21/04/08

 大まかに言えば、役者とは二通りの種類に分けられるものだと思われる。一つはどの演技を通しても同じキャラクターしか演じられない役者で、もう一つはそれぞれの演技によってキャラクターの性格がまるで異なる役者だ。前者には三船敏郎ホアキン・フェニックスが当てはまり、後者には森雅之イザベル・ユペールが当てはまる。技量として後者に勝るものはないが、しかしある一定のタイプを演じさせるならば、前者ほど真に迫るものはないだろう。

 ジャン=ピエール・レオーは、恐らく前者に当てはまる役者だと言える。別に彼の大ファンというわけではないが、何だかんだ彼の出ている映画は十作品以上観ている(もとい、ゴダールトリュフォーの映画をよく観るならば、結局彼の顔も観るようになるわけだが)。レオーの演じる役柄に共通する性格は、その大体が思い込みが激しく、神経質で子供っぽい、要するに気持ち悪い奴だということだ。ゴダールの『男性・女性』で演じたキャラクターも中々気持ち悪いが、やはり一番気持ち悪いのは『大人はわかってくれない』の主人公アントワーヌ・ドワネルの成長を追った一連のシリーズだろう。『アントワーヌとコレット』のレオーなど本当にひどい。映画館で出会ったコレットに一目惚れしたアントワーヌ( = レオー)は、彼女のしりを追いかけるあまり、ある日彼女の家の隣にまで引っ越してくる。突然、なんの脈絡もなく、である。だいぶ痛々しい。共感性羞恥に襲われる。初めてそのシーンを観た時、思わず笑いながら「ああ、キモいな」と独り言をいったのをよく覚えている。

 無論、実際のジャン=ピエール・レオーが彼の演じる役柄のように気持ち悪いとは思わない。作者とその創作物は常に別物であるのと同様に、役者とその演技もまた別物だ。それに、いくらジャン=ピエール・レオーの演じる役柄がキモいからといって、それを演じる彼自身は中々の男前だ。『家庭』に『恋のエチュード』、それにひげを蓄えた『豚小屋』のレオーなどは、思わずハッとするほどの美青年だ。私はレオーの演じる役柄に共感性羞恥を覚えるが、しかし生憎、レオーは私よりも顔がかっこいいのである。おまけに体つきもいい。二十代の頃のレオーはミケランジェロの彫刻のように美しい肉体をしている。皮肉な話だ。

 単刀直入に話そう。先日ある女性に告白したのだが、フラれてしまったみたいだ。上手くいくかと思ったのだが、結局こちらの思い込みだったらしい。ああ、俺はだいぶ痛々しい奴だなと思う。こんな事は書く必要もないのだが、先日書いた内容に応援のコメントを頂いてしまったので、白状するのが義理かと思われて書いてみた。今日までの人生で、自分は小説や映画に触れすぎてしまったと思う。おかげで現実もフィクションと同じように都合良く進むのだと勘違いしてしまった。一体なんのために今日まで頑張ったのか。全く馬鹿らしい話である。

 いくつかの後悔がある。その内の二つだけ語ろうと思う。一つは友人に多大な迷惑と心配をかけてしまったことだ。そしてもう一つは、何故この数年間何もしなかったのかということだ。数年前の今頃、もっと違った形でチャンスを得る機会はあったはずだ。それは当時の自分にもわかっているはずのことであった。しかしそれが出来なかった。ああ、いつもそうだ。私はいつも、生きる時間があまりにも遅い。他の人がすぐ気がつくことにも、いつも遅れを取ってしまう。

 まあ、人生などこんなものだ。そう言い聞かせながらこの二、三日を過ごしている。やがてここ一ヶ月の異常さは過ぎていって、今まで通りの生活に戻るだろう。そう、普段通りのキザで体面ばかりを気にする自分が復活するわけだ。それはある意味では自尊心がよく保たれた生活だとも言える。しかし何故、どれだけ足掻いても自分は舞台の上の主人公になれないのだろう。何故私は、他の人が平気で出来ることが出来ないのか。ああ、悔しい。私の人生は、本当に糞みたいな後悔ばかりだ。


 ここ二、三年の間、ほとんど毎日のようにドゥルーズの本を開いている。去年の夏くらいから「あとちょっとで理解出来る」気がしているのだが、結局いつも「自分はまだ何も理解出来ていない」という結論に落ち着くのである。あと少しで手が届く。そうかと思うと次の瞬間にはまだ道のりが長いことを知る。たとえばそう、彼の書いたフランシス・ベーコン論にしても、理解出来ている点と理解出来ていない点の差が激しい。これは自分が絵画を始めとする西洋美術にまるで明るくないというのも理由の一つだと思われる。力能や器官なき身体の話は楽しんで読めるのだが、色彩等の話は読むのに忍耐を強いられた。きっとこれからも、繰り返し読むことが求められるだろう。

 思うに、人類の歴史とは見えないものを見えるものに変えていく可視化の過程である。かつて私達の目の前に、どれほど多くの説明不可能なものがあったかしれない。そしてどれほど多くの理解不能なものが、どれほどの多くの非合理的なものが立ちはだかったことか。私達の文明は、それら「目に見えないもの」を「見えるもの」に変えていくことで発展したとも言えるのではないか。それはつまり、非合理的かつ説明できないものを、合理的かつ説明可能なものへと変換していく過程である。人間の持てる知性の役割とは、非有機的でありまた混沌としたものを、有機的かつ整然としたものへ置き換えることにあるのだ。

 一方で、この知性 - 合理性の発達には、感覚 - 非合理性の侵入が必要不可欠である。何故なら、私達は説明の難しいものを前にした時にしか、「説明」という手段を試みないからである。非合理的な感覚の侵入は、いつも私達の信じている合理的( = 説明可能)な世界が「間違い」であることを突きつけてくる。だからこそ、新しい発見にはいつもヒステリーが伴う。そこには恐怖が伴い、かつて知っていた世界に対する失望が、それ故の悲しみが伴う。そしてこのような恐怖 - 失望 - 悲しみに襲われた時、人は自ずと叫ばざるを得ない。そう、丁度ベーコンの絵画の中のキャラクターがそうであるように。

 時に、上記のベーコン論の中で、ドゥルーズはこう書いている。「落下においては、まさに緊張そのものが体験される。カントは瞬間において把握される大きさとして強度を定義し、強度の原理を明らかにした。つまりこの大きさに含まれる複数性は、否定 = 0への接近によってしか表象されないと、彼は結論したのである。」

 落下。なにか自分にとってあまりにも大きなもの(大きすぎるくらいのもの)を感じ取ってしまった時、人はよく自分が落下するような感覚に襲われる。それは感覚から知性に訴えかける暴力を感じ取る瞬間でもあり、また思考を強制する暴力を、こちらに「叫ぶこと」を強いる暴力を感じる瞬間でもある。「ベーコンは自身について、頭脳的には悲的であるという。つまり、描くべきものとして、彼には恐怖しか、世界のもろもろの恐怖しか見当たらない。」

 感覚を通して、「見えないもの」の力が、説明できないものの「恐怖」が私達を襲う。しかし、それら暗闇にあるものを通して、私達は自分の内にある別のものの姿を見いだす。そう、かつて自分が信じていたのとは異なる別の真実の姿である。そしてそれを光の方へと暴き出すこと。その時、私達の生は新たなる方へと更新されていくのである。

「闇との闘いだけが、現実的な闘いである。視覚的感覚が、それ自体の前提となる見えない力に直面する時、視覚的感覚は、この力に打ち勝つ、あるいはこの力を味方につけるひとつの力を抽出している。生は、死に対して叫ぶのだが、まさに死はもはや私達を破滅させるあの見えすぎのものではない。死はあの見えない力であり、生は叫びながら、それを検出し、白日にさらし、見えるようにするのである。死は生の視点から審判を受けるのであって、その反対の状況に得々としているのではない。ベケットに劣らずベーコンは、非常に強度な生、より強度な生の名において語ることの出来るあの作者たちに属している。ベーコンは死を「信じる」画家ではない。具象的[ = 説明可能]なレベルの悲惨主義はすべて、益々強まる生の図像に奉仕するのである。」

 ドゥルーズはかつてこう語った。「死の芸術などなく、あるのは生の芸術だけだ」と。感覚を通して、私達は今の自分では到底担えないほど大きな「力」を見出す。その「力」は、こちらが普段生きている世界の常識を破壊し、時にはこちらをうち滅ぼす程の潜在性を秘めているものだ。だからこそ、私達は生の持つ驚異的な「力」に触れた時、自分が落下するような感覚に襲われる。骨から肉がすべり落ち、身体が歪曲化され、笑おうとしても叫ぶことしか出来ない。その瞬間があまりにも印象的なので、悲しみこそが、恐怖こそが、死こそが私達にとって本質的なのだと勘違いしてしまう。しかし違う。人は死と暗闇を思わせるものの中から、こちらを恐怖させるものの正体を暴き出し、それを生と光の方へと掲げることによって、それを克服していくのである。そしてその瞬間にこそ、私達の持てる「力」の潜在性が発揮されるのだ。それはつまり、私達の持てる力能が開花する瞬間であり、また偉大なる芸術作品が誕生する瞬間でもあるわけだ。


 昔から、顔のない人間になることに憧れがある。シェストフはかつてこう書いた、「作家とはある程度自分に対して無関心であるべきだ」と。別に職業作家でもない自分がこう書くのもなんだが、自分もある程度そうありたいと心がけている。つまり、日常生活においても、または文章を書く時においても、ある程度自分自身に対して無関心でありたいのである。

 時に、こちらにとって親しみやすく感じる作品とは、それだけこちらに作者の顔を連想させるものである。中には作者の顔に触れるために作品に触れようとする人もいるだろう。

 何年もの間、何らかの形で自分の作品を残したいと思いながら、それが出来ないでいる理由はそこにある。そう、他人に「ああ、この人はこうなんだな」と勘ぐられるのがたまらなく嫌なのだ。無論、そもそも人目につくのかという問題もあるだろう。しかし作品を発表して、それが人目につくようになったとしよう。それで見知らぬ誰かから「ああ、あの人はきっとこうなんだな」と思い込まれる。場合によっては、「病んでる」とか「可哀想な人だ」とか思われるかもしれない。考えるだけで最悪だ。私の人柄などどうでもいいではないか。私は人が嫌いで本や音楽に没頭したのに、何故そっちの方でも人に付きまとわれなければならないのだ。

「なら作品を残そうとしなければいいではないか」という意見も挙がるだろう。なるほど、それはその通りだ。しかし生憎いまの自分はそれくらいしかやりたい事がないのである。自分が文学なり音楽なりに固執するのにはいくつか理由がある。先ず第一に、上に書いた通り、それくらいしかやりたいことがないからだ。他の多くの人と同じように、自分が読書なり音楽なりに熱中し始めたのは思春期の頃からである。その頃、私に感銘を与えてくれた作家達は皆 神様のように思えた。こんなにも凄い作品を同じ人間がつくっているなんて。信じられないことだ。あの時の感銘または感動が忘れられないから、結局今日まで「それら」にしがみついてきたというのもあるだろう。第二に、自惚れであるかもしれないが、多少なりとも自分にその方の才能があると感じている。今日まで惰性でこんなブログを続けてきたが、その理由もそこにある。そして、それがそのまま第三の理由に繋がる。

 ドゥルーズはかつて「その人固有の力能が行使された時にこそ喜びが手に入る」と考えた。こうして長ったらしい文章を書いている時にのみ得られる喜びというのがある。この喜びの正体がなんであるのか、それもこの考え方によって説明がつくだろう。恐らくこの喜びは、レスラーが重いものを持ち上げた時に感じるそれや、または陸上選手が思い切りよくグラウンドを走る時に感じるそれに近い。

 それに対して、「文章を書くことそれ自体に喜びを感じるならば、わざわざ人目にそれを晒す必要も無いだろう」という意見が予測される。それに対しては、「文章を書くという行為はある程度精液的な性格をしている」とでも言えばいいだろうか。丁度オナニーをして、シゴいた性器から精液が溢れ出るように、文章を書くという行為には、発散して、それと同時に外部 -他者に溢れ出るという作用があると思われる。少なくとも私にとって、文章とはある程度精液的なものだ。

 こうして自分以外のことについて語っている時が、一番饒舌に文章を書くことが出来る。ドゥルーズの話をしている時など、恐らく普段の会話の中よりも遥かにいきいきとしている。しかし、どんな芸術もある程度個人の経験に基づかなければ生まれ得ない。創作には常に創作者自身の実生活が関わってくる。そういう意味では、作品を残すということは、ある程度他者に自分を露出するということだ。しかし、本心をいえば、私は誰にも「本当の自分」なんてものを考察されたくないのである。否、一人か二人の親密な相手にならいいだろう。むしろその方が嬉しいくらいだ。しかし、それ以外の誰にも「本当のあなた」なんてものを想像されたくない。こちらの弱みに触れてくる場合など最悪だ。自分が「病んだ人間」だとか、「可哀想な人」だと思われているのを考えると、とても惨めな気持ちになる。いじめられてる気持ちになる。誰にいじめられた訳でもないのに、泣き出したいような気持ちになる。放っておいてくれと言いたい。

「ではこちらにそれを悟らせないだけの作品を創ればいいのではないか」という反論が次に予測されるだろう。なるほど、それはその通りだ。しかし生憎、私にはそれを実現するだけの技量がないのである。要するに、八方塞がりなわけだ。

 あと一年後には、私も二十五になっている。二十五歳。ベートーヴェンによれば、それは男の全てが決まる年だ。いつまでもこんな風にウジウジしていることは出来ないだろう。何処かで、なんらかの形で折り合いをつけなければならない。それが最近の考え事である。