21/04/12

「理論的にも実践的にも嫌気がさすのは、生に対するあらゆる類の不平不満であり、悲劇的な文化全体であり……すなわち神経症なのです。」


 実は今、書きたいと思っている小説が二つある。どうせ他に書くこともないので、とりあえずそれについて書いてみようと思う。

 一つは画家志望の青年を主人公にしたものだ。面白い作品というものは、話の筋書きというよりかはむしろ作者による話の描き方が面白いものだ。まあ、そうなるとこちらの手腕が問題となるわけだが、個人的に書きたい小説は、いつだって物語が面白いというよりかはむしろ物語の描かれ方が面白いものである。ストーリーは至ってシンプルなものにしたい。ただ一人の青年が異性に出会い、その過程で何らかの変化を体験し、その変化の過程と結果を綴りたいのだ。周知の通り、変化というものはかつての自分と自分の出会った対象(体験、または出来事)との間で生じる。だから変化にはよくドラマがつきまとう。私が興味を惹かれるのは、この対象 - 体験 - 出来事とそれを突きつけられた人物との間で生じる「揺らぎ」である。何故なら、この揺らぎ - 変化の中にこそ私達の生を更新する発見が含まれるからだ。何か一つの体験が私達の内を通過する。それによって、かつての常識では説明のつかない「何か」がうごめくようになる。それが何であるかを突き止めようとすること。こうして人は思慮深くなっていくものだ。よって、変化の過程を描くということは、それ自体劇の舞台が稼働することを意味する。

 小説の中で異性との出会いを描くのは、それが装置として機能することを期待しているからだ。恋愛小説には主に二つの種類があると思われる。一つは読者を舞台の上に引き上げる小説である。作品の中に見られるロマンチックな描写(またはセリフ)が、読者の心を酔わせ、作中の二人が溺れる官能のうちへと読者を引きずり込むのである。そしてこの時、作者もまた作品の中で描かれる官能の世界に溺れている場合が多い。私は高校の頃に夏目漱石の『三四郎』が大好きだったが、その内に次のような描写がある。「その時 透明な空気の画布(キャンバス)の中に暗く描かれた女の影は一足前へ動いた。三四郎も誘われたように前へ動いた。二人は一筋道の廊下のどこかですれ違わねばならぬ運命をもって 互いに近づいて来た。すると女が振り返った。明るい表の空気の中には、初秋の緑が浮いているばかりである……」はじめて読んだ時はどれほど胸をときめかせたか知らない。まさに読者を酔わせる描写である。

 もう一つのタイプは、読者を舞台の外に立たせる小説である。「フランス文学」と聞くと、気品があってロマンチックな印象を思い浮かべる人が多いだろうが、案外古典的なフランス小説には冷めた(傲慢とも言うべき)態度で描写が綴られる場合が多い(スタンダールやラディケがそのいい例だ)。そのような作品において重要となるのは、「舞台」の外にいる者の苦悩である。恋愛中の人間は、皆どことなく自分を物語風に見せようとする。しかし、中にはそんな自分(または他人)を冷めた目で見る人もいるだろう。そして、そのような人物を主人公とした時、恋愛小説の主題は「ふたりの人間がいかにして結ばれるか」というよりかは「いかにしてこちらを苦しめる自意識と向き合うか」になる。私が描きたいのはこれである。一つの出来事 - 体験を通して、私達の内側で何か大きなざわめきが生じることとなる。問題はこのざわめきをいかにして克服し、自分の生を新しい方向へと更新するかということだ。

(とは言ったものの、絶えず冷たい描写を続ける恋愛小説というのも少ない。よって上の二つの要素のどちらもを含んだ恋愛小説というもの多いと思う。)

 話を元に戻そう。そう、書きたい小説の話だ。「画家志望の青年を主人公とした小説を書きたい」と書いたが、この際、私にはどうしても描きたいことがある。それは、この主人公にずっとイライラしていて欲しいということだ。前述の通り、変化とはかつての自分と自分の出会った対象との間で生じる。しかし、変化はいつも必ずよいものをもたらすわけではない。むしろあらゆる変化には喪失がつきまとう。だから人は変わること(変わってしまうこと)を悲しむべきこととして捉えることが多い。主人公が何らかの出会いを通して変化するならば、それはこれまで通りの生活が何らかの形で失われることを意味する。だから人によっては、変化のさなかで落ち着きを失い、不安にさまよう場合もあるだろう。よって私の主人公にはイライラしていて欲しい。前述の通り、変化には喪失がつきまとい、喪失には苦悩がつきまとう。もし変化の過程を描く小説があるとするならば、そこで描かれる主人公はずっとイライラしているべきではないか。

 これは個人的な趣味の表れでもある。深刻な面をした人間というのは、一歩引いてみると結構滑稽に見えるものだ。誰かに真剣に向き合おうとしてイライラしている主人公は、冷静に見れば自意識過剰なキモい奴である。ここにユーモアが発動する。モリエールは喜劇作家として知られているが、しかし冷静になって彼の作品で起こることを眺めてみると、それが大分悲惨なことがわかる。要するに、笑いと不条理は切っても切れない関係にあるのだ。私は笑える小説が書きたいのである。


 もう一つ、書きたい小説の話をしよう。これについてはもう数年前から書きたいと思っていて、内容としてはフィッツジェラルド風のものだ (禁酒法時代に密売で成り上がる『グレート・ギャツビー』)。舞台は現代。主人公はクラブで働いていて、周りには薬物の話が飛び交っている。そんな場に身を浸す彼自身もやはりちゃらんぽらんな生活をしている。しかしある日、彼は偶然、自分とは正反対の女性に出会う。繊細で、生真面目で、潔癖とも神経質ともいえる性格をしている女性だ。遊び人のような日々に身を浸す彼だが、実は作家になることへの憧れがある。そして何処かでこんな生活から抜け出したいと思っている(またはいつかこの生活と足が切れると信じている)。小説の内容は、そんなちゃらんぽらんな主人公がある女性と知り合う過程で、自分の内にある忘れていた潔癖さを思い出していくことにある。

 個人的に、この小説を書く上で取り上げたい要素が二つある。一つはインターネット (またはSNS) である。

 問題というものは、いつもそれが提起された場所や環境と密接な関係を持つ。どんな問題にもその時代固有の性質が含まれている。先程、私は「変化の過程を描きたい」と書いたが、それはあらゆる問題が変化のさなかでなければ見出されないからだというのものある。そして、私の好きな作家達は皆、作品を通してこちらに一つの問題提起をしてくれていた。現代において、インターネットは第二の現実である。もしこの時代特有の問題を描くとしたら、私達は自ずとインターネット/SNSに向き合わなければならなくなる。

 二つ目の書きたい要素は、薬物だ。ブロンにハイプロンのような合法的なものでも、または大麻LSDのように違法なものでもいい。少なくとも私の周囲では、薬物経験者の方が多数派で、薬物経験のない人は間違いなく少数派だ。自分は別に薬物がいいとも悪いとも思っていないし、また薬物中毒者でもない。ただ、現代に生きる若者を描くのならば、ひとは自ずと薬物に言及しなければならなくなる。

 小説の話に戻ろう。先程も書いた通り、私はフィッツジェラルド風の小説を書きたいと (数年前から) 思っている。理由は単純だが、しかし少々個人的なものである。当時、私にはとても仲の良い友達がいた。この小説は彼女との思い出のために書きたい。

 私の愛した友よ。君は元気にしているだろうか。ヒロインは勿論、この友達がモデルである(私にとって、「友達」という言葉は非常に大きな意味を持っている)。あれは繊細で、内気で、気難しいひとだった。いつも私に対してイライラしていた。そのくせ、私がその事を指摘すると怒られた。当時、どれほど理不尽な目にあったかは計り知れないほどだ。しかし、それでもこの友との思い出は、本当に美しいものとして脳裏に焼き付いている。出来ればいつかまた会いたい。そう思いつつも、結局今日まで会えていない。そもそも私を許してくれるのかが、私と会ってくれるのかが不安である。

 ずっと書きたいと思いながら結局今日まで書いていない理由もそこにある。前述の通り、私はユーモアを愛している。感傷的で辛気臭いのはきらいだ。単純に不愉快で耐えられないからだ。ただ、こうしてあの友のことを思い出していると、何だかとても悲しい気持ちになる。私はよく彼女に嘘をついた。していることをしていないと言い、していないことをしていると言った。そうでもしないと彼女が去ってしまうと思ったからだ。友が私の嘘に何処まで気づいていたかはわからない。ただ、彼女のことを考える度に、自分がとても悪いことをしたような気持ちになってくる。彼女はよく私を責めた。そもそも私と彼女では生きている世界も違うのかもしれない(自分がそんな変な世界を生きているわけでもないのだが)。ただ、あの美しい友情の日々は、他では得がたいものとして私の胸の内に残り続けている。あれは本当に稀有なものだった。あんな友情は、これまでにもこれからにも二度とありえないかもしれない。

 彼女との友情について悩んでいた頃、私はクンデラの本を好んで読んでいた。彼の本は他にもいろいろと開いてみたが、何だかんだ言って一番好きなのは『存在の耐えられない軽さ』である (ミーハーと言われるかもしれないが)。

 かねてから、クンデラのような小説を書くことに憧れがある。クンデラにおいては、物語に無関係なものが物語と同等かそれ以上の価値を持っている。前述の通り、作品を面白くするのは物語の筋書きよりかは物語の描き方である。ユゴーにしてもドストエフスキーにしても、あらすじだけでは語りきれない所にこそ彼らの面白さがある。『存在の耐えられない軽さ』の場合、プレイボーイの外科医トマーシュと生真面目な女性テレザの二人を軸とした物語と同時に、ニーチェ永劫回帰の話が語られ続ける。彼の小説においては、非 - 物語が物語と同時進行で描かれ続けるのである。

 私はこの「非 - 物語」の装置に昔から憧れている。物語でないものが物語の内に介入する。それによって物語が一層面白くなるわけだ。はじめに書きたい小説として挙げた例の「画家志望の青年の話」だが、その設定をわざわざ「画家志望」にした理由もそこにある。実をいえば、私は絵画や彫刻といった西洋美術に全く詳しくない。ただ好きな哲学者なり文学者なりが(リルケロマン・ロランドゥルーズ等が)絵画論を残しているから、その影響で「画家志望」という設定を思いついたに過ぎない。願わくばこの設定が、『存在の耐えられない軽さ』における永劫回帰の話と同様に、一つの「装置」として働いて欲しい。つまり、物語と同時進行で進み、時には物語の内容に影響を与え、または物語を覆す非 - 物語の装置として、である。

「文学」というジャンルは二十世紀以降の諸文化において重要なファクターを担っている。映画と哲学がそのいい例だ。ブレッソン黒澤明は、自らの映画の下敷きとしてドストエフスキーの小説を選んでいる。ハイデガーサルトルは、哲学と同じくらい文学から影響をこうむっている。しかし、次のような場合もありうるのだ。つまり、九十年代以降のエレクトロはヒップホップの影響なしに語れないだろうが、二〇一〇年代以降のオルタナティブ・ヒップホップもまたエレクトロの影響なしには語れないのである。

 これと同じようなことが、文学と映画/哲学との間にも生じていいのではないだろうか。もし文学が映画や哲学に影響を与えたのなら、映画や哲学が下敷きとなった文学があってもいいのではないだろうか。『存在の耐えられない軽さ』のクンデラは大学で映画の勉強をしていた。だから彼の小説では、カット割りのように物語の進行が展開される。そしてそれと時を同じくして一見すると無関係な哲学の話が続く。こうしてそれらの要素が一体になることで、彼の小説では他では得られない感動が生じる。私にそれだけの技術や才能があるかはさておき、いつかあのような感動を生み出せたらなと思っている。

 小説の話に戻ろう。遊び呆けて生きる主人公と、潔癖で生真面目なヒロイン。この二人の構図は殆どそのまま『存在の耐えられない軽さ』から取っている。しかし、(数年前から案があるくせに) 小説の終わり方はまだ決まっていない。実を言うと、最初に書いた「画家志望の青年」の話の方は (後から思いつたのに )終わり方も既に考えられている。が、それも多少なりとも『存在の耐えられない軽さ』を意識したものとなっている(しかしそれ以上にポール・トーマス・アンダーソンの『ファントム・スレッド』を意識している)。

 上に書いた物語と非 - 物語の同居以外にも、『存在の耐えられない軽さ』には特筆すべき面白さがある。それはその終わり方である。

 主人公のトマーシュは、プレイボーイだが優秀な外科医でもあり、その名は国際的にも知られている。しかし、彼はそれをヒロインのために少しずつそれを失っていく。 物語のはじめでは国際的な外科医だったが、気がつけば彼は街の窓拭きに成り下がっている。そして窓拭きの次は田舎のトラック運転手だ。傍から見れば、その転落の様は悲劇的である。にも関わらず、彼は小説のラストでこう言うのだ。つまり、「自分は幸せだ」と。

 この小説を新しいと思う点がもう一つあるとすればそれである。同じ二十世紀の小説でも、その初頭に出版された『ジャン・クリストフ』には次のような文章がある。「……人生とは容赦なき不断の闘争であって、一個の人間として名に恥じぬものになることを欲する者は、目に見えない数多の敵軍や、自然の害力、濁れる欲望や暗い思考など、人を欺き卑しくし滅ぼそうとするものの全てと絶えず闘わなければならないことを、彼は知った。自分はまさに罠にかかるところであったことを、彼は知った。幸福や恋愛はちょっとした欺瞞であって、人の心をして武器を捨てさせ地位を失わせるものであることを、彼は知った。」

 私は『ジャン・クリストフ』が『存在の耐えられない軽さ』と同じくらい (もしくはそれ以上) に好きな小説なのだが、この描写は非常に象徴的なものだと言える。つまり、所謂「天職」を持つ人間(芸術家など)は、個人の幸福よりも大きな使命 に生きるべきだということである。近いことは『失われた時を求めて』にも言える。社交界の軽薄さ、恋人の嘘、思い出の虚しさ。それらに苛まれた『失われた時』の語り手は、芸術作品にこそがそれを償う手段があるのだと気づく。そして彼が小説を書こうとすることで『失われた時を求めて』は終わる。

 ここでもまた見受けられるのは、個人の幸福よりもそれを超越する高次なものへの追求であり、その姿勢である。同様の姿勢はドゥルーズ哲学にも見出される。彼はこう書いている。「生きられた身体は、もっと深い、殆ど生きがたい〈力能〉に比べれば、取るに足らない。」言い換えるならば、それは「個人の生よりも個人を上回るほど大きな潜在性(ポテンシャル)を秘めた生の力能を解放する方が重要だ」ということである。

『存在の耐えられない軽さ』の終わり方が斬新である理由はそこにある。芸術家志向の人間というものは(自分の性質に基づいて生きようとするものは)、「自分には幸福を犠牲にしてでも追いかけるべきものがある」と思い込んでいるものだ(実際、私もそうである)。もとい、そのような追求があったからこそ、今日まで沢山の芸術作品が生まれてきたのだろう。しかし、『存在の耐えられない軽さ』はそれを否定する。トマーシュは、芸術家ではないにしても天職に生きる者である。しかし、彼はそれをなんの躊躇もなく犠牲にする。プレイボーイで毎日のように違う女性と遊んでいたのに、それすらも辞めてしまう。何故か。その理由は「妻が悲しむから」である。彼は個人を超越した高次のものの追求よりも、個人にとって身近な幸福を優先したのである。〈「あなたにとって仕事はすべてよ。でも、私は何でもできるわ。私にとってはなんでも同じよ。私は何も失ってないわ。あなたは何もかも失ったの」/「テレザ」と、トマーシュは言った。「僕がここで幸福なことに気づかないのかい?」〉


 再び小説の話に戻ろう。そう、あとは夢の描写や、幻視的 - 幻覚的な描写を多く書ければなと思っている。ベルイマンフェリーニの映画では、シュルレアリスムとは違った形で非現実が現実に介入する様が描かれている (死神が登場し、正体不明の魚が海岸へと打ち上げられ、正気と同じくらいの狂気が描かれる……)。しかし、彼らの作品がシュルレアリスムと異なる最大の理由は、幻視的 - 幻覚的な描写を除けば、その作風が徹底したリアリズムであることにある (リアリズムの本質とは、作品が現実であったことかのように錯覚させるほどの虚構を、作品の中にでっちあげることだ) 。

 フーコーはかつてこう語った、「私は決してフィクション以外のものを書いたことはない」と。恐らく、彼はよく理解していたのである。現実においては、フィクションが現実と同じかそれ以上の力を持っていることを。そして実生活においては、現実よりもフィクション - 嘘に突き動かされて何かをする人の方が遥かに多いということを。そういう意味では、フィクションは現実と競合し、時には現実を覆すのだということも、彼は理解していたに違いない。


 最後に、最近あった面白い出来事を書いてみよう。

 その日、私は仕事を終えて渋谷にいた。渋谷にはよく足を運ぶ。理由はスクランブル交差点近くにある大きなツタヤに寄るためだ。あそこなら観たい映画の大体が DVDで揃っている。もとい、渋谷のツタヤのおかげで沢山の映画を観れている。 トリュフォーの映画も借りれる範囲で全部観た。次はどの監督を制覇しようか。こうして何かを征服することの喜びは、いくつになっても忘れられそうにない。

 そう、その日もまた、私はいつも通り渋谷のツタヤにいた。そしてそこにある膨大な量の商品棚を注意深く眺めていた。すると、片手に持っていたスマートフォンのランプが点滅し始めた。画面を眺めると、ある友人からのメッセージが届いていた。そこにはこう書かれていた。「エヴァのチケットが手に入ったからあげる」と。

エヴァ』は、別にファンではないが、一応テレビアニメの方は全話観ている。旧劇も観た。新劇の方は、『Q』を除いては全部観ていた(しかしもう八年以上前の話だ)。再度ことわっておくが、私は別に『エヴァゲリオン』のファンではない。もしファンであるならば、公開してすぐ映画館に足を運んでいたであろう。まあ、それでもやはり気になってはいた。追って来た連絡によれば、場所は新宿TOHOシネマらしい。近い。「持つべきものはやはり友だな。」この時に限って実に都合のいい言葉を思い浮かべた。私はその友人に感謝のメッセージを送って、十九時半からエヴァンゲリオンを観ることした。その時、時刻はその一時間前であった。

 やがて新宿に着いた。そしてどういうわけか、あんなに余裕があったはずなのに、私は遅刻しそうになっていた。そう、DVDを選ぶのに熱中していたら時間がかかってしまったのである……。新宿に着いたとき、時刻は十九時二十分であった。映画が始まるまであと十分。恐らく映画が始まる前に新作情報などのコマーシャルが流れるだろうから、今から何とか間に合うであろう。が、生憎その「新作情報」というやつがどれくらい流れるものなのかは私は知らない。普段新作映画を観に足を運ばないからだ。行くとすればリバイバル上映の時ばかりだ。そしてリバイバル上映には新作情報が流れないのである。

 私は焦った。だから走った。人混みの中を走り、ネオンの明るい街並みを走った。ふと、お腹がすいた。思えば今日は昼食を抜いていた。その事を思い出した。しかしこんな事もあろうかと、私はコンビニでサンドイッチを買ってあった。水面にもぐり込むように、半開きになったバッグへ手を突っ込んだ。左手は獲物を探る魚のように動き回っている。そしてついに目的の品を見つけた。それを取り出すと、自分の目の前まで掲げた。私はサンドイッチを食べた。食べながら走った。そして思った、「俺は今、まるでアニメの主人公みたいだな」と。

 やがて信号待ちを食らった。横断歩道を前にしながら、私は息を切らしムシャムシャと残りのサンドイッチを頬張っていた。そして行き交う車の向こう側をじっと睨んでいた。もう少しで目的地に着く。時間を確認した。なんとか予定時刻に間に合いそうだ。しかし、それより胸が苦しい。久しぶりに走ったからだろう。それに喉が渇いた。パンはパサパサしている。私は再びバッグの中に手を突っ込んだ。そして安い (四百円くらいで買った) 赤ワインのボトルを取りだした。外出中はいつでも飲めるように、こうしてバッグの中にしのばせてあるのだ。

 その時である、再び信号が青になった。それは再び走り出さなければならぬ合図でもあった。私は駆け出した。片手にサンドイッチを、また片手にワインボトルを持ちながら。しかし走りながら気がついた、「せっかく取り出したのに、俺はまだワインを飲んでいないぞ」。しかし、両手がふさがった状態で (走りながら) ボトルを開けるほど私は器用ではない。仕方ない。私は残りのサンドイッチを思い切りよく口の中に詰め込んだ。そしてそれをモグモグさせながら、自由になった片手でワインのボトルを開けた。それから流し込むようにそれを飲んだ。うまい。安物なのに、何故か普段よりもうまい気がする。走っているからか、それとも喉が渇いているからか?

 いや、違う。これはサンドイッチのおかげなのだ。イタリア/フランスの古典映画を眺めていると、時折パンと赤ワインのみで食事をするシーンがある。それにキリストがワインとパンを最後の晩餐に食べたことは有名だろう。要するに、その意味はこれだったのだ。私は「赤ワインとパンってこんな合うのか」という衝撃に襲われていた。目的地まであと二分。それは人混みの中をかき分けつつ得られた天啓でもあった。

 TOHOシネマのエスカレーターを昇る最中、「なんかおもしろい体験をしたな」という想いが私の胸に湧いてきた。そして次の瞬間には「この事を日記に書こう」と言う気持ちに至った。あれから数日後。私は今、あの時の伏線を回収している。 
 ちなみにエヴァは結構面白かった。映像が特にすごかったと思う。チケットをくれた友人には、この場を借りて再び感謝したい。