21/03/20

 どうでもいい話かもしれないが、私はかつて非常に神経質な性格をしていた。そしてそれがとてもコンプレックスだった。今ではそんなに神経質に見えないかもしれないが、それも自分なりに努力した結果だと言える。学生の頃、私は結構 (いや相当) 気持ち悪いやつだった。思い込みが激しく、気難しげで、おまけにかなり直情的な性格をしていた。当時からすればだいぶ人間が変わったと言えるが、しかし今でもあの頃の名残はある。たとえば考え事をする時に、私には爪先を噛んだり、親指をかじったりする癖がある。で、噛みすぎるあまり、爪が剥がれて血が出ることがある。これがよくない癖なのはわかっている。しかしやめられない。何故かわからないが、噛んでいると気分が落ち着くのである。

 思い込みでなければいいのだが、今の私はそんなにひとに悪い印象を与えにくい人間になっているのではないかと思われる。社交的で人付きのいい、性格の温厚な若者。そのように見られていれば幸いである。否、いつもそのような印象を他者に与えたいと思いながら過ごしている。それは決してひとに好まれたいからではない。むしろ「気持ち悪い奴」だった頃に対する復讐のためだと言っていい。要するに、自分は虚栄心からそのような態度をとっているとも言える。それに、次の理由もあるかもしれない。つまり、他からの余計な敵意を感じ取りたくないから、いつもある程度当たり障りのない態度を(毒にも薬もならない愛想笑いを)とっているのである。これは自分が大人になる過程で身につけた社交術の一つでもある。

 また自惚れでなければの話になるが、自分には少しばかり、何らかの才能があると思っている(それが何であるのか、それはあえて書かないでおく)。だから遅かれ早かれ、私は成功する。否、そう信じていると言っていい。もとい、ある程度才能に自信がなかったら今のようなちゃらんぽらんな生活に身を浸したりなどしない。

 さて、では実際にいつか何らかの成功を勝ち得ることが出来たとしよう。しかしその時、果たしてこの胸にある大きな(そして空虚な)穴は埋まるのだろうか。私の内には、もう長い間なんと形容すればいいかわからないものが、虚しさとも寂しさとも悲しさとも区別のつかないものがある。それは果たして自分が大成すると同時に消えてくれるものなのだろうか?

 もう一つ、別の話をしよう。十代の頃から、自分にはあるひとつの野望がある。それは、いつか沢山の人を集めて、なにか大きなムーブメントを生み出すということだ。法律というものは生じる事件の介入によって更新される。かつて正しいとされていた法は、それを否定する事件の前例が出来た時に正しくないものとして非合法化される。もしいつか自分が一つの大きなムーブメントを打ち立てることが出来たならば、またそれによってこの社会に確固とした問題提起が出来たとすれば、その時、私達の生きる世界はある決定的な、否定しようのない変化を迎えることになる。今現在ある「正しさ」を否定する事件が日常に介入することで、これまで「正しい」とされていたものに誤りがあることが証明される。そしてそれが誰の目も明らかな事実として映ることになる。

 後付けに聞こえるかもしれないが、かつてより社交的になろうと努めた理由はそこにもある。出来る限り知人を増やして、他との繋がりを増やすことで、やがて来るべき日に備えようというわけだ。実際、今の自分は人並みよりかは多くの友人に恵まれた人間だと思う。

 しかしそれでも、時にはこう感じずにはいられない。「果たしてこれが自分の欲しかったものなのか」と。 または、こう言い換えてもいい。「一体いつになったら自分の欲しいものは手に入るのだろうか。」

 他の人は皆、楽しそうに毎日を生きている。思いすごしなのかもしれないが、私には皆が自分よりキラキラした生活をしているように見える。だから皆が羨ましくて仕方ない。皆と同じようになりたい。しかしいくら努力しても、それに手が届かない。では何故それが出来ないのか。何故自分には、他の人と同じように人並みの幸福を手に入れることが出来ないのか。他の人が簡単に手に入るものが、何故自分にはこうも遠いものなのか。何故いくら手を伸ばしても欲しいものに届かないのか。今日までは、私はこんなにも努力してきた。しかし何かが、いつも何かが、決定的に足りない。何故だ。何故なのか。何故私は彼らと同じように笑うことが出来ない。何故いつも自分は他人の輪の中に入れない。

 では、そもそも私が欲しいものとは一体何なのだろうか。そう、それは居場所だ。まるで故郷を追い出され砂漠の地をさ迷うユダヤ人のように、私は今日まで自分の人生を生きてきた。しかしいつかはこの渇きが癒されると信じてきた。そして実際、かつてに比べれば、自分はそれなりに多くのものを手に入れることが出来たと言える。教養、人望、才能。自惚れでなければ、今の私にはそれがある。そして楽観的に考えるならば、これからもっと多くのものが手に入るだろう。もとい、その自信がある。しかしそれでも、自分が本当に欲しいものが手に入らないなら、そんなものは皆無意味ではないか。私が本当に欲しいもの。それに手が届かないのなら、今日までしてきたことには全部、何の価値もない。全て軽蔑に値する。そうだ、私が本当に欲しいのはこんなものじゃない。それはもっと別のものであって、他の人にはそうは見えなくとも、自分にとっては何よりも、他の一切よりも大事なものなのだ。そして、もしそれが手に入るのなら、将来の成功や社会的に大きなムーブメントなど、そんなものは皆どうだっていいのである。皆、何もかも、台無しになっていい。全て軽蔑する。全て捨ててもいい。聖書に書いてある通り、たとえこの世界の全てを手に入れたとしても、自分の心を失ったのなら全て無意味なのである。

 私が本当に欲しいもの、それは家庭であり、故郷であり、唯一無二の、永遠に変わらず自分のそばにいてくれる相手である。もしその友が私を愛してくれるのならば、私を受け入れてくれるのならば、私も生涯変わらぬ愛情をその友に誓うだろう。そう、死が二人を分かつまで、永遠の愛を誓おう。もうずっと前から、何年も前から、私は本気でそう考えている。そう、それだけが、たったそれだけが私の望みである。なのに、何故いつもそれが手に入らないのか。それともこの望みは、今の自分には身分不相応なものなのだろうか。思い込みで構わない。間違いでもいい。私は自分の欲しいものが欲しい。


 日常会話とは暗号のやり取りだ。一般生活において、会話の答えとはある程度その会話の中に隠されている。人はそれを密かに読み取ることで一般生活を成り立たせていると言っていい。誰も「おはよう」に対して「お腹空いた」とは返さない。「おはよう」という言葉にはある程度それに相応しい返事が既に定められている (しかも無言のうちに、誰が決めたというわけでもないのに)。

 そういう意味では、日常生活とはむなしいものだとも言える。普段の会話の中で、私達が互いの本心を通わせることなど稀である。むしろ日常生活においてならば、いかに互いの暗号を上手く読み解くかが肝心となってくる。それが「心地よい会話」の発生に繋がるのだから。もし互いが考えていることを思うがままに打ち明けたならば、コミュニケーションなど到底成り立たないものだろう。

 しかし、だからこそ一般生活にはある種の気楽さがあるのだとも言える。ある一定のルールと手順を満たせば、私達はなんの不快もなく(敵意を寄せられることもなければ、ある種の気まずさを感じることもなく)他人と会話することが出来る。なるほど社会生活は空虚だ。日常会話は嘘と暗号の交わし合いだ。社交的であることにはある種の軽薄さがつきまとう。しかし、だからこそ社交的であるということは、ある意味では自分の心を守る最大の手段にもなるのである。前述の通り、一定のルールと手順を満たせば、人は自分の本心を攻撃されることもないまま社会生活を営むことが出来る。確かに社交的な人間は軽薄だが、しかしそれは何より気が楽な人間の在り方なのである。

 恐らくドゥルーズプルースト論の中で友情に対して否定的であった理由はそこにある。どんなに親密な友情も、社交( = 腹の探り合い) を通さなければ中々生まれ得ないものだからだ。では、もし友情 - 社交 - 偽のコミュニケーションを放棄したとするならば、その先にあるものとは一体何か。そう、それは「どもり」である。

 日常会話はゲームのルールを満たせば身の安全がある程度確保されるよう出来ている。言い換えるならば、ルールを放棄して相手に向き合おうとするならば、私達は互いに対して緊張を覚え、あることない事を沢山考えて、意味もなく相手のことで悩んだりする必要が出てくる。それは愛が芽生える瞬間でもある。つまり愛するということは、饒舌に喋れなくなるということ、非社交的になるということ、どもるということだ。だから誰かを愛する時、私達はコミュニケーションを放棄する。代わりに対象への緊張から上手く話せなくなる自分を、適当なことが言えなくなった自分を、どもり始める自分を見出すのである。


 快楽の本質、それは共振にある。たとえば本を読んでいる時に、なにか自分の本心をそのまま言い表してくれるような言葉に出会うことがある。このように、愛する本との運命的な出会いというものは、自分が「これだ!」と思うような言葉と出会った時に始まる。そう、読書とは語るべき言葉を知らない人間が、自分の語るべき言葉を見出すためにする作業なのである。そしてそのような言葉に、運命的な言葉に出会った時に、こちらと本の間では一つの共振が起きている。私は本に書かれた内容によって揺り動かされ、心のどこかで感じてはいても上手く言い表せずにいたものの存在に気が付き始める。そしてその体験を通して、今度はこちらが本を揺り動かし始める。そしてそこに書かれた言葉以上のものを見出そうとする。

 人は読むことによって読まれていくものだ。私達がいかにこの世界を捉えるかということは、それ自体こちらがいかにこの世界を眺めているかを理解する ( = 読み解かれる) ことに繋がる。そういう意味では、人は他の存在に出会うことによって、むしろ見知らぬ自分に出会うのだとも言える。自分が惹かれる対象に出会うことで、自分の内にある気づかなかった性格に気づくようになる。あらゆる変化はかつての自分と自分以外の対象の間で生じるのだ。

 それが人でないにしても、本や音楽など、何らかの作品に出会うことで、人はこれまでに感じていなかったような感情を感じ、自分の内にある見知らぬ自己の存在を発見することとなる。そして、私達はそれを「学習」または「発明」と呼ぶ。共感を覚え、共振を覚える対象でありながらも、そこには自分にないものがある。だからなお一層心を揺り動かされずにはいられない。共振の喜びとは、そこに未知なる自分の姿が見出されるからこそ生じると言える。こちらが何かに感動し、魅了されるのは、それによってむしろ知らない(または忘れられていた)自分の姿に出会うからだ。

 時に、何かに魅了されるということは、言い換えるならば何かに感覚を奪われに行くということでもある。四六時中、何をしても自分を魅了した対象のことが思い浮かぶ。だから対象を求めざるを得ない。しかし、ここで一つの奇妙な現象が起こっていると言える。対象のことが四六時中頭に浮かぶのなら、生活が上手くいかなくなるのは当たり前である。実際、大抵の人はそういった対象に出会うと、これまで通りの生活が出来なくなってしまう。何をしても、取り憑かれたようにそれの事が思い浮かぶ。だからそれに突き進まざるを得ない。しかし、では何故その対象を排除する運動が生じないのかという疑問が生じる。何故ならそうした方が生きやすいからだ。実際、日常に支障が出ては、これまで取り組めたことも取り組めなくなるし、間違いなく生活はこれまで以上に苦しくなる。しかし、そうとわかっていても、大抵の人は対象を排除したいとは重ない。それは何故か。恐らく、人は四六時中自分を魅惑したもののことを考えていると同時に、その対象のことを忘れたくないと思っているのである。

 ロラン・バルトがかつてこう書いていた。「恋する私は狂っている。そう言い切れる私は狂っていない。」何かに夢中になるということは、その何かのために生活に支障が出ることを意味する しかしそれでも人はそれを求める。自分が失われていくのを感じるのに、むしろそれを良しとしている。そして自分の求める対象に突き進む。換言するならば、対象に夢中になる時、人は対象の中で我を失っていく自分と、それを傍観している自分の二つを併せ持っているということだ。それは必ずしも何かに夢中になることそれ自体に陶酔しているという意味ではない。むしろそれによって、かつての自分にはないものが得られるのではないかという期待が込められているからだ。


 当人が共感できない不幸とは、傍から見れば羨ましいものか、または軽蔑すべきもののどちらかにしか見えない。だから自分の不幸を嘆く人の話を聞いて、時にそれが自慢話のように思われるという現象がよく起こる。大抵の人の不幸とは、その人自身の性質に基づくものである。そしてその性質を必ずしも他の人が備えているわけではないのだ。

 ザ・スミスの「There is a Light……」は、UKロックを通った人なら誰しも聴いたことのある曲だろう。「二階建てのバスが僕たち二人に突っ込んできても、君の傍で死ねるなら僕は幸せだ……」ああ、実にロマンチックな歌詞だ。どれだけ多くの若者がこの歌詞に共感し、また感動したか知らない。しかし重要なのは、この曲を聴いた若者の大半は、この歌詞で書かれたような死に方をしていないということだ。私も高校時代に何度この「There is a Light……」を聴いたかはわからない。がしかし、自分の学生時代にこのような大恋愛が起きたことなど一度もない。そのくせこの曲を聴いてはその歌詞に共感していた。実に不思議な現象ではないか。