21/04/28

 私は人付き合いが苦手かもしれない。そう言うと少し語弊があるかもしれないが、最近ふとその事に気がついた。なるほど、自分で言うのもなんだが、社会的な関係(愛想笑いや社交辞令が主となる関係)やその場しのぎの関係、または初対面の相手に対してなら饒舌に(饒舌すぎるくらいに)話すことが出来る。ただ、「それ以上」の関係を求めようとすると、いつも言葉が詰まって上手く話せなくなる。その結果とも言うべきものが今の自分の人間関係だ。つまり、それはある種の軽薄さが漂うものである (もっとも、社会に生きる人間なんて皆そんなものなのかもしれないが)。

 しかし、そもそも何故私は「それ以上」の関係を上手く求められないのか。何故人間関係における軽薄さから抜け出そうとすると言葉が詰まり、上手に人と話せなくなるのか。それは恐らく、私があまりにも社会的な関係に慣れてしまったからだといえる。言い換えるならば、もし他者と親密な関係を求めるならば、私達は自ずとその相手と非社会的な(または反社会的)関係を築かなければならないからだ。そして今の私には、その関係を築くことに途方もない困難を感じている。

 既に何度か書いているが、社会の根底にあるのは人為である。言い換えるならば、私たちの生活の基盤にあるもの、それは虚構であり、嘘である。もっとも、それは冷静に考えれば当然のことだとも言えるだろう。一定数の人間が、それぞれの不満を最小限に抑えて快適に生きる。そのためには、自ずとありもしない共通項をでっちあげる必要がある。こうして制度が見出され、規則が見出され、法が見出され、一般性が見出される。言い換えるならば、私達は本来、そのような人為の介入がなければ、それぞれの暮らしを共存させることが出来ないのである。自然な、ありのままの人間状態、人為と虚構を逃れた人間状態とは、本質的に孤独なものである。

 よって社会を生きるためには、仮面を被らなければならないと言える。そして、それは決して悪い意味ではないのである。以前、私はある友人の影響でサイケデリック体験をしたことがある。それはとても奇妙な体験だった。時間の蝶番が外れ、一秒に一時間を感じ、そして一時間はまるで一日のように長かった。その場には私と友人の他に何人かの人間がいて、その内の二人と私はいくつかの会話を交わした。二人とも、幻覚剤を用いる前から楽しい話のできる関係であった。しかし、トリップの最中に痛切に感じたのは、それぞれの意識の断絶であり、それぞれの抱く本性的な差異であった。

 幻覚剤の効果、それは先ず感覚にバクが生じることから始まる。私が初めに感じたのは、自分の筋肉が異様に緊張していることであり、身体感覚の膨張がいつになっても終わらないことであった。私は驚きを覚えながら、どうすればこの状態を解決できるかを考えた。ふいに、目を閉じた。すると突然、肉体の緊張がほどけ、暗いまぶたの裏に、ある一つの宇宙が展開された。気がつくと私は銀河系にいて、無限に変化する万華鏡を前にしていた。それは暗闇の中で輝き続け、生成しては消失し、永遠に私の目の前で揺れ動いていた。それはあまりにも感動的で、あまりにも神々しい瞬間であった。

 私は目を開いた。それと同時に上記の幻影も何処かへ消えた。この感動を誰かに伝えたいと思った。だから私は前述の二人に話しかけた。しかしそのとき感じたのは、自分があまり口を開くことが出来ないということである。私はどもった。そしてどもる私に対して、二人が無理に話を合わせているように見えた(あくまでもそう見えたに過ぎないのだが)。また私自身、二人の話を上手く理解することが出来なかった。そう、自分だけの世界に引き込まれたからこそ、他人と話を合わせるすべを忘れてしまったのである。そして皆が自分だけの感覚に引き込まれていたからこそ、自分の世界を上手く一般言語に翻訳することが出来ずにいたのだ。

 その時、人為と虚構がいかに私達の生活において大切なものであるかを理解した。人と人が手を繋いで暮らすためには嘘が必要不可欠である。誰も自分と他人の意見の違いを述べることからコミュニケーションを始めたりはしない。むしろコミュニケーションの本質は、先ず互いに歩み寄るべき共通項を設定すること、つまりは互いに共感し合える世界をでっちあげることにある。だから部分的にしか理解出来ない互いの言葉に頷き合い、あたかもお互いに相手のことを理解し合っているかのように振る舞うことが求められる。それは、傍から見れば嘘つき同士の軽薄なやり取りであり、空虚でみせかけのものに見えるかもしれない。しかし、それがなければ私達の会話など到底成り立たないのである。社会生活は確かに嘘に満ちているかもしれない。しかしこの嘘がなければ、私達は(否、少なくとも私は)ひとと生きていくことが出来ないのである。それぞれの意識の違いを、自らの孤独な本性を覆い隠すような仮面がなければ、生活をすることが出来ない。虚構がなければ、ひとと生きていけない。

 絶望的な孤独だった。それは直観的な気づきと共に訪れた。そして直観的だからこそ尚更否定できないもののように思われた。なるほど、たしかに直観というものにはよく個人的な思い込みがつきまとう。だから私は物事を大袈裟に捉えすぎただけなのだろう。事実、きっとそうなのである。

 ただ、少なくともその時の私には、次のことがどうしても否定できないことに思われた。つまり、嘘をつかずに生きることが許された世界、誤解から逃れた世界、虚構が取り除かれた世界とは、自分以外の他に誰もいない世界であると。そして悲しむべきことに、人と人が生きるためには、絶えず嘘をつかなければならない、虚構をでっち上げなければならない、欺瞞を許さなければならないのだ。昔から、私はなにか真実的なものの存在を心の何処かで信じてきた。そう、真実的であって、普遍的であって、また誠実なものの存在を、である。しかし、その先にあるのがこれだとしたら、一体自分は何を求めて生きてきたのだろう。

 さて、少し大袈裟に書きすぎてしまったかもしれない。とにかく、私はその時に嘘の必要性を思い知った。前述の通り、社会生活の基盤には嘘が必要不可欠である。にも関わらず、なぜ人は嘘を憎むのか。その点については、ニーチェが上手いことを言っている。「ひとは嘘をつかれるのが悲しいのではなく、その嘘によってもはや相手が信じられなくなるのが悲しいのである」と、大体そのような事を語ったことがある。実際、嘘の発見は自分の信じていた世界の崩壊に繋がる。私達が嘘を憎むのは、嘘が露呈することで自分がかつて信じていたものが信じられなくなるからである。しかし、私達の文化の基盤にあるものは嘘であり、また虚構であるということも否定しがたい事実なのではないか。

 ニーチェはまた、別の箇所で次のようにも述べている。「どんなに誠実な人でも、突き詰めて考えるならば自分が嘘つきであることを認めなければならなくなる。」人は他人に嘘をつくよりも先に自分に嘘をつく。他人を騙し悲しませるためについた嘘よりも、虚栄心のためにつかれた嘘の方が遥かに多い。そして自己愛を持って生きる以上、どんな人も虚栄心の病から逃れることなどできない。だから人は嘘をついて生きざるを得ないのである。そして、あまりにも同じ嘘を繰り返しつくので、やがて自分の嘘が本当にあったことだと信じ込んでしまう人もいる。この世界においては、虚構が真実と同等の価値を持っているわけだ。

 繰り返して書くが、私はそれを悪い事だとは思っていない。ないものをでっちあげるという意味では、どんな嘘も空想上の産物であり、それは妄想 - 想像力の賜物である。しかし、私達の世界において「発明」と呼ばれ、また「真理の発見」だと呼称されるものとは、いつも本来繋がりのなかったところに論理的な繋がりを見出すことによって生じる。そういう意味では、ひとりの人間の能力の高さ、知性の鋭さは、その人がどれだけ巧みな嘘をでっち上げられるかによって決まると言える。人間の本性は理性でもなければ感情でもなく、想像力である。あらゆる天才が夢見がちな理由はそこにある。私達にとって本質的なものとは、真実や誠実さよりも嘘であり、偽なるものの力能なのである。そして、もし嘘が空想上の産物であり、妄想 - 想像力の賜物であるならば、最も巧みに嘘をつく人間、誰よりも見事な虚構 - 偽物をでっちあげる人間こそが、真の天才だと言えるのではないか。

 その観点からすれば、私達に必要なのは「嘘」という言葉から否定的な印象をぬぐい去ることである。がしかしそれは難しい。何故なら前述の通り、嘘の発見はいつも人を悲しませるものの暴露に繋がるからだ。私達が嘘を憎むのは、嘘のせいでかつて信じていたものが信じられなくなるからである。あらゆる関係が信頼を前提にしなければ成り立たない以上、嘘は排除しなければならないものの対象として見出される。しかし他者との関係を築く上で、私達はどうしても共感するべき(話を合わせるべき)共通項をでっち上げる必要があり、よって何処かで他人に嘘をつかなければならなくなる……。

 いかにすれば他者と適切な関係を築くことが出来るのだろう?そう、そもそも何故このような話題に移ったかと言えば、最近になって「自分は人付き合いが苦手だ」という事に気づいたからだ。先程私は、散々社会における嘘の必要性を、また「嘘」という言葉から否定的な意味をぬぐい去るべきことを説いた。しかしその一方で、心のどこかで他人に正直でありたいという気持ちがある。そう、誰かに対して誠実であり、真実的でありたい。しかしそれは、決して他人のためではなく、むしろありのままの自分を誰かに受けいれて欲しいという気持ちがあるからだ。私はかつて嘘を憎んだ。それは、他人の嘘を垣間見ることで誰かが信じられなくなる苦しみをもう感じたくなかったからだ。同様にしてかつて、私は誠実であることを願った(否、今もなお願っているかもしれない)。しかしそれは、自分がつく嘘のせいで感じる孤独にもう耐えられないと思ったからだ。よって、それは強さゆえに誠実であることを望んだと言うよりかは、むしろ弱さゆえに誠実さを求めていると言える。正直であることへの憧れは自分の弱さの表れだ……しかし、どこかで自分の弱さを認めなければ、到底生きてなどいけないのもまた事実である。

 一体これからどうすればいいのだろうか。そんな途方もない問いが頭に思い浮かぶ。そしてこの問いを、自分は今日までに何度感じたか知らない。かつてリルケは書いた。「答えが与えられない今、あなたは問いを生きなければならない」と。しかし、一つのものへの答えが出たと思ったら、次の瞬間にはまた別の問題が生じている。人生はその繰り返しである。一体、いつになればそれに終わりが見えるのだろう?否、もしかすると死ぬまでそれは見出されないのだろう。しかし、それでいいのかもしれないとも思っている。

 人に正直になれるのは、それこそ酒に酔った時(しかも酷く泥酔した時)くらいだ。 ドゥルーズはかつてこう書いた。「人生には、器官なき身体へのまぎらわしいアプローチが多々ある(アルコール、ドラッグ、統合失調症、サドマゾヒズム、等々)。」実際、酒に酔った時は自分の器官(普段の自分を形作る仮面)を忘れて、ありのままの自分をさらけ出すことが出来ると言える。しかし、たいていの場合、その次には非常に大きな後悔に襲われる。 そんな手段など借りなくとも、他者に対して能動的になることが出来たら、私自身どんなに嬉しいか知らない。

 とにかく考えなければならない。問いというものは、設定すれば必ず答えが出るようにできている。


 ひとを惹き付けるものとは、こちらを感動させながら、その中にある余白が見出されるものである。たとえば運命的な本との出会いとは、その本がこちらを強く揺り動かしながらも、その中に今の自分では決して理解し得ない余白が含まれているからこそ生じるものだ。よってその後の読書計画は、いかにしてその余白を埋めるか、いかにしてこの空白を回収するか、それを目的として立てられる。

 ここ二、三年くらい、私はずっとドゥルーズを読んでいる。いつもあと少しで何か掴めそうな気がしていたのに、結局自分が何も理解出来ていないということに気づいて終わっていた。だがしかし、ここ数日になって、やっとドゥルーズのことが理解できるようになった気がする。否、そう実感していると言ってもいい。「思い込みでなければいいのだが」という枕詞を述べようかとも考えたが、それは欺瞞になるからやめた。そう、直観的に、「自分はドゥルーズを理解した」という気持ちになったのである。

 無論、ここが(ここからが)スタート地点だと考える方が正しいだろう。当たり前であるが、私よりドゥルーズを理解している人など計り知れないほどいる。それに、別に研究職でもない素人の自分にとっては、やはり理解の限界というものがあるだろう。ただ、それでもいいと思っている。私が今日まで本を読んできた理由はいくつかある。しかしそのうちの一つとして、読書の最中に不意にこちらを襲う、あの感動が忘れられないからだというのがある。無我夢中になって一冊の本を読む。または、暗闇の中を模索するようにある作家の本を読み続ける。そしてある日、それまでつながっていなかったバラバラもの達達が、切り離され、遠く隔てられていたはずのいくつかの星々が、突如ひとつの繋がりをみせる。そしてページの上に一つの星座を形成する。私は驚く、そのあまりの美しさに。そして思う、そうか、あれはそういうことだったのか、あの時のあの描写は、あの文章は、このためにあったのか。形なきものに一つの肉体が与えられて、亡霊たちがひとりの人間となってよみがえる。離れ離れになっていたものたちが巡り合い、星座の名のもとに集合し、結ばれる。

 そうだ。この感動だ。この感動が欲しいから、私は今日まで本を読んできたのだ。