びた髪が好きで、私は今日まで、大半の時間を髪を長く伸ばすことで過ごしてきた。

 しかしある日、一度だけ髪を丸く刈ったことがある。それは高校の頃の話である。ああ、その時の周囲の反応をよく覚えている。皆目を丸くして「どうしたんだ」と言ってきた。「似合わない」と言って悪い顔をする人も多かった。しかし、だからこそ一層嬉しかった。私は周囲の期待を裏切ることに密かな喜びを感じていたのである。人の夢は、いつも他の人が犠牲になることを求めている。私は他人の勝手な期待の犠牲になるのを拒みたかった。

 一体どうすれば自分を許すことが出来るのだろう。時折、そんな途方もないことを考えてみることがある。が、答えが出なくてすぐにやめてしまう。実際、今の自分ではそんな事を考えてみてもどうしようもないような気がする。


 以前、非常に仲のいい女友達がいた時のことだ。私は彼女のことが好きだった、とても好きだった。しかし、同時にそんな彼女のことを面倒だとも思っていた。ある日、私がある男友達の家に泊まった時のことを話すと、向こうは怒り出した。だから自分のプライベートをそのまま打ち明けることも出来なかった。連絡が遅れてはいけないから、いつもスマートフォンを気にして、おかげで読書にも集中できない日が続いた。しかし、それでもよかった。私も馬鹿だったから、そういった彼女の面倒臭い所がとても可愛らしく見えたのだ。

 しかし、やがて我々の友情の日々は終わった。それまで内心面倒だとも思っていたのに、いざ彼女が離れていくと考えると、私は不安でならなかった。しかし、その不安にも耐えられた。それくらいには、私は鈍感だった。私は不安に耐えて、やがて不安をも忘れていった。しかし、それでもやはり時々彼女のことを思い出した。しばらく経っても尚やはり思い出した。そろそろ仲直りがしたいとか、また彼女に会いたいとか、よくそんな事を考えた。しかし結局その一歩を踏み出さなかった。その理由は自分でもわからなかった。きっとどんな顔を合わせればいいかわからないからだと考えた。しかし、なるほどそれもあったが、それだけではないことに、いつからか気がついた。

 彼女を忘れてから、寂しさを感じることはよくあったが、それでも私は幸福だった。本も沢山読めるし、音楽だって沢山聴けるし、最近では映画だって沢山観ている。私は孤独になったが、それと同時に自由になったのである。それはとても居心地のいい世界だった。再び彼女と関われば、きっとこの静穏な幸福は乱されるだろう。こうして私は、また相手と関わるのを内心面倒だと思っている自分の姿に気がついた。私は彼女を愛していた。しかし、そもそも距離を置かないと、私は彼女を愛せないのであった。人によっては、それを「愛している」と言わないかもしれない。しかし、それが真実だった。近くにいればまた悩みが増えるし、きっと相手のことを心のどこかで間抜けだとか、馬鹿だとか考えるだろう。こうしてまた煩わしいと思う日々が続くだろう。なら、何故向こうが去るまで向こうを突き放さなかったのか。それは、私は変わらない日常を求めていたから、日常の一部となった相手が消えていくのが恐ろしかったからだ。だからそれは愛情というよりかは執着と呼ぶべきだった。私は彼女に依存していた。しかも、距離を置いて依存していた。仲がいい頃も、必要以上に相手を悪く思いたくないから、一線を引いて接していた。もし一線を超えれば、私は彼女に無礼を働くだろう。そして、相手を蔑ろにしながら生活したくないのは、他ならない自分がそれに耐えられないからだ。そうなれば、まるで自分の見たくない所を見ているような感覚に襲われるに違いない。

 なら、何故そもそも相手に好意を抱いたのかという疑問が思い浮かぶ。それは、相手がこちらの斥けてきた自分の断片を体現しているように思われたからである。気難しくて高慢、繊細で嫉妬深い。おまけに思い込みが激しくて、内気な性格をしている。普段こちらが認めたくないと思っていたものを、相手はこれでもかというくらいに体現している。変な言い方になるが、まるで子供の頃の自分に再会したかのような懐かしさがあった。だから私には執着せずにいられなかったのである。

 昨日、数年ぶりに父に会った。と言っても、一時間くらいしか一緒にいなかったのだが。この短い間に、父は散々口酸っぱい事を言ったり、気難しい言葉を並べたりしながら、最後には「話し相手が欲しい」という弱音を吐いた。それは以前なら考えられないことであった。だから尚更驚いた。父は独り身であった。そして、性欲のはけ口が欲しい訳では無いが、ただ自分の話し相手になってくれる相手が欲しいと、そう言ったのである。

 その時、私は「ああ、やはり自分と父は似ているな」と素直に思った。そして少し嬉しくなった。無論、私達の間には、おそらく似ていないところの方が沢山ある。しかし、だからこそその僅かな共通点が嬉しいのである。ただ昔は、この父と私の間に見出される些細な相似が許せなかった。そこにまるで自分の見たくない姿があるような気がしたからだ。しかし今、私は素直にそれを受け入れることが出来ている。父は他の家族とも上手く連絡が取れていないらしかった。私はそんな父にやさしい言葉をかけようかと思ったが、やめた。そんなことをする間柄でもないからだ。

 昔は父が憎かった。私が最も苦しんでいる時、父はそんな私を見て笑っているかのように見えた。それが本当に許せなかった。ただ、自分以外の人間を皆見下しているような態度を取りながら、何だかんだ他人との関わりを切に求めているところなど、やはりどうしようもなく自分に似ている気がする。そう考えると、父がどうしても憎めないのである。


 最近、ある友人から「作家になったらどうか」と言われた。お世辞だろうが、それでも嬉しい話だ。本当に嬉しい。ただ、今の私にはまだそれも厳しいだろう。第一、自分が何を書けばいいのかよくわかってないし、何より私にはまだ知識もなければ技術も浅い。だからまだ早いだろう。それでも、いつか作家になって大成することができたらと、そうは思ってはいる。

 それと最近、セブンイレブンで買える二リットルのミネラルウォーターにハマっている。ただの水なのだが、美味い。百円で買えるし、毎日ぐびぐび飲んでしまう。何故かはわからないが、水が美味しく感じて仕方ないのである。