20/12/21

「概念はふつう対になって機能し、二つの反対物を表象する。それに関して二つの対立する見方を同時にとることができず、それゆえ二つの敵対する概念を自らのうちに包摂しないような出来事などほとんどありえない。」

 苦痛と快楽は相対的な関係にある。だからある人の感じる喜びとは、そのままある人の感じる悲しみの度合いでもある。些細なことに喜びを見出す人は、それだけ些細なことにも悲しむ人であるわけだ。それと同様のことは、真実と嘘の関係性についても言える。つまり、真実がなければそもそも嘘をつくなどありえない話なのだ。

 これらの例は、私たちに次の事を教えてくれる。そう、 一つのものは絶えずそれに対立する別のものを必要とするということだ。しかし、このような対立についてを考える時、人はよく次のことを見落としている。それはつまり、無意識のうちに否定的な印象を先立たせて物事を考えている、ということだ。

 秩序と無秩序、現実と可能性(そうあったかもしれない世界線)、幸福と不幸、などについてを先ずは考えてみよう。そして、少し考えて見ればわかるが、無秩序には秩序よりも多くのものが含まれているし、「あったかもしれない」の可能性は実際の世界よりも多くのものを含まれているのである。それは、不幸についてを考えると、いつも不幸の方が幸福よりも大きいような気がしてくるのと同様だ。

 一体何故このような現象が発生するのか。今度はそれについてを考えてみようと思う。先ず、私達が内省的になるのは一体いつのことなのか。それは何らかの苦しみを負った時ではないか。知識とは自己を省みることによって生じる。そして人が内省するのは、たいていの場合、自分を内省させるような恥や喪失を体験した時である。言い換えるならば、知性は恥と喪失を体験した時から芽生え始めるものなのだ。

 その一方で、人は苦しみを負った時、よく自分と同じくらい苦しんでいない他人を妬むようになる。他者は自己の反映だ。よく他人を見ていると、「もしああだったら、今頃俺も……」といった可能性の問題に突き当たることとなる。そして、この苦しみから抜け出すために、人は一体何をするのか。そう、無意識的に相手の欠点を探そうとするのだ。もしくは相手に悪事を働いて、相手の幸福が奪われることを願うようになる。不幸な人は、自分以外の人が自分と同じかそれ以上に不幸になることを求める。

 こうしてルサンチマンの問題が明らかとなる。不幸な意識に苛まれる人は、絶えずこの問題を抱えていると言える。そしてそのような人は、自分の不幸を否定して、その彼岸にあるものとしての幸福を見出すことを求めるようにもなるわけだ。言い換えるならば、不幸になった時、人はそれまで自分が幸福だと思っていたものに復讐するようになる。ボードレールも書いていたが、人は不幸に直面すると、自分の不幸を誇張して語ろうとするのである。

 こうして人は不幸を幸福よりも大きなものとして考えるようになる。秩序と無秩序、現実と可能性の問題も同様である。秩序が無秩序よりも大きく見えるのは、人が既存の秩序に嫌気がさし、無秩序に苛まれたからだ。「あったかもしれない」が現実よりも多くのものを含んでいるように見えるのは、人がその可能性の世界に苛まれ、現実に失望したからだ。だから「こうあってほしいもの」としての真の幸福、秩序、現実が提案されることとなる。しかし、そのような「真」の概念が、元々自分の抱えていた悲しみの復讐のために生み出されたことは言うまでもない。だからどれだけ理想を追いかけても一向にそれが実現する日が来ないわけだ。

 ここで私が思い出すのは、スピノザのある有名な箴言である。「私は人間の諸行動を笑わず、嘆かず、憤りもせず、ただ理解することをひたすら努めた……」つまり、嘆きもせずまた期待もせず、事実を見極めることから出発することが大切なのだ。で、それに基づいて改めて秩序と無秩序の、現実と可能性の、幸福と不幸の概念を規定する必要がある。人は何事に関しても、大きな言葉で考えすぎている。例えば人が若くして死ぬにしても、その人がいかに死んだかで、問題にすべき内容は変わってくる。当たり前だが、自殺した人と戦死した人の悲しみは違う。しかし、人はそれを同じカテゴリーで語りたがってしまう。よって大切なのは問題が設定される環境がいかなるものなのか、それを見極めようとすることだ。

 この点において、私達は(ベルクソンがたとえていたように)服の仕立て屋に近い。あまりにぶかぶかなズボンでは、そもそもそれを履くことも出来ない。服を着るためには、先ず自分がどんな身体をしているのかを知る必要がある。あらゆる問題設定も、これと同様である。物事を考えるためには、先ずどんな言葉で考えるのか、そこから始めなければならない。


 最近、文章を書こうと思っても中々上手く書けない日が続いている。日中、様々なことを考えるし、「これは面白い」と思うようなことを考えついたとしても、いざそれを書き表そうとすると、どういう訳か、まるで筆が進まないのである。言い換えるならば、感じていることはあれど、それを上手く言い表すだけの言葉が、今の私には与えられていないのだ。

 他はと言えば、そう、最近はまた「ひとりで過ごしたい」と思う時間が増えてきた。以前からひとりで過ごすのは好きだったが、なにか本能的に、獣のように孤独にこもりたいような気持ちになることがある。そんな時は、この世の全てのものが鋭いナイフの刃先のように尖っていて、こちらを傷つけてくるもののように見えるのである。久しく忘れていた感覚だ。昔はよく、そういった猜疑心や、漠然と他に向けられた不信感のようなものに苛まれていた。

 ヒュームの展開した理論で特に好きなものがある。それは虚構性の理論だ。以前何度か書いたことがあるが、ある一つのものの定義とは、それに似たもの(または同種のもの)との比較によって発生する。言い換えるならば、他と比較できないものとは、それ自体定義付けすることが出来ないもの、確実性のないもの、つまり虚構的なものなのである。

 時に、当たり前だが、私達はこの世界を自らの意識の上で把握している。言い換えるならば、私達はこの世界を主観の中でしか把握することが出来ない。この世に事実などなく、あるのはただ主観だけである。私達が事実だと思っているもののほとんどは、主観的に見て事実だと思えるからそう定義されているに過ぎない。ならば、この世界の大抵はそれと確かめようのないものだということになる。故に、確かめようのない意識に基づいて成り立っているこの世界とは、それ自体一つの虚構なのである。

 私達は皆、自分の知っている観念を結びつけることによって、この世界をでっち上げる。そういう意味では、精神とは絶え間なく運動し続けるものである。では、それはなんの運動か。そう、一つの観念と別の観念を結びつける運動だ。精神の運動の本性は、その軽薄さにある。人は自分の知っているものを結びつけることで知らないものを妄想する。そしてそれがあたかも自明な事のように語り出す。こうして無思慮な発言が幾度も繰り返される。印象 = 観念を結びつけることででっち上げられた事実に基づき、更なる憶測をしようとする。やがて精神のこのような運動には一つの傾向が見られるようになる。人が印象同士を結びつけるそのやり方にも、ある特定の共通性が見出されるようになる。こうして妄想の傾向は固定化する。そして、それが固定化していくと、最早人は自分が前提としている思い込みが本当に正しいかどうかを疑わなくなる。まさにその人はこの世界全体を妄想し、でっち上げたのである。

 頭の凝り固まった中年親父というものは、大抵このようにして生まれる。まさにヒュームは慧眼だと言える。


 ゴッホというと、後期の『ひまわり』や『星月夜』に見られるような、あの独特のうねりのある(幻覚的で、いびつとも言える)タッチと、強烈な色彩感覚でよく知られている。しかし、初期は『じゃがいもを食べる人々』に代表されるように、地味で色調の暗いものが多く、作品それ自体も写実的な方だと言えた。この二つの時代の間には、一体何があったのか。何故ゴッホは初期と後期で対照的なものを描いているのか。

 ドゥルーズがかつてそれに言及したことがある。彼によれば、ゴッホは色彩を前にして恐れおののいていたのだという。彼ドゥルーズにしても、元々は他の哲学者の研究に熱心で、彼が自分の言葉で哲学書を書くまでにはかなりの時間を必要とした。それもやはりゴッホの場合と同じで、過去の哲学の巨大な山を前にして恐れおののいていたのである。知識というものは増えるほど広い世界を見ることに繋がるが、しかし知識が広がるほど、人は自分がやるべきことが分からなくなっていくものである。何故か。それは、過去を知れば知るほど、大抵のものがやり尽くされてしまっていることに気がつくからだ。おまけに、そのやり尽くされてしまったジャンルの中には、今の自分が思いつきでやっても到底叶わないくらいに素晴らしい前例が既にある。なら何もする気が起きなくなって当然である。それでも何かしようと思うなら、まさにゴッホドゥルーズがそうであったように、過去の偉大な産物に、自分を狂わせ破滅させるほどの魅力を秘めたそれらのものを前にして、恐れとおののきを感じる必要がある。

 恐れとおののきに襲われた時、人は自ずと沈黙せざるを得ないこととなる。本当はやりたいことがある、自分の関心事がある。しかし恐怖と戦慄からそれに取り組むことが出来ない。目の前にある巨大な怪物を攻略するためには、ゴッホが暗い色調から絵を描き始め、ドゥルーズが他の哲学者の研究から自らの哲学を出発させたように、回り道をする必要がある。もとい、遠回りでもしない限り、自分が対象に抱いている恐れとおののきが消えないのである。


 私が思うに、美しい謙遜をする人は、心の底から「いや、自分は大したことない」と思い込んでいる節がある。しかし、それは決して「人は皆自己肯定感を低く持つべきだ」という意味ではない。むしろ、謙遜のできる人とは、自分に能力のある事を知った、心に余裕のある人である場合が多い。

 自分に自信の無い人は、むしろ自分の凄さを強調しようとする節がある。そうして他人に自分を掲げ、認められることで、自らの能力への不信を解消したいと願っているのだ。そう、自信の無い人は、いつも無駄に多くのことを語りすぎている……言い換えるならば、謙遜のできる人とは、ある程度他人に認められるものが自分にあることを知っているからこそ、謙虚な態度をとることが出来るというわけだ。

 では、何故そのような人が「自分は大したことない」と思い込むのか。それは、上には上がいるということを、その人もよくわかっているからだ。だから、人が謙遜をする時、そこにはひとつの無言の注釈がほどこされている。つまり、「いや、自分は(あの人に比べたら)大したことない」と、本当はそう言いたいのだ。こうして、美しい謙遜のできる人の魅力が明らかとなる。そのような人は、自分に誇りを抱きながらも、しかし自分より優れたものを認めるだけの正直さも持ち合わせているのである。


 十二月も後半に入った。早いもので、もう今年が終わりそうだ。去年の今頃と今現在とを比較してみると、私も大分変わった気がする。しかし、根本的な部分では、きっと何も変わっていないのであろう。最近はよくそれを感じる。先日、私は自分の子供時代を思い起こすような経験をした。それ以来、子供の頃に置き去りにして、もう長らく忘れていたはずの様々な感情が、自分の内に蘇っているような気がする。

 ある夜、私は目を閉じてじっと音楽に耳を傾けてみた。それは実に久しぶりの事だった。思えば昔は、よくこうして、夜の深い時に、ひとりでじっと音楽を聴くのが好きだった。あの頃、私はCDウォークマンを使っていた。音楽を聴く時、よくスマートフォンの電源を落としていたのも覚えている。私は音楽と二人きりになりたかった。誰にも邪魔されたくなかったのだ。

 その他にも、勉強する時や、本を読む時にもよく音楽を聴いた。もとい、音楽を聴いていないと、心が不安でならなかった。あの頃、私は今より遥かに心を病んでいた。日中は、よく自室を行ったり来たりしながら歩いたものだ。不安が頭をかき乱し、心が騒いで仕方ないのである。だから居てもたってもいられない、誰かに助けて欲しい、しかし誰もいない、どうすればいいかわからない。だからいつまでも部屋中をぐるぐる歩き回るのである。そんな時、ドビュッシーラヴェルの音楽を聴くと、心がスーッと落ち着いて、やっと何かに取り組める気持ちになるのを感じた。あの頃、私は子守唄を求めていた。否、今でもまだそれを求めているかもしれない。

 時折、次のような女性を見かけることがある。つまり、寂しさから自分を抱いてくれる相手を求める女性だ。私には、そういった女性の気持ちがわからないでもない。もし私がかつて音楽から得た神経の安らぎがなかったら、同じようなことをしていたかもしれない。そういう意味では、私は恵まれた、運がよかった人間だと言える。見下すつもりはないが、心からの同情は抱いている。もとい、そのつもりだ。

 同じように、リストカットをしている人や、ホストにハマる人の気持ちもよくわかる(または、わかったつもりでいる)。私もリストカットはしたことがある。自分を傷つけることに何か病的な喜びを見出すという傾向が、精神を病むと顕著に現れるようになるものだ……。まあ、だからといって何が出来るわけでもないのだが。実をいえば、以前そのような人から関係を求められたことがある。無論、私は断った。もう随分前の話になるが、理由としては、第一に責任が取れないし、第二にそんな事をしても何にもならないというのが挙げられる。救いというものはこちらが勝手に見出すものである。だから人が誰かに救われるなど有り得ない。あるのはただこちらが勝手に相手の中に救いを見出している場合のみだ。ならば、私に出来ることは何もないということになる。男同士の付き合いでよくやるように、深夜に酒を飲みながら「つらいよなあ」と相手を慰めるのならしたいと思う。その方がこっちも楽しいだろうし。

 さて、余計な話をしてしまった気がする。あまりこういう話は書きたくない。理由は二つある。一つは、こちらがそのつもりはなくとも、それが自慢話のように聞こえる場合があるからだ。人は他者との比較の中で生きている。そして比較は競争を生む。だから相手の何気ない言動が、そのまま相手の中の競争心を煽ることがよくある。そうなれば、私の友達が減ってしまう。友人とは常に心穏やかな関係を築いていたい。こうして二つ目の理由が明らかになる。つまり、書いたところで何も生まれないのである。ならはじめから書かないでいるのが好ましい。