21/01/20

 ドゥルーズによれば、プルーストの考え方にはライプニッツ的なところがあるという。私達の存在はそれぞれが一つのモナド(単子)であり、互いに異なった観点からしか世界を眺めることが出来ない。そして世界を眺め、自己の学習を深めるにつれて、モナドは内側に折り込まれていく。折り紙を見てもわかるように、一つの折り目は別の折り目に関連する。モナドが折り込まれていくほど、それぞれの観点は深まっていくのである。

 一方で、モナドには窓がない。それぞれの存在は、それぞれの観点からこの世界を眺めている。言い換えるならば、それぞれの意識はそれぞれの観点によって断絶しているということでもある。そして、内側の折り目が深まっていくほど、私達は自分の中に包み込まれていく。他の意識との差異が深まっていく。それぞれがモナドである以上、ひとそれぞれの間に差異があることは避けられない。ニーチェリルケなどは、よくこのような人間存在に避けられない、決定的な孤独を見出していた。異なった世界を内側に含む我々は、互いの共通項をでっち上げ、偽のコミュニケーションを交わすことによってしか友情を勝ち得ることが出来ないのである。

 さて、プルーストの『失われた時を求めて』には二つの側面がある。先ず一つ目がシーニュ = 記号の探求である。同小説の中で、語り手が先ず最初に出会うのは社交のシーニュである。社会生活に軽薄さがつきまとう。それは私達が思考し、行動する代わりに、相手の発する暗号 = シーニュを読み取り、それに相応しい身振りをすることを強いられるからだ(クラス、サークル、飲み会や打ち上げなどで見られる現象)。シーニュは自分で考え動くことを求める代わりに、こちらに「ふさわしい身振り」を要求する。だから社会生活には軽薄さがつきまとい、社交のシーニュには空虚さがつきまとう。

 『失われた時』の語り手は、この虚栄的な社会生活 = 社交界に身を浸していた。だから自ずとシーニュを学習することに敏感になっていった。それは感受性が敏感になるということでもある。そして、やがて語り手は理解することとなる。つまり、この世のあらゆるものはシーニュであると。

 シーニュはこちらにそれを読解することを強いる。目の前の現象を考察し、解釈し、翻訳することを求める。そして、真理とは常に委ねられるものではなく、暴かれるものなのだ。こちらの意志の及ぶ範囲は、いつだってこちらが既に獲得してあるものである。言い換えるならば、私達が知識を新しく獲得し、知性が拡大される瞬間とは、常にこちらが思考するよう強制されることによって、思考に暴力が振るわれることによって発生する。このような無意志的な現象は、一体何によって生じるのか。そう、シーニュである。ただシーニュの読解だけが、こちらの知性を拡大し、私達に新しい世界を開いてくれるわけだ。

 さて、社交のシーニュの次に『失われた時』の語り手が出会うのは、愛のシーニュである。私達は愛する相手にほど嘘をつく傾向にある。否、愛し執着するからこそ相手を失わないよう嘘をつく。愛とはコミュニケーションの放棄である。それは信頼に基づく会話の代わりに、駆け引きを、被害妄想を、嫉妬を、暗号 = シーニュの読解を求める。私達が誰かを愛するのは、その誰かの内に理想とする世界を見出すからである。しかし、それは相手の内だからこそ見出されるのであり、言い換えるならば、その風景ははじめから自分にはないものなのだ。だから自分がいる必要もなければ、相手の世界に自分以外の人間が(自分がいるはずの場所に)居座っている可能性も容易に想像できる。こうしてあるかもしれない、またはあったかもしれない世界線が恋人を嫉妬に陥らせる。そして相手を失うかもしれない不安が、その恋人に嘘をつくよう強いる。「愛される女は他は皆知っている秘密でも隠し通そうとする。愛する男は愛される存在[ = 恋人]そのものを隠し通そうとする。(……)彼は彼女を閉じ込め、もっと優秀な警官、番人であり続けようとして、愛を告白するのを控えるのだ。」

 愛するということは嘘をつくことと不可分な関係にある。よって甘く美しい生活とは、常にふたりの人間のやさしい嘘によってしか成り立たない。しかし、人は一つの嘘が通されると、調子づいてその何倍も嘘をつくようになる。こうして関係を守るために発せられた嘘が、関係を壊す真実の探求を促すこととなる。そして真実の探求の先にあるのは愛の消滅である。恋人のシーニュが解読されるにつれて、こちらは相手の中に自分が考えていたような世界がないことを知る。シーニュを解読し終わった頃、『失われた時』の語り手は、既に恋人アルベルチーヌに対する情熱が冷めている自分の姿に気がつく。嘘が終わる時、愛もまた終わるわけだ。

(愛のシーニュを探求する際、プルーストはまた別の興味深い事柄に直面している。それは私達の根底に潜む両性具有的な性格であり、全ての人に多少なり備わっている同性愛的、または両性愛的な傾向である。たとえば女性的なものを備えた男性は、「繊細な人」として女性からよく愛される。その反対も然りで、男性的な趣味を備えた女性は、男性から「理解のあるもの」として歓迎される。奇妙なことに、我々は異性として魅力のある相手に、同性的なものを求めているのである。人は本来自分に隣接するものを愛する傾向にある。男性社会では、女遊びの激しい男はプレイボーイとして尊敬されるが、反対に性に奔放な女性は「ヤリマン」として忌み嫌われる。これには「同性だから許せるが、異性だから許せない」という感情が少なからず含まれているに違いない。)

 社交のシーニュ、愛のシーニュと同時に『失われた時』の中で扱われるシーニュがもう一つある。それは感覚のシーニュだ。紅茶に浸したマドレーヌにヴェネツィアの舗石など、それら物質的なものが、語り手に忘れていた過去の記憶を想起させる。感覚的な触発が、それに相応しい記憶を、感情を、思考を呼び起こす。そこには愛すべき人々との思い出も含まれている。しかし、そこには甘美なものと同じくらい残酷さが含まれている。感覚のシーニュは、こちらにかつての思い出をよみがえらせると同時に、その思い出がもう二度と帰ってこないことを、あの瞬間がもう二度と取り戻せないことを、それが既に「失われた時」であることを気づかせる。こうして私達は喪失を、失望を覚える。あの美しい日々は、もう二度と帰ってこない。感覚がもたらす記憶の想起は、私達の存在のむなしさを、存在と無を思い知らせるのである。

 こうして今、私達は『失われた時を求めて』のもう一つの側面に出会おうとしている。同小説のタイトルにおける「失われた時」とは、果たして何を意味するのか。そう、それは語り手が無意味に費やしてしまったかつての日々を、そしてもう二度と帰ってこない過去の思い出を意味している。作品の中で、彼は度々自分の無能さを恥じる。両親の心配にも関わらず、いつまでたっても小説が書けないこと。何もせずただ無為に暇を潰してばかりいること。『失われた時を求めて』における「失われた時」とは、社交や愛のシーニュを読み解くために必死になった時間であり、またそのために彼のもとから過ぎ去っていった時間であり、だからこそ彼が何もなせなかった時間であり、故に彼の胸に喪失感を呼び起こす時間でもある。だから主人公は「求め」ざるを得ない。否、求めなければならない。何をか。そう、過去を償う時間をだ。失われた時は無駄ではなかった。そう信じるために、彼は未来において過去の自分を救済する必要がある。では、いかにして彼は「失われた時」を償うのか。それは芸術作品において、つまりは彼の小説においてである。

 こうして彼は「見出された時」に到着する。見出された時、それは過去の自分を償う時間であり、失われた時を救済するための時間である。では、その償いはどのように行われるのか。それは芸術作品において本質を掲げることによってだ。そして、これがプルーストの見出した孤独の解決方法でもあるわけだ。

 最初に書いた通り、プルーストにはライプニッツ的なところがある。それぞれの存在が窓のないモナド(単子)であり、それぞれの観点からしか世界を眺められない。またそれ故に孤独であることしか出来ない。しかし、全ての人に共通するものはないとしても、丁度複数の人間をグループ分けするように、傾向ごとに似通った人々を見出し、系列や集団をつくることは可能である。プルースト = 語り手は様々なシーニュの読解に多大な時間を費やした。そして気づいた、この世の一切はシーニュ = 記号であり、私達はそれを考察し、解釈し、翻訳することでこの世界を組み立てているのだと。そしてシーニュが発生するのは、その内側に意味があるのを知っているからであり、またその意味に(それぞれがモナドである以上)決して到達することが出来ないからだと。

 しかし、社交のシーニュには空虚さがつきまとい、愛のシーニュには嘘がつきまとい、感覚のシーニュには絶望がつきまとう。では一体私達はいつ喪失を感じずにシーニュを読み取ることが出来るのか。それは他ならない、芸術作品においてである。それも、芸術作品に触れるだけではなく、芸術作品を創造することも必要なのだ。

 シーニュの読解を深めることで、語り手はそれぞれのモナドに共通しているものを、ある一定の傾向を有する人同士に共通しているものを発見する。そしてそれを作品の中で掲げる。こうして過去に積み重なった無駄な時間が、生涯最大の仕事を成し遂げることに繋がる。こうして作品において自己を放出し、自らの内に含まれた多様なものを外に発散すること、他のモナドへの、孤独に遮られた他者の世界への架け橋を獲得することができる。橋渡しをすることが出来る。彼の作品に触れたものは思う。「これは自分だ、自分のことを語っているんだ」と。作品に共感を覚え、「この人は私だ」という感動を得る。芸術におけるシーニュが、遠く離れた者同士を結びつける。丁度はなればなれになった二つの星が星座によって結び付けられるように。こうして私達は星座を形作る。夜空に散らばった星々は、たとえどれだけ遠く離れていようとも、たった一つでもそこに繋がりを見い出せたのなら、それは星座となって、一体となって広大な宇宙に煌めく天体となる。集団の中からたった一つのものを選び出し、群衆からたったひとりの人間を抽出する。シーニュの裏に潜む本質を見出し、掲げることで、二つの隔たった惑星は会話をすることが出来るようになる。

 では、一体どういうことになるのか。私達は皆芸術家になるべきなのか。否、そんな事は無理だ。無理に決まっている。当たり前だが、人には向き不向きがある。上記のことはプルーストだから可能であり、他の私達皆に言えることではない。ではどうするべきか。そう、プルーストシーニュに対する感度という観点から、失われた時の償い方を見出した。恐らく私達も、彼と同様に自分の傾向を見極め、そこから出発する必要があるのだ。そして知る必要がある、何が自分に思考を強いるのかを。その先にこそ、私達の「芸術作品としての生」が待っているのではないか。

(ここから先は私の学習不足のために書けない。「芸術作品としての生」とはドゥルーズフーコーの思想について語る時に用いた言葉で、白状すればその理解もまだ浅い。にも関わらず直観的にその言葉を用いてる。何故なら多分それが正しいと思っているから。素人なのでこのくらいの適当さは許して欲しい。まあ、日を追って足りない理解を補っていくつもりである。)


 「差異と反復」という言葉にはいくつかの意味が含まれている。

 私達は自己をパロディしながら生きるものだ。何故なら、人は常に変化の中に置かれているから、自ずと現在の自分に対して差異化を働かざるを得ないのである。そして、今存在しているものを考えるためには、まず今日までに存在していたもののことを考える必要がある。だから私達は自ずと今日までの自分自身を模倣する存在であり、初めから自己同一性の欠けたものである。そのような人間存在においては、産出される差異だけが回帰する(反復する)ものだとも言える。

 また別の観点から見れば、差異とは存在それ自体でもある。つまり、私達は他者との間に本性上の差異を抱えているということだ。この内在的な差異の現実が、他者との生活の中で繰り返される(反復している)。また、自身の傾向を知るという意味でも、自らの内に潜む差異の現実に突き当たり、反復される。この時、差異とはまさに反復されるものであり、反復もまたそれ自体差異を意味する。

 もしくは、かつての差異が現実に再びやって来て、繰り返される(反復される)。もし私達が絶えず変容し続ける存在だとするならば、私達は常に現在からズレて生きているものだと言える。自己をパロディすることが避けられないのだとすれば、自己自身を完了することからもズレてしまうだろう。よって私達は、絶えず多数化し、自己自身の片割れであり、断片であることを強いられる。言い換えるならば、それぞれの瞬間に異なった自分がいるということだ。よって、私達は必然的に遅れて生きる存在だ。かつての片割れ、自分の断片を理解するためには、それ相応の学習を積むことが求められる。それぞれの瞬間には、今の私では理解し得ない余白がある。過去の出来事を思い返すと、かつての自分ではわからなかったことに気づいたりすることがある。この時、私達は過去の差異(かつての自分)を反復させている。異なった現在を生きる自分が、異なったかつての自分を反復させている。そう、これもまた「差異と反復」なのである。