21/01/06

 器官なき身体にはパラドックスがある。ドゥルーズ哲学を知っている人なら、誰もが一度は「器官なき身体」という単語を聞いたことがあるに違いない。しかし、ドゥルーズ自身がそれを明確に説明したことは、恐らく一度もない。宇野邦一氏に宛てた手紙によれば、彼と共著者ガタリの間にさえその捉え方に違いがあったらしい。

 では、「器官なき身体」とは何か。彼の書いたフランシス・ベーコン論によると、それはむしろ身体の消滅だという。一つの問題は、それを取り巻く環境( = 現実)によって設定される。それと同様に、一つのものの定義とは、それと周囲のものとの関係において成り立つ。「嗅覚がある」とされるのは、そこに鼻があり、それが匂いを嗅ぎ分ける能力を備えているからである。私達の意識は、様々な印象を関連させ、一つの印象から別の印象を想起することによって(それぞれの印象が地続きになって、連合を組むことによって)成り立っている。ある人の頭脳には、他の人には重要ではないが、自分にとっては大きな意味を持つ、そんな単語が必ずある。一つの観念や一つの印象は、私達の意識の運動を決定づける「器官」として作用している。

 よって「器官なき身体」とは、もはや身体の消滅を意味する。そしてこの場合、「身体」とは何も肉体的な意味だけではなく、私達の意識が持つ自己同一性をも指すのである。

 ドゥルーズによれば、ベーコンの絵が禍々しく、いびつで、時に醜いとさえ言えるのもそのためだという。ベーコンの絵はよく私達に恐怖のイメージを与える。しかしそれは、まさに彼がそのような「イメージ」を斥けるために描いているのだ。そう、ベーコンの絵に見られる叫びとは、イメージを斥けるための叫びなのである。

 前述の通り、一つのイメージは別のイメージと地続きで成り立っている。そしてそのようなイメージの連合が自己同一性を形作っているのだとしたら、どうだろう。イメージとは常に変化するものだ。一つの経験から一つのイメージが生まれるなら、そのイメージは別の経験を通して変化するのである。よって、変わらない自己同一性というものはなく、ただ刷新され続ける自己同一性だけが存在する。しかしそれは、言い換えるならば、人はどこまでもイメージと共に思考することしか出来ないということだ。イメージには常に偏見が付きまとう。だからこそベーコンの絵は叫ぶ。暴力的なまでに叫ぶ。まるで何かを斥けるかのように。彼の絵の背景がよく単色であったり、また中心の人物を取り囲む輪郭があったりするのも、それは「設定されることへの拒絶」から来ているのだ。しかし何の設定を拒絶しているのか。そう、それは「身体」が設定されることを、だ。

 このように、ドゥルーズをはベーコンの絵を非身体化を求める動きとして、「器官なき身体」への希求として捉えた。時に、『アンチ・オイディプス』を開いてみると、ドゥルーズガタリと共に「器官なき身体」をスピノザにおける「実体」になぞえて書いていた。では、ここでスピノザの実体について簡単な説明を加えようと思う。

 スピノザは実体をそれが存在するために他を必要としないものとして定義した。自分自身のみによって存在するもの、それは自ずと他からの制約を受けたりしない。よって実体とは無限である。この無限であり絶対的なものを、スピノザは「神」として定義した。そして私達は、その「神」なる実体の属性(延長線上にあるもの)に過ぎない。人は動くというよりも動かされるものだ。言い換えるならば、私達は完全な自己原因でいることが出来ない、実体になれないものなのである。

 さて、ゴダールの『小さな兵隊』の中には「映画もまた一秒間に二十四枚の真実をおさめることで成り立ってる」とか、そんな感じのセリフがある (主人公がヒロインに対しそのようなセリフを吐くのである) 。実際、今私達の目に映っている視覚イメージは、皆それぞれが異なる瞬間をおさめているイメージが連続することによって成り立っている。一日は二十四時間あるし、一時間には六十分が含まれているし、一分には六十秒があるし、また一秒には……と、時間の単位は本来細分化していけばキリがないものである。で、その瞬間瞬間の時間の中には常に差異が含まれている。たとえばこの文章を書いている私は、一秒前とその一秒後では手の筋肉の動きが違う。で、そんな風に本来異なったものを含んでいる瞬間瞬間が連続することで、あたかも異なったものがなく、それが地続きで成り立っているかのように見える。こうして私達の視覚イメージは誕生する。

 この視覚イメージに似た現象は、生活の至る所で見受けられる。たとえば意識。私達の意識にはそれぞれに一つの流れとも言うべきものがある。そして意識は常に流動し続ける。ただその変化が意識の表層に常に現れないだけで、意識は絶えず変化し続けている。社会に関してもそうだ。社会の内側は常に変動し続けている。で、その内側にあるものが表出すると、それは事件となって社会全体に介入していく。意識は常に変化し続けるが、それが内側から外側に溢れ出た時、決定的な「気づき」となって意識の表層に介入する。視覚イメージは常にバラバラになったイメージを繋ぎ合わせることで成り立っているが、そのバラバラなイメージがそれぞれ異なった運動をした時、私達の目には一つの運動する何かが見えることとなる。

 ドゥルーズの哲学の根本にあるのは、このあらゆる物事に内在する差異、潜在的な差異についての考え方である。つまり、内なる差異が新しさとなって現実を変えに表出するということだ。ヘーゲル弁証法において、差異は悲しむべきものであり(何故ならそれは物事にある同一性をおびやかすものだから)、解消すべきもの、回収すべきものとして考えられる。しかし、そのような差異にこそ、まさに私達の現実を刷新してくれる何かがある。だからドゥルーズヘーゲルの哲学を「大嫌いなもの」として言及する。そして同一性に対する差異の勝利を宣言する。同じものが繰り返されることなど有り得ず、ただ差異が産出するされることだけが繰り返される。

 このように、ドゥルーズの哲学は、言わばヘーゲル弁証法を反転させたものだとも考えられる。しかし、ここにこそ「器官なき身体」のパラドックスがある。つまり「器官なき身体」とは、目指しても決して到達し得ないものであり、また到達してはいけないものだということである。前述の通り、器官なき身体とは身体の消滅を意味する。しかし、当たり前であるが、私達は自分の身体をなくして生きられない。言い換えるならば、私達は自分の意識 = 自己同一性なくして生きられない。もし本当に器官なき身体が実現された人間がいるのだとすれば、それは最早人間ではない、ただの狂人だろう。

 先程の視覚イメージの話を思い出して欲しい。私達はそれぞれ異なったイメージを地続きにすることで視覚イメージを保っている。で、それを保っているものとは、他ならない私達の意識の流れであり、持続する自己同一性なのである。もしその瞬間瞬間を、異なったそれぞれのイメージを、潜在的な差異を生きようとすれば、自己同一性は自ずと解体されていき、私達は自分の中でうごめく渦に巻き込まれていく。本来バラバラな視覚イメージがバラバラなままになり、自我が崩壊し、意識が解体されていく。それは、確かにスピノザの言う「実体」のように、自己自身だけで完結したもの、完全に自分のみで存在するものかもしれない。しかし、そこにいるのは最早人間でなく、ただの狂人なのだ。器官なき身体とは狂人の至る境地なのだ。

 こうして何故「器官なき身体」にパラドックスがあるのかの二つ目の理由が明らかとなる。要するに、「器官なき身体」とは他者なき世界の実現なのである。どんな人にも、それぞれ異なった意識の流れがある。生まれ環境も違えば育った環境も違うのだから当たり前だ。なら、社会というものは、そのように異なった意識の流れを持つ人間同士が、共に生活をするために、共通認識をでっち上げることによって成り立つと言える。そして、他者を求めて生きる限り、私達はこの社会の現実に直面せざるを得ない。つまり、自分の持つ差異を社会に翻訳するということだ。それは仮面を被るということでもある。何故自己同一性が必要なのかの理由がここにもある。個と個の付き合いをするならば、私達は自ずと、嘘であっても一貫した自己を演じなければならない。そうでないとこちらに友情も信頼も寄せてもらえないからだ。常識というものは、同じ常識的な言葉遣いをする者でなければ覆すことが出来ない。マイノリティがマジョリティから迫害されなくなるためには、先ずマイノリティがマジョリティに侵入する必要がある。他者と会話をするためには、先ず自分の言語を社会的に翻訳する必要がある。

 そして、もし私達が社会に自らを翻訳させることなく、自分の持つ差異それ自体を生きようとするならば、私達は自ずと次の現実に直面することとなる。そう、それはベーコンの絵の具現化だ。自分にも、他人にもつきまとうイメージを振り払おうとする。そしてそのために叫ぶ。暴力的なまでに叫ぶ。その姿はきっと、他者から見たら狂人のそれなのであろう。まさにベーコンが描いたあの禍々しくていびつな、時にこちらを恐怖させるような、あの不気味なもの、非人間的なもの、非身体化されたものなのである。狂気の世界を生きる人間、自己同一性を失った人間、つまりは狂人。自分に中に渦巻くものに巻き込まれてしまった人間、自我が崩壊してしまった人間。そこにもはや他者はいない。「器官なき身体」が実現された世界とは、狂人の世界であり、また他者なき世界である。

 ドゥルーズはかつてこう語ったことがある、「その人固有の狂気がその人を魅力的にする」と。狂気、それは個性である。人が他人の中に個性を見出すのは、そこに他とは似つかないものがあるからだ。言い換えるならば、一般性に中々回収しづらいものを、人は個性と呼ぶ。それは正気では説明できないもの、つまり狂気なのである。その人固有の狂気がその人を魅力的にする、それはその通りだ。しかし、そのためには先ず正気と狂気を両立させる必要がある。もとい、そうあることが強いられるとも言える。ニーチェは病気が自らの創作源にあったことを認めているが、そのニーチェにしても、やがて正気と狂気を両立出来なくなることで廃人になるに至った。つまり、最早自分を他者の世界に翻訳できなくなった。そこまで狂気におかされてしまったわけだ。バラバラになった彼の自己同一性は、彼の視界に幻となって現れ、そうして彼は自分の渦の中をさまよっている。

 こうして今、私達はある一つの結論を導くことが出来る。私達に求められているのは、狂気と正気の駆け引きなのである。

 この器官なき身体パラドックスは、私に超人のパラドックスを想起させる。ニーチェルサンチマンなき人間を「超人」と呼んだ。しかし、何故超人が超人(人間を超えたもの)なのかと言えば、それは人間がルサンチマンなしに生きることが出来ないからだ。私達は何処までも反動的な存在であり、自らの諸力をニヒリズムに組み合わせることによってしか生きていけない。だから孤独の物語は胸を打つし、悲壮な世界観は異様な魅力を持っていたりする。

 そして、もしルサンチマンなき人間を目指すのならば、私達は自ずと人間の世界を、他者と生きる世界を諦めなければならない。よって、もしこの世に超人がいるとすれば、それはもはや人間ではない。ルサンチマンなき人間とは、もはや人間ではない。それは超人なのである。器官なき身体が非身体化の先にあるが故に実現され得ないのと同じだ。


 私達は皆蜘蛛だ。よさそうなところに巣を張って、獲物が来るまでじっと待ち伏せる。で、巣に反応があった時だけ腰を上げる。自分にとって意味のある言葉にだけ関心を向け、自分にとって関心を引くものだけに注目を寄せる。獲物が来そうな所を探し、見つけ次第そこに巣を張る。人間関係においてもそうだし、学習においても、趣味においてもそうだ。巣を張り、待ち伏せし、獲物を食らう。私達は蜘蛛そのものだ。


 近いうちに髪を染める予定がある。それも(赤とか緑とか、そういった奇抜な色ではないが)結構派手な色に染める。実は生まれてこの方、髪を染めたことがない。そんな私が、この度髪を染めることになったのには二つの理由がある。一つは、最近知り合った人が安い値段で私の髪を染めることを申し出てくれたからだ。いやはや、やはり私は友人に恵まれている。実にありがたい話だ。で、もう一つの理由なのだが、それを話す前に、先ず何故自分が今日まで髪を染めなかったのかについてを話したい。まあ、実に下らない話なのだが、ひとつ付き合って欲しいのである。

 私が髪を染めなかった理由、それは不真面目な人間に見られるのが嫌だったからだ。はっきり言ってしまえば、今の自分はちゃらんぽらんな人間である。高卒でフリーターだし、見た目だって決して真面目そうではない。周りにバンドをやっている人間は多いが、私自身は何もしていない。にも関わらず、よくバンドマンに間違われる。(冗談だろうが) ホストっぽいと言われたこともあるし、(これも冗談だろうが) 女に飼われてそうだといわれたこともある。まあ、だからなんだという話だが。ただ、身分はちゃんとしてないが、私はこれで、自分なりに精一杯、真摯に生きてきたつもりである。そう、私は今日まで、出来る限り誠実さというものを大切にしてきた。にも関わらず遊んでいる、軽い人間に見られる。だから、それに対する抵抗というのも変だが、タバコも吸わず、髪も染めず、ピアスもタトゥーも入れない、そうあることを意識してきた。無論、誰も私のそんな所に気にかけてなどいないのだが。ただ、大事なのは自分がどう思うかということだ。私は自分で自分に「俺は違う」と言い聞かせたかったのである。

 しかしやがて、そういったこだわりが無意味だということに気がついた。実際、私は傍から見ればチャラい奴である。一応バーテンダーだし、時々クラブにも遊びに行く。髪も長く伸びてる。見た目もそんなに芋臭くない(と思いたい)。色々ズボラだし、生活もだらしない。何処からどう見てもチャラい男だ。で、そんな自分の姿を認めた時、私は、なんだか面倒になってしまったのである。つまり、自分の中にあるその「こだわり」というやつがどうでもよくなったのだ。それならいっそ、これまで寄せられてきたパブリックイメージに自ら寄せていこう。派手な髪色、ピアス、タトゥー。全部やってしまおう。

 丁度そのような思いに駆られている時に、前述の人から染めてみないかという誘いを受けた。いや、実にありがたい話である。とにかく、機会に恵まれたということに尽きる。ただ、本当は今日染める予定だったのだが、誘ってくれたC氏が今は微熱で休んでいるらしい。このご時世だ、コロナでなければいいのだが。今はただ、彼の無事を願うのみである。