21/02/01

 あらゆる力は別の力との関係にある。ひとつの力の大きさは、それと比較すべき他の力がなければ規定し得ない。また、力とはそれが行使された時にのみその存在を感じることが出来る。たとえば画家が自分に絵を描く才能 - 力があるのを感じるのは、彼がパレットを持ってキャンバスに向き合っているときである。よって、力は行使されることを求める。それは絵を描くことによってしか得られない喜びがそこにあるからでもあるし、行使されなければそもそも力があるのを実感出来ないからでもある。

 その一方で、自分の力を外に溢れさせることは、常に他者との問題を生じさせることとなる。画家は自分の能力を満たすために絵を描くが、その絵は描かれた時点で自分以外の人間に見られるように出来ている。表現するということ、自分を外の世界に表すということは、そのまま誰かに影響を与えることを、誰かに加害することを意味する (あらゆる影響は不道徳なものである)。たとえば目の前に異性がいて、何故かは知らぬがその人がこちらに好意的であったとしよう。その時、私達は目の前の相手に力を有しているとも言える。そして、目の前の相手を誘惑し、自分の内に引き入れることで、自分の力の存在を感じることも出来るだろう。しかしその時、この力を行使した責任が生じることとなる。もしその責任に相応の態度を取らなければ、私達は罪ある者として責められるだろう。

 こちらにとって優れているように見えるものとは、いつもこちらに悩むことを強いるものだ(たとえそれが実際に優れているわけではないにしても)。たとえばなにかの本に出会って、その本の魅力に惹かれたとしよう。その時、私達は自ずとその本の内容について考え、悩まなければならなくなる……そう、何かに惹かれるとは何かのために苦しむことだ。思考は暴力を振るわれることではじめて機能するようになる。それはこちらに考えるよう強いるものに出会った時に始まる。言い換えるならば、相手にその気がなくとも、こちらがそれを感じ取ったなら、自ずと考えざるを得なくなるのである。逆の場合も同様だ。こちらにそのつもりがなくとも、または相手にそのつもりがなくとも、喜びからしたはずのことが、他者を悲しませることに繋がる。その時、果たして人にその事実を受け入れるだけの(耐えられるだけの)心があるのか。そこが問題となってくる。


 真実とは常に時間の真実である。人は空間の中で運動するというよりかは、むしろ時間の流れを通して運動することを強いられる。動く(運動する)とは変化するということだ。そして、一つのものが変化するのは、それを構成している他のものたちが失われることを意味する。あらゆる真実が時間の真実であるのはそのためだ。ある時には存在していたものが、別の時にも存在しているわけではない。もしこの世に永久不変の真理があるとすれば、それはある一定の構成関係(時間の流れ)の中では間違いなく存在する、というに過ぎないのである。

 今存在しているものとは、かつて存在していたもののことを指す。私達が真実を発見するのは、いつも止まった時の中だけである。人生を美しいと感じるのもまた、時の流れが止まっていると錯覚した時のみだ。

 永遠。人は何故永遠に惹かれるのだろう。それは変わってしまうものに傷つけられたことがあるからではないか。語弊を恐れずに言うなれば、人間には時を止める能力が備わっている。時間の流れ、それは本来際限のない、終わりもなければ始まりもないものである。しかし私達はそれに一日、一時間、一秒と区切りをつけ、物質であるかのように(留めることの出来るものであるかのように)時間を扱う。知性は物事を細分化する。知性は物質を切り分ける。だから人間は時の流れを止めることが出来るわけだ。

 対して、実際の時間は今この瞬間にも流動し続ける。そして、私達が気が付かないだけで、時間の流れと共に、私達自身もまた変化することを強いられる。時間は人に変化 - 運動を強いるわけだ。では何故そのような変化に人は傷つけられるのか。それは変化が喪失を意味するからではないか。前述の通り、あらゆる真実とは時間の真実である。言い換えるならば、「その時」を失ったのなら、もはや真実と呼ばれていたものは真実でなくなり、私達の手元から立ち去る。よって、人が変わるのを実感するのは、常に何らかの喪失を体験した時でもある。そしてこの感覚が人を傷つける。何故なら、そこにあったはずのものが、今はもうないからだ。また、その事実は人を不安にもさせる。今目の前にあるものも、次の瞬間には失われているかもしれないからだ。変化は人を不信にする。喪失の体験は、人から信頼を奪うのである。

 こうして人は変化を悪とみなし、変わらないものを、永遠を求めるようになる。そして永遠を求める時、人は感覚をも憎み始める。何故か。感覚ほど移ろいやすいものはないからだ。感覚が機能するのは、外部にあるものに触発された時のみである。そして外部からの影響なしに人は自己を形成できない。また感覚を憎むということは、身体を憎むということでもある。何故なら、感覚は常に身体に属しているからだ。私達が何かを感じ取る機能は、どれも身体に属しており、だからこそ直観的な気づきは常に曖昧である。絶え間なく触発される身体と、動き回る感覚 - 感情。それに振り回される人間。それが苦しくて仕方なくなる (ロマン派が死に憧れる理由もここにある。死とは永遠に変わらないもののメタファーなのである。硬直した時間、完成された時、すなわち永遠……)。

 こうして肉体的なもの断罪が始まる。そして肉体が裁かれる時、知性が祭壇に祀られる。知性は物事を細密に分析し、切り分けることができるから、時間の流れを止めることができるから。人はよく次のことを誤解している。つまり、知性とは真実を発見するためにあるのではない。それは何よりも嘘を発明することを求めるのだ。変わらないものを、自分を傷つけないものを、つまりは永遠を……。

 しかし、このように知性について語るならば、私達はまた次のことをも語らねばならない。つまり、知性は遅れてやってくるということだ。

 人が思考を始めるのは何故か。意志によってそうするのか。否、思考するよう強いられるような出来事に直面したからだ。思考は暴力を行使された時に初めて機能する。そしてその出来事 - 暴力を感じ取るものとは何か。そう、感覚である。感覚がいつも人に何かを考えるように強いる。こうして知性は拡大されていく。だからといって感覚的な気づきにすぐ人の考えが追いつくわけではない。だから知性はいつも遅れてやってくる。身体に属する、曖昧模糊な感覚的な気づきを、知性が回収する。あの時はわからなかったが、今ならわかる。そんな出来事が誰にもあるに違いない。私にもある。しかし、「あの時」にその真実に気が付かなかった理由は、何も思考が感覚に追いつかなかっただけではない。前述の通り、知性は嘘を発明するものだからだ。嫉妬を例にとってみよう。嫉妬の気持ちから、誰かに対して苛立ちを感じる。憎む。しかしその事実をそのまま受けいれたのでは、こちらが惨めになる。よって、この感覚に傷つけられないよう、他に相手を嫌いになるための理由を発見しようと努める。すると、知性が相手の粗をあぶりだしてくれる。知的な人とは臆病な人のことを指す。彼は自分の感覚に対して臆病なのである。リルケの詩に次のようなものがある。「ただ一つの不安がまだ私の頬をほてられせています、私は感情が怖いのです……」


 虚構が現実を転覆している。否、虚構が虚構によって塗り替えられていると言ってもいい。上の考えを徹底するなならば、そのような事に気づいてもいいのではないか。

 たとえばニーチェは、変化し続けるもの(生成するもの)を断罪する西洋哲学の伝統に対して、変化 - 生成を喜ばしいものとして肯定した。で、この変化 - 生成への肯定がニーチェ由来のものだとすれば、ニーチェが登場する十九世紀後半まで、プラトン以来の哲学者達は皆二千年以上も「永遠」という虚構を求めて (またそのような虚構に突き動かされて) 生きてきたということになる。二千年だ。人は約二千年ものあいだ騙されていたのである。これは凄いことだ。まさに虚構が現実を覆している。それだけではない。虚構が現実と競合し、現実をつき動かし、現実を塗り替えているのだ。それを生み出したのは何か。偉大なる人間の偽なるものの力能だ。

 フェリーニの映画を例にとってみよう。彼の映画にはよく幻覚や白昼夢の描写が現れる。それだけでない。登場するキャラクターの名前がそれを演じる役者と同じであることも少なくない。『甘い生活』におけるマルチェロ、『8 1/2』におけるクラウディア、『魂のジュリエッタ』におけるジュリエッタ。そのほか占い師や手品師など、虚構を扱う仕事をする人間がよく登場する。これが意味することは一体何か。そう、彼の映画においては、虚構が現実と競合しているのである。夢や幻覚、空想が現実を侵食する。

 『カビリアの夜』では、催眠術をかけられた主人公が、その影響で、それがとけた後にもこれまでとらなかったような行動を取るようになる。催眠術 - 虚構の影響で、彼女の今後の人生が変わる。この描写が意味するものとは何か。虚構が現実を突き動かす第二の現実として機能しているということだ。私達にしても、たとえば気がかりな夢を見て、その面影を現実に求めてみたりする。または何らかの物語に触れた時、まるで自分がその物語にでてきたキャラクターであるかのように、自分をその物語に寄せて考える。この時、夢や幻であったはずのものが現実を突き動かしている。

 フィクションの能力。あるものの定義とは、本来それと似通ったものとを比較することで生じる。よって比較することの出来ないこの世界、またはこの世界を捉えるこの意識は、フィクション以外の何ものでもない。人が嘘を憎む理由は、その嘘が自分を上手く騙してくれないからである。言い換えるならば、もしそこに私達を上手く騙してくれる嘘があるなら、私達はそれに喜んで騙されたいと願うだろう。そして、もし感覚を憎む人がいるとするなら、それは感覚がこちらを騙してくれないから、常に新しい真実 - 現実の介入をこちらに許すからである。だから知性は嘘を発明する。この世界で最も知的な人間とは、それだけ嘘をつくのが上手い人間のことを指す。たとえ突拍子もない意見であろうとも、それが理にかなっているように見えるならば、その時、その意見は真実として、真理の発明品として世に受け入れられるようになる。フィクションとしてのこの世界においては、より嘘のつける人間が天才として持て囃される。


 ベートーヴェンは時間の真実を生きた作曲家だと言える。その作風は時期によって異なるが、そこには常に他には聴けない(彼の作品でしか楽しめない)響きがある。しかし、もしクラシックを普段聴かない人が彼の「月光ソナタ」とピアノソナタ第三十番を聴き比べたなら、誰もその二つが同じ人の作品だと思わないだろう。だから彼の創作はその瞬間瞬間を、その時々を生きたものだ。もしその時々の強度にしたがって作曲するならば、自ずとかつてと異なる音色が溢れ出るのは当然である。

 ショパンベートーヴェンを嫌っていたのは有名である。実際、彼の美学はベートーヴェンのそれと対をなす。ベートーヴェンは時間の真実を生きたが、それは言い換えるならば、彼は変容し、自己を拡大することを肯定したのである。対してショパンは、あくまで自分の様式の完成を求めた。それは不変の(または普遍の)美を求めたということでもある。ショパンの音楽はその美しい旋律で有名だが、しかしそこに不協和音が多分に用いられていたり、斬新な和声感覚が備わっていたことでもよく知られている。しかしその一方で、ショパンは前衛を嫌った。ロマン派の全盛期を生きたが、彼自身はロマン派的な表現を嫌い、自らの曲に題名をつけることもなかった。ショパンからすれば、様式の破壊と拡張を求めたベートーヴェンの音楽は、あまりにもうるさく、品がなかった。それは自分を褒めたシューマン(革命的であろうとしたシューマン)にも言えた。彼は「新しい」作曲家であろうとしなかった。ただ自己の様式を深めることだけを求めた。偏執的に変わらない美を求め、完成された時の中に入ることを求めた。だから彼の音楽には夢想的な美しさがあるわけだ。


 ドゥルーズは私の青春だった。最近ふとそのことに気がついた。三百六十五日、ほぼ毎日ドゥルーズの本を読んでいる。来る日も来る日も、夢中になって彼の本を開き、その事ばかり考えている。本は私を知らない世界に連れて行ってくれる、私を知らない風景へと連れ去ってくれる……何かに夢中になって自分を忘れる喜び。色んな思いを巡らせる。時にはそのために悩み苦しむこともある。そう考えてみると、ああ、ドゥルーズは自分にとって青春だったのだと気づくのである。

 私は別に、大して哲学書を読むわけではない。今日まで夢中になって読んだ作家にしても、ニーチェドゥルーズ、それにパスカルくらいだ。ニーチェもまた私にとって青春だったと言える。しかしそのことに気づいたのは、私のニーチェに対する熱がある程度冷めてからである。今でもニーチェを愛してはいるが、しかしかつて私の前に現れた「ニーチェ」という異常な現象は最早存在しない。それは日常の一部と化してしまった。

 青春、それはいつも終わった頃に初めて気づくものである。だから「ドゥルーズは私の青春だった」と気がつくことは、もしかすると私のドゥルーズ理解があと少しなのかもしれないということでもある。もとい、そうだったら嬉しいのだが。


  今日までに見てきた映画の中で、特に見てきた監督が二人いる。ゴダール黒澤明だ。しかし、実をいえば、それは偶然そうなったに過ぎない。つまり、私は別にその二人が(好きには好きなのだが)特別好きというわけではないのだ……。にも関わらずよく彼らの映画を観る。週に一度は必ず観る。それは何故なのか。それを理解するために、一旦彼らの良い点と悪い(と思われる)点を考えてみよう。

 思考とは論理の運動ではなくイメージの運動である。人は論理を組み立てることによって考えるのではなく、頭の中にあるイメージを複合させることによって考えている。だから思考にはどうしても偏見が付きまとう。ゴダールの映画のどれかを観ている時に、私はそんなことを考えたことがある。

 ゴダールの映画は、面白いというよりかは楽しい。作品に身を浸し、その世界観に酔うというよりかは、作品を体験するとでもいうべき印象がある。脈絡のないカットの連続、突然止まっては突然流れ出す音楽、そして続出する印象的なセリフの数々。ゴダール映画を形成するこれらの特徴は、鑑賞者側を作品の内に引き入れるというか、作品と鑑賞者をむしろ対立させる。それによって、彼の作品はこちらに思考することを強いる。代わる代わるに訪れるイメージの連続が、こちらの思考の歯車を回転させるのである。だから彼の映画は面白いというよりかは楽しい。彼の映画にはアトラクションのような楽しさがある。

 そう、これは言い換えるならば、楽しいのだが面白くないということでもある。実際、同じヌーヴェルヴァーグでも、トリュフォーの撮っている映画の方が遥かに面白い。最近、初めて『恋のエチュード』というトリュフォーの映画を観たのだが、実に素晴らしかった。美しい演出、素晴らしいカット、胸に迫る音楽。本当にいい映画だった。同じ恋愛映画でもゴダールの撮った『軽蔑』より遥かに面白い (『軽蔑』は『軽蔑』で好きなのだが)。後期ゴダールの映画はそんなに多く観ているわけではないが、『さらば愛の言葉よ』など、上に書いたゴダールの特徴をこれでもかというくらいに誇張している。思考とは論理の運動というよりかはイメージの運動である。繋ぎ合わされた数々の断片的な映像と、印象的な言葉の羅列が、こちらの思考を乗っ取り始める。まるで洗脳されているような気分になる。はっきり言って面白くない。しかしまた彼の映画を観てしまう。だから不思議である。

 黒澤明の場合、彼の映画はどれも単純に面白い。面白すぎるくらいだ。その作風はモノクロ期とカラー期でやや異なる。モノクロ時代の彼の映画は、主に人物の運動である。そこでは筋書きに沿って人物が動くというよりかは、むしろ人物が動き回ることで筋書きが見えてくるのである 。だから黒澤明の映画にはシェイクスピアドストエフスキーにも似たものがある。そしてその二人の作家と同様、彼の映画の登場人物もまたよく喋る。人物が動き回る文学には、常に哲学的な側面がある。作家の言いたいことをキャラクターが代弁する分、キャラクターの運動が中心になるのである。だから黒澤明の映画は文学的かつ哲学的である。

(この性質は、哲学的ではないにせよ最近の漫画にも言えることだ。作者が書きたいものを書くために物語を必要とする。すると物語は自ずとある人物と別の人物の揺れ動きになる。それぞれのキャラクターが、作者の妄想や願望の象徴となるわけだ。で、恐らくシェイクスピアドストエフスキーの現代性もここに一部ある気がする。)

 一方、カラーになってからは、そのような性格が後退する。カラー映画がいつ登場したのかは知らないが、確かヒッチコックは一九四八年に『ロープ』というカラー映画を撮っている。黒澤明が初めてカラーで撮ったのは一九七〇年だから、少なくとも彼は二十年以上モノクロにこだわっていたということになる (モノクロ映像が時代遅れだという考え方は誤りだ、そこにはこだわりを持つだけの良さがある)。そしてカラーになって以降は、カラーのよさを強調したような作品が多い。『デルス・ウザーラ』や『影武者』がそのいい例だ。非常に鮮明な映像美を味わうことが出来る。しかしその分、かつてモノクロ時代に見られたあの人物の運動は、あまり見られなくなる。

 では、彼の映画で好きになれない点は何処かとなれば、それは次の点に尽きる。つまり、黒澤明の映画はあまりに男性社会的な価値観が強くて、そこに共感出来ない。黄金期の彼の作品を観ると、その大体が師弟関係や男の友情を主軸に置いたものである。で、それに対比するように、女性の描かれ方があまりよくなかったりする。『羅生門』と『乱』が特にひどいと思う。何か女絡みで嫌なことでもあったのかと勘ぐってしまう。権威主義的なところも少し違和感がある。基本的に社会的正義(警察や医者など)の側に立つものが主役であり、社会の犠牲者とも言うべき犯罪者側には (同情的であれど) 否定的である。あとは、彼の映画がややアメリカっぽすぎるというのもある。『スターウォーズ』や『ゴッドファーザー』にも影響を与えた黒澤明だが、彼自身もアメリカ映画の巨匠ジョン・フォードを終生敬愛していたらしい。フランスやイタリアの映画には絵画的とも言える美しさがあるが(同じ日本なら溝口健二の映画にもある)、黒澤明はその点、映像表現が大胆すぎる。まあ、そこも彼のいい点だと言えばそうなのだが……。