21/01/24

 考えるということは苦しむということだ。人が思考を始めるのは、そのようにこちらに強いる苦しみに直面した時のみである。よって、思考には受難(パッション)ともいうべきものがよく付きまとう。そう、考えるとは一種の受難劇なのである。

 その一方で、ニーチェはそのような考え方を否定する。そして思考するとはそれ自体軽やかで喜ばしいものであるのだと語る。真面目に考えるなんて馬鹿らしい。我々はもっと喜ばしき知恵に生きてもいいではないか。彼はそう書くのである。

 こうして一つの問題が浮かび上がってくる。では、いかにして思考の受難(パッション)は克服されることが出来るのか。または、いかにして喜ばしき知恵は獲得されうるのか。人は何かの反動でなければ能動的に物事に取り組むことが出来ない。よって、もしそこに「喜ばしき知恵」があるとするならば、それは私達が受難(パッション)を経験し、乗り越えた先にしか生まれないのである。

 最近、マーティン・スコセッシの『最後の誘惑』という映画を観た。キリストの受難を題材にした映画なのだが、その内容は聖書(四つの福音書)に描かれた受難劇とはまるで違う。ギリシャの小説家兼哲学者の本を原作とし、あくまでも人間として苦しむイエスを描こうとしている。で、その映画の終盤で、次のような場面がある。それを参考にしようと思う。

 十字架の上で最期の時を迎えようとするキリスト。彼は嘆く。「神よ、何故私をお見捨てになるのですか。」その時、天使を名乗る者が彼の前に現れる。その者は語る。お前はもう十分頑張った。十分すぎるくらい苦しんだ。神もお前をゆるしている。だからこれからは普通の人間として生きなさい。こうして人間としてのイエスの生活が始まる。彼は結婚し、子供をもうけ、家庭を持って幸福な生活を送るようになる。しかしその晩年、病床に伏しながら、彼はかつて自分が救おうとしたエルサレムが崩壊する様を見る。そして何処から知ったのか、人間として暮らすイエスのもとを弟子達が訪ね始める。皆やさしく死を前にしたイエスに話しかけるが、一人だけ違った。ただ一人だけ、使命を果たさず、ひとりの人間として、個人の幸福を優先したイエスを非難し始めるのであった。彼は言う。見なさい。あなたのせいでエルサレムは燃えている。あなたのせいで、あなたが救おうとした人々は滅ぶのだと。そしてイエスは気づかされる。十字架の上で受難を負っている最中、自分の前に現れたあの天使を自称するものは、実は悪魔であったのだと。

 イエスは死の床から這い上がり、家の外に出て、荒れる暗がりの中で神に祈り始める。再び自分にチャンスを与えてくれ。自分に仕事を全うさせてくれ。十字架にかかる前、彼は自分を選んだ神を心のどこかで憎んでいた。ただ自分は神の言いつけに従っているだけなのに(神に与えられたものに従って生きているだけなのに)、何故こんな風に苦しまなければならないのか。しかし今は違う。今はむしろ自分のために、この仕事を全うしたいと思う。

 その時、意識が戻る。気がつくと悪魔に誘惑される前の、別の人生をあゆむ前の、十字架にかかり死の間際にいる時の自分に戻っている。そして、全てを知った彼は笑う。笑いながら言う、「成し遂げられた」と。こうして彼の受難(パッション)を終わり、彼は死を迎える。

 人によっては、嘆くことによって人生が始まる。何故なら嘆きとは、自分であることへの苦しみに基づいて生じるからだ。 自分は何故こうなのか。何故自分はこんな風に苦しまなければならないのか。そのような嘆きには、常に「自分がいかなる人間なのか」という発見が含まれている。上の『最後の誘惑』を例にとるならば、イエスは神に選ばれし者として様々なことを語り、また様々な奇蹟を群衆に対し行う。そしてそのために褒められもするが、むしろ憎まれ恨まれることの方が多い。彼自身は、そのように望んた事は一度もない。だから彼は思うのだ。何故神は自分をこのように苦しめるのか。私は一度もこうありたいと願った事はないのに、何故自分を選ばれたのか。この時、イエスを襲う悩みの根底にあるのは、「何故自分は自分なのか」という嘆きであり、また自分であることしか出来ないことへの苦しみである。

 では、彼はいかにしてこの「自分であることへの苦しみ」を肯定したのか。言い換えるならば、彼はいかにして受難(パッション)を乗り越え、自分の性質 = 他人との差異を喜びに変えたのか (何故なら、自分自身であることの苦しみの根底にあるのは、自分と他人の間にある決定的な差異だからだ)。それは、彼が受難を成し遂げる寸前で一度間違えたからだ。嘆きが自らの性質の発見であるからと言って、誰しも簡単にそれを受け入れられるわけではない。むしろ、大抵の人はそのような性質を否定して、別の人生の可能性を考えてみるものだ。否、人が幸福を夢見るのは、いつだって現在の自分の苦しみを否定するためである。だからイエスは別の人生の可能性を追い求め、(あくまでも映画の中では) 悪魔の誘惑に負けてしまう。実験の本質は間違いを求めることにある。間違えることによって、はじめて気づく本心というものがある。もし生が一つの実験であるならば、正しさを知るために、先ず私達は間違える必要があるのだ。

 こうして受難が肯定され、重苦しい生が軽やかに飛躍するときが訪れる。確かに別の「あったかもしれない」人生の可能性を歩めば、自分は人並みの幸福を得られたかもしれない。しかしその時、自分の胸に残るものとはやるせなさと後悔なのだもし自分の性質が自分に特有の苦しみを産むならば、自分に特有の幸福も(自分にとって最大の幸福も)また自分の性質によるのではないか。彼はイスラエルの人々が苦しむ様を見た。そして自分が受難を退け、自分の幸福を優先しているとことを後悔していると知った。それを言い換えるならば、つまり自分が本当に望んでいる幸福とは何かに気づいたということでもある。だから彼は平穏な家庭生活を否定し、再び十字架の上にかかることを願う。そう、彼は自らの嘆きを肯定するのである。彼は受難を全うすることで、喜びの軽やかさを獲得する。

 喜びとはその人の持つ力能が満たされた時に感じる。たとえば小便をした時に感じる、あのスッキリとした感覚は、私達に備わっている排泄の機能を満たしたからこそ得られるものだ。これと同様で、たとえば天才的な画家が何故絵を描かずにいられないかとなれば、そうすることによってしか自分に備わっている機能 - 力能を満たすことが出来ないからだ。では何故それを満たしたいのかとなれば、そうすることによってしか得られない喜びがそこにあるからだ。『最後の誘惑』のイエスは、途中まで神の導きに否定的である。彼は自分に特有の性質(神に与えられた性質)があり、それによって奇蹟を行う。がしかし、天才とは病気である。そして病気とはその人の本性を形成する一つの傾向だ。その人特有の機能 - 力能とは、その人に特有の病気のことでもある。そしてその人固有の傾向もまた、その人固有の病気によって知るしかない。

 ここに何故人が生に受難(パッション)を見出すかの、もう一つの理由がある。目の前にあるものが事実であるとわかる、しかしそれを認めたくない。否定したい。自分には、それが到底担えないもののように思える。避けたい、または逃げ出したい。自分はこのような重荷を望んだことがない。受難(パッション)とは、このように、自分が見たものを誤魔化したいという欲求から生じる。この時、人は真実というよりかは自分を上手く騙してくれる嘘を求めるようになる。「我々のうちで最も勇気のある者でも、自分が本当は何を知っているのかを直視するだけの勇気を持つことは稀である……」


 美人は苦手だ。変に緊張して上手く喋れなくなる。以前、私は恐ろしく可愛い女の人に出会う機会を得た。で、偶然にもその人と個室で二人きりになれたことがある。その時、私は緊張のあまり、相手の方に体を向けることが出来なかった。ずっと暗がりに光る画面の方を見つめていて、動作の全てがぎこちなかった。先程、私はこの女性のことを「恐ろしく可愛い」と書いたが、それは決して誇張した表現ではない。本当に、トラウマになるくらい可愛かった。あの時、私は思った。「ああ、俺は女が苦手だ」と。そしてそんな自分を恥じた。

 以来、私はこの不慣れな態度を直そうと努力した。実際、当時に比べれば遥かにマシになったと思う。また同じ状況に出会っても (またはいつかその女性に会うことがあっても)、もう緊張してオドオドしたりはしない。目を逸らしもしない。私は強くなった。そしてこれからも強くなる。もとい、そのつもりでいる。

 昔から、恋愛が苦手である。神経質になるし、毎日頭から相手のことが離れなくなってイライラする。下手な行動を取れば不安で眠れなくなる。余計な思い込みがいつまでも頭を駆け巡る。座って考え事をしている時は、よく自分の太ももを握りこぶしで思い切りよく殴る。歩きながら考え事をしている時は、よく「ああ」とか「クソ」とか独り言を漏らす。そして嫉妬深くなる。嫉妬は嫌いだ。嫉妬に駆られると、自分が惨めに思えてくる。誰かが自分に負け犬だと言っているような気持ちになる。とにかく、自分が見ていられないくらい醜くなるのを感じる。それがたまらなく嫌なのだ。

 私が友情を愛する理由はここにある。友に対してならば、落ち着いた態度で接することが出来る。自分の限度を破らず、距離を保って相手に接することが出来る。言い換えるならば、相手に余計な苛立ちや不安を感じなくて済む。気が楽だ。生活もやさしい。気が重くなって他の作業に取り組めなくなることもない。大変よろしい。

 まあしかし、結局私はあの情けない時のままなのかもしれない。そう感じることも少なくない。


 ニーチェキリスト教を超越的価値観によって生を断罪しているとして批判した 。この批判は、同時にプラトン主義の哲学にも向けられたものでもある。何故なら、キリスト教の教義の設立にはプラトン主義の哲学が深い影響を与えているからだ。このニーチェによるプラトン - キリスト教批判は、私にドゥルーズヘーゲル嫌いを想起させる。ヘーゲル弁証法は、思弁的に言えば矛盾とその解消を原動力としている。しかし、その根底にあるものがルサンチマンであるとしたら、どうだろう。

「真なるもの」を求める運動とは、それ自体ルサンチマンに基づくのである。否定したいものを現実に見いだし、その反動で「真なるもの」を定義付けるのだとしたら、その「真」は現実を否定するために見出された、偽物の本物だ。で、こうして見出された偽物の「真」を掲げ、その価値観に基づいて現実の生を断罪する。だからこそニーチェプラトン主義とキリスト教を批判する。そして彼は言うのである、「それはルサンチマン(復讐心)に基づく運動だ」と。

 傷つけられたものは、自分を傷つけてきたものを悪と見なす。で、その正反対にあるもの(自分を傷つけないように見えるもの)を善と見なす。言い換えるならば、復讐心は、自分を傷つける可能性があるものをなかったことにするよう求める。その一方で、人間の生の本質は力にある。そして力の本質はその過剰さにある。つまり、生の本質は生それ自体から溢れ出ることにある。何かを求める運動は、それ自身じぶんに足りないものがあるのを感じるからこそ生じる。よって力の過剰さ、生の過剰さとは、自らから溢れ出て、外部に自分のエネルギーを贈与することにある。

 しかし、だからこそ生はルサンチマン = 復讐心によって断罪される。ルサンチマンによる復讐、それは決してこちらが傷つけるつもりはなかったものに対しても行われるからだ。ルサンチマンは他人の喜びを禁止することを求める。もし現実に傷つけられたものが「本物」の概念を発明したとするならば、またそれによって目の前にあるものを「偽物」として断罪しているのだとすれば、その時、生は元々それが持っていた可能性から引き離されているのではないか。こうしてルサンチマン = 傷つけられたものの価値観に合わせていくほど、人間の生の可能性は奪われていくこととなる。

 ドゥルーズヘーゲルを嫌う理由もここにあって、もしヘーゲル弁証法がそもそもルサンチマンに基づくものだとしたら、それは頭でっかちになった理性が、目の前の矛盾を解消するために机上の空論をこねくり回すようなものだということになるからだ。弁証法の運動の中心は確立された、同一性のある自我であるが、その「変わらないもの」へのあこがれ自体、変わり続ける生の過剰さの反動から来ているのではないか。で、そのような自我を保つために矛盾の解消に取り組むとしたら、それはむしろ益々こちらの神経を追い詰めることになるのではないか。何より、一つのものの定義とは、それ自体相反する二つのものを含むようにできているのではないか。運勢は常に幸運と不運を含んでいるし、食事は常に美味しいと不味いを含んでいる。矛盾(に見えるもの)とは、だから必然的に生じざるを得ないよう出来ているのではないか。

 現代とはニヒリズムの時代である。傷つけられたものがあらゆるものへと復讐する価値観、反動的価値観、生を断罪する価値観が優位を占め、私達はルサンチマンをなくして生きることが出来ない。生の過剰さのために人間の文化 - 文明が発展したのだとすれば、これは恐るべき事態である。最早何ものも生まれなくなる時代が来る。最早人間が虚無を意志する時代が来る。否、既に来つつある。

 ドゥルーズニーチェについて語る際、フォイエルバッハを引き合いに出す時がある。フォイエルバッハニーチェと同様に「神の死」を謳った哲学者である。その一方で、この二人の間には決定的な違いがある。フォイエルバッハは『キリスト教の本質』の中で、「神」とは人間の本質が投影されたものであり、またそれが理想化されたものであると考えた。言い換えるならば、彼はかつて人間に属していたもの(愛、善意、理性、意志など)を、人間は神に投射することで疎外したというのである。だからこそ彼の哲学は、そんな元々人間が所有していたはずの性質を回収し、神によって失われた人間性を取り返すことを目標として掲げる。彼は言うのである、「人間と人間の考え出した神は本来ひとつのものである」と。

 しかし、もしこの「神」と人間にまつわる考え方それ自体がニヒリズムに基づいているのだとしたら、どうだろう。神なき近代に現れた、上のような進歩主義的な考え方それ自体が、実はルサンチマンの反映であるとしたら。ニーチェは言う、「今やキリスト教道徳はキリスト教それ自体よりも人気である」と。神は死んだ。しかしプラトン主義 - キリスト教の影響によって転倒した価値観は生きたままだ。今や人々は真理、善、神聖さの概念の代わりに、進歩、有用性、地上の幸福などを掲げている。しかし本質は何も変わっていない。そこにあるのは生への復讐であり、ルサンチマンに基づく価値評価、「過剰な生」を、強きものを断罪する弱者の価値観である。そして神なき現代においては、神がいた頃よりも遥かにルサンチマンが酷くなっている。進歩主義者の多くは、まるでかつてのものに復讐するかのように、露悪的とも言える態度で新しい価値観を掲げる。こうして否定的なものの勝利が実現された。ルサンチマンの勝利、ニヒリズムの勝利が地上に訪れたのである。

 ニーチェはこのような生に復讐し、生を断罪する露悪的な価値観に (または人間を愚かで醜いものと見なす価値観に) 真っ向から対立する。そして生きることはそれ自体善いことであり、過剰な生は肯定されるべきだと主張する。その結果、見出されたのが「超人」の概念である。既存の価値観が未だ残りながらも、しかし我々は最早その価値観に生きることが出来ない。かと言って、現代人は次にどこに進むべきかもわからない。今や人々は人間と非人間の中間をさ迷いながら生きていると言える。ならば我々は、既存の価値観が崩れつつある今だからこそ、新しい人間を目指すべきではないか。それも、神になろうとする人間ではなく、ルサンチマンなき人間を、過剰な生を肯定する人間を、つまりは「超人」を……。

「生はそれ自身一つの美徳であって、その美徳を欠いている者は、たとえ他のあらゆる美徳を備えていても、完全に正しい人間にはなれないのである。」

 しかし超人の概念にはパラドックスがある。前述の通り、現代とはニヒリズムの時代である。私達はルサンチマンなくして生きることが出来ない。そして、そんな現代を生きようとするならば、私達はどう足掻いてもルサンチマンの連鎖から抜け出すことが出来ない。ツァラトゥストラのように十年山にこもれば、幼子のような純粋さを取り戻すことが出来るかもしれない。しかしその純粋さも、世俗に出ればけがれる。だからツァラトゥストラは、作中で何度も吐き気に襲われて、病気で倒れ、苦しみ喘ぐ。ツァラトゥストラは超人を予告するが、彼自身は超人ではない。何故ならツァラトゥストラルサンチマンから逃れられなかったからだ。言い換えるならば、現代を生きる限り、私達は超人になれない。何故なら、ルサンチマンなき人間とは、最早人間ではないからであり、そのような者は、最早人間社会で生きることさえ許されないからだ。

 こうして一つの奇妙な事実が見えてくる。超人という価値観もまた、この場合、私達の生を別の形で断罪しているのではないだろうか。私達はルサンチマンなくして生きられない。しかし、超人を目指す限り、私達は常に自らの愚劣さ、下劣さを断罪せざるを得ない。つまり、超人の価値観は、おのずと私達を苦しめるよう機能するものなのである。

 同様のことはドゥルーズ器官なき身体にも言える。他者との世界を生きる限り、器官なき身体とは実現され得ない。何故なら器官なき身体とはむしろ身体 = 自己同一性の消失であり、それは自我の崩壊を意味するからだ。人を魅力的にするのはその人特有の狂気であるが、もし狂気が全てを覆ってしまった、最早私達はその人と触れ合うことも出来ない。よって、器官なき身体とは今の私達では決して獲得できない何かなのである。では、何故器官なき身体が設定されたかとなれば、それはルサンチマンに基づく価値観 = 常識 によって断罪されている諸事物を解放するためである。決めつけられた自己同一性、こうでなければならないという偏見からの解放。器官 = いかに作用するかを決めつけられた概念からの解放。より自由な人間のあり方への希求ために器官なき身体は設定されたのではないか。

 こうしてもう一つの奇妙な事実があらわになってくる。私達は超人になれないが、しかしルサンチマンに諦めをつけて生きることも許されないのである。また、人は決して器官なき身体を獲得できないが、現在の身体に折り合いをつけることも許されていないのである。

 一体この矛盾をどう生きればいいのか。この宙ずりになった状態で、我々はどうすればいいのか。ルサンチマンなしに生きられない一個の人間として、いかにしてルサンチマンと戦えばいいのか。最近はそのような事をよく考えている。そして、その答えはまだ出ていない (まあ、答えが出たところでどうなるんだという話なんだが) 。


 ゴダールの『彼女について私が知っている二、三の事柄』の解説に、次のような言葉があった。「この世界で生き抜くためには、自分自身を売り物にするしかない」と。これ程までに的を得ていて、また絶望的な文句は他にない。