21/01/27

 ドゥルーズによれば、哲学には本来三つの機能が備わっている。ではその三つの機能とは何か。それについての解明は、そのまま彼の哲学の本質を理解することに繋がると言えるだろう。

 先ず第一に「哲学は悲しませるのに役立つ。誰も悲しませず、誰も妨げない哲学など哲学ではない。」ドゥルーズによれば「哲学は愚劣を防ぐのに役立ち、愚劣をある恥ずべきものにする。それは思考の下劣さをそのあらゆる形態のもとで告発する以外に使用法をもたない」のである。これは一体どういうことか。つまり、哲学とは先ず何よりも品位にまつわる問題なのだ。哲学的な思考、それは下品なものを恥じることから始まる。あるがままに愚劣であり、下劣であろうとする思考回路に対して「下品だ」と批判すること。そこに哲学の最初の仕事がある。よって、この世に幸福のために役立つ哲学などない。あるのはただ人を悲しませる哲学だけだ。こうしてドゥルーズ哲学の第一の側面が見えてくる。つまりそれは、自分と他人を悲しませてでも品位に生きようとする人間の倫理にまつわる問いなのだ。

 しかしそもそも、何故「恥」という観念は生じるのか。言い換えるならば、人はどんな場合に下品なものを見出すのか。それは現実で何らかの妥協をした時だ。何の妥協をした時か。それは欺瞞との妥協である。欺瞞とは何か。それは偽だとわかっているものを本物として信じこもうとすること、自分自身に対して不誠実であろうとすることだ。何故それを恥じるのか。自己に対して不誠実な人間は、他者に対しても不誠実になるからだ。それの何がいけないのか。他者に対して不誠実であれば、その人もまた別の人に対して不誠実であろうとするからだ。こうして悪意が伝染するからだ。そして、悪意の伝染の先にあるのは、私達全体の堕落であるからだ。だからこそ私達は不誠実なものを、妥協を、欺瞞を、「下品なもの」として恥じる。その一方で、生きている限り、人は絶えず現実と妥協することを強いられる。だから自分自身に対して恥を感じざるを得ない。よって他人の中に見い出す愚劣さ、下劣さとは、自分の中にある許されない(または許すのことできない)もう一人の自分の似姿でもあるわけだ。

 では私達はどうすればいいのか。哲学に頼るべきか。否、哲学はそのような現実に対しては無力である。「哲学は力を持たない。力を持つのは宗教や国家、資本主義や科学や法、そして世論やテレビであって、哲学は力を持たない。」そして「哲学以外の諸力は私達の外にあるだけでは満足せず、私達の内部にまで侵入してくる。だからこそ、私達ひとりひとりが自分自身を相手に普段の折衝( = 駆け引き)を続け、自分を敵に回してでもゲリラ戦を繰り広げることとなる。」

 こうしてドゥルーズ哲学の第二の側面があらわになる。それは実存的な側面だ。社会とは力と力の関係である。あらゆる力は別の力の存在をなしに考えられない。一つの力の大きさを測るためには、それと比較できる別の力が必要となる。そして、社会 - 現実という大きな力と力の関係の間では、私達個人の小さな倫理観など無力である。人はただ社会に飲み込まれながら、こちらの心を腐らせようとする諸力に対して、時には自分自身を傷つけながらも、折衝を、つまりは駆け引きを行うことを強いられる。社会に対する個人の限界を感じる中で、私達は一体どう生きるべきなのか。そこにはキェルケゴールサルトルとは違う、全く別の実存的な問いが存在する。

 時に、ドゥルーズはよく自分の本を「道具箱」として利用して欲しいと語る。本を読むなんて誰にでもできる。大切なのは本を活用できるかどうかだ。では活用するとは何か。それは、恥と妥協を強いられる現実を生き抜くために必要なものを、本の中から見出すということだ。こうしてドゥルーズ哲学の最後の側面が明らかとなる。それは実用主義(プラグマティズム)的な側面だ。下品なものとの戦い、愚劣で下劣なものとの戦い。しかし、この戦いは必ず敗北する運命にある。何故なら、現実の諸力は絶えず私達の内部に侵入して、恥と妥協をこちらに強いるからだ。そして、そのような中で個人の倫理を失わないようにするに、時には自分を傷つけてでも戦おうとすることが求められる。その時、彼の本は「道具箱」として役立つこととなる。よって、倫理、実存、実用主義。この三つが、恐らくはドゥルーズ哲学を特徴付ける三つの機能なのだと言える。


 時々、自分の顔が自分に見えなくなる。もっとも、これは今に始まった話ではない。昔から (いつからかは忘れたが) よく鏡に映る自分の顔を見て驚くことがある。それが自分には見えなくて。写真でもいい。私はそこに、何か普段見ない、珍奇なものがあるような気がしてくるのである。目の前にいる自分を自分だと思えない。別の誰かを眺めているような気がする。そしてこの感覚が、何だか不思議に思えて笑えてくるのである。

 眠り。それは夜の不安を償うかのようにやさしい。しかし眠りがあまりにやさしいから、よく眠るのが不安になる。もう眠りたくはない。何故なら、眠っている時ほど快い時間は他にないからだ。そして、眠っている時ほど無駄に感じるものも他にないのである。

 私はよく眠りすぎてしまう。で、それを避けようとすれば、今度はあまり眠れなくなる。まるで過眠と不眠の間をさ迷っているかのようだ。しかし眠りに落ちれば、この世の時間軸が狂い始める。時間の蝶番が外れ、過去の全てが自分の周りを渦巻いている。

 目覚めのとき、一日で一番胸が重苦しい時間。喪失感のようなものが漠然として広がっていて、ナイフでえぐられたかのように胸が痛い。せっかく目が覚めたのに、しばらくその場から動けず、ボーっとして過ごす。こうして無駄に時間を過ごすことが一番いけない。それくらいわかっているのに、何故こうも上手く体が動かないのか。このやるせなさに折り合いを付けるためにオナニーすることもある。射精した後は確かに気も安らぐし、さっきよりかは虚しさも感じていない。しかし何だか、こんな自分が馬鹿らしく思えてくる。

 目覚めのときと同じくらい、眠りを待つ時間が嫌いだ。ベッドの上に横たわりながら、今日出来なかった様々なことを思い浮かべる。そうして後悔の念が幾度も過ぎる。この後悔に折り合いをつけるために、結局いつも夜更かししてしまう。そう、人が眠れないのは、終わろうとする一日に満足出来ていないからだ。そして次の日もまた最悪な目覚めと共に始まるというわけだ。

 フェリーニの『ボイス・オブ・ムーン』を観ながら、私は自分が何故こうなのかを考えていた。その時、映画からは次のようなセリフが流れていた。「生きることよりも思い出すことの方が好きだ……」そして気づいた。私はただ変わるのが怖いのだと。変化には苦しみが伴う。変化することと喪失することは殆ど同じ意味だからだ。私は苦しみたくない、だから変化が恐ろしいのである。しかし、何が変わるのが恐ろしいのか。それはまだ言い表せないのだが……。


「一線を超える」という表現がある。しかし、実際にこの「一線」を超えられる人間というものはごく僅かである。何故か。それは、たとえいかなる行為に走ろうとも、私達は「一線」の世界に回収されざるを得ないからだ。

 たとえば今、私達は何らかの考え事をしているが、この考え事というのは前提となってくれる知識がなければ成り立たない。知識とはある一定の価値観に基づいて形成される。そしてあらゆる価値観は自分の意志で形成されたと言うよりかは、むしろ今日まで見聞してきたものによって無意識的( = 無意志的)に形成されたものである。頭ではわかっていても、心がそれに追いつかない。そのような現象が起こる理由がここにある。私達の言動の裏には、常にそれを判断し(時には断罪する)無意識的な価値観が存在するのである。個人の裏には、常に個人を超越し、個人を支配しようとする神話がある。だから、「一線を超える」ようなことをしても、絶えずその「一線」に回収されざるを得ない。例が少し悪いかもしれないが、『罪と罰』の主人公などもそうだ。ラスコーリニコフは自分の殺人の正当性を信じているが、しかし「殺人」という行為は彼の無意識的な価値観( = 神話)に反する。ここにあるのは個人と神話 - 無意識の対立である。彼は人を殺したことに後悔していないはずなのに、絶えず罪悪感に苛まれる。何故なら無意識にある神話は絶えずこちらを断罪するからだ。

 社会 - システムに対する個人の限界。他者と生きる限り、人は他者の世界へと個人の価値観を翻訳しなければならない。だから社会の何処かに回収されざるを得ない。よって、たとえどんな事をしてでも「一線」を超える事が出来ないのである。いつまでもこの「線」に基づいた価値観に回収されることを強いられる。そしてもしこの価値観を変えたいのならば、人はこの「線」の世界上で生きることを受け入れるしかない。システムを変えたいなら、同じシステムに飲まれるしかないというわけだ。

 では個人の倫理はどうなるのか。そう、もし個人の倫理を備えながら社会に生きようとすれば、おのずと自己と他者との間に矛盾を発見することとなる。システムに飲まれるほど、この矛盾は深まっていく。そして矛盾が深刻化した先にあるのは、その矛盾を抱えたものの破滅である。自分自身に誠実であろうとすれば、人は引き裂かれ、八つ裂きにされる。そういう意味では、人生とは一篇の悲劇である。ここで私が思い出すのは、ドゥルーズの残した次の文章である。「主体化こそ、線に挑み、線をまたぐ唯一の方法なのです。その結果、死や自殺に向かって歩むことになるかもしれませんが、(……)その場合、自殺は生に満ち溢れた芸術になりおおせているのです。」

 主体化とは何か。それはただ能動的に生きようとすることを意味するのではない。大抵、能動的に見える人の多くは、何が自分を突き動かしているのか知らないからこそ能動的になれるのだ。だから時にはそれは、神話に突き動かされ、無意識的な価値観 - 偏見に支配された生き方だったりもする。一方で、この神話とは虚構以上のものではない。二人以上の人間が話をするためには、話の前提となる共通認識が必要となる。よって、社会という共同体を成り立たせるためには、その共通認識をさらに大きくする必要がある。こうして生まれたのが神話だ。そして、もし個々人にそれぞれ特有の性質があり、人と人との間に差異があるならば、共通認識 - 一般性とはそれらの性質 - 差異を誤魔化した先にしかない。よって、個人と神話が矛盾することは必然なのだ。

 主体化とは、このような個人の性質 - 差異に基づいて生きようとすることに他ならない。それは個人と神話の対立を生きるということでもある。つまり引き裂かれる存在であるということ、悲劇に生きるということだ。私達自身の傾向を形作っている性質を見極め、それに基づいて生きようとする。しかし、他者との世界に生きる以上、私達は何処かで必ず共通認識の世界に、超えられない「一線」の上に回収されることとなる。しかし、もしもそれをあるがままに受け入れたとしたら、こちらの性質 - 差異は失われ、よってこちらに特有の喜びも悲しみも失われる。それは最早生きながらにして死んでいるようなものだ。ならば、私達は絶えず「一線」に挑み、線をまたごうとする必要がある。そう、つまり主体化するということだ。


 黒澤明は、別に一番好きな監督というわけではないのだが、何だかんだ彼の映画は二十作以上観ている。ここまで観てきた理由は主に二つある。一つは国内の(しかも国際的に名声のある)監督であるため、レンタルショップに行けば大抵の作品が揃っているからである。もう一つは、どれを観ても基本面白いからだ。こうして彼の映画をよく観るようになったのも去年の十一月以来だが、驚くべきことに、今日まで観た二十二作の中でつまらないものが一つもない。どれも単純に娯楽作品として優れている。これは凄い事だ。だからいくらでも見れてしまうというわけだ (かと言って、本当に凄く好きな監督というわけではないのだが)。

 先日、彼の『赤ひげ』を観た。内容としては、駆け出しの若い医者と「赤ひげ」と呼ばれる熟練の医者の二人を中心に話が進む。で、その中盤に、ある一人の (十二歳くらいの) 少女が登場する。既に両親のいない子供で、路頭に迷ったところを売春宿で買われたのである。赤ひげが見回りの診察で訪ねた時には、少女は虐待を受けながら、酷い高熱に苛まれていた。赤ひげは無理を言って少女を自分の診察所に連れていくことにし、熱で倒れた彼女を背負いながらそこを出ていった。そして出ていく途中、彼は連れの若い医者にこう言うのである。「なんのためにこんな子供がこんなに苦しまなければならないのか」と。

 私は泣いた。一つはその通りだと思ったからであった。それはまた過去の自分に対する憐憫でもあった。自分が苦しかった時、こんな風に自分を助けてくれる人など何処にもいなかった。よってこの涙は自分の失われた少年時代が償われるような気がしたから流したものであった。しかし、それだけではなかった。やがてこの少女の心身を看病する場面が続く。度重なる不幸のために人を信じられなくなった少女は、自分にやさしくしてくれる人に対してさえも辛く当たる。そして決して心を開かない。しかしそれでも赤ひげ達は諦めずに看病を続ける。私はまた泣いた。これこそ人間のあるべき姿だと思った。本来、私達はこれくらい偉大で、立派に生きることだって出来るはずだった。そして、このような感動は、同時に自分に対する恥じらいを胸に呼び起こし始めた。

 私は恥ずかしかった。大して不幸でもないくせに、不幸そうな面をして生きている自分が恥ずかしかった。確かにかつて、私は何らかの苦労を負った。しかし、『赤ひげ』に出てくるあの少女に比べれば、それも大したものではなかった。なのにいつも、まるで世界で一番自分が不幸だとでも言いたげな顔をして生きていた。そんな自分の傲慢さが許せなかった。無気力に苛まれ、いつまでもくだらない事にいじけている。そんな自分が情けなかった。本当はもっと頑張りたかった。こうしてまた涙を流した。それは悔しさの涙であった。私は悲しかった。自分が情けなくて悲しかった。そして変わりたいと思った。しかし泣いてどうにかなるなら毎日泣き喚いているに違いなかった。


 弱き者が強き者に変わる瞬間が訪れる。ロマン・ロランミケランジェロ伝の中でそう書いている。それはいつ訪れるのか。そう、何らかの創造行為に携わっている時にだ。優れた恋愛映画や、またはフランスの心理小説などを読んでいると、時折驚くことがある。つまりそこでは、嫉妬という本来醜くて見苦しいはずのものが、美しいものとして見事に昇華されているからだ。別れについても同じだ。本来重く苦しいはずのものが、そこではより喜ばしいものとして軽やかに肯定されている。まさに弱き者が強き者に変わる瞬間が訪れているのである。

 私はそういった瞬間を信じている。何故なら、文章の上では立派なことを沢山書いているが、実際の私は意志薄弱で、もろく、神経質で無気力な、そんな弱い人間だからだ。しかし、このような弱き者でも、必ず強き者に変身できる瞬間が訪れる。そう信じることで、自分を慰めているのである。