21/03/15

 自分の中にあるものが決定的に変わり始めている。それが何なのかはまだ上手く言い表せない。ただ、最近はそれを強く感じている。そして、それに突き動かされるようにして生きている。

 昔から、私の内にはある一つの傾向があった。それは、欲しいものを前にするとそれに対して恐怖を覚えるという傾向だ。胸の中で思い描いている時にはこれまでにない程甘美な瞬間のような気がするのに、いざそれを目の前にすると、恐怖で足元がすくんで、途端に対象から逃げ出したくなる。愛と憎しみが紙一重なものだとは思わないが、少なくとも愛は恐怖や不安と密接な関係にあると思う。無論、恐怖や不安が取り除かれたあとでも対象への愛は続く(かつて恐れていたベートーヴェンの音楽を今やこんなにも愛していることがそのいい例だ)。ただ、この症状の初期段階として、上に書いたような対象に対する不気味な感情と戦わなければならないのは、少なくとも私にとっては事実である。毎日、相手のことが頭から離れない。取り憑かれたように、何をするにもその存在が頭によぎる。だから「ノイローゼになりそうだ」と、思わず何度もそう独り言を呟くことになる(しかもブツブツと、部屋中を行ったり来たり歩き回りながら)。

 よって「では対象から逃れればいいのではないか」という疑問が湧いてくるのは、この流れからすれば当然のことだと言えるだろう。しかし、ここで私とベートーヴェンの関係について少し話したいと思う。かつて、私はベートーヴェンの音楽が不安だった。それは余りにもこちらの心を掻き乱し、私の平静を失わせ、突き動かされるように何かをすることをこちらに強いるような、そんな響きを含んでいるように思われたからだ。だから私はベートーヴェンを避けていた。しかし、避けている間のどの時期にも、ベートーヴェンを忘れたことは一度もなかった。否、忘れたと思った頃にそれは甦ってきた。そしていつも私の心を後ろからナイフで突き刺すかのような衝撃を与えた。思考が強制され、感覚の全てが相手の内へと奪われて、その中で異常な変化を体験するような気がした。それはとても恐ろしいことだった。しかしまたそれは私を惹き付けてやまなかった。だから結局、私はベートーヴェンを愛さずにはいられなかった。どれだけそれから逃げようとしても、私は向き合わずにはいられなかった。あたかもそうなることが宿命づけられているかのように。

 と、こうして書くと、とてもロマンチックな話に聞こえるかもしれない。が、実際はそんなことは無い。私はよく読書をする時に音楽を流すのだが、その際にベートーヴェンを流すと、ベートーヴェンに全ての感覚が奪われてしまう。だから本の内容がまるで頭に入らなくなってしまう。対象に感覚を奪われてしまうと、何をしても対象のことばかりが頭に思い浮かぶ。だから何をしても身が入らない。何一つ上手くいかない。どんなことにも集中して取り組めなくなる。だからとても苦しい。しかし対象に向き合うと、私は緊張して、色々と考えていたはずの計画が全て頓挫してしまう。カフカが日記に書いたあの有名な言葉をパロディするならば「僕はそれなしじゃ生きていけないが、それと共に生きていくことも出来ない」という現象が、このとき発生する。

 傍から見れば、そんな私は滑稽だろう。それに人生を楽しんでいるようにも見えるかもしれない。しかし、必ずしもそういうわけではない。生活の何にも身が入らない。何をするにも対象のことが頭に浮かぶ。映画を観るにしても、十分おきに対象のことを考えてしまう。本を読むにしても、一ページをめくる度に対象との思い出が頭を過ぎる。だから結局何にも集中出来ずに一日が終わる。そんな一日が何度も繰り返される。よって毎日イライラすることとなる。今の自分が落ち着いてベートーヴェンについて語れるのは、不安や緊張を感ぜずしてベートーヴェンを愛することができるようになったからだ(しかもかつてと同じように)。しかし、この状態に至るまで、私はどれだけベートーヴェンのためにイライラしたことかわからない。あたかも自分の愛するこの音楽家が自分の敵であるかのように。まるで馬鹿な話だ。向こうは何もしてないのに、こちらは勝手に相手のために苦しんでいる。気持ち悪いやつだと思う。何の恥や後ろめたさも感じずに、恐怖や不安、緊張も覚えずに何かと向き合いたい。ただそれだけの話なのに、何故それがこんなにも難しいのだろう。


 フーコーの思想と言えば、その社会学的/歴史学的側面が有名である。何かを意志する主体の裏には一体何が潜んでいるのか。それは人が何かを求め動く時の基準となる価値観である。しかし、人は普段その価値観を考慮に入れない。何故ならその価値観は私達の普段の生活では気づかないところ(無意志的、無意識的なところ)に潜んでいるからだ。ではその価値観は一体どこから生じているのか。それは他ならない、社会 - 権力である。

 責任という概念は、自分のためというよりかは他人のためにあると言える。(自分が負うつもりなくても生まれた)他者への責任がある以上、私達は他者の眼差しに基づいて生きざるを得ない(親の期待、友人の同調意識、社会の目……)。ベンサムがかつて考案した監獄形態 - パノプティコンは、囚人同士の生活が筒抜けになるように設計されている。だから囚人達は互いの眼差しを気にしながら、自分で自分を制約し、管理することとなる。フーコーによれば、今やこの監獄 - パノプティコンの現実は私達の社会の中に実在しているという。私達は誰しも他者の眼差しを気にすることによって自分を制約し、管理している。そう、管理社会の誕生である。

 一方で、ドゥルーズフーコー論の面白いところは、このようなフーコー社会学的/歴史学的な側面よりも、その哲学の内に潜む存在論的/形而上学的な側面を強調した点にある。それによって、ドゥルーズは未完に終わったとも言えるフーコー哲学の全貌を補筆しようとしたのである(この点については、フーコー論を邦訳した宇野邦一氏も触れていることである)。

 これはニーチェも指摘していたことだが、私達の思考は普段こちらか用いる言語によってある程度制約されている。考えるためには言語が必要である。しかしその言語は私達が普段触れる語彙によって自ずと制約されたものだと言える。「傍から見ればおかしいが、その人にとっては常識に見える」という現象はこうして生じる。

 フーコーの哲学はニーチェのこの考え方を受け継いだものだとも言える。私達の思考は、普段私達が用いている言語によって制約されている。ならば問題はこの制約からいかに抜け出すか、いかに一般言語の中でどもるかということになる。プルーストはかつてこう書いた、「美しい書物はどれも一種の外国語によって書かれている」と。一般言語のによって支配され、偏見の内に制約されていると気づいた私達は、いわば母国語の中で外国語を話すようならなければならない。

 しかし一般言語の中でどもり、母国語の中で外国語を話すようになって見えてくるのは、私達が普段「一般的」だと思っているものの裏に潜んでいる「神話」、私達の無意志的/無意識的な価値観である。そして気がつく、「人はいつもこの無意志的/無意識的な価値観によって裁かれ、支配されることで生きているのだ」と。たとえば日常生活の中で、なにかこちらの心を惹き付けてやまないものに、こちらが愛し求めずにいられないものに出会ったとする。しかしそれを前にした時、対象に惹かれると同時に後ろめたさを感じるような場合がある。あたかも対象に向き合うことそれ自体が罪であるかのような感覚だ。この時、私達の意識の裏では、こちらが今日までに触れてきた世界 - 言語によって発生した「神話」が作用している。そしてこちらが愛するものを求めるようとする動きを断罪している。「それをするな」と禁止しようとしている。しかし、神話の作用を被る本人にはそれがわからない。何故ならこの「裁き」は無意志的/無意識的なものだから。よってその人は (何故かは分からないが) 対象を前にした時に恐怖を覚える自分の姿を見出すこととなる。

 この「神話」から抜け出そうとするなら、私達は自ずと神話に背くもの、断罪されるべきもの、裁かれるべきもの、つまりは「一線を超えた」ものにならざるを得ない。法律というものは事件の介入によって更新される。だから去年までは正しかったはずのものが、ある事件の前例が生まれることで正しくなくなる、なんてのはよくある話だ。よって目の前の正義に囚われて生きること自体が間違っていると言えるかもしれない。しかし、そもそも間違っているかもしれない正義が目の前にある理由は、それが私達の常識の中に知らぬ間に潜んでいるからである。他者との世界を生きざるを得ない以上、私達は常識の世界で生きざるを得ない。そして常識の世界で生きざるを得ない以上、私達はこちらを裁く「神話」の現実に直面せざるを得ない。いくら「線をまたぎ、線に挑む」ことを求めても、そこには超えたはずの「一線」の上に回収される自分がいる。決別できない神の裁きがあることに気がつく。しかしそれでも、個人の倫理に生きようとするならば、自分が正しいと信じたものに生きようとするならば(目の前の正義が必ずしも正しいわけではないと気づいた以上、私達は個人の倫理に生きざるを得ない)、私達は再び一線を越えようとしなければならない。線に挑み、線をまたがなければならない。この時、人生は(フィッツジェラルドが書いたように)「崩壊の過程」となる。

 フーコーは「人間の死」を唱えたことでも有名な哲学者である。そしてフーコーにおける「人間の死」の概念は、この場合、ニーチェにおける「超人」の概念と関連づけて考えるべきだ。ニーチェは「神の死」を唱えたことでも有名な哲学者である。しかし彼が「神は死んだ」と宣う時、そこには「人間の死」の意味をも含まれている。神( = これまで人間にとって中心的であった価値観)が死ぬ事で、かつて人間が生きた世界の基準点も死ぬ。よって私達は今、かつてと同じように「人間らしく」生きることが不可能になった。だからニーチェは神の裁きから解き放たれた人間存在を、「超人」の到来を予告する。ただ、それは「人間」の世界を生きざるを得ない者にとっては不可能な話である。だから超人を求めて生きる時、人は自ずとみずからの肢体がバラバラになって引き裂かれるような絶望に襲われざるを得ない。ここにニーチェが自らの哲学を「悲劇的」と称する理由がある。

 ドゥルーズの「内在平面」や「器官なき身体」の概念には、恐らくここに繋がるべきものがある(「器官なき身体」について二、三ヶ月くらい前に何度か言及したことがあるが、恐らく私は多少なりともそれを誤解していた)。私達の生には、今のこちらでは知ることが出来ない大きな可能性が秘められている。しかし、そういったものはいつも常識の皮をひん剥いたところにしか存在しない。そしてもし「それ」に触れようとするならば、人は(リルケも書いたように)「よりはげしい存在に焼かれて滅びる」ことになる。「我々がかろうじてそれに堪え、嘆賞の声をあげるのも、それは美が我々を微塵に砕くことを取るに足らぬこととしているからである。」

 芸術家や哲学者に病的な人間が多い理由はここにある。彼らは生を憎んでいるというよりかは、むしろ生の中にあまりにも大きすぎるものを(自分にとっても他人にとっても大きすぎるもの、少なくとも自分には到底担えないように見えるものを)見出してしまったからである。そして、だからこそ生に病まざるを得なくなってしまったのである。

 時に、器官というものはそれが周囲のものに対していかに機能するかによって定義付けられる。例えば嗅覚という器官は、それが近くのものの匂いを嗅ぎとりかぎ分けるからこそ存在していると言える。言い換えるならば、器官とはそれが周囲のものといかに関係しているかによって定義付けられる。

 よって「器官なき身体」とは、器官( = 正しいとされているもの)から解き放たれた「ありのままの生」を生きることが可能になった身体 - 人間存在のことを指す。しかしシェストフも書いている通り、「発見されたばかりの真実は産まれたての赤ん坊のように醜く見える」ものである。「ありのままの生」の現実。その内には普段こちらが生きている世界の常識を壊し、こちらを脅かし、不安にし、恐怖させるもの、こちらを病ませるものが潜んでいる。だから「器官なき身体」に至ろうとした時、人は (丁度フランシス・ベーコンが絵画に描いたように) 醜く歪み、今ある自分の肉体を引き裂かれ、泣き叫ぶしかなくなる。よって「器官なき身体」の実現とは、むしろ身体( = 自分自身)の消滅だとも言える。

 それでも尚私達は「器官なき身体」を求めなければならない。何故ならそこにこそ純粋な生が、普段は神話によって抑圧されている生の内に潜んでいる可能性が存在するからだ。そしてそれが解き放たれた時、私達は今ある病める身体から脱却して、真の意味で健康になることが、力の純粋状態に至ることが出来る。そういう意味では、あらゆる文化(芸術、哲学、科学)とは一般常識を錯乱させ、私達が健康になるための手段だと言える。しかし今はまだそこには至れない。一般世界で生きる以上、私達はこの生の内に潜むあまりにも大きなものを生きることが出来ない。もしそれを生きようとすれば、私達は自ずと崩壊の過程を辿ることになるだろう。しかしその時、生に内在している新しい可能性が、かつて人を襲ったこともなかった可能性がこちらにやって来るのを感じることとなる。その時、開かれた生はまた新しい可能性を開拓し、私達はこれまでより大きな世界を生きることが可能になる。


 ドビュッシーの音楽を聴いていると、時々その美しさのあまりに驚くことがある。もう何回も聴いているはずの曲が、あたかも初めて聴いた時のような感動を伴って襲いかかる。私が今聴いているのは『版画』の一曲目である。揺れる人混みの中でひとりこの曲を聴いていると、目の前にあるもの全てがスローモーションに動いているような気がしてくる。もう何回も見ているはずの、在り来りな日常風景。それが非常に大きな意味を持った、ドラマチックな瞬間のように思えてくる。

 しかし、それはドビュッシーの音楽の魅力であると同時にその恐ろしさでもある。リルケが『マルテの手記』の中で書いていたことだが、幻想的な音楽というものは「僕を何よりも力強い宇宙の中へ高く引きあげていく」というよりかは「僕を再び元の場所へ連れ返さないで、もっと深いどこかわからぬ混沌とした地底へ突き落としてしまう」ものだ。実生活というものは、私達が思っているほど良いわけでもなければ悪いわけでもない。現実のドラマは私達が考えるように都合よく進行してくれはしない。しかし、ドビュッシーの音楽を聴いていると、現実の全てが自分にとって都合よく進んでくれるかのような気がしてしまう。だからドビュッシーの音楽を聴く度に、私は楽曲が終わるのが不安になる。やがて沈黙が訪れて、現実に帰らなければならないことを突きつけるからだ。

「……しかし、アベローネは一つ彼女だけの慰めを持っていた。ときどき彼女はひとり歌を歌った。その心の中には、強い、激しい音楽があった。天使を男か女かといって問うのは滑稽なことかもしれぬが、僕はやはり天使は男でないかと思う。もし天使が男であるとすれば、彼女の声にはそれと同じ男性的なものがこもっていたと言わばねばならぬ。輝かしい、崇高な、男らしい音楽。僕は子供の頃から音楽に対して酷く不安であった(それは音楽が、僕を何よりも力強い宇宙の中へ高く引きあげていくからというのではない。音楽が僕を再び元の場所へ連れ返さないで、もっと深いどこかわからぬ混沌とした地底へ突き落としてしまうことに気づいたからだ)。しかし、僕は彼女の音楽には耐えることが出来た。この音楽は僕を翼に乗せて、真っ直ぐに上へ上へと、ますます高く連れて行った。ここはいつかもう天国の世界なのだ、と僕は思った。アベローネが僕にまた別の天国を僕に教えてくれようとは、無論僕はその時まだ夢にも考えてはいなかった。」