【ドゥルーズ哲学紹介】

※先日行った読書会向けに用意したもの。せっかくだからここにも載せとこうと思う。

 

ドゥルーズはかつて「哲学者とは哲学者になるもののことだ」と述べたことがある。フランスの哲学者ジル・ドゥルーズ(1925-1995)の特徴は、この「何かになる」過程に注目した点にある。つまり、「何かである」個体が発生する前の、前-個体的な過程を生きるものとしての人間存在を、彼は思い描いた。


[1]「何かになる( = 生成変化する)」とは一体どういうことか (差異の産出とパロディとしての自我)

ベルクソンによれば、人間は常に変化し続ける存在だ。今この瞬間にも一秒前の自分との差異(ちがい)を産出している。

・よって「かつてAであった」という状態から「今はBである」という状態に移行するものなど存在しない。あるのは「Aである」と同時に「Bである」存在、AとBの中間にあり、またAとBを通過する(移行する)存在である。

・ もしこのように生成 - 変化することが私達にとって本質的であるなら、自己同一性(自我)とは常に過去の記憶に基づく思考によって、言い換えるならば過去の自分をパロディすることによって成り立つと言えるのではないか。存在しているものとは、かつて存在していたもののことでもある。


[2]超越論的経験論とドラマ化

哲学史家としても知られるドゥルーズベルクソンと並び最初期から取り上げている哲学者として、ヒュームの名が挙げられる。

・ヒュームによれば、人間は経験していることから経験していないことまでもを考え出す。私達の思考は経験 - 記憶に支えられて成り立つが、しかしこの時、本来無関係な二つの記憶を勝手に結び付けたり、また過去の二つの経験から全く経験したことないことを憶測したりする。経験に基づいて生きながら、常に経験を超越して生きる存在。ドゥルーズはこのヒュームの考え方から「超越論的経験論」のヒントを引き出したと言える。


・知性はいつも遅れてやってくる、知性の発達は思考に暴力が振るわれた時にのみ生じるからだ。では「思考に暴力が振るわれる」瞬間とは、一体どういうものか。何かを考えるためには、先ず何かを感じ取る必要がある。そして何かを感じ取った時、それを考察するために見合う記憶が引き出され、参照され、こうして思考が発生する。言い換えるならば、かつての思考 - 記憶 - 常識では説明のつかないものを感じ取った時、思考の超越的な行使が発生する。暴力を振るわれた感覚は、かつての考えでは説明できないものを説明するために、これまで忘れられていた記憶を思い起こし、それに基づいて、急き立てられるように思考を加速させていく。


・思考の超越的な行使が発生する時、記憶もまたかつてとは違った形で解釈されることとなる(つまり記憶の超越的な行使が生じる)。

・前述の通り、人間の本質が変化すること、際限なく差異化 = 微分化することにあるとすれば、そのようなかつての自己の産出された断片が、中心 (自己同一性)に回収され得なかった差異が反復される(回帰する)ことによって、思考の超越的な行使が実現されることとなる。それと同時に、かつての差異は現在に見合うように異化 = 分化される( = 現在に見合うように、過去は異なる意味を持って変形する)。

・反復するものとは反復されるものであり、異化 = 分化するものとは異化 = 分化されるものである。私達が反復するのはかつての記憶であるが、しかしそれは既にその記憶よりも以前のものをパロディしている。だからこそ、ありのままの反復(裸の反復)は存在せず、あるのはただ偽装された反復の連続である。この世においては、一切がシュミラクル(見せかけ)なのである。


ドゥルーズにおいては、この「始原を失い変容し続ける存在」「オリジナルを持たないものとしての人間」という考え方が非常に重要な意味を持つ。人類の歴史とは可視化の過程である。人はかつて説明できなかったものを説明できるようにすることで発展していったとも言える。言い換えるならば、有機的なもの、統一性のあるものとは、いつも後から見出されるものであって、(ある意味では)それはでっち上げられるものでもある。

・だからこそ、ドゥルーズは非有機的なもの = 器官なきもの、一般世界を形成する表象 = 再現前化を更新し、時にはそれを覆すもの、つまりは中心には回収し切れない差異の力の潜在性(ポテンシャル)へと眼を向け続ける。


[3]「新しい人間の誕生」

ドゥルーズ哲学の主題、それは存在論である。彼はその最初期の論文(『無人島の原因と理由』)から、度々「新しい人間の誕生」ともいうべきモチーフについて語ることがある。それはスピノザ流の自由な人間や、ニーチェの「超人( = ルサンチマンなき人間)」にも通ずる考え方だ (有名な「器官なき身体」の概念もそこに由来すると思われる)。

ドゥルーズ哲学において重要とされる「差異」や「生成 - 変化」という概念は、現実では悲しむべきものとして取り上げられる。何故なら、差異は全体( = 一般性)から排除されるものであることを意味し、また変化はかつての状態を失うことを意味するからだ。しかし、ドゥルーズの考えによれば、このような人間の悲しむべき現実にこそ、人間の生の本質的な潜在性が秘められている。変わらない自己同一性を前提とするもの、否定の労働によって差異を中心に回収しようとすることは、それ自体ルサンチマンに基づくものであり、生に復讐するものである。それでは「新しい人間」は誕生しない。だからこそドゥルーズは反ヘーゲル主義を唱え、弁証法を拒絶する。否定、悲しみ、ルサンチマンに基づいていては、人間は生の持てる力能の潜在性(ポテンシャル)から切り離されてしまう。

・ならばいかにすればその生の力能を解放することが出来るのか。それは、表象 = 再現前化の世界(差異が中心によって回収される一般世界)から、非人称な差異、前-個体的な差異、自我に属する前の潜在的な(無意識的な)差異を解放することである。つまり差異と反復だ。


余談〈サイエンス・フィクションとしての哲学〉

『差異と反復』の「はじめに」のおわりで、ドゥルーズは実在の書物と想像上の書物を同等に扱うことを (また、実在する書物を見せかけだけの空想上の書物のように扱うことを) 推奨している。前述の通り、もし一切がシュミラクル(見せかけ)であり、繰り返される(反復される)ものが既にかつて別の仕方で繰り返されたもの(諸反復)であるならば、私達の生きる世界において、本物はなく、あるのはただ偽物だけということになる(「ニーチェにおいては、一切が仮面である……」)。

ならば、虚構 - 嘘は現実 - 実在と同等の価値を持つと言えるのでないか。先述の通り、私達は経験していることから経験していないことを空想する。一つの事実と別の事実を軽薄に繋ぎ合わせて、全く新しい「事実」をでっち上げる。しかし「我々のうちで最も軽薄なるものである空想力が、最も真剣なものである人間的世界の基礎にある」のだと、ドゥルーズはヒューム講義の中で指摘している。本来繋がりのないように見える二つのものの繋がりを論理的に空想できた時、私達はそれを「真実の発見だ」として喜ぶ。そういう意味も踏まえて、ドゥルーズは自らの書を「知の虚構(サイエンス・フィクション)」だと形容したのではないか。

 

※参考文献
ジル・ドゥルーズ『記号と事件』宮林寛訳
ジル・ドゥルーズジルベール・シモンドン 個体とその物理-生物的な発生』三脇康生
ジル・ドゥルーズニーチェ湯浅博雄訳 解説
ドゥルーズ=クレソン『ヒューム』合田正人
ジル・ドゥルーズ『ヒューム』小泉義之
ジル・ドゥルーズプルーストシーニュ宇野邦一
ジル・ドゥルーズ『感覚の論理学』宇野邦一
ジル・ドゥルーズ『ザッヘルマゾッホ紹介』堀千晶訳    解説
ジル・ドゥルーズスピノザ 実践の哲学』鈴木雅夫訳
ジル・ドゥルーズ『ヒューム講義』堀千晶訳