21/04/18

 あまり外出しない割に、私は浅黒い肌をしている。恐らく、日々の不摂生な食生活のせいだろう。三百六十五日、ほとんど毎日カップ麺を食べている (最近のお気に入りはチキンラーメンである)。それが身体に悪いのは分かっている。そう、わかっているのだがやめられない。「よくない」という判断よりも「疲れる」という気持ちの方が勝るからだ。実際、カップ麺は安いし楽だ。料理をするのは嫌いではないが、日々の面倒のことを考えると、結果としてそれを選んでしまう。よって私のコンプレックスであるこの肌の浅黒さは中々解消されないままである。否、無理をしてでも解消しようとしないあたり、大してコンプレックスでもないのかもしれない。

 最近、人と話すが苦手になったかもしれない。ネガティブな愚痴ではなく、単純にそう思った。だからそれについて書いてみようと思う。そう、人と話すのが苦手になった。以前はもっと饒舌に話すようなところで口ごもり、反対にあまり話すつもりでなかったところで話しすぎてしまう。文体が書き方を学ぶことによって得られるように、話し方もまた学びによって得られると思われる。要するに、私は口の開き方を忘れてしまったのである。参考資料を観て、改めてそれを学ぶ必要があるかもしれない。


 法というものは、こちらがそれに罰されるほど強く意識される。罪の意識は自分を責めるほど大きくなる。言い換えるならば、いくらこちらが自分を罰しても、またいくら罪悪感に苛まれても、私達が「法」に対して抱く罪の意識は消えない。それは益々大きくなるばかりだ。

 こうして不幸のナルシズムとも言うべき現象が起こる。人は自分を罰すれば罰するほど、人は益々自分を罰したくなり、自分の不幸にすがりたくなるのである。

 対して「法」について、私達は何故こちらを裁くそれが正しいのかを知らない。知らないまま法に裁かれている。そう、法は正しいからこそあるのではなく、法が命令を下すからこそ正しさが生じる。では法の命じる「正しさ」が存在するのを、人はいつ知るのか。それは法が「有罪」と見なすことを知らず知らずのうちにしてしまった時である。自らの有罪生とは、いつも罪を犯した後にならなければ見出されない。法が命じる「正しさ」を知るためには、人は一度有罪者になって法に裁かれなければならないのである。

 かしかし、法に裁かれたからと言って私達は「正しき人間」になれるわけではない。人は法に対して有罪であることしか出来ない。何故なら法の本質はその未規定な点にあるからだ。そして、だからこそ人は思わぬ所で罪を犯さざるを得ないのである。では何故「法」は不確定なもの - 未規定なものであり続けるのか。それは法が「正しさ」を持たないからである。先述の通り、正しさから法が生まれるのではなく、法が命ずるからこそ正しさが生まれる。言い換えるならば、法は常に自らの基盤となるべきものとして正しさを持たない。何故なら法にとって、正しさとは副産物でしかないからだ。だからこそそれは不確定かつ不完全なものであることしか出来ないのである。

 私達は法を意識しながら生きることしか出来ない。私達が欲望を覚えるのは、いつも法が何を禁じるかを知ることから始まる。「律法が「むさぼるな」と命じなければ、私はむさぼることを知らなかったでしょう……」だからこそ法は自らの内に矛盾を含まざるを得ない。そして法に従うものは、従うことによって善を得られることは決してなく、むしろ法に従うほど罪の意識を深めていく……。

 ドゥルーズはこの法の矛盾/欺瞞を克服する手がかりとしてサディズムマゾヒズムに目を向ける。サディズムの本質は純粋理性を好む点にある。法は人間にとって「自然」なものが何であるかを規定する作用を持つと言える。しかしサディストは、法の規定する「自然」が誤りであることを告発するため、自らの論理をでっち上げる。そしてそれを押し付けるようにして自然を否定する。言い換えるならば、サディズムは法 = 自然を、自らの論理によって攻撃するのである。またはそれを実証するために、サディストは実際的な悪の行為に走る。だからサディストは益々法を犯し、契約を破る。あたかもそれによって益々自分の理性の正しさを確信するかのように。理性的なものの本質とは、その暴力性にある。

 対してマゾヒストは現実 - 法を否認する。そして自らの美的趣味へと逃れようとする。法は罰することで有罪者から快楽を奪おうとするが、マゾヒズムは罰を通して快楽を得ようとする。それは罰されること自体が気持ちいいのではなく、与えられる罰がその先にある快楽への期待を募らせるからだ。よってマゾヒズムは罪責感を利用する。自ら教育して「法」の代わりになってくる相手を見出し、そのものに罰されることで、罰の先にある快楽を味わうことを自らに許す。だからマゾヒズムにおいては契約が重要な意味を持つ。マゾヒストは対象が自らを調教するよう、自らの犠牲者となるよう、対象を教育する。理想的なものとは、本質的に残酷なものである。

(だからこそ、サディズムの反対はマゾヒズムでなく、またサディストとマゾヒストはカップリングとして成立しないということを、ドゥルーズは指摘していた。)

 ではそれ以外に法 - 罪責感 - 不幸のナルシズムに対抗する手段はないのか。否、そうではない。恐らくそこには別のやり方がある。つまり、それは「動物への生成変化」である。

 最近Twitterリツイートされた文章に書いてあったが、動物というのは暴力的なもののイメージ(獣のイメージ)でありながら、同時に暴力を振るわれる対象(調教の対象)でもある。言い換えるならば、動物とは本質的に「人間」に排除されるべきものの対象、マイノリティの具現化である。法というものは事件の介入によって更新される。事件の介入、それはいつだってマジョリティを揺るがすマイノリティの発見なのである。恐らくドゥルーズにおいて、「動物への生成変化」という言葉は、一般性に回収し切れないものへと、無名なものへと、忘れられたものへと生成することを意味するのではないかと思われる。

「苦しむ人間とは動物であり、苦しむ動物とは人間である。これは生成変化[何かになること]の現実性である。芸術、政治、宗教、あるいは何においてであれ革命的な人間は、この極度の瞬間を感じたことがあるはずだ。このとき彼、彼女は動物でしかなく、死んでいく子牛に責任を負うものとなるのではなく、死んでいく子牛を前にして応答するものになるのである。」


 自分はこれからどうするべきなのか。一人でいる時は、よくそんなことをぼんやり考えている。

 また余計な御託を並べてしまった。上に書いた文章のことを考えながら、ふとそう思った。こんな事ばかり書いていると哲学が好きなのだと勘違いされそうだ。が、とんでもない話だ。私は哲学なんて全然好きじゃない。まともに読んだ哲学者だってニーチェドゥルーズパスカルくらいだ。私は哲学は好きじゃない。よく「こんな事を考えて何になるんだ」とか「こんなことを書いてどうするんだ」なんてことを考えている。実際、こんな事をして一体どうするのだろう。実に馬鹿馬鹿しい話だ。

 私の人生は妥協の連続だ。誰しもそうかもしれないが、好きで今のような生き方をしているわけではない。こうする以外にどうすればいいかわからなかった。だからこんな風に生きている。高校生の頃は、もっと別の人生を空想していた。そう、かつての私の人生計画では、今頃大学を卒業して、銀行員か何かになっているはずであった。やがては家庭を持ち、家に帰れば妻が待っているはずであった。仕事の合間に趣味に打ち込み、音楽や文学などの創作活動に打ち込む。そして愛すべき家族と共に過ごす。そのはずだった。ただそれが出来なかった。だから仕方なく今のような暮らしをしている。それだけの話だ。

 ある人の善良さとは、そのままある人の凡庸さを指す。善良な人とはある程度凡庸な人のことである。しかしこの場合、私は決して悪い意味で「凡庸」という言葉を用いているのではない。凡庸でいいではないか。どんな人にも必ず善良なところがある。それは、どんな人も自らの持つ凡庸さから逃れることなど出来ないからだ。ならば尚更こう思う。つまり、「凡庸でいいではないか」と。ある程度自らの凡庸さを受け入れてこそ、私達は他者と過ごす幸福を獲得できるのではないか。人間らしさとは、常に自らの内にある避けがたい凡庸さにあるのではないか。

 そう。それはわかっているつもりなのだ。が、中々どうしてうまくいかない。一体何処で自分の凡庸さと折り合いをつければいいのかがわからない。一体何処に自分が向かえばいいのか、一体どうすれば自分の居場所を見いだせるのか、一体何処で自分の身を落ち着けるべきなのか。否、もしそれが既にあるのだとしても、それが本当に自分の求めていたものなのか、または自分の思った通りなのか。これを確認するためのしるしは何処にあるのか。生きることには謎がつきまとう。人生とは答えの出ない問いである。