21/02/09

 無意味とは意味の不在よりかはむしろ意味の過剰によって生じる。あまりにも意味のあるものが多いので、どれが本当に(自分にとって)意味があるのかわからなくなるのである。

 サディストは純粋理性を好む。サディズムが求めるのは他人に(そして自分にも)発明した論理を押し付けることだ。では何故そのような傾向にあるのか。それはサディストが否定することを求めているからだ。しかし何を否定したいのか。そう、サディストは一般性 = 自然を否定することを求めている。サディズムの快楽とは、決して他人を痛めつけることによって得られるのではない。そうでなくて、一般的とされているもの(自然だと思われているもの)を否定する(踏みにじる)ことによって得られる。サディズムとは否定の欲動なのだ。

 だからサディズムは一般性 = 自然を転覆するために、純粋理性を好む。暴力的な論理によって (推論を押し付けるとは本来暴力的な行いである) 非論理的な自然 = 一般を否定しようとする。それを踏まえるならば、「悪を犯してその背徳感に酔う」というのはサディズムの本質に反する。サディストが悪に対して抱くものとは、陶酔でもなければ嘲笑でもなく、無感情であるからだ。感情とは私達にとって「自然」なものであるが、しかしサディストが最も否定したいものはそれである。サディズムの倒錯は性の否定にある。もしサディストがみだらな行いに耽るとすれば、それは性的な喜びのためではなく、自らの暴力的な論理を実証 = 実践するために(そしてそれを喜ぶために)する。サディズムと背徳の喜びは決して交わらないのである。

 このように、サディズムの本質は力を押し付けることにある。しかしそれは、力を押し付けることによって自らの力 = 論理の絶対性を証明したいからである。だからサディストには何処となくファシズムの面影がある。

 対して、マゾヒズムの本質はその美学趣味にある。マゾヒストは服従することによって相手を支配しようとする。何故なら、マゾヒストは自らの理想の犠牲者を求めているからだ。マゾヒストの相手をする側は、だから自ずとマゾヒストを調教する支配者になるよう「教育」される。サディズムが否定の欲動であるのに対して、マゾヒズムは否認の欲動である。ではそれは何を認めたくないのか。そう、現実を認めたくないのだ。

 マゾッホ論の中で、ドゥルーズマゾヒズムフェティシズムの関連性を指摘している。人が嗜好(フェチ)を見出すのは何故か。それは自らの性の基準点を見出したいからではないか。フェティシズムとは、現実で不愉快な性の現実に直面した時、自らが立ち返る場所となるためにある。それは心象風景の内にある静止したイメージなのだ。だからフェティシズムは本質的に現実の性(普通の性)を否認する。そして現実への否認はいつも理想への逃走を生む。こうしてマゾヒズムが生まれる。相手の身体が、自分の理想とする世界を想起させる……マゾヒストが求めているのは現実から理想への逃避である。自分の認めたくない現実から逃れ、誰かに服従することでその理想を実現しようとしているのだ (ドゥルーズはこのようなマゾヒズムの性質を「宙吊り」と表現した。マゾヒストは現実から「宙吊り」になることを求めている……)。

 だからマゾヒストは契約を求めようとする。誰との契約か。そう、自らの犠牲者となってくれる相手、自分を調教してくれる相手とのだ。

 サディズムの語源になったサドの小説には猥雑な描写が多々現れるのに対し、マゾヒズムの語源となったマゾッホの小説には殆どそれが見受けられず、むしろ気品に満ちた描写さえ見られる。その理由はここにある。そしてサディズムマゾヒズムがどうしても性質上相容れない理由もここにある。サディストが求めるのが論理の押しつけであるのに対し、マゾヒストが求めるのは現実から宙吊りになることだからだ。現実への攻撃 = 否定がサディズムの欲動であるのに対して、マゾヒズムの欲動は現実からの逃避 = 否認である。マゾヒズムは契約を求めるが、サディストはむしろ契約を放棄することを求める (何故ならその行い自体が自然の否定であり、契約の放棄は力の押しつけに他ならないから) 。

 よってサディストとマゾヒストを混合して考えるのは間違っている。では、そもそも何故このような混合が見出されるのか。確かに、サドの小説には攻撃者側が攻撃される側に回ってそれを楽しむ場面があるし、またマゾッホの小説にも調教される側がサディストに至るシーンがある。これを一体どう説明づければいいのか。それについて、ドゥルーズは次のように語っている。つまり、サディズムの裏にはアイロニー(本質を隠し表面的な態度を取り繕うこと)があり、マゾヒズムの裏にはユーモアがあるというのだ。

 サディズムの話に戻ろう。サディストは純粋理性を好み、自らの論理 = 力を押し付けることによって、その絶対性を実感することに快楽を見出す。だからサディズムとは否定の欲動である。そして、もしこの否定の欲動が満たされたのなら、サディストは否定への執着が和らぐのを感じる。サドの小説には、思い描いていた犯行を実行してみても、現実だとそれが案外ちっぽけに思えて憤慨する、というシーンがある。まさに彼は否定したい一般性 = 自然を否定し切れずに歯がゆい思いをしているわけだ。しかしもしそれが徹底されたならば(否定が完了したならば)、もっと冷めた態度でそれに向き合うことが出来るのではないか。言い換えるならば、もし思う存分「否定」することが出来たなら、「否定」への執着も和らぐのではないか。サディストが攻撃されるのを求めるようになるのを、彼が罪責感を償おうとしているのだと捉えるのは誤りだ。むしろサディストは贖罪を愚弄するために罰を受ける。そう、アイロニー(無知な振りをすること)である。そしてそこにもまたサディストは否定の勝利を見出すわけだ。

 それに対して、マゾヒズムは贖いを求めている。マゾヒストが服従する理由は、服従することで自分を受け入れてくれる場所を見出したいからだ。マゾッホの小説には三人の女性像が登場する。一人は官能的で、性に奔放な女性である。もう一人は理性的かつ攻撃的な、サディストの女性である。そして最後の一人は、その二人の女性から「宙吊り」になった女性、マゾッホの理想とする女性である。冷淡にこちらを叱るが、しかしこちらを愛し受け入れてくれる相手。マゾヒスト達は、このような相手に罰されることで、自らの精神の安定を、罪の許しを求めているとも言える。現実から逃れ、理想の世界で贖われることを求める。マゾヒズムの美学趣味が発揮される瞬間がここにある。よって、もしマゾヒストが攻撃的に(サディスティックに)なる瞬間があるとすれば、それはその人の罪が贖われたと(自らの存在が受け入れられたと)充分に感じた時であろう。贖われたマゾヒストは、今や自分を攻撃した相手と同じように誰かを攻撃していいと思えるようになった。こうしてマゾヒストのユーモアが発動する。そう、マゾヒストは攻撃されるだけでなく、攻撃することも楽しめるようになったのだ。


 事件はいつも複数の人間が出会うことによって生じる。正確に言うなれば、事件が起きるのは複数の人間の差異がぶつかり合う時だ。つまり、事件とは決して一人の手によって生じることがないものである。

 溝口健二に『近松物語』という名作がある。それを少し例にとってみよう。日常生活、それは互いが互いの本心を隠すことによって成り立つ。生活の真実は、こちらが口にした言葉よりも口にしなかった言葉の方にあると言える。それと同じことは上の映画のキャラクター達にも言える。やがてある時事件が起きるのだが、それを通して各々が隠していた真実が表出するのである (または「各々の抱えているものが表出せざるを得なくなったから事件が発生する」とも言えるだろう)。

 『近松物語』における第一の事件は、主人公が勤める屋敷の主人の妻(ヒロイン)が、主人公に金を借りようとすることから生じる。そして主人公は屋敷の主人に金を借りようとして失敗する。こうして事件が生じるが、一つの事件は、常に第二第三の事件に関連がある。第一の事件を通して、先ずそれぞれのキャラクターが今日まで隠していたものがあらわになる。それによって更に次の事件が起こる。結果として、主人公と屋敷の妻は屋敷を追われることとなる。

 しかし日常に介入した事件は、必ず日常に回収される運命にある。二人が屋敷を出ていった後も、何やかんや屋敷の生活はこれまで通り続いていく。しかし事件が何故「事件」と呼ばれるのかとなれば、それは事件が日常に対する非日常の介入、一般性に対する特異性の侵入だからだ。よってそれを取り繕うために見出される日常生活とは、(元通りになったように見えても) 既に以前と同じ生活ではない。事件の後、屋敷の主人は以前よりも追い詰められている。一方、主人公とそのヒロインもまた追い詰められていた。そして二人は自殺することを決意する。死の間際、主人公は秘めた本心を白状することを決意し、ヒロインに愛の告白をする。自分の雇い主の妻であったが、自分は以前からヒロインを愛していたと。それを聞いてヒロインは泣き崩れる。そして「もう死ねない」という。何故なら彼女は生きる理由を見つけてしまったから。

 しかしいつまでもこの逃避行を続けるわけにはいかない。やがて二人は捕えられ、二人一緒に死刑に処される。前述の通り、事件は常に起きたとしても回収される。彼らは死をもって日常生活に回収されたわけだ。屋敷の主人もまた不正のために屋敷を追い出される。こうして映画は終わりを迎えるのである。

 この「日常に回収される特異性 - 事件」の現実は、私に『千のプラトー』以降のドゥルーズのことを思い起こさせる。『千のプラトー』において、ドゥルーズはそれまでとは異なった思索を始めた。元々、彼の思索は(『差異と反復』に顕著であるように)潜在的なもの(私達の無意識にあるもの)への考察を徹底させることにあり、また潜在的なものがいかに現働化(ドラマ化)させるかを考えることにあった。しかし『千のプラトー』以降、ドゥルーズは現働的なものが潜在的なものに与える影響についてを 考えるようになった。この方向転換は、一体何故起こったのか。

 ドゥルーズは潜在性(内在的なもの)への考察を徹底づけることで、自らの思索を基礎付けたと言える。私達が何らかの行動をする時、その裏では何が働いているのか。彼の哲学の第一の命題は、それを論理的な思考によって解明することであった。では何故それを解明する必要があったのか。それは物事を奥深くまで見据えることで「思い違い」をしないようにするためだ。ドゥルーズはよく自らのヘーゲル嫌いを公言する。そして彼がヘーゲルを嫌う理由もここにある。ヘーゲル弁証法は変わらない自己同一性 - 主体を前提としているが、しかしそもそも変わらない自己同一性 - 主体など存在するのか。そして、もしそれが存在しないならば、ヘーゲルは机上の空論で(まさに「思い違い」によって)自分の哲学を展開していたことになる。もし理論が机の上から出ないから、その理論はあってもなくても同じだ。だからドゥルーズ潜在的なものに目を向ける。私達の実在の奥底で何が働いているのか。それを見極めることで、彼は自らの哲学のリアリティを高めようとするわけだ。

 こうして見出されたのが『差異と反復』の理論である。人は常に変動し続けるものだ。今の自分についてを知るためには、自ずと今日までの自分を省みなければならない。だから存在しているものとは常に存在していたものである。がしかし、私達自身は今この瞬間も変化することを強いられる。変わらない真実、それは過去にしかない。人は現在を生きるというよりかは、未来と過去の間を動き続けるものである。ならば変わらない自己同一性などなく、ただ過去の自分に対して差異を産出しつづけるものだけがあると言える。そう考えるならば、差異だけが反復 - 回帰するものだとも言えないか。

 また、一般性とは社会に生きるそれぞれの人々の本性的な差異(他人との違い)を押し潰した上にしか成り立たない。がしかし、私達の人生の主題は、常にそれぞれに固有の苦悩の中にある。ではこの苦悩は何によって生まれるのか。そう、それぞれが根源的に抱えている差異 - 特異性のためだ。もし一般性を体現して生きようとすれば、自ずとそれを押し潰し、自己矛盾に陥って自己を追い詰めることとなる。よってより善く生きることを求めるならば、おのずと自らの差異 - 個性を反復させることが求められる。

 しかし前述の通り、差異 - 事件は起これば必ず回収される運命にある。一般性の欺瞞を指摘したところで一般性は無くならず、ただ一般性に微細な変化が加えられるだけだ (否、一般性の更新とは、常に介入してくる事件のために起こると言える)。また、もし社会を生きるならば、私達は自ずと変わらない自己同一性を前提として生きなければならない (たとえそれが本来存在しなくとも)。そうでなければ他者との世界を生きていけないからだ。よって、潜在性の問題を徹底したならば、次にこのような現実 - 現動的なものを前にしていかにして生きるかを考えなければならない。

 そのようにして見出されたのが、『千のプラトー』以降の思索なのではないか。少なくとも私はそう憶測している。現動的なものの潜在化についてが書かれると同時に、『千のプラトー』以降では「外の思考」という次元がその思索に導入されることとなる。外との出会いが私達の内を変える。新しいものとの出会いは今の自分から逃れる手段を与える。私達の差異は、必然的に回収されざるを得ない運命にあるが、問題はその回収される一般世界からどれだけズレ続けることが出来るかにある。

 しかし、何故そこまで差異にこだわるのか。何故回収されてはいけないのか。それは、潜在的な差異の力が発揮された時こそ、人間が最も偉大になる瞬間が訪れるからだ。科学に芸術、そして宗教。どのジャンルにおいても、私達が偉大な発明をするのは、それぞれが根源的に抱えている差異の力が発揮された時のみである。よって、私達がより善く生きる手段は、常に私達の抱えている差異 - 特異性の中にある。しかしもし自らの差異にのみ生きようとすれば、私達は自ずと社会の外に除外される。そもそも差異の力を発揮することさえ出来なくなる。だから私達は他者の世界に回収されざるを得ない、または回収されなければならない (でなければ他者なき世界を生きなければならなくなる)。しかしもしそれを甘受し続けるなら、私達の内に眠る差異の力も奪われていくだろう。だから戦わなければならない。常に外に向かい、線をまたぎ、一線を越えようとしなければならない。たとえその結果破滅に向かうことになったとしても。


 女性向け漫画によく見られる特徴として、読者の共感を第一にしたリアリスティックな描写が先ず挙げられる。描写をリアルにすることで、読者がその物語を追体験することを可能にし、またその登場人物に自己投影することを可能にする。そういった共感の作用を楽しむことに、それらの漫画の人気の秘訣があると思われる。

 実を言うと私もその手の漫画をよく読む。最近読んでいるのは『明日、私は誰かのカノジョ』という漫画である。ネットに掲載されていて、一日一話は無料で読めるのだ。漫画は章ごとに内容が異なり、今はホストに貢ぐために風俗嬢になる女子大生の話が描かれている。最初は馬鹿にしながら読んでいたのだが、これが結構面白い。なんだかんだ言って毎日読んでいる。で、漫画を読むのと同じくらい、掲載されてるページのコメント欄を読むのが面白い。読んでいる読者の共感の声が沢山募っていて、「なるほど」と思わせるものが多い。普段私が生きている世界とはまるで異なる話をしているので、目に見張るものがあるというか、(変な言い方になるが)「学ぶべきものがある」と思って読んでしまうのである。

 「写実的な描写で悲惨な物語をえがく」とは、古くからよくある表現手段の一種である。ドストエフスキーの小説にしてもそうだ。がしかし、私はドストエフスキーと上の漫画を同列で語ろうとは思わない。無論どちらが優れているという話ではない。ただ、ドストエフスキーの作品には常によりよい世界への希求が込められている。この特徴は、芸術と娯楽の違いとは何かの決定的な秒針になると思われる。

 優れた芸術作品には、常によりよい世界への希求がある。別の世界を求める祈りが込められている。それは決して美しい嘘で人を慰めるという意味ではない。むしろ時には徹底して悲惨な現実を描く作品の中にこそ、そのような理想が垣間見える場合がある。醜悪な現実を事細かに描くことで、「悪」を乗り越えようとしているのだ。そういう意味では、あらゆる芸術はヒューマニズムであることしか出来ないとも言える。虚構は現実と競合する。今までどれだけ多くの人が虚構に突き動かされて生きたか分からない。しかし、もし虚構によって今ある現実を塗り替えたいならば、時にはリアリズムを徹底する必要があるのだ。

 念の為にもう一度書いておくが、だからと言って『明日カノ』が劣っているわけではない。私はあの漫画の大ファンで、毎週金曜に更新されるのを楽しみにしている。それに、上の言葉が綺麗事に過ぎないと言われれば、結局その通りなのである。


 映画のいい点は、受動的であることが許されているという点に尽きる。思考とはそうするように強いるものに出会った時から始まる。小説や哲学書も、確かにこちらの思考を刺激する。しかしその刺激を受けるために先ず本と向き合わなければならない。だから読書には意志の努力がつきものである。その一方で、映画は(もっともこれは音楽にも言えることだが)ただ座っているだけでこちらに情報がやってくる。だから向き合う向き合わないに関わらず、自ずと映画の(または音楽の)世界の渦に巻き込まれていくのである。

 無論、長尺の映画を観るには集中力が必要である。だから結局意志の努力が必要になるわけだが、しかしこちらを惹き込むだけの魅力 - 刺激があれば問題ない。気がつけば三時間以上あったはずの作品が終わりを迎えている。感受するよう強いられたこちらの思考は、この「強いられる」という暴力から抜け出せるまで(または抜け出すために) 動くのをやめない。こうして思考は強いられることによって拡大していく。だから作品が終わるまで私達は目を(または耳を)対象から切り離すことが出来ないのである。何かを理解することは、その何かに感覚を奪われに行くことだ。

 感覚によって感覚を癒す。オスカー・ワイルドの残した言葉の中でもお気に入りなものの一つだ。感覚によって植え付けられた傷跡は、同じ感覚によってしか癒されない。言い換えるならば、一つの苦しみは、それを与えたものに類似したものでなければ癒されないということだ。『ドリアン・グレイの肖像』の中で、主人公ドリアンは「感覚によって感覚を癒す」を実践しようとする。がしかし、実践の仕方を間違えれば、それは一つの音を別の音でかき消そうとしているようなものである。その点を誤解していたからこそ、ドリアンは破滅する。感覚の苦しみは同じ感覚によってしか癒されない。だから思考の苦しみもまた同じ思考によってしか解消されないのである。

 何らかの悩みに直面した時、人はそれを忘れるように他のことに没頭する。確かに忘却とは癒しである。ただ、もしその悩みがその人にとって重要なものであるならば、それは忘れられても再びよみがえるだろう。だからまたいつか同じところで頭をぶつけなければならないわけだ。