20/12/16

 ニーチェは自らにまつわる一切を自らの仮面として生きた。彼の過剰な文体は、よくこちらに道化のような印象を想起させる。しかしそれが神経質なまでに繊細な心理分析を披露することも少なくない。だから道化の仮面の裏には、いつも怜悧な心理学者の顔が潜んでいる。しかしその描写の執拗さは、やはり読者に病的な印象を思い起こさせる。だから心理学者の仮面が剥がれると、次に病人としての(または狂人としての)顔があらわれてくるのである……。

 仮面を脱げば、また別の仮面が現れてくる。脱いでも脱いでもそれが尽きないから、やがてそもそも顔がないことに気がつく。自分以外のものへの言及を通して、自分自身を表現する。ドゥルーズの言葉を借りるならば「他人の背中に子供をこしらえるところに、まさにニーチェの面目がある」わけだ。では、何故ニーチェはこのような仮面としての生を生きようとしたのか。そう、ニーチェは自らを一個の謎として、解けない秘密として生きた。それは一体何故なのか。それは自らを守るためではないか。では、何から自分を守ろうとしたのか。それは他ならない、この世の現働的なものからではないか。

 私達は常に自らの生きる時代と密接な関係を持って生きている。そして、時代とは常にその時代の常識と切っては切れない関係にある。では、常識とは何か。それは一般性である。一般性とは何か。それは、いくつかの人達が会話をする上で前提とする基礎である。たとえばコーラが黒くて甘い炭酸飲料だとは誰もが知ってるだろうが、そのような共通認識がなければ、人はそもそもコーラの話をすることも出来ないだろう。それと同じ様に、私達の生きる世界は、常にお互いが前提としてる共通認識をもとになりたっている。言い換えるならば、私達の意識とは、常にこのような一般性に自らを還元させることによって成り立ってるのだ。なぜそう言い切れるのか。それは前述の通り、人の存在とは常にその人の生きる時代 = 社会と密接な関係にあるからだ。その人の生きる時代とは、その人の生きる常識によって表象させる。時代の変化とは常識の変化である。常識を変えたいならば、自ずと私達は常識的な言葉遣いをすることを強いられるのである。

 時に、ドゥルーズニーチェについて語る時、彼はよく古代ギリシアの哲学者のことを引き合いに出した話をする。ドゥルーズによれば、ソクラテスラ以前の哲学者達は、皆自らの危険な思想を守るために、禁欲的な宗教者の仮面を被ったのだという。つまり、彼らは自分を表現するため(自分を守るため)、当時の常識に自らを寄せて生きたのである。ドゥルーズがそんな古代ギリシアの哲学者達を引き合いに出すのは、ニーチェもまた彼らと同様に仮面を被っていたからに他ならない。誠実に生きるため、時に人は嘘をつくことを強いられる。そして、この世には二通りの人間しか生き残れないよう出来ている。つまり、誠実な嘘つきか、不誠実な嘘つきか、そのどちらかである。

 しかし、古代ギリシアの哲学者達とは違い、ニーチェは絶えず複数の仮面を被り続けた。晩年、ニーチェは発狂し、その死に至るまでの約十年間を廃人として過ごすこととなる。しかし、ニーチェの友人達の中には、そんな病床の彼さえも、彼の被った最後の仮面(演技)なのではないかと疑う者がいたという。「お願いだから、私に下さい……。── いったい何を? ── もうひとつの仮面を、第二の仮面を」。

 一体何故、ニーチェはこれ程までに徹底して仮面を被り続けたのか。その問いにこそ、ニーチェの孤独を紐解く鍵がある。

 先程の話に戻ろう。そう、私達は常に自分の生きる時代 = 常識と切り離せない存在だ、という話だ。これは、突き詰めて考えるならば、私達は常に既存の仮面に自らを寄せなければ自分を表現出来ないということではないだろうか。この世の舞台を生きるためには、常に何らかの典型例(テンプレート)を演じなければならない。そして、人は常に自分に共通しているものしか演じられないのである。ソクラテスラ以前の哲学者は宗教者の仮面を被っていたが、なるほど彼らと宗教的な人間の間に共通点がないわけではない。それはニーチェにしても同じで、道化を演じているからといって、本当の彼が道化めいていないわけではないのだろう。嘘というものは、その嘘の元ネタになるものがなければそもそもが成り立たない。だからといって、(当たり前だが) ソクラテスラ以前の哲学者達が本当に宗教的だったのではないし、ニーチェがまた本物の道化であるのもありえないのだ。ただ、この世に生きる限り、人はこの世の仮面を借りなければならない。典型例(テンプレート)を押し付けられざるを得ない。こちらのとる言動は常に他者に対して印象を与える。そして、人は常にある印象と別の印象わ繋ぎ合わせることで、他人に対し肖像画を作り上げる。「きっとあの人はこうなんだ」と思い込む。典型例(テンプレート)を押し付けられて、そう生きることを強いられる。

 そして、もしこの世界を生きていこうとするならば、このように仮面を被って(被らされて)生きるのは避けられないことなのだとしたら、どうだろう。

 絶望だ。一体なんという孤独だろう。私達は他人を誤解することしか出来ないのか。私達は他人を誤解させることしか出来ないのか。そして、これは私の憶測の域を出ないが、恐らくニーチェが仮面をかぶり続けた理由はここに あるのではないかと思われる。当時の哲学界から除け者にされ、講義を開いても殆どの生徒は自分の言葉を聞きに来てくれなかったニーチェ。変人として扱われ、狂人として疎まれたニーチェ。いくら本を書いても読者が増えないニーチェ。理解者に恵まれないニーチェ。だからこそニーチェは、むしろ自分から変人 = 狂人としてのパブリックイメージを満たしに行くのである。そして、更に別の仮面を被り、自らをくらませることで、彼は自らの孤独を守ったのだ。

 しかし、孤独に苛まれていたのに関わらず、何故孤独を守ろうとするのか。それは他ならない、その孤独の中でこそ、結局自分が仮面を被らなくていい時間を得ることができるからだ。秘密に満ちた生を生きるということ、自らを一個の謎として生きるということ。社会生活の中では、ありのままの自分で居ようとするほど、ありのままの自分を偽ることとなる。ならば、そもそもありのままの自分を隠すことが大事だということになる。

 しかし、それならいつ「ありのままの自分」は存在するのか。それは他ならない、いまあるこの時代 = 常識から外れた場所、この世界とこの社会から逃れた場所においてのみである。だからこそニーチェは「やがて来るべき時代のために書く」こと、未来に向けて書くこと、反時代的であることを強調したのではないか。やがて今ある仮面が剥がれて、自分が正当に評価される時が来る。そして、それは今ではない。決して今ではない。現在において既に失われているものは、未来において取り戻されなければならない。この世の現働性から逃れたところにおいてのみ、反時代的なところにおいてのみ、「ありのままの自分」は存在する。やがてそんな自分を見つけてくれる人がいる……。

 と、やや感傷的すぎるかもしれないが、ニーチェはそんなことを考えていたのではないかと空想することも少なくない。しかし結局、私もニーチェに自分勝手な妄想を働かせているに過ぎないのだろう。


 ふとした時に、私はオスカー・ワイルドが『ドリアン・グレイ』の中でよく用いていた、あの印象的なモチーフを思い起こす。そう、「感覚によって感覚を癒す」というものだ。たとえばこの世には、ある一定の経験を踏まなければ理解できないもの(感動できないもの)というのがある。数式の美しさに驚嘆するなら、先ずその前提となる数学の知識が必要である。また、家庭によって傷つけられた子供は、よく自分が家庭を持つことでその傷を癒すことを求めるものである。このように、私達は常に、別の感覚によって今ある感覚を塗り替えているのである。ある複雑な数式の美しさに感動することは、少年時代に足し算引き算で遊んでいたことの延長線上にある。少年が持つ家庭への憧れは、そもそもその少年がいた家庭にある不和の延長線上にある。感覚によって受けた傷は、感覚によってしか癒されない。人は常に自らの感覚を塗り替えることによって生きているのである。

 ここで私が思い出すのは、『アンナ・カレーニナ』のあるシーンである。「彼の生活は孤独だったにも関わらず、あるいは孤独だったため、かえって非常に充実していた……」他人のことを忘れて、好きなだけ本を読んだり、自分の関心事に考えをめぐらせる。そんな孤独な生活に心満たされている男がいた。彼は幸福だった。しかし彼には結婚願望があり、自らの子供時代をやり直すことへの憧れがあった。彼には母親との記憶がほとんどなかった。だから時折結婚のことや、家庭への憧れのこととかを思い出すと、胸が締め付けられるような苦しみに襲われた。しかしやがてまたそれを忘れた。彼には自分の夢から目を逸らし別のことに没頭する才能があった。だから暫くするとまた孤独に幸福を見いだし始めた。いつも考え事に耽り、それを召使に話したりする。そんな生活を送っていた。トルストイは時折ショーペンハウアーに言及することがあるが、この部分は、そんな彼のショーペンハウアーからの影響を垣間見ることの出来る部分だと言っていい。感覚によって感覚を癒す。生活の苦しみを孤独によって打ち消す……。そして、あまりに孤独に慣れるあまり、人との上手い関わり方がわからなくなるのである。

 『アンナ・カレーニナ』を初めて通読した時、私はそれをよく深夜に読んだ。闇夜は夢想に耽る者にとって城のような役割を果たしてくれる。孤独は私達にとってひとつの故郷であり、また隠れ家でもある……そして私は、そんなトルストイの小説の内に見出された彼に、よく自分の姿を重ねていた。

 先日、友人から次のような話を聞いた。ラブホテルで働いていて、もう歳も四十を超えているが、母子家庭に育ち、未だに母親と共に暮らしている。最終学歴は中学校で、一度も田舎から出たことがない。見下すつもりはないが、ただ恐ろしい気はしてくる。自分はこのようなタイプの人からそう遠くないところにいるように思われるから。いつまでも独身で、友達も少なく、過去の自分の因縁から抜け出すことが出来ないまま年老いていく。そんな孤独な中年男性は多く存在するに違いない。私は恐ろしい。自分もそうなるのではないかと不安でならない。

 SNSを見ていても、よく同様な恐怖に襲われる。皆が皆、誰も聞いていないのに自分の話をし続ける。しかも、この独り言は皆、他人の目を意識して書かれるから、何処か道化めいたところがその文体には現れている。過剰な自意識が、自分の不幸をやたら滑稽に見せたり、またはその苦しみを必要以上に誇張してみせたりする。それを実際に聞いている(見ている)人がいるならまだいい。一番恐ろしいのは本当に誰も振り向いてくれない場合だ。自分を滑稽に見せるし、取り繕いもする。しかし誰も目を向けてくれない。それでも道化を演じ続ける。何故か。もしかしたら今後誰かが見てくれるかもしれない、そんな淡い期待を抱いているからだ。

 なんということだ。なんという孤独だ。恐ろしくて仕方ない。この場合も、私は自分がそのような人からそう遠くないところにいるのが感じられる。

 孤独は人を無感覚にして、無感動にする。孤独が病みつきになって、そこに一つの安らぎが見出される。正直な話、ひとりでいる時が一番心が安らぐ。しかしそれでも孤独を恐れる。何故か。それはいつまでもこんなふうにひとり舞台を続けるのが虚しいからだ。これではまるで生きながら死んでいるかのようではないか。人並みの幸福が、誰かと生きる喜びが、夢のように頭にちらつく……私には母や妹と過ごした記憶が少ない。だから朝早くに異性の家族に起こされたり、ご飯を作ってもらったりすることに、ちょっとした憧れがある。反対の場合でもいい。つまり、私が誰かを起こりしたり、ご飯を作ったりするのだ……時折、私は自分の子供時代をやり直したいような気持ちになることがある。永遠に失われた子供時代、もう二度とやり直すことの出来ない失われた幸福。存在しない青春の影

 夢見る者は犠牲を求める。人の夢は、常にそれを実現するために犠牲者を求めるのである。そういう意味では、人はみな自分だけの犠牲者を求めて生きているのだとも言える。私にしてもそれは同じだ。私は自分の夢の、自分だけの犠牲者が欲しい。しかし、それが何か残酷なことのように思えてならない。それに、今更自分の孤独の何処に折り合いをつければいいかわからない。だから結局孤独の檻から抜け出すことが出来ないわけだ。

 最近やってみたいと思ったことがある。それは一日の内に五本の映画を観ることだ。だいたい一本につき三、四十分程の休憩を入れる。もし映画が長かった場合(三時間以上の映画など)は、休憩時間も一時間にする。で、この計算で行くと、優に一日がそれで終わるということが想像出来る。きっと五本全てを観終わる頃にはクタクタに疲れているだろう。一日の内に感じた疲労は、その日の終わりを感じさせる。だから人生に対して疲労を覚えた時、人はその人生の終わりを考え始めるのである。恐らく、ロマンチストがいつも死に憧れる理由はそこにある。疲労は感傷を呼び起こす。人は疲れると、感傷的になってぼんやり死ぬことを夢見始める……。

 と、また少し話が逸れてしまった。とにかく、これが最近私のやりたいと思ったことである。そしてこの場合もやはり、こちらのわがままに付き合ってくれる犠牲者が求められるわけだ。


 今日までの人生の中で、私はいつだって幸福なわけではなかった。しかし、過去を振り返ると、やはりどの時代にも美しい思い出というものがある。孤独の思い出、友との思い出、父との思い出……。時にはそれを思い出して、懐かしい追憶に浸ることもある。ああ、あの頃私は幸せだった……といったふうに。

 しかし、だからといって本当に「あの頃」に戻りたいわけではない。あの頃が美しく見えるのは、私が既にあの頃にいないからだ。幸福な思い出を振り返る時の常として、その頃の自分の不幸をなかったことにして考えることが挙げられる。その逆の場合も同様だ。つまり、過去の不幸を強調する時、人はよく自分の幸福な記憶をなかったことにするのである。

 確かにあの頃、私は幸せだった。しかし、今あの頃と同じように生きたとしても、きっと私は、何故あの幸福な時代が終わったのかを再認識して終わるだろう。そう、何故私の幸福は失われたのか。それは私が終わらせたからではないか。何故それを終わらせたのか。それは、私がもはやそれに耐えられなかったからではないか。そして、もしそうなのだとしたら、懐かしく思うことはあれど、戻りたい過去など本来ないのではないか……。

 知人友人の話を聞いていると、時折彼らを羨ましく思ってしまう時がある。友人を羨むなど本来よくない話なのだが、そうとわかっていながらも、どうしても羨まずにはいられない。そして、そんな自分の嫉妬深い所に嫌気がさす。私の本性は、軽薄で嫉妬深い、そんな嫌味たらしい人間なのかもしれない。最近は特にそれを感じる。そしてだからこそ、普通の、人並みの幸福が恋しい……。

 結局、全ては自分の行動次第なのかもしれない。人並の幸福が恋しいなら、それ相応の行動をするべきだ。そうと分かっていながらしない。だとすれば、欲しいものが手に入らないのもこちらの責任である。私に誰かを責める権利などないわけだ。