21/04/23

 古典主義時代において、西洋の人間観は「無限の中に置かれた有限」だったという。たとえば理解力。なるほど今の私の理解力は限られたものだが、その範囲を拡張しようと思えばいくらでもできる。ただ、どんな人間にも限界がある。死で終わることそれ自体、生命に限界があることの証だと言っていい。しかし問題は、私達がその「限界」が何処にあるかを知らないし、また知ることも出来ないという点にある。

 だからこそ古典主義時代において、「人間」とは無限の中に置かれた一つの有限であり、無際限に広がり、どこに限界があるかもわからない暗闇をさまよう一つの不安な存在なのである。よってそれは自分の限界 (= 立ち位置)を知ろうとする存在でもある(この不安を解消するために、人は「神」という概念を用いる)。ドゥルーズフーコー論の中で、確かそのような事を書いていた。

 コンビニの印刷機を前にしながら、私は一つの考え事をしていた。その時、私はある本のコピーをとっていた。それは既に廃刊になったもので、中々手に入りづらいものであった。が、幸いにも某大学に通う知人がそれを借りてきてくれたのである。あらゆる読書家には、どんな事をしてでも自分のそばに置いておきたい本が必ずひとつ存在する。ざっと目を通して、私は今コピーしている本がそれであることを確信した。そして今、こうしてコンビニの印刷機の前に立っている。つまり、私は本の全ページを印刷しているのである。中々骨の折れる作業だと言える。なんといっても二百ページを超える代物だ。が、それだけの事をする価値はあると思っている(中古で買おうにも、安くて五千円以上が相場である)。

 印刷機を前にして、私はひとりほくそ笑んでいた。この微笑みには二つの意味が含まれている。一つは自分の好きな本をいつまでも手元に置いておくことが出来るという喜びであり、もう一つはこんな事をしている自分をいささか滑稽に思う皮肉である。そこには今後の読書生活への期待が含まれているが、同時に「俺は一体何をやっているんだ」という不快感も含まれている。

 自分で言うのもなんだが、私は結構神経の太い人間だと思う。今日までに何度「耐えられん」と思うような出来事に直面してきたか知らない。しかし、何だかんだいって全て耐えてしまった。「俺にはもう無理だ」と思うこともあった。しかし、結局無理ではなかった。そんな自分を省みると、少し悲しい気持ちになってくる。

 無論、これは自惚れかもしれないし、自分が気づいていないだけで、きっと多くの人に支えられながら生きているのだろう。ただ「もう孤独に生きたくない」と何度も思いつつも、結局今日までひとりで生きられてしまったような気がする。人間、耐えようと思えばどんな苦しみにも耐えることが出来るのかもしれない。ただ、苦しみへの耐久性を得ることは、それだけ喜びへの感受性を失うことを意味する。人が苦しみに耐えられないと思うのは、耐えられるようになることで何かを失うことを恐れるからだ。

 では昔に比べて、私は何を失ったのか(そもそも自分に失うようなものがあればの話だが)。たとえば私は、苦しみへの耐久性を得ることで、才能を失ったのか。否、そうではない。(これも自惚れかもしれないが) むしろ私は昔に比べて才気のある人間になったと思う。まあ、そもそも「才能」なんてものが私にあればの話になるのだが。それに結局、私はまだ青二才である。きっと耐えられない苦しみが沢山あるに違いない。それに対しても、少しづつ慣れていくことが出来たらと思う。

 しかし結局、私はこうして成長する過程で、一体何を失ったのか。実を言うと、それは私自身よくわからないのである。

 一日の内で、不安や孤独に苛まれることがある。「何故俺はこうなんだ」とか「何故あいつらに簡単に手に入るものが、俺には手に入らないのだ」とか嘆いたりもする。しかし、自分を夢中にさせてくれる本や音楽に触れた途端に、そのような悩みを忘れてしまう。次の瞬間には「いや、人生は素晴らしい」「生きることは喜びだ」と思っている。そんな自分を、結構軽薄な人間だと思っている。実際、私はなんて気の変わりやすい人間だろう。精神の健康さを保つためには、ある程度ふてぶてしくあることが必要である。そういう意味では、私は健康な人間なのかもしれない。だからこれでいいのかもしれない。ただ、昔は自分がもっと違う人間だと信じていた。私はかつて、自分がもっと善良で、感じやすく、繊細な人間だと信じていた。そう、馬鹿馬鹿しくも、そんな自分に自己愛を感じながら。

 では何故自分を善良な人間だと信じていたのか。それは、他人から自分が善良だと思われたいからである。では何故そう思われたいのか。それは、他でもない、安心したいからである。「いい人」だと思われれば、周りから不愉快な攻撃を受けることも少なくて済む。ドゥルーズもヒューム論の中で書いていたことだが、社会とは一般性[一般規則]によって成り立つ。規定されるものである以上、一般性は自然に見出されるというよりかはむしろ人為的に発明されるものである。言い換えるならば、一般性はでっち上げられるものなのだ。社会の根底にあるのは発明であり、他者との生活の基盤を築くのは「人為」という虚構である。一般性を生きるならば、人は何処かで自分を偽らなければならない。

 そういう意味では、自分は間違ったことをしたと思っていない。自分を善良だと信じ込むのは、自分が社会の一員だと思い込むことでもある。では何故私は自分を善良だと思えなくなったのか。人が嘘を拒絶するのは、嘘の存在それ自体を憎むというよりは、むしろその嘘が自分を上手く騙してくれないからである。要するに、私はもはや自分を騙せなくなってしまったのだ。だから夢から覚めてしまったというわけである。

 我ながら結構嫌な奴だと思う。「嫌な奴」とは迫害の対象だ。しかし白状すると、私は自分のことを嫌な奴だと思いながら、内心それを他人に否定して欲しいと思っている。何故か。それは、他人が私を「嫌な奴じゃない」と言うことで、自分が迫害の対象ではないのを認識したいからだ。人は皆、ありのままの自分を受け入れられることを望む。実際、私達は率直に物事を言える人間を「誠実だ」として重宝する。しかし、いつも自分の本心ばかりを垂れ流している奴がいたとすれば、それは他人の気持ちを考慮しない馬鹿として煙たがれるに違いない。

 自分のことについて、出来る限り普段から考えないようにしている。自分を不幸だと思うほど、益々自分が不幸になるよう仕向ける傾向がある。あくまで明晰にみずからを捉えたいならば、おのずと自分の本心を無視することが求められる。その一方で、次のような疑問も思い浮かぶ。これは自己疎外なのではないか。私な自分を疎外しているのではないか。私は自分自身を失っているのではないか。私は自分で自分を苦しめているのではないか。

 最悪だ。こういう問いは、一度発し始めたら止まらなくなる。何処かでやめなければならない。私は弱音を吐くのが嫌いだ。何故なら、弱音を吐く時、私は多少なりとも自分の本心を誇張して表現しているからだ。そして、そういう自分がとても不潔に思える。だからこの辺りでこれらの記述をやめるべきだろう。

 あるものの定義とは、それと類似するものと比較によってしか定義されない。言い換えるならば、他と比較しようのないもの、たった一つだけのものとは、あってもなくても同じなものであり、定義付けの出来ないものである。もし私達の人生がたった一度きりのものならば、それは決して正しさを持つことが出来ず、また答えを与えられることもないもの、すなわち一つのフィクションなのである。

 ペイン・オブ・サルヴェイション(Pain of Salvation、略称PoS)という長い名前をしたバンドがスウェーデンにいる。十代の頃に非常に熱中したバンドで、それとレディオヘッドがあらゆるロックバンドの内で断トツで好きだった(それにザ・スミスデヴィッド・ボウイナイン・インチ・ネイルズ……と続くだろう)。PoSはとてもユニークな音楽性をしているバンドである。ファンク風のギターのスラップから始まって、ラッシュやドリーム・シアターのような楽曲展開に至るものもあれば、U2やキュアーのようなシンセサウンドを背景にテクニカルなプレイを披露することもある。かと思えばゴスペルが始まり、メンバーのうち四人がアカペラをし始め、チェンバロの音が響き渡り、次の瞬間には民族音楽に移り変わっている。

 歌詞もいい。自分にはスノッブな趣味(または衒学趣味ともいうべきもの)があると思われる。それが始まったのはこのバンドの影響だと言っていい。発表されるアルバムの大体はコンセプトアルバムであり、歌詞カードの中には書く上で参考にしたという論文の名前がずらりと挙げられている。児童虐待をテーマにしたものもあれば、宗教と人間存在をテーマにしたものもある。そんな歌詞を書いているのは、バンドのリーダーであり、ボーカルとリードギターを担当し、何よりも楽曲制作者(そして時には編曲者)でもあるダニエル・ギルデンロウである。楽器はギターの他にもピアノ、キーボード、ベース、ドラム、マンドリンバラライカ……と、何でも演奏出来る。だから楽曲によっては彼ひとりの手で全楽器を演奏してしまう(無論、作詞作曲編曲も彼が担当である)。アルバムのアートワークさえ時には彼の手でやってしまう。Facebookを開ければ、彼が自分の家族をどれほど愛しているのかがわかる。子供と撮った写真を掲載し、下には妻を愛していることを告白した文章が記載されている。

 ここまで読めばわかる通り、私は彼に憧れていた。博識で、音楽的才能に恵まれ、家庭にも恵まれている。私には彼が、自分の持っていないもの全てを持っているように思われた。突然そんなかつての憧れについて語るのは、最近ひさしぶりにそのペイン・オブ・サルヴェイションを聴いたからだ。思い出の音楽を聴いていると、自分が思い出に感動しているのか、それとも音楽に感動しているのかがわからなくなる。言い換えるならば、それは自分が今聴いている音楽に対して、かつてと同じ感動を抱けなくなったということだ。しかし一番悲しいのは、かつてのものを同じように楽しめなくなった自分を、大して悲しんでいない自分が存在していることだ。

 しかしそれでも、心を揺さぶるものはやはりある。前述の通り、私はペイン・オブ・サルヴェイションの(もといダニエル・ギルデンロウの書く)歌詞のファンであった。ダニエルの書く歌詞の特徴、それは自己否定であり、「自分はこういう人間になりたかったのではない」という嘆きである。事実、バンドの歌詞では(その最初期から)度々「これが自分の求めていたものなのか」または「こんな人間になりたかったんじゃない」という否認が行われる。PoSの歌詞で最も美しいと思うのはその点である。歌詞の中で、ダニエルは幾度も「自分はこういう人間になりたかったのではない」と嘆く。しかし恐らく、それは彼自身がその「なりたくなかった人間」としての自分から抜け出せていないからだ。楽曲の主人公は、自分の認めたくない姿を見出し、嘆く。しかし彼がそう嘆くのは、彼がそれを昇華し、受け入れるためなのだと言える。だからアルバムの主人公は、いつも自分の体験した不幸のその先へ行こうとしている。

 しかし、自分の不幸について語る人は、いつもそれを誇張して語りすぎてしまうものだ。自分の苦しみについて考える時、どんな人でも自己愛や誇りを感じずにはいられない。だからこそ、悲劇的な文化の大半に共通するのはナルシズムなのである。

 PoSに『BE』というアルバムがある。先程書いた「宗教と人間存在」をテーマにしたアルバムで、そこには(クリスチャンとして、ダニエルの観点から見た)現代文明への批判も含まれている。彼は言う、「頂点に立つのは簡単だ。何かを奪い進歩を推し進めることも簡単だ。しかし何処かで踏みとどまらなければ現代人は自分で自分の身を滅ぼしてしまう」と。一線を超えた世界には自分以外の誰もいない。もし誰かと生きたいならば、人は(たとえその先に進歩があるように見えたとしても)一線を超える前に踏みとどまらなければならない。実にメッセージ性の強いアルバムである。しかし、それは恵まれた者の意見だと言わざるを得ない。

「一線を超えてはならない」という言葉は、一度「一線を超えた」人間しか言うことが出来ない。または、私達は既に一線を超えた世界を生きていると言っていいかもしれない。もし一線を超えたことによって何かを失ったのなら、私達はその「一線を超えた」先の世界線でなければ何かを取り返すことも出来ないだろう。一線を超えた過失の償いは、同じ一線を超えた先にしかありえない。だからこそ、私達は再び「一線を超える」よう強いられる。誰も好んで一線を超えるものなどいない。ただそう強いられるから一線を超え続けるのである。

 しかし、海外のマイナーなバンドの歌詞について、何をこうも熱く語っているのだろう。このバンドの話はこの辺りにしておこう。

 感傷的な音楽が好きだ。それを聴いている間は、自分が感傷的になるのが許されるような気がするから。かく言う今もロマンチックな響きに耳を傾けながら執筆を続けている。この世には、感傷的にならないと語れないような言葉がある。それがどんなものであるかはさておき、少なくともそれは、普段の自分の口からは決して出せないような言葉だ。