21/02/19

 楽器、絵の具、ペン。あらゆる芸術はそれら物質を通さなければ表現されることがない。それは芸術の事実問題とも言うべきものだ。 しかし、ある演奏を録音したテープが必ずしも百年後まで残っているわけではない。むしろ百年前のテープなど、何の手入れもしなければ朽ちて聴けなくなるのが当然である。にも関わらず百年前に録音されたはずの演奏が、その百年後に生きる私達を感動させることがある。しかも当時と同じかそれ以上に。ここには芸術の権利問題とも言うべきものが生じている。

 朽ちて失くなるもの、古臭くなるものを通さなければ自らを表せない事実問題 と、それを乗り越えて永遠に生きようとする権利問題 (時代と無関係にこちらに訴えかけてくる以上、芸術は実際以上に生き延びる権利がある)。あるがままを指し示そうとする事実と、それを常に覆そうとする権利。この対立は芸術が紀元前から抱え続けているものであり、またはこれからも抱え続けるであろうものでもある。


 凡庸な人とはやさしい人である。大抵の人の善良さは、言い換えてしまえばその人の凡庸さの表れである。そういう意味では「世の中に悪い人はいない」という説は正しい。何故ならどんな人も自らの抱える凡庸さから逃れることなど出来ないから。

 一方で、私は心のどこかで「純然たる悪人」とも言うべきものの存在を信じている。もとい、そのようなものが存在して欲しいと願っていると言ってもいい。しかし思うに、たとえそのような人間が近くにいたとしても、私はその人を悪人だとは思わないだろう。むしろ「個性的でいい奴」だと思うに違いない。

 がしかし、そもそも何をもって「悪」と見なすのか。ドゥルーズによれば、スピノザは書簡の中でこんな事を書いたらしい。「殺人が悪なのは、それが悲しみの反動として行われるからである」と。人が誰かを傷つけたいと願うのは、こちらが既に「傷ついている」という意識を持っている場合のみである。だからあらゆる悪は社会的な性格をしている。それは社会に対する復讐としてしか成り立たないのである。無差別殺人は意味もなく無実な人々を死に至らせる。しかしそれはかつて無実であった犯人が意味もなく苦しんだ自分の復讐 - 償いとしてしか行われない。悲しみの目的は他人の喜びを奪うことにある。そしてその目的が生まれたのはかつて自分の喜びが他人に奪われたからだ。

 よってスピノザはこう書く。「もしそこに殺人に対して純粋な喜びを見出す人がいるならば、その人はもはや悪ではない」と。あらゆる悪が社会に対する反動であると仮定するならば、反動的でない(悲しみに基づかない)「悪」は既に悪ではない。たとえその行いが「悪」と呼ばれるものであろうとも、そこには他人の喜びを奪う意図が、漠然と他人に復讐したいと願う意図が含まれていない。だからそれは悪というよりかはむしろ病気(個性、または才能)と呼ぶべきだろう。

 私の思う「純然たる悪人」とは、まさにこのような者である。純粋な悪、無償の行為としての殺人。一般的に見て(そして自分の目からしても)どうしようもなく害悪なのだが、しかし無垢な心からそうしている。だから否定しようのないもの。たとえ人を襲ったからといって、誰が野生の虎を責めることが出来よう?

 しかし結局、この「純然たる悪人」の存在を信じる気持ちも、私の反動的な感情の表れなのかもしれない。人はあまりに惨めな気持ちを味わうと、なにか超人的とも言える悪役に憧れるようになる。別に憧れているわけではないのだが、このような空想に思いを馳せること自体が現実からの反動だと言っていいと思ったから、最後にこのようなことを書き足してみた。


 ときに、人は何故憎まれるのを拒むのだろう?それは孤独を感じたくないからではないか。憎まれるということ、それは相手と自分との間にある相違を感じさせるということでもある。では、それの何がいけないのか。言い換えるならば、それが何故孤独を感じさせることに繋がるのか。それは、この相違の発見がこちらの価値観の揺らぎに繋がるからではないか。

 例えばこちらはなんとも思っていなかったものを、相手が非常に憎んでいたとしよう。その時、こちらは自分の常識に事件が介入してくるのを感じることとなる。自分が当たり前だと思っていたものが、自分以外の人間にとってはそうではない。それを知った時、「では何が当たり前なのか」という不安が生じ始める。不安はいつも疑いと共にある。知識とは何かを疑うことから始まる。それは疑いによって生まれた穴を知性で埋めようとしているのだ。こうして人は憎しみを通して孤独を見出す (または孤独を発見する) 。

 誤解されるのを憎む理由も、恐らくここにある。誤解されるということは、自分の思った通りに自分が受け入れられていないということだ。言い換えるならば、人が「誤解」を見出すのは、他人に与えたい印象を自分が与えられていないと気づいた時である。ここでもまた問題となるのは価値観の揺らぎであり、またそれに伴う不安、自分とこの世界に対する疑い、そしてその帰結としての孤独だ。


 ヒューム、スピノザベルクソンニーチェドゥルーズが自ら影響を受けたとして語るこれらの哲学者には、ある一つの共通した性格がある。それは彼らの著作に見受けられる心理学的とも言うべき記述である。しかしその一方で、だからといって彼らが心理学者であったわけではない。よく知られている通り、ニーチェベルクソンは既存の心理学に否定的(または批判的)であった。それはドゥルーズにしても同じである。彼がガタリと共に行った精神分析批判は非常に有名だ。しかし批判とはいつも同じ領域にいる者の間でしか生まれない。よってその人が何を批判したのかは、そのままその人の性格を理解することに繋がる。

 さて、ドゥルーズの思想はよく「内在の哲学」または「潜在性の哲学」として語られる。しかしそもそも内在とは、 潜在性とは一体何を指すのか。そう、それは存在の裏側では何が作用しているのか(または何が機能しているのか)を探るということである。では彼の哲学において、「存在」という言葉は一体何を意味するのか。人は動くというよりかは動かされることによって生きているものだ。私達の意志が届く範囲とは、私達の理性が既に征服した範囲だと言える。しかしその範囲とは、人が無意志的に突き動かされた結果によって生じるのである。人間が意志の努力で達成出来ることなどたかが知れてる。むしろ人間の本質は常に無意志的なものの中にこそある。

 そして、これこそがドゥルーズ哲学の根底にある考え方である。だから彼は「存在」の裏側を、内在的なものを、潜在性を探ろうする。こうして時と共に変容するドゥルーズ哲学の裏に隠れている第一主題が明らかになる。ドゥルーズ哲学の目的、それは人間の無意志的な側面を、無意識的な領域を探求 - 探索することである。無意識の存在は科学によって実証することが出来ない。それはただ論理的な叙述によってのみ解決が許される。もし私達の存在がこの実証できない領域によって突き動かされているのだとするならば、尚更私達はその領域を探究しなければならない。そう、内在的なものへの、潜在性への問いを発さなければならないのである。

 こうして彼が見出したのが、潜在性とドラマ化の問題である。ここで例えとして時の流れのことを、過去の現在の話を採り上げてみよう。さて、人はよく原因があって結果があると考えているが、それは間違いである。実際には結果こそが先にあり、原因はいつも後になって見出されるものだ。そもそも人はいつ原因を探るのか。それは反省 -内省している時ではないか。ではその時、何を一体省みているのか。そう、過去を省みているのである。そして人が過去を省みるのは、現在の結果をうまく説明できるような原因を見出すためなのではないか。だから結果がいつも先にあり、原因とは遅れてやってくるもの、現在によってでっち上げられるものなのである。

 では見出されるものである以上、原因とはこじつけでしかないのか。否、人は連続する時間の流れを生きる以上、過去があって現在があるのは当然である。ただ、あらゆる真実とは時間の真実である。だからある時には正しかったことが別の時には間違っているという現象がよく起こる。あらゆるものは時間の流れを通して真実を変化させることを強いられる。私達は過去の自分と違う真実を生きる以上、過去の自分は理解不可能な他人であるとさえ言える。だから過去は私達の意識にのぼる時、いつもイメージとしてしか存在しない。否、イメージ以上のものにならないのである。

 こうして潜在性とドラマ化の問題が浮き彫りになってくる。私達の裏には、形のない(または決して形を持つことが出来ない )真実がある。何となく感じてはいたが上手く言えないでいたものを表してくれる文章に出会った時、私達はそれを「自分の感情の真実を発見した」として喜ぶだろう。しかしこの発見は、他人の言葉を借りて得られたものである以上、必ずしも自分の「本当の気持ち」を表したものでは無いのである。形なき真実が (感じてはいたが上手く言えなかった潜在的なものが) 「他人の言葉」という仮面を通して現働化する。ドゥルーズはこの現働化の過程を「ドラマ化」と呼んだ。

 恋愛ドラマを観すぎた女性が、恋人とデートをする時に、自分を表すためにドラマのヒロインの真似事をし始める。彼女は自分の知っている物語に寄せることで自らをドラマ化しようとしている。この世においては仮面が先にあり、真実はその裏に隠れることしか出来ない。現世とは仮面劇の舞台である。人は仮面を通さなければ潜在的なものを現働化することが出来ず、知っているものに寄せなければ自分自身を表すこともできないのである。

 ドゥルーズガタリ精神分析を批判した理由もここにある。無意識は劇場ではない。しかし精神分析は決まった型に当てはめることで患者の無意識を説明しようとする。あたかも無意識が同じパターンの劇しか演じていないかのように。しかし無意識の在り方が人それぞれ異なる以上、決まった型に皆が当てはまるわけがない。ドゥルーズはかつてこう書いた、「大切なのは答えを出すことではない、いかに問題を設定するかである」と。思弁的に言えば、どんな問題も設定されれば必ず答えが出るように出来ている。ならば答えがもう出ているのに、いつまでも同じところに頭をぶつけてばかりいて、入りこんだ迷路から抜け出すことが出来ない。そんな状況が発生するの何故なのか。それはそもそも答えが間違っているのではなく、問題の設定が上手くなされていないからである。これと同様のことは病気にも言える。答えを得ているはずの患者が、いつまでも同じ苦しみばかりを口にするのは、その答えが間違っているからではなく、そもそも問題の立て方が間違っているからだ。

 そして問題を立てるためには、先ず現状を見極めなければならない。しかし大抵の心理学や精神分析は、先に公式があって、現実がそれに当てはまるように(服従するように)機能している。そう、患者は皆自分の病を心理学や精神分析のテンプレートに当てはめるよう演技をしている……。それでは不正解の答えしか得られないのは当然だ。大切なのは現状を見極め、それに応じて公式を援用し、時には新しい公式を編み出すことなのだから。

 ドゥルーズはやがて、間違いなく今とは全く異なった評価の仕方で捉えられるようになる。物事の評価は常に時代の変化と共にある。いま正しいとされているものが、明日もまた正しいわけではない。だからそれは当たり前のことなのかもしれない。しかし、やがてドゥルーズの真価が確かめられる日が来る。必ず来る。その時、彼は今とはもっと別の呼び方をされるに違いない。そう、「やがて世紀はドゥルーズのものになる 。」

 それは立ちのぼる暗雲から落ちる雷(いかずち)にも似ている。やがて雷は既存のものを焼き滅ぼし、自然が新しい世界を形作ることを可能にする。反現働的なもの、反時代的なものが、その生きた時代を乗り越えることで真価を発揮する。私はそれを知っている。何故ならこの思想の持つ強靭な力をも知っているのだから。


 暗がりは落ち着く。あまりにも明るい灯りは、照らされているとめまいがしてくる。青白い光が私を揺らす。頭がクラクラして、自分が生きているのか死んでいるのかもわからなくなる。こめかみが痛む。ああ、「気が狂いそう」とはまさにこの事だ。

 冬の光がきらめく昼下がり。私はある公園を歩いていた。同じ灯りでも、照明のそれと太陽のそれでは何故こんなにも違うのだろう。あきらかに後者の方が浴びてて気持ちいい。柔らかな美しい日差しの下、私はドビュッシーマーラーを聴いていた。風の冷たい一日だった。寒風が私の体にまとわりついた。人をもの寂しくさせる寒さと、悲しくなるくらい優しい陽光の温かさ、そして穏やかな公園の風景。その中を歩く自分の姿に気づいた時、私は泣き出したいような気がしてきた。

 本当に美しい瞬間に出会うと、目の前に映る全てのものがスローモーションに見えてくる。それはこの世の全てを肯定したい瞬間でもあるが、同時に胸が張り裂けそうな苦しさに襲われる瞬間でもある。ああ、時よ。この美しい瞬間よ。私をお前の中に閉じ込めてくれ 。