21/05/03

 孤独であることと自由であること同じ意味を持つ。暗がりでひとり本を開く時、私は自分が天体を動かす神になった気分になる。

 先日の日記で、私は「ドゥルーズを理解した」と書いた。無論完全に理解したというわけではないのだが、ただ何かを「掴んだ」気がしたのである。今でもそれが思い違いであったとは思わない。ただ、今や私は別の問題に突き当たっているということを白状せねばなるまい。つまり、「理解したからといってどうするのか」ということである。

 ドゥルーズについて一冊の本でも書くべきだろうか。否、それは出来ない。少なくとも今は出来ない。今の自分の不確かな知識では稚拙なものが生まれて終わりだ。より深い理解と知識を得るためにも、少なく見積ってあと三年は必要だろう。では、別の場合を考えてみてはどうか。たとえばそう、ドゥルーズ哲学を援用して小説を書くなどどうだろう。なるほど、それはありだと思う。以前どこかで書いたと思うが、いくつか書きたい小説の原案がある。ただ、自分はもう長らく小説というものを読んでいない。だから今の自分にそれができるか不安である。恐らく、書くにしても今しばらく時間が必要とされるだろう。

 それ以外の場合を考えてみよう。たとえば音楽はどうだろう。実を言うと先日、久しぶりにピアノを弾いた。そして弾いている時に思ったが、やはり私は音楽が好きだ。ピアノを弾いていると、もう随分昔に諦めたはずの音楽への情熱が込み上げてくる。それは苦しいような、悲しいような感覚で、いばらで胸が締め付けられるかのように痛い。それはきっと、今日まで何もしなかったことに対する後悔であり、またこれから何かをすることに対する恐怖でもある。

 私は人前に立つのが苦手だ。結局、自分の悩みを総括するとそれに尽きるかもしれない。他者の不愉快な眼差しが向けられ、緩められた口元が笑い、唾液を飛ばしながら何かを話している。そんな不潔な隣人を前にして何かをしなければならない。緊張で足が震え、口を開けばどもり、眉間にしわが寄っていく。なんて情けない姿だ。ひとの眼差しを気にせず生きていくことが許されるならば、どれほど気が楽か知らない。注目を浴びる度に、私は自分が敵の軍団の中に置き去りにされたような気持ちになる。そして不愉快なことに、この世界を生き抜くためには、私達はある程度自分を売り物にしなければならないのである。

 同世代で活躍している友人(または知人)が何人かいる。皆、素直にすごいと思う。これは心からの感想だ。舞台の上に立ち、キラキラとした照明の下で、必死に自己存在の証明に努めている。私には到底できないことだ。そう、私には、本や音楽が自分から抜け出すための手段のように思われていた。しかし人によっては、どうやらそれが自分自身に至るための手段らしい。彼らは舞台に立つこことを求める(否、正確に言えば私も求めているのだが)。音楽を通し、または言葉を通して、彼らは自己自身になろうとする。だからこそ舞台を必要とし、その証言者として他者の眼差しを必要としている。

 人生とは観客を求めるものだ。恐らく人は皆、何らかの形で誰かに見られることを求めている。では私はどんな観客を求めているのか?それについては、実を言うと書きたくない(否、ひとによっては書かなくともわかるだろう)。素直に何でも白状することは誠実さの表れだと言える。しかし、場を弁えずに語りすぎてしまうことは下品な行いだと言わねばなるまい。

 私の実生活について話をしよう。実を言うと今、私は月給十数万で働いている。誰がどう見ても高くない給料だ。まあ、その分自由に音楽を聴いたり本を読んだりする環境が得られているのだから、これも自由の代償だと言える。しかしいつまでもこんな安月給で働いているわけにもいかない。私は若い。一攫千金でもしないとこの若さは満足を得られない。出来ることなら今すぐにでもこんな糞みたいな生活を抜け出して、もっと優れた暮らしを獲得したいものだ。しかし、もう何年そんな願望に苛まれているかわからない。もっと自由に自分のやりたいことに没頭して、もっと創造意欲に富んだ生活を獲得したい……そう、今の生活ではあまりにも不自由が多い。否、不自由が多いだけならまだいい。今の私の生活には、あまりにも不愉快な要素が多すぎる。この不愉快な状況から、何とか抜け出せたらいいのだが。しかし、その手だては未だ見つからない。

 もう一つ、別のことを白状しよう。実を言うと、私は心のどこかで自分のことを天才だと思っている。否、あまりにも生活が惨めだと、自分を天才だと思い込まないとやっていけないのである。そう、孤独と不幸に耐えるためには、自意識過剰にならざるを得ない。しかしまた奇妙な話で、私は自分のことを天才だと信じ込みながら、日中に何度も不安に駆られるのである。一体自分の何が凄いのか。俺の何処が天才的なのか。周りを見れば、自分より優れた人などいくらでもいるではないか。この話の面白い点は、自分で自分のことを「天才だ」と言い聞かせながら、この男は自分の何処が天才なのかまるでわからない点にある。言い換えるならば、彼は強くあるために自分を特別だと思い込もうとしているが、しかし心のどこかでそんな自分が特別だと思えないのである。

 随分話が逸れた気がする。そう、元はと言えば「ドゥルーズを理解した気になったが、しかし次にどうするべきかがわからない」という話だった。ドゥルーズ読解はこれからも進めていくとして、他に何か別の行動をとることが出来たらいいなと思っている。最近、話をまとめるのが下手になって困っている。こうして主題に回帰するまでに、何度話が逸れたかわからない。ドゥルーズについて言えば、最近よく考えていることがある。それについては、今は書かないでおくことにしよう。またいつか、詳しくそれについて書きたいと思っているから。


 マーティン・スコセッシは、別に好きな監督ではないが、何だかんだ彼の映画は十作品以上観ている。彼は同国 = 同時代出身のフランシス・フォード・コッポラに比べられることが多いが(どちらもギャング映画で傑作を残している)、コッポラが細部の演出に深いこだわりを見せつつも、個々の作品としては一貫性に欠けるのに対して、スコセッシには常に変わらぬ作品への態度が存在する。それはスコセッシの作家性であり、またスコセッシのテーマ性の高さである (そういう意味では、コッポラは映画監督としては職人的であり、またスコセッシは芸術家的だと言える)。私はスコセッシの撮ったどの映画よりも『ゴッドファーザー2』が好きだが、しかし彼は間違いなくコッポラよりも創作者として優れている。どのジャンルの物語を描こうとも、そこには一つの彼の世界が折り込まれている。そして作品が始まると共にその折り目が繰り広げられていく。どんな脚本も彼独自の世界に染めてしまう。コッポラが作品 - 脚本の世界に染まりながら、その中で自分を表そうとするのとは対照的である。私はスコセッシの映画にある種の敵意を持ちながら接しているが、それでいて今日まで彼の映画を観続けてきた理由はそこにある(あとは、何だかんだ言って彼の撮った映画はどれを観てもそれなりに面白い。だから観続けているというのもある)。

 先日、私はスコセッシの撮った『アビエイター』という映画を観た。そしてどういうわけか、その映画のラストシーンが、あれから頭から離れないのである。強迫性障害を患った主人公が、人前でパニックを起こし、話の途中で口ごもり、いつまでもway the future(未来への道だ)という言葉を繰り返している。彼の「発作」を察した部下たちは、ひとりきりになれるよう彼を個室へ連れていくく。そして主人公は、その閉じられた世界の中で、いつまでもぶつぶつとfor the future(未来への道だ)と呟いている。その様子はまるで壊れた機械のようで、抑えようとしても言葉が抑えられないのである。

 しかし、繰り返して書くが、私は別にスコセッシのことが好きではない。ひとりの映画愛好家としてその偉大さを認めているつもりだが、観ていて「自分ならこうするのに」と思うところが沢山ある。だからだろう、別に映画監督でもないのに、スコセッシのことを心のどこかでライバル視している。彼の映画を観る度に「いや、俺ならこうするし、お前のことは決して認めん」という気持ちになる。我ながら面倒くさい奴だと思う。

 さて、先述の映画の中で部分的にチャイコフスキー交響曲第五番と第六番が流れていて、それから久しぶりにチャイコフスキーの後期交響曲群を聴いている。初めて聴いたのは、たしか私が十代の半ばであった頃だ。ベートーヴェンドビュッシーと並んでクラシックにハマり始めたきっかけだったのだが、チャイコフスキーだけは次第に聴かなくなってしまった。しかし、久しぶりに聴くとやはりいいものだなと思う。悲しく、物憂げで、打ちのめされた、それでいて美しい音楽である。