21/03/09

「……だからシャトレにおいて唯一承認に耐える心理学があるとすれば、それは政治学であるだろう。何故ならわたしは絶えず「我」自身との間に人間的関係を創造し直さなければならないからである。(…… )打ち勝てない病におかされた時、重要なのは病を " 経営すること geret " であり、病に人間的関係を投射していくことである。」

 人は本来、自分が思考するべきものを、思考のモデルを所有していない。ただ何かに出会い、何かが思考を強制する時にのみ、思考は開始される。そういう意味では、知性はいつも遅れてやってる。それは初めから私達に与えられているのではなく、思考に暴力が振るわれた後に、後からやってくるものである。私達の意志とは本来無意志的なもの反動として生じるものなのだ。

 人が会話を交える時、その裏には決して口にはされない暗黙のルールが潜んでいる (会話中の二人がそれに気づいているかどうかは問題ではない) 。一般的な会話とは、互いの間に共通するものをでっちあげ、その共通項に基づいて行われるものだ。しかし、人の意識とは本来閉じた部屋のようなものである。それは決して開かない窓から外の景色を伺うことによってしか他人を知ることが出来ない。

 このような意識の断絶を考慮した上で感じるのは、日常生活に対する違和感である。私達の意識は本来他者へと開かれていない。どんなに似通った人の間でも、一つのものに対して微細なりとも捉え方の違いがある。にも関わらず一般会話は、私達が「同じ人間」であり、あたかもそこに意識の断絶がないかのように振る舞うことを前提として成り立つ。もしそのような一般会話の先に友情があるのだとしたら、友情とは偽のコミュニケーションだとも言える。

 それに対して、恋愛はコミュニケーションを放棄する。共通認識をでっち上げることが求められる以上、友情は意志を行使し、他人を気遣わなければ得られることがないものだと言える。そして共通認識の正しさを確固とするためには、先ず互いを信頼する必要がある。よって友情とは意志と理性、そして信頼の産物である。しかし恋愛は、まさに互いに異なるものを互いの内に見出し、それに惹かれるからこそ生じるものだ。

 だから恋愛は偽のコミュニケーションとしての友情を放棄することから始まる。そして自分とは異なる相手の世界を読み取るために、相手の言動の全てを、その一字一句を暗号化する。そうして相手の裏にある真実を読み取ろうとす。だから恋愛の最中にいる人は、相手を愛すると同時に相手が信じられなくなる。愛が反復される時、破局もまた反復される。相手の言動を解釈すべきものとして捉える以上、私達は相手への信頼を放棄しなければならない。また、その上で相手と関わる以上、相手に対して不安を感じずにはいられない。しかしそれでも相手と関わるのは、相手のうちに自分にはない世界を見出しているからである。だから相手に執着せざるを得ない。友情が意志と理性、そして信頼の産物であるならば、恋愛は執着と疑い、そして不安の産物である。

 恋愛は嘘と密接な関係にある。何故ならこの執着 - 疑い - 不安の連合は、片方だけでなく(恋愛の内にある)両方に言えることだからだ。私達は誰かを愛するほど嘘をつく傾向にある。正直な人とは、それだけ他人に気を使わない人、他者に対して不真面目な人を指す。しかしその他者に執着せざるを得ない以上、そして相手の暗号に合うように行動し、相手の愛を失わないように苦労する以上、何より相手の求める世界がこちらにないことを悟らせないようにする以上、私達は恋人に対して嘘をつかざるを得なくなる。

 しかしこうして生まれた嘘は、解釈を強いる新しい暗号として相手に与えられる。だから恋愛には駆け引きがつきまとう。スパイのように素知らぬ顔で情報収集を目論み、または探偵のように張り込むことで相手の裏をかこうとする。そして嘘 - 暗号の体系の全体像を把握してゆき、相手のうちにある否定できない真実を暴露しようとする。よって恋愛は執着 - 疑い - 不安の産物であると同時に、嘘 - 駆け引き - 暴露を産出するものでもある。やがて相手の嘘が暴かれる時が来る。そして相手の嘘が暴かれることで、相手のうちに自分の理想としている世界が存在しないことがわかった。また駆け引きが終わることで、こちらを惹き付ける相手の暗号を見出されなくなった。嘘が終わる時、愛もまた終わるのである。

 知性は疑いと共に生じる。前述の通り、思考は暴力を振るうものに(こちらに疑いを起こさせるものに)出会った時から加速し始める。時に、ソクラテスは友情よりも愛を大切にしたと言う。プラトンの対話篇の中で、彼は出会う相手に強いられるようにして自らの思考を開始する。しかし、思考には常に苦しみが付きまとう。問題はそこである。

 ロマン主義においては、愛と死が同列に語られることが多い。それは愛には死の印象が絶えず付きまとうからである。恋人の解釈者である以上、私達は願わずとも相手を疑い、暗号化することを強いられる。だから愛には不安がつきまとい、苦しみが付きまとう。そして苦しみはこちらに考えることを強いる。悲しみ、苦しみ、絶望。これら死の印象を想起させるものは、こちらに何らかの運動を強制する。そしてこの強制運動が伴う以上、愛と死は同列に勝たられざるを得ない。

 こうして一つの問題が浮き彫りになる。本来存在しないものを存在するものとして取り扱う以上、友情とは偽のコミュニケーションであることしか出来ない。だから恋愛はコミュニケーションを放棄し、代わりにそこへ嘘と駆け引き、そして暴露を導入する。しかし、それには必ず苦しみが、死の印象が付きまとう。なら、何故わざわざ「その方」へ足を踏み入れる必要があるのだろう。友情は確かに偽のコミュニケーションかもしれない。しかし、ならば偽物でもいいではないか。何故わざわざ苦しむ必要がある。少なくとも、私には不思議でならない。人はよく自分の不幸を嘆く。しかし私には、皆が自分から好んで不幸になろうとしているように見える。人生にドラマが起こることを求めて、なんと多くの人が自ら苦しむことを求めるだろう。

 がしかし、だからと言って私達は友情 - 偽のコミュニケーションに留まることも出来ない。何故ならそれが偽物だということに既に気づいてしまったからだ。人が嘘を憎むのは、その嘘が自分を上手く騙してくれないからである。見え透いた嘘をつく相手に苛つく理由、それは明らかに嘘だと分かっているのに、それでもなお相手がこちらを騙そうとしてくるからである。それでこちらの自尊心も傷つくというわけだ (言い換えるならば、もしそこにこちらを上手く騙してくれる嘘があるならば、人は喜んでそれに騙されたいと願うだろう)。

 嘘が既に暴かれてしまった以上、私達はそれを踏まえた上で生きることしか出来ない。友情が偽のコミュニケーションだと理解した以上、最早その偽物の世界に留まることも出来ない。もしそこに留まろうとするならば、それは知性の停滞を意味するからだ。私達はよく変わらないものに対して憧れを抱く。変わらない愛、変わらない喜び、変わらない理想。しかし、もし人生の中で何も新しいことを学ばず、何の変化もないまま老年に至った人を見かけたなら、私達はその人の感受性の貧しさに軽蔑の混じった驚きを覚えるだろう。

 ここでもう一つの問題が姿を表す。行き過ぎた苦しみ - 死の印象が付きまとうものを避けたいが、しかし偽のコミュニケーションとしての友情に留まることも出来ないのである。

 しかし、何故死の印象を避けたいのか。それは、死の印象には何かこちらを強く誘惑する力が秘められているからだ。死はこちらを誘惑して、私達がもっと不幸になり、もっと苦しむように仕向ける。自分の悲しみを嘆く時、人はそこにある病的な快楽を見出している。そしてこの快楽が病みつきになり、もっと悲しみに溺れたいと願うようになる。死の印象、または死の誘惑。それは私達が停滞し、更に不幸になるよう誘い出す力を持っている。だから恋愛は友情とは別の形で私達に一つの欺瞞を強いる。こちらが停滞し、不幸の中に閉じ込められることを求める愛と死の運動は、友情とは違った形でこちらの生を否定する。そこにあるのはルサンチマンの誘惑、否定の運動、反動的な価値観の勝利である。

 別に苦しむことはいい。プラトンも書いている通り、苦痛と快楽は何処までも相対的なものであり、人は些細なことに苦しむほど些細なことに喜ぶようになる (だから苦しみに鈍くなるほど喜びにも鈍くなる) 。ただ、愛と死はまるでこの世界に苦しみしかないような錯覚を与える。そしてその恐ろしい錯覚の中に (苦しみだけが真実であるかのような錯覚の中に) 私達を閉じ込めようとする。その時、生が本来持つ力は奪われて、友情とは違った形で偽のコミュニケーションが行われるようになる。愛はこちらに思考を強いて、相手の暗号を読み取るための知性の発達をこちらに促す。しかし知性の発達は、時にそれだけこちらを思い込みの激しい性格へと変える(「色情狂は、愛されているという妄想的幻覚としてではなく、むしろ愛の対象の妄想的追跡として出現する」)。行き過ぎた知性の発達は、むしろ知性の退廃へと繋がる。外との出会いが私達の内側を変える。よって愛が時にこちらの生の飛躍を可能にするのは事実である。しかし、生の飛躍のために見出された愛が、むしろこちらを死に追いやっていくのだとしたら、それは本末転倒ではないか。

 友情と恋愛。この二つの抱える問題をいかにして解決することが出来るのだろう。そんな事を、先日読んだドゥルーズプルースト論をきっかけに考えるようになった。そして、それが最近の主な関心事の一つである。


 文筆家とは別の自分を演じる者のことである。文章を書く時、人は多少なりとも「他人にこういう印象を与えたい」という思惑を抱いている。それはどんな人にも言えることで、無論私も例外ではない。私は、こうして文章を書く時、自分のことをちょっとかっこいい人間だと思いながら書いている。しかし言い換えるならば、それは「実際の自分は文面上ほどかっこいい人間ではない」ということでもある。

 しかし、かっこつけている割に読み返すとよく誤字脱字をしているのがわかる。だから自分の書いた文章を読むと恥じらいを感じることが多い。モデルやアイドルができる人は本当にすごいと思う。あんな風に舞台上でキラキラすることなど、私には出来ない。文面上と同じように、きっとどこかでボロを出してしまうだろう。今日までの人生の中で、私はいつも自分以外の誰かになることに憧れていた。今だってそうだ。だから純粋にああいう人達が羨ましい。

 音楽の本質はその誘惑的な力にある。優れた音楽は、聴き手に感じていない感情までもを感じさせる。失恋ソングをよく聴く人は、きっとそんなに沢山の失恋を経験しているわけではない。私はよくマーラーの音楽を聴きながら「ここには俺の人生が詰まっている」と感じる。しかし、実際はそんな事はない。ただ悲しげな音の響きが、実際になかったことがあたかもあったかのように勘違いさせているだけだ。そう、優れた音楽は、常に聴き手に存在しない過去を捏造させるのである。

 だから「音楽を愛する者にとって、音楽は常に人生のBGMである」なんて理屈は間違っている。実際には、人は音楽を通してかつて自分になかった感情を発見するのである。音楽はいつもこちらの人生を塗り替えるよう作用する。そして経験してないことまでもを経験したかのように錯覚させる。そして思うに、それこそが音楽の偉大さなのだ。音楽とは本質的に聴き手を魅了し、誘惑することで、誤解させ、錯覚させ、勘違いさせる力を持つ。そして存在しないものがあたかも存在しているかのように思い込ませるのである。

 カート・コバーンの歌声を聴いて、どれほど多くの若者が「自分にはこの人の苦しみがわかる、この人は自分と同じように苦しんでいる」と感じたことだろう。しかし実際には、カート・コバーンと同じ苦しみを経験した人など何処にもいない。ただ聴き手が勝手にそう誤解しているだけである。自分から遥か遠く離れているはずの存在が、あたかも自分のすぐ側にいるかのように錯覚する。自分にないものが実際にはあるのではないかと勘違いしてしまう。この偽なるものの力能、誰かを騙し誰かを誤解させる能力こそが、音楽の持つ最大の魅力である。

 音楽家が他のどの芸術家よりも偶像(アイドル)性を秘めている理由もまたそこにある。ベートーヴェンの死後、誰一人としてベートーヴェンに会ったとこがないのに、なんと多くの人がベートーヴェンの人柄について語っていることか (しかも実際の知人であったかのように)。ショパンの音楽を聴いた時、どれほど多くの人が存在しない恋愛の思い出に対する感傷を抱くことか。しかも実際に恋愛している時にはそのような感傷など一度も抱いたことがなかったのに(おまけにショパンはロマン派の音楽に否定的であった)。

 思い込ませるもの、誤解させるもの、錯覚させるもの。それがこの世界を突き動かしているのだとしたら、どうだろう。人間の知性、その最も偉大な力能は、どれだけ巧みな嘘を発明できるかによって測定される。もし本当にそうなのだとしたら、それは驚くべきことではないか。

 今日までの人生の中で、私はいつも音楽を愛してきた。美しい音楽を聴いていると、自分が自分の人生の主役であるかのような気がしてくる。一瞬に永遠を感じ、永遠を一瞬に感じる。本当に美しい瞬間に出会うと、目に映るもの全てがスローモーションに見えてくる。無論、これが錯覚であることくらいわかっている。しかし、そうはわかっていても、尚こちらを錯覚させるだけの力が音楽の内にはある。ああ、音楽。私を喜ばせ、また私を苦しませる美しい悪魔。


「確かなものなど何処にもない」という、この世で唯一確かな事実。このパラドックスには妙に笑えるところがある。クンデラも書いていたが、「この世界をひっくり返すことも、作り直すことも、この世界の不幸な成り行きをとめることもできない」と気づいた時、私達に可能な抵抗は一つしかない。つまり「この世界を真面目に受けとらない」ということだ。

 ここにユーモアが誕生する。ユーモア、または笑いの笑える不在。笑いにもいくつかの種類があるが、その内の一つとして「不条理に対する笑い」が挙げられる。ドゥルーズニーチェについて語る時、カフカの『審判』を本人が朗読した時のことに触れたことがある。「カフカが『審判』を朗読した時に聴衆がどんなに大笑いしたかということを、マックス・ブロートも語っています。」不条理なもの、意味がわからないもの、理不尽なもの、不気味なもの。これら笑える要素のないものを前にした時、人はむしろ笑えないことに笑えてくることがある。

「スキゾな笑いあるいは革命的歓喜。偉大な書物から出てくるのはこれであって、私達のみみっちいナルシズムからくる不安感やら、私達の罪悪感から来る恐怖心などではないのです。」

 私はサトルという日本のラッパーの大ファンなのだが、何故それが好きかとなれば、とにかく歌詞が下品だからだ。聴いている間はずっと笑いが止まらない。同様の現象は『明日、私は誰かのカノジョ』を読んでいる時にも起こる。愛に飢えた男女が擬似恋愛のビジネスに踊らされている。その様は、冷静に考えれば笑えないかもしれない。しかしだからこそ笑えるのである。Twitter上に『HSPナオミちゃん』という漫画をほぼ毎日載せているユーザーがいる。私はその更新を毎日楽しみにしているのだが、それを読んでいる時にも同様の笑いに襲われる。サトル、明日カノ、HSPナオミちゃん。これら三者に共通して言えるのは、どれも(言葉を選ばずに言えば)程度の低い現実を題材にしているということだ。だからだろうか。他の人にオススメしても、皆が皆私と同じように笑ってはくれない。しかし個人的には、この笑えなさがむしろ笑えてくるのである。

ニーチェはしばしば彼にとってむかつくような、げっとするような、吐き気を催させるようなものを目の当たりにすることがあります。ところがなんと、ニーチェと来たらそういった物を前に笑いだし、可能とあれば楽しんでしまうのです。彼はこう語っています。もうひとふんばり、まだ大していやでもない。あるいは、いやだって物事は素晴らしい、そいつは見事、傑作、有毒の花だ、最後には「人間は面白くなり始めた」。」


 悲しみは喜びよりも一層真実に近い。シェストフも書いている通り、「発見されたばかりの真実は産まれたての赤ん坊のように醜く見える」ものである。希望が苦痛の反動として、実在から目をそらすように見出されるのに対して、嘆きは実在するものを目の前にした時に生じる。だからだろうか。人はよく、否定を肯定よりも先にあるものとして考えたがる。

 実際、現実世界よりも可能性の世界の方が遥かに大きい。秩序は無秩序より規模の小さなものだと言える。そして何より、存在するものは非存在 - 虚無よりも多くのものを含んでいない。だから、ある観点から見れば確かにこの考えは正しいと言える。しかし、別の観点から見れば、それは間違っている。何故なら、私達は先ず実在するものを見てから可能性の世界を考えるからである。

 よって可能性の方が現実よりも大きいなものとして考えることは、それ自体現実の生に対する復讐ではないか。可能性が大きく捉えられるのは、実際のものを否定するためだと言えるからだ。否定を肯定に先行させることが間違っている理由はそこにある。肯定( - 実在)が先にあり、次に否定( - 観念)がやって来ることを考慮しなければならない。そしてここから出発しなければならない。確かに、発見されたばかりの真実は産まれたての赤ん坊のように醜いかもしれない。悲しみが喜びより一層真実に近いのも事実だろう。しかしそのために悲しみを喜びより先行させたならば、むしろ真実を歪めることになるのではないか。


 「人生とは、無論、崩壊の過程である。」フィッツジェラルドはかつてそう書いたという。ならば、いかにして崩壊するかが問題となる。

 ベートーヴェン交響曲第九番は悲劇的な響きと共に始まる。さながら断頭台からギロチンの落ちるかのような轟音が私達を襲う。そして作品は台風のように蠢きながら進行を続ける。時には激しく、また時には穏やかに。しかし最終楽章において、突如テノールがこう歌い始める。「友よ、このような響きではなくて!もっと心地よい、喜びに満ちた歌を歌おうではないか」

 そこにはこれまでの悲壮な響きと決別する意図が込められている。そしてテノールが上の詩を歌い終えた時、次の瞬間にはあの有名な合唱が、歓喜の歌が始まるのである。

 私はずっと、このような軽やかな転身に憧れてきた。飛躍、跳躍、転身。軽やかな喜び、力の純粋状態への憧れ。