21/05/07

 もはやニヒリズムの時代は終わった。誰かがそう言ったとしても言い過ぎではないだろう。今から百年以上も昔に、ニーチェは「神は死んだ」と語った。しかしその時、彼は決して「神の死」を問題にしてはいなかったのである。

 ニーチェによれば、西洋においてキリスト教の「神」は旧来の人間的価値観の象徴として考えられていた。だからこそニーチェはこう考える。神が死ぬ時、人間もまた死ぬと。自らを規定する基盤を失った以上、もはや人間とは何かを規定する価値観も失われたからである。よってニーチェ哲学において、神の死は人間の死をも意味する。しかし、彼にはそれすらも問題ではなかったのだ。

 ではニーチェにとって問題であったものとは一体何なのか。それは、もはや人間が生を意志することが出来ないという現実であった。なるほど彼が生きた時代から遠く隔たった今でさえ、何かを求めるよりもむしろ無を求める人の方が遥かに多数派である。そういう意味では、ニヒリズムは今なお存続していると言えるかもしれない。しかし、冷静に考えてみよう。そもそも私達はその本性的からして生を否定する傾向にあるのではないか。

 たとえば自分を悲しませる現実に出会った時、人はその悲しみの原因を見出し、それをなかったことにしようとする。快適さというものはこうして見出される。しかし人生というものには喜びもあれば悲しみもあって、そしてその二つをひっくり返そうといくら努力してみても、「喜びだけを求め、悲しみからは逃れる」なんてことは不可能なのである。よって更なる快適さを求め、もはや何ものも自分を悲しませない現実を求めた先にあるのは、もはや自分も他人も生きていない世界線である。人は悲しみから逃れるために、そもそも生きることを否定しようとするわけだ。

 ニーチェが見いだしたのは、上のような矛盾に苛まれた人間の姿であった。よって、彼が「神は死んだ」と述べる時、恐らくそこには以下の意味が含まれている。[1] 文明の発展の最中で既に「人間とは何か」を支える旧来的な価値観が滅びつつあること。[2] それと同時に、ルサンチマン的な価値観が勝利を収めたということ。[3] 上記二つが同時に起こっている以上、最早次の事実を否定することは出来ないということ。つまり、神が死ぬと同時に人間もまた死んだということ……。しかし彼は決してそれを否定的な意味を込めて語りはしなかった。よってここで「神の死」の四つ目の意味が明らかとなる。つまり、[4] 人間が死ぬのはよいことだということ。何故ならその先にこそ、ニーチェの求めた新しい人間の誕生が待っているからだということ。では彼の求めていた「新しい人間の誕生」とは、果たして一体どのようなものなのか。それはつまり、ルサンチマンなき人間、超人の到来である。

 語弊を恐れずに言えば、次のように述べることもまた言い過ぎではないだろう。つまり、人間とは本能を持たない生き物であると。そもそも私達が「本能」と呼んでいるものとはなんであろう。それは今日までの歴史 = 経験から憶測して語っているものに過ぎないのではないか。人は経験に基づいて自分が経験していないことまでもを語り出す。そしてこの「経験していないこと」の憶測が論理的に正しいとされた時、それが「筋の通った意見」として周囲に反映される。そういう意味では、どんな学術も本質的にサイエンス・フィクションだということになる。

 しかし、他の生物は本能を持っていれど、人間は決して本能を持たない、または本能を持っていてもそれからズレていく生き物だ。同性愛や男装/女装の文化がそのいい例だ。人間は本能を持たず、ただ自分の欲望を満たすために文化を生み出す。そして人間において、その「欲望」というやつはどうやって生まれるのか。それについては、使徒パウロがローマ書の中で見事な表現と共に言及している。彼はこう書いているのだ。「もし律法が私に〈むさぼるな〉と命じなければ、私はむさぼることを知らなかったでしょう」と。「かつて私は罪とはなんの関わりもなく生きていたが、掟[正しさ]を知ることによって、罪が私の内でよみがえったのだ。」彼はそうとも書いている。

 これは一体どういう事か。つまり、人は何かを知らなければ何かを欲望することもないということだ。かつてユダヤ人として熱心に神の掟を守っていた彼が突き当たった現実とは、正しさを知るほどあやまちを欲望する内なる自己の発見であった。実際、人は泣くことを知らなければ笑うことを知らず、喜ぶことを知らなければ悲しむことも知らない。人の欲望は、絶えず「何かを知る」ということから、内面への知識の介入によって始まる。そして宗教であれ科学であれ芸術であれ、どんなジャンルであろうと私達の文化文明はこの「知ること」によって生まれた欲望との関係のなかで発展して行ったと言える。だからパウロは絶望する。汚れた欲望から逃れようとするほど、知性を深めるほど、自分が新しい欲望を覚えていく姿を見出してしまったからだ。

 人間は本能を持たず、欲望を満たすための諸文化を生み出す。人間とは種から脱しつつある生き物なのである。なるほど、確かに私達にも本能的な欲求は備わっている。いわゆる三大欲求(食欲、性欲、睡眠欲)がそうだ。しかし、文化の本質はその三大欲求からいかに逸脱するかにある。こういう内容を書いて、私は別に生理的な欲求を否定しようとしているのではない。むしろその逆なのだ。

 ここで一度ニーチェの話に戻ろう。彼の哲学において、「神の死」は「人間の死」を意味する。それは先程既に書いた内容だ。しかし彼は何も悲愴な意味を込めて「神は死んだ」と述べたのではないのである。ニーチェにとって、神の死はむしろ絶好の好機(チャンス)であった。何故なら、神( = 既存の宗教的/道徳的価値観)が死ぬことによって「人間とは何か」を規定する価値観も死ぬからだ。神が死んだ今、人間もまた死んだ。ならば、今や私達はかつての価値観の制約から逃れ、より広い世界を生きることが出来るはずだ。

 ニーチェはあらゆる宗教と哲学の内に、ルサンチマンの効能を見出した。仏教にしてもキリスト教にしても、またプラトン以降の西洋哲学にしても、そこには生を悪とし、生を否定する価値観が蔓延っている。そしてそれに基づいて今日までの文化文明が成り立っているのだとしたら、人間とは本質的にニヒリズム的な存在であり、自らの諸力をルサンチマンに複合させていることとなる。ルサンチマンは生を否定し、それによって自らを傷つける可能性のあるものをなかったことにしようとする。しかしそれによって、どれほど多くの生の潜在性(ポテンシャル)が失われたことだろう。ルサンチマンに基づく価値観が失われつつある今、私達は今こそ生の持てる力能を、その今日まで疎外されてきた潜在性(ポテンシャル)を発揮することが出来るのではないか。

 もはやニヒリズムの時代は終わった。ニヒリズムは今の私達には問題ではない。何故なら、現代はポスト・ニヒリズムの時代であるからだ。神が死んだ今、私達はかつての神を甦らせるべきなのだろうか。否。そもそも神が生きているか死んでいるかなど、大した問題ではない。問題は人間が死んだということだ。では私達は、かつての人間が生きていた世界を取り戻すべきなのか。否、それは出来ない。失われたものは、一度失われたら最後、決してかつてのように繰り返されることはない。ただ有り得るのは新しい形を伴ってそれがよみがえるということだ。人間が死んだ今、私達が求めるべきはかつての人間の復活(無条件になにかが信じられた「あのころ」の再来)ではなく、新しい人間の誕生であり、新しい価値観の獲得である。そしてそれに気づいた今、もはやニヒリズムは問題ではない。私達はその先を生きなければならないのだ。

 では「新しい人間の誕生」とは、一体いかなる形で成し遂げられるのか。それは、ある意味では今日までの「人間」の価値観から疎外されてきたものに目を向けるということだ。つまり知覚しえぬものになること、動物になること、名もなきものになるということだ。

 動物とは不思議なもので、一方ではそれは暴力的かつ非知性的なものの具現化であり(「猿や犬じゃないんだから」「このケダモノめ」といった言葉がそれをよく表している)、また一方でそれは暴力を行使され、いじめられるものの具現化でもある(鞭で叩かれ調教される馬、虐待される子猫や子犬……)。知的になるほど人間が動物的なものを排除していくという考えは誤りだ。むしろ知的になるほど、人は動物に応答するものになる。非知性は本質的に動物を搾取し、動物を疎外する。これはドゥルーズが『感覚の論理学』の中で書いていたことだが、政治であれ宗教であれ芸術であれ、何らかの形で革命的な瞬間を体験したものは、その事をよく理解している。何故なら偉大な人間の誕生とは、いつも全体に回収され得ないもの、忘れら去られたもの、排除されたものが全体 - 一般性 - 人間性へと介入し、その中で開花する瞬間にのみ発生するからだ。つまり動物になる( = 生成変化する)ことであり、その時私達は、一匹の死にゆく子牛に責任を負うものではなく、一匹の死にゆく子牛に応答し、その呼び掛けにこたえるものとなる。

 周知の通り、私は別に哲学者ではない。哲学なんて全然詳しくないのだから、今後もそう名乗ることはないだろう。私自身、哲学者になるつもりなど毛頭ない。ただベルクソンによれば、哲学の存在意義は次のようなものだという。つまり、それは「人間の条件を乗り越える」ためにあるのだ。

 心理状態というものは常に移ろいゆくものだ。ある時はこれが正しく見えて、また別の時にはそれが正しく見える。あらゆる真実とは時間の真実である。ある時には正しく見えたものが、またある時には既に正しくない。人間は結果から原因を見出す。なにか考えざるを得ない現実に直面した時、私達は過去の記憶へと目を向けて「何故こうなってしまったのか」の理由を見出そうとする。その点について、ニーチェが見事な表現を残している。「苦しんでいる者はいずれも皆、おそるべき素早さで、また驚くほど独創的なやり方で、自分の苦痛の感情にきっかけを与えた原因を見つけだす。(……)彼らは自分の過去、および現在を、その臓腑の底まで掘り返し、暗黒のストーリー、秘密めいた物語を見つけ出し、そこで勝手に苦しい猜疑に浸る……」

 もし本当にそうなのだとすれば、私達は過去の記憶 -経験に基づいて生きるというよりかは、むしろ過去の記憶の中を動き回る存在だと言っていい。そう、現在の観点に基づいて、絶えず記憶の間を行ったりきたりする存在。それが人間だ。そして移動する都度、私達の現在と過去は解釈し直され、その都度今日までの人生のどこかがひっくり返される。そして今日まで「自分」だと思っていたものが多かれ少なかれ崩壊する。もしそうならば、人生とは大いなる茶番だ。否、もしその程度の次元に留まり続けるならば、私達の人生は陳腐な茶番に過ぎない。

 ではどうすればこの「大いなる茶番」から抜け出せるのか。それは、まず上のことを事実として認めることから始めなければならない。人間は自然状態( = ありのままの状態)を持たない。経験していることから経験していないことを妄想し、現在の観点から過去の記憶の間を動き回る。よって私達は常に自らにとって「自然」なものをでっち上げる存在だと言っていい。人間的自然とは決して上手に基礎づけられないものであり、それは数学や物理学のように精密な分析を行うことの出来ない対象である。そして今日までの歴史 = 経験に基づいて行われる以上、人間にとって本能的なものへの分析とは決して憶測の域を出ない。言い換えるならば、人間は明確な本能を持たない。固定した居場所を持たず、不確定かつ不安定で、生成しては消滅する。それを絶えず繰り返す存在、人間。存在することへの不安は、もしかするとここから生じるのかもしれない。しかし、この私達を不安にさせる暗闇の中にこそ、恐らく私達の生を偉大にさせる潜在性(ポテンシャル)が含まれているのとだとしたら、どうだろう。

 大切なのは人間の条件を乗り越えることだ。人間存在が本質的にうまく基礎づけられないものだとするならば、安易に「人間とはこうあるべきだ」と考えることは避けねばならない。何故なら私達は絶えず今いる所から移動する存在だからだ。そして人間の条件を乗り越えるということは、かつての「人間」を支える価値観によって抑圧されていたものを解放するといことだ。つまり動物になること、知覚しえぬものになること、忘れ去られ、置き去されたものに、名もなきものになるということだ。そしてその時、新しい人間が誕生する。

 神が死んだことは問題ではない。人間的価値観が失われつつあるのも問題ではない。そして何より、ニヒリズムなど問題にする必要もない。「俺はニヒリストだ」とか「自分は不幸だ」とのたまう者など、皆みみっちいナルシズムに苛まれている人間だ。自分の現状を悲惨に捉えるほど、人はそれが気持ちよくなっていく。そういう人達に見られる傾向は、益々自分が不幸になろうとすることであり、また益々自分を弱体化させようとすることだ。しかし、そんな不潔な奴らは皆糞くらえというものだ。

 「人間」が死んだのはいいことだ。それが意味するのは、今こそ私達は新しい人間像を希求できる時代にあるということだからだ。失われた人間性は決して取り戻されない。あるのはただ、新しい人間性が獲得される、その偉大な瞬間のみである。