事件、心的外傷、表象 = 再現前化 (ドゥルーズ哲学に対する私的な文章)

 人は心的外傷に基づいてを思考を始める。ある人の考え方を知ることは、そのままある人が受けた傷跡を知ることでもある。ラ・ロシュフコー箴言に次のようなものがある。「哲学は過去の不幸と未来の不幸をたやすく克服する。しかし現在の不幸は哲学を克服する。」

 では心的外傷とはいかなる時に生じるのか。それは他ならない、自分の差異( = 特異性)が他人の差異とぶつかりあった時である。そして自と他の差異がぶつかり所で、事件は始まる。

 事件。それが独りでに始まったことは一度もない。単独犯によるものであれ、一方的な連続殺傷事件であれ、事件はいつも複数の存在が出会う所で始まった。ジル・ドゥルーズはこの事件 = 出来事の持つ特異性に目をつけた哲学者だと言える。私達は本来、それぞれが異なった本性( = 差異)を抱えて生きている。しかし、もし互いが異なった本性を話し合うのならば、日常会話など到底成り立たない。互いに共通して話し合える世界を作るためには、それぞれが持つ差異 = 個性を強調するというよりかは、むしろ互いの持てる差異を押しつぶさなければならない。どんなに似通った人の間でも、一つの話題に対して(微細であれ)異なった意見を持っている。日常会話は、先ずそれぞれの意見の違いを述べることから始まるのではなく、それぞれが互いに同調できる部分を話し始めることによって生じるものだ。

 この事からわかるように、コミュニケーションの基本は互いの間に共通認識をでっち上げることである。あらゆるコミュニケーションは偽物を前提にしている。そして互いの意見を共通させるために、私達は相手の腹の探り合いをして、いかに相手と話を合わせるかを考え出す。これはまた、私達の生きる一般世界の特徴でもある。

 かつてドゥルーズは「自分は哲学者にならなければ法学者になっていた」と語ったことがある。法律とは日常に事件が介入してくることによって更新される。絶対的な正しさを前提としているよりかは、むしろ現在の問題に照らし合わせてその形を変えていく。それが法というものだ。そのさまは、丁度身体に合わせて着る服が整えられるのに似ている。そして、ここにこそドゥルーズが事件 = 出来事を重視した理由がある。一般世界で正しいとされている観念は、それを否定するような現実 = 事件の介入によって改変される。ではその「事件」とは何によって生じるのか。そう、人と人との差異のぶつかり合いによってである。中心とされている価値観は、これまで「中心」から除外されていた(認められないでいた)少数派 = 差異が侵入することによって更新される。ホラー映画のシリアルキラーは皆悲劇の悪人だ。人が悪事を働くのは、かつて自分に働かれた悪事の腹いせに他ならない。どんな事件の裏にも、そこには必ずその事件を突き動かす差異のぶつかり合いが機能しているのである。

 しかし、ここまで読めばわかるように、彼が強調した事件 = 出来事の概念は、必ずしもいい意味を持つわけではない。たとえば、個々人の持つ差異の力が発揮された時、その人の持つ力能が最大限に発揮される。それは事実だろう。どんな芸術家も、学者も、政治家も、自分の差異 = 観点を磨いたからこそ偉大な天才になれたと言える。しかし、全ての人が彼らのように成功出来るわけではない。個性のために勝利を収めた人の裏には、むしろ個性のために敗北した人が数え切れないほどいる。周知の通り、社会とは力と力の関係である。一つの力の大きさは、別の力との比較の中でしか生まれ得ない。よって、社会においては比較と競走が導入せざるを得ないものとして現前している。事件が起きるところでは、差異のぶつかり合うところでは、自ずと心的外傷が発生せざるを得ないのが現実である。


 ジル・ドゥルーズ(1925-1995)は二十世紀フランスの哲学者である。同時代の名だたる同僚達と共に、彼はポスト構造主義を代表する存在だと言える。しかしその一方で、ドゥルーズは他の所謂「ポスト構造主義」の学者達とは一線を画す存在だと言える(し、本人もそれを否定している)。彼の盟友ミシェル・フーコー歴史学的/社会学的な側面が強く、また晩年に「ゴールなき民主主義」を掲げたジャック・デリダは政治的/活動的も言うべき側面が強い。また、ロラン・バルトには文芸批評家としての側面が、ジャック・ラカンには精神分析家としての側面が……と、それぞれがそれぞれ、哲学的ならざる側面を強調されるのがポスト構造主義の特徴である。

 対してドゥルーズの哲学は、はっきり言ってしまえば他より「地味」である。彼のデビューはフーコーよりもデリダよりも、何ならレヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』よりも早い。その処女作は未だ実存主義の熱が冷めきらぬ一九五三年に発表された。内容は哲学史において決して人気とは言えない哲学者デイヴィッド・ヒュームにまつわる論考である。ガタリとの共作(『アンチ・オイディプス』と『千のプラトー』)がヒットした影響で、ポスト構造主義の一員として語られるようになったドゥルーズだが、彼単体の著作はより純粋に形而上学的なテーマを取り扱ったものが多い。そんなドゥルーズの哲学には生涯一貫したテーマがあった。それは内在性の問題、潜在性の問題、もしくは存在論である。

 しかし、そもそも「内在性」とは何か。「潜在性」とは何なのか。彼の哲学において、「存在論」とは何を意味するのか。それについてを先ず考えていきたいと思う。

 ドゥルーズは同国の哲学者アンリ・ベルクソンから多大な影響を被ることで自らの思索をスタートさせた。さて、ベルクソンには純粋記憶と記憶イマージュという考え方がある。人はよく原因があって結果があると考えがちだが、それは誤解である。実際は結果が先にあり、原因はいつも後から見出されるものなのだ。何か不幸な出来事に直面した時、人はよく「なんでこんな事が起きるんだ」と考える。そしてこの不幸の原因を見出そうとする。「そうだ、きっとあれのせいだ、あれに責任があるんだ……」こうして記憶 = 過去は、現在の不幸に合うように整えられる。つまり純粋記憶( = 過去それ自体)は現在に照らし合わして記憶イマージュ( = 現在に見合う記憶のイメージ)へと変化する。それは映画の伏線回収に似ている。冒頭の画面に写っていた何気ないものが、終盤になると何かとてつもなく意味深いもののように思われてくる。この時、純粋記憶はそのシーンに合わせてイメージとしての記憶( = 記憶イマージュ)に変化する。

 ドゥルーズはこの純粋記憶と記憶イマージュの考え方をそのまま受け継いだ哲学者だと言える。彼の主著『差異と反復』には「ドラマ化」という考え方がある。人が意志によってなせるものの範囲などたかが知れている。むしろ私達の本質は無意志的/無意識的なものの内にこそある。人が思慮深くなるきっかけはいつも何らかの不幸に直面した時である。理性の発達は思考に暴力が振るわ れた時(考えざるを得ない状況に追い込まれた時)にのみ生じる。言い換えるならば、私達が意志によって考えうる範囲とは、私達が既に征服した無意志的/無意識的な範囲だとも言える。

 では思考に暴力が振るわれた時、人はいかにして思考を発達させるのか。そう、自分の知っているもの( = 過去の記憶)に照らし合わせてである。先ず感覚が「考えざるを得ないもの」を感じとり、それを理解しようと記憶が参照され、そしてその記憶に基づいて思考は速度を早めていく。それを突きつめて考えるならば、人は知っているものに寄せなければ自分自身を理解することも、表現することも出来ないということである。人が自分の「本当の気持ち」を理解することなど決してない。自分の知っている言葉に寄せなければそれについて考えることも出来ないのだから。そして知っている言葉が常に限られている以上、人は自分の本心を「他人の言葉」という仮面を通さなければ表現出来ないのである。

 潜在的なものが現働化する。恋愛映画を観すぎた女性が、恋する相手と理想的な雰囲気になった瞬間に、まるで自分が映画のヒロインであるかのように振る舞い始める。彼女の自分に酔った言動は、傍から見れば多少滑稽である。しかし、そうでもしなければ彼女は恋愛が出来ないのである。他人の真似事をしなければ、彼女は自分の本心について語ることが出来ないのだ。そしてこの現象を、潜在的なものが現働化する過程を、ドゥルーズは「ドラマ化」と呼んだ。

 ここまで読めばわかる通り、ドゥルーズ哲学にはある種の心理学的とも言える側面が強い。しかし、彼自身は心理学にも精神分析にも否定的であった。後のガタリとの共著でも知られるように、彼はフロイトを(多少参考にすることはあれど)徹底的に批判した。しかしそれでも、ドゥルーズは人間の無意志的/無意識的な側面を照らしだし、そのメカニズムを暴き出そうとした。そしてそれが彼の哲学において一貫したテーマであり続けた。これは間違いのない事だ。潜在的なものが現働化する。彼の哲学は存在の裏側を探る哲学である。ドゥルーズにおいて、「内在性」または「潜在性」の価値観とは、人が何かを考え行動する時、その裏では一体何が機能しているのかを把握するために用いられる。そしてそれに基づいて、彼は人間の在り方を問おうとする。よってドゥルーズ哲学の試みとは、心理学とも精神分析学とも違った形で人間の無意志的/無意識的な側面を暴き出そうとし、それに基づいて存在論を組み立てようとした点に特徴がある。

 苦悩に苛まれている時、人は自分がするべきことを知らない。否、何をすればいいかわからないからこそ悩み苦しんでいるのである。「正しい選択」というものは、いつも悩みを抜け出した後になって見出される。苦悩の内にあった当時を思い起こしては、「ああ、あの時ああすればよかった」と後悔する人が、この世にどれほどいるだろう。しかし、嘆きはいつもこちらが嘆く不幸を読み解くヒントを与えてくれる。人が何かに悩み苦しむのは、まさに自分が何に悩み苦しんでいるのかがわからないからである。そして、だからこそ何をすればいいのかがわからないのである。困惑の苦しみ、不可解なものへの恐怖。しかし、リルケも書いている通り、「もしそこに恐怖があるとするならば、それは私達の恐怖であり、そこに深淵があるとするならば、それは私達の深淵」なのだ。

 人は動くというよりも動かされるように生きているものだ。意識は常に無意識の反動である。ならば自分を無意志的/無意識的に突き動かしているものがなんであるかを知ることで、私達の苦しみは自ずと減るのではないか。ドゥルーズは自分の書物を「道具箱」のように用いることを推奨する。よってこの意味において、ドゥルーズ哲学は現代に類を見ない潜在性(ポテンシャル)を秘めた哲学だと言える。


 ドゥルーズの語る「差異」という言葉には三つの意味が推測される。一つは本性的な差異。人はそれぞれがそれぞれ、異なった意識の流れを持っている。ライプニッツの語るように、私達は皆外の世界に対して窓もドアも持たないモナドである。どんなに似通った観点を持つ人同士でも、そこには必ず何らかの差異がある。よってある人の本性的な差異とは、ある人の抱える傾向であり、またある人の生を貫く性質である。だから人生の中で、私達は何度も自分の本性の差異が何であるかを改めて、繰り返し(反復して)知るような場面に何度も出会うことになる。

 もう一つは、産出され続ける差異である。例えば今こうして私は文章を書いているが、その間にもこちらの筋肉は動き続け、私は一秒前の自分と差異化していると言える。あらゆる真実は時間の真実である。丁度物質がいくつかのものの構成関係で成り立つように、こちらの心理状態も複数のものの構成関係によって成り立つ。その構成関係に新しいものが増える(または新しく何かを喪失する)時、その構成関係は変化を強いられる。そして時間の経過と共に、人は運動することを強いられる。つまりは何かを得て失うことを強いられるのである。ある時には正しかったが、別の時には正しくないという現象はこうして生まれる。これらの事を踏まえるならば、産出され続ける差異、常に異なった瞬間が繰り返される(反復される)ことで私たちの生は更新されていると言える。

 そしてこの差異は別の差異との繋がりを持っている。情熱とは記憶の病である。私達が誰かに固執するのは、その誰かの存在のためというよりかは、その人にまつわる記憶のためだと言える場合が多い。学習とはいつも思い出すことと密接な繋がりを持っている。しかし、プルーストの『失われた時を求めて』を開ければわかるように、私達が過去の思い出を想起する時、そこには当時は感じなかった感情さえをも感じている。過去の時間、現在とは異なった(差異のある)時間を思い起こす時、私達はその時間の持つ新しい側面を生きているのだと言える。それこそ純粋記憶と記憶イマージュの関係である。映画のワンシーンで、観ている当初は特に重要とは思えなかったものが、のちに何か非常に意味のあるようなものに思えてくる。今現在新しく生きている瞬間とは、別の側面から見れば既に生きられた時間なのである。私達の現在には、常に今は生きられない余白がある。新しい気づきとは、常に過去の瞬間( = 差異)が繰り返される( = 反復される)時においてのみ訪れるのである。


 中期以降のドゥルーズ哲学において最も重要と言える概念、それは「器官なき身体」である。しかしその解釈の仕方には、共同制作者のガタリとの間にさえ差異があったらしい(宇野邦一氏に宛てた手紙を参照)。ではドゥルーズ哲学において、「器官なき身体」とは一体何を意味するのか、それについてを次に考えていきたいと思う。

 器官なき身体とは何か。彼の書き残したフランシス・ベーコン論によれば、それはむしろ身体の消滅だという。ドゥルーズスピノザからニーチェに至るある一つのモチーフに基づいて自らの思索を展開する。つまり、「私達は身体が何をなすのかをまだ知らない」のである。ベーコンの絵画においては、描かれるキャラクターが醜く歪み、非人間的な変容を遂げながら絵の中心で絶叫していることが多い。しかしベーコン自身は、それについてこう語っている。「微笑みを描くつもりが叫びになってしまった」と。

 器官というものはそれが周囲に持つ関係によって規定される。鼻は周りの匂いを嗅ぎとるからそこにあると言える。言い換えるならば、一つのものの存在とは、常にそれが周囲のものと抱く関係によって定義付けられるのだ。ベーコンの絵画においては、人物のいる世界 - 物語を決定づけるような風景(草木、花、川の流れなど)が欠如している。代わりに背景を占めるのは、単色である。ベーコンの絵画には赤や黄色などの単色が風景の代わりとして機能している。そしてその中心でキャラクターが絶叫している。笑おうとしたけれど叫ぶことしか出来なかったのである。

 これは一体何を意味するのか。何故微笑みが絶叫にならざるを得なかったのか。器官なき身体の話に戻ろう。先述の通り、器官なき身体とはむしろ身体の消滅である。では何故一体身体は消滅せざるを得なかったのか。それは身体が「器官なき身体」に耐えられなかったからである。

 ドゥルーズスピノザ = ニーチェから身体の可能性という考え方を受け継ぐ。私達は自分の身体が何をなすのかをまだ知らない。人間の生( = 身体)には、まだ汲み取りきれていない潜在性がある。たとえば感情。突き詰めて考えるならば、私達が言葉でいい表せる感情など存在しない。何故なら、人は自分の内にある潜在的な気持ちを完全に知ることが出来ないからだ。前述の潜在性と現働化の、「ドラマ化」の話に戻ろう。人は常に、自分の知っているものに寄せることで何かを考える。言い換えるならば、人は自分の感情を他人の言葉という仮面を通さなければ語ることが出来ない。

 例えば頭の中で考えていることを、そのまま口に出そうとしてみる。そのとき私達は、誰もが自分の思っている通りの言葉を口にしていないことに気がつく。必ずどこかで言葉を濁したり、または何と表現すればいいかわからずに口ごもったりしてしまう。このことからもわかる通り、私達の本心は、常に、決して語りえないものとして内在している。または、自分がいかに不幸かを語ろうとして口を開く時、いつも何処か言いすぎてしまったり、本来考えていなかったことさえをも話の流れから言ってしまったりする。自分の感情を完全に言い表そうとすると、いつも何処かで言い間違えをしてしまう。そして余計なことを口にしたと後悔してしまう。ここで私が思い出すのは、リルケの書いた次の詩だ。「世の恋人たちを見るがよい/やっと告白がはじまると/もう嘘を強いられている」

 悲しい体験の後に物憂げなバラードを聴くと、なにか自分が悲劇の主人公になった気分になる。その感覚があまりにも真実的なので、この感傷的な気分こそが自分の本心なのだと勘違いしてしまう。しかし、実際は違う。私達はよく真実的なものと印象的なものをごっちゃにして考える。だから、次のことを見落としてしまう。つまり、先ず最初に感覚がある。そして感覚が何かを感じ取り、それを言語化するために、私達は感覚を自分の知っているものに寄せていくのである。人が時に大袈裟に自分の感情を語ってしまう理由がそこにある。その人は自分の悲しみを語りたいが、メロドラマの中でしかその感情を見た事がないから、同じように何かを演じることしか出来ないのである。

 それを踏まえて言うならば、器官なき身体とは、言わば新しい感情を発明するために必要な概念である。私達は自分を知っているものに寄せていく。生活を営むなら、仮面をかぶり演技をしなければならない。では肝心なのは新しい仮面を発明することである。前述の通り、器官とは周囲のものとの関係によって規定される。私達の存在、私達の思考は、私達が普段生きて見聞できるものによって制約されている。しかし、スピノザ - ニーチェ - ドゥルーズの語ることは、つまりこうなのだ。私達の生には、まだ汲み尽くすことの出来ていない潜在性がある。この世の中には、同じ人間とは思えない所業をする人間が、なんと沢山いることだろう。人の冒す犯罪は、なんと多様多種だろう。他の動物には出来ない。まさに人間だからこそあのような残酷で、しかも想像も絶するような犯行がなされるのである。私達の肉体は、なんと複雑怪奇なものだろう。そこでは相反し、矛盾しているように見えるものが同居し、無秩序に見えるものが一つの秩序を形成し、一つの生を営んでいる。しかも、私達はそんな肉体の仕組みを未だ完全に理解し切れていないのだ。そうだ、私達はまだ身体がなにをなせるのかを知らない。無限大の潜在性を秘めた生の力能を、私達はまだ組み尽くすことが出来ていないのである。

 器官なき身体とは、ありのままの身体、ありのままの生、その潜在性(ポテンシャル)が制約されていない生のことを指す。では何故「器官なき身体」を目指した先にあるものが「身体の消滅」なのか。それは結局、私達が器官なくしては生きることの出来ない存在だからである。事件の話に戻ろう。日常に事件が介入することで法律は更新されていく。しかし、それで変わるのはごく一部分で、実際の大半は今まで通りに機能し続ける。私達の日常に事件が起きることで、時に私達の生活が一変することも有り得るだろう。しかし実際は、事件なんかが起きても私達の一部分が変わるだけで、生活は変わらずに、今まで通りに流れ続ける。それが現実だ。差異は反復されたところで、いつも中心に回収され、日常の一部となってしまう。否、そうでもしないと私達は日常生活を営むことも出来ないのである。

 この表象 = 再現前化の現実が、私達が生きる上で何処までも付きまとってくる。一般性とは虚構である。それぞれ異なった性質を持った人間同士が集まって生活を営むために生み出されたものである以上、基準となるべき一般性は常に実在しない何かなのだ。しかしその一般性の上でしか、更新され続ける中心としての一般性の上でしか、人は生きていくことは出来ない。そしてそんな虚構 = 一般性に合わせて生きていく以上、人の会話には絶えず嘘が付きまとう。日常会話とは暗号の交わし合いである。暗黙裏に規定された一般性 - 会話のルールに沿って、誰もが相手の顔色を伺いながら、その場で話すべきことがなんであるかを探っている。誰もが存在しないものに自分を寄せて生きている。誰もが自らの差異を表象 = 再現前化させている。

 時に、そんな虚構としての一般性に気づく瞬間とはいつか。言い換えるならば、日常会話には暗黙のルールがあり、それに従わなければ「日常」から疎外されることに気づくのはいつか。そう、それは会話の中でミスをした時である。ドゥルーズプルースト論の中で書いていたことだ。「罰を受ける前には、私達は法が何を欲していたかわからず、したがって有罪であることによってしか法に従うことが出来ず、私達の有罪性によってしか法に答えることが出来ない。(……)厳密に言うなら不可知であり、法は私達の処刑される身体に最も過酷な制裁を科す時にだけ、認知されるのである。」

 見えない法 = ルールに従うためには、一度法の中で過ちを犯すしかない。会話の中で「話してはいけないこと」を話した時、こちらを責めるような沈黙が流れ、またはこちらに敵意を向けるような眼差しが注がれる。もしくはそれが切っ掛けでこちらは憎まれ、攻撃され、疎外される対象となる。制裁が下された時にだけ、はじめて私達は一般性の存在を知ることが出来る。しかし一般性から逃れて生きることも出来ない。生活のため、目標のため、見栄のため、自分または他人のため、とにかく生きるには社会に自らを適合させようとしなければならない。社会から逃れるのが許されているのは、それこそ子供と老人だけだ。子供にはそもそも子供だけの世界がある(そして成長するにつれてそこから切り離されていく)。そして老人は、財産が出来たにせよ目的が果たされたにせよ、なんであれ老いることで社会の内にいる必要がなくなる。または孤独な生活を送ることが許される (言い換えるならば、青年や中年の人間達は孤独に生きることが許されていない。それは一般性から裁かれる対象である) 。老年に至るにつれて、人は幼少の頃に回帰していくというが、それは確かに事実かもしれない。

 さて、話を戻そう。生きていく上で、私達は自らを社会に投じるしかない。そして社会の内にいる以上、私達は一般性を生きるしかない。一般性を生きる以上、常にこちらを裁く暗黙のルール = 見えない法を感じなければならない。私達はその中で一度ミスをすることによって、初めてそこに暗黙裏のルールがあることに気がつく。言い換えるならば、心的外傷を得ることによって、初めて社会で「こうしなければならない」ものに気がつく。こうして自らの差異を押し潰し、一般性に自らを寄せていく現象が、表象 = 再現前化が起こる。しかし「傷つけられた」と感じている人は、同じように他人も傷つくことを願うものである。不幸な人の願いとは、いつも自分を不幸の中から引き上げてもらうことではなく、むしろ自分と一緒に不幸に苦しんでもらうことである。

 ルサンチマン。他者との世界を生きるということは、絶えずルサンチマンが付きまとってくるということだ。反省するということは過去を振り返るということだ。人はその時、過去から正しさを学ぼうとしているのである。よって反省(または内省)を覚えた時にのみ初めて私達は思慮深くなると言える。しかし、そもそも何故その人は過去を内省しようと思ったのか。それは現実で何らかの傷跡を負ったからではないか。そしてその傷跡が何故生まれたのか、何が原因なのかを探るために、内省的になったのではないか。よって、こうとも言える。私達が思慮深くなるのは、いつも心的外傷を得た時からではないのか。そして傷つけられたものは、いつも自分を傷つけてきた存在に復讐することを願う。生に苦しめられた人間は、生を悪と見なし、生を否定しようとする。しかしその時、生はそれが本来持ちうる力能から切り離されている……。

 ベーコンの書くキャラクターが微笑もうとしても叫ぶことしか出来なかった理由がここにある。私達の生には、まだこちらが汲み取ることの出来ずにいる可能性がある。もしそれを求めて生きるならば、私達は自ずと自らの本性の差異に基づいて生きることが必要となる。しかし自らの差異に基づいて生きる時、そこには必ずこちらを裁く一般性が現前することになる。だからこそ、微笑みを求めて生きるならば、自ずと絶叫するしかなくなるのである。人は自分の身体が何をなすのかを知らない。生には未だ汲み取ることの出来ない無限の潜在性(ポテンシャル)がある。しかし生の潜在性を求めて生きた時、器官なき身体の実現を求めて生きた時、そこに現れるのはむしろ身体の消滅なのである。ドゥルーズフィッツジェラルドの次の言葉を好んで引用する。「人生とは、無論、崩壊の過程である。」生の潜在性を追い求めて生きるならば、私達は崩壊の過程を辿るしかなくなるのである。


 ジル・ドゥルーズの生涯は自殺によって幕を閉じた。一九九五年六月、彼は自室の窓から身を投げて死んだ。七十歳であった。では、彼は病んだ末に死を選んだのか。否、そうではない。ドゥルーズニーチェの語る「大いなる健康」を求めて執筆を続けた。しかしそのニーチェにしても、晩年には発狂したのち死に至ったことがよく知られている。青白い肌をして、度々自殺願望に囚われては孤独の世界にこもろうとしたニーチェ。ではニーチェドゥルーズにとって、「健康」という言葉は一体何を意味するのか。そう、それはルサンチマンに苛まれ、一般性に裁かれても、それでもなお大いなる生の潜在性を求め、自らの本性の差異に基づいて生きようとするもののことである。

 プラトンも語る通り、苦痛と快楽というものは相反するように見えて実は一つのものである。ある人の感じる喜びの大きさは、そのままある人が今日までに感じた悲しみの大きさでもある。ならば、生きて苦しいのは当たり前なのだ。孤独に苛まれ、不安に神経をすり減らし、眠れない夜を幾度も過ごすことは、当たり前のことだ。喜びが大きくなれば悲しみも大きくなるのだから、それは避けられないことだ。強靭な生の潜在性を追い求めて生きるならば、私達は病んで絶望するしかない。しかし悲しみに捉えられた時、人は悲しみだけがこの世の全てであるかのような気がしてくる。そう、ルサンチマンの作用である。また悲しむ人は、いつも自分を悲しませるものを否定しようとする。生を悪とみなし、生が持つ潜在性から生を引き離そうとする。

 かつてドゥルーズはこう書いたことがある。「人は知っているものと知らないものの間でしか書くことがない」と。私達はいつも知っているものに基づいて知らないものを憶測する。そしてそこから新しい発見を導き出すのである。生を悪と見なし、生を否定することは、それ自体生を持てる可能性から引き離すだけでなく、同じあやまちを何度も繰り返すようこちらに強いるものだ。人はかつての経験を飛び越えることで新しい経験を得る。同じ経験に依拠していては、いつまでも同じ所に頭をぶつけることしか出来ない。安易に自分自身をドラマ化して語る人を見ると、何か胡散臭いようなものを、大根役者の演技を眺めてるように感じてしまう。ならば私達にとって「本物」を生きているように見える相手とは、それだけ自分だけのドラマを、差異のドラマを生きようとしている人のことなのだ(安易に他人の言葉を反復させるだけでない、差異のドラマ)。それはまた常に自分の生の潜在性を追い求める人のことでもある。

 よってドゥルーズニーチェの語る「健康な人間」とは、悲しみの現実を前にしてもなお新たなる喜びの潜在性(ポテンシャル)を追い求める者の事を指す。確かに、私達を悲しませるものは大きい。芸術家に精神を病んだものが多いのは、彼らが生の中に、自分にも他人にも大きすぎる何かを見出しているからだ。しかし、それでも彼らは生の持てる潜在性の発揮を追い求める。そこに潜む驚愕すべき魔力に魅せられてしまったからだ。そのような潜在的な力が解放された時、私達はこれまでに思いもよらなかったドラマを生きることとなる。確かに、その先には、もしかするとドゥルーズのように自殺する者の姿が、またはニーチェのように発狂する者の姿があるかもしれない。確かに、その場合の人生はフィッツジェラルドの語るような「崩壊の過程」になるかもしれない。しかし、それでもなお私達は生きることを求めてやまない。そこにある無限大の喜び、まだこちらの知ることの出来ない世界の潜在性に、そこに内在された恐るべき力能に、開放された未来へのあこがれに、魅せられてしまったからだ。大いなる健康を求めて、充実した身体を求めて、失われた生を求めて、器官なき身体を求めて……。

最近、あまり具合がよくありません。そんな状態で私は書いています。君のことをずっと考えています。君は苦痛を、まるでそれが思考との計り知れない関係であるかのように生きていますね。こうした思考の出来事を、どうやってよろこびに変えるか。(……)君は私より遥か先まで進んでいます。君の狂気が一〇〇ページ書くという条件を課してくるのは、書く動機としては、賭け事の借金と同じくらい良いですね。書く力が不足しているということは言い訳になりません。何故なら、自分自身の力不足によってはじめて人は書くからです。君のうちにある潜在力すべてを、君自身が感じずにいることなど、どうして出来るでしょう。恐らく君はあまりに傲慢で、あまりに深遠なだけなのではありませんか。君に対して、君が書く時にはその書き方に対して、敬意を抱いています。心からそう思うのですが、君は恐るべき戦場であり、友愛はそこからよろこびを、共犯性を引き出してくることが出来るのです。