21/05/10

 晩年のニーチェにはある有名な逸話がある。その日、イタリアのトリノに訪れていたニーチェは、自分の泊まったホテルの近くで、ある一匹の馬がいじめられているのを見る。馬は鞭で打たれ、苦しそうに鳴き声をあげていた。やがてニーチェはその馬に近づいた。そして突然、彼は涙を流しながらその馬を抱きしめたのである。ニーチェは鞭打たれる馬の苦しみを自分のことのように感じ、その苦しみに応答する者となった。しかし、それは彼が今日までの人間性を失う瞬間でもあった。

 その日、ニーチェは発狂する。そして死ぬまで彼は正気を取り戻すことがなかった。

「苦しむ人間は動物であり、苦しむ動物は人間である」という言葉がある。私のお気に入りのドゥルーズの言葉だ。しかし、何故彼は「苦しむ人間は動物」だと考えたのだろう。それは、心的苦痛を感じる人達は皆孤独や疎外感に苛まれているからだ。そして、何故彼らが苦しむと同時に孤独を覚え、「自分が周囲から疎外されている」と感じるのか。それは、自分が一般的な「人間」像から外れているように感じられるからだ。苦しみに襲われた時、私達は「人間の世界」からすべり落ちて、一匹の無力な動物となる。そして、もし苦しみが人の感性を繊細にし、そして繊細な感性が人の知性を豊かにするならば、「動物になる」ことは決して退化することを意味するのではないのである。

 心を病んだ哲学者が、ある一匹の馬の苦しみに応答し、そして発狂する。ニーチェと言えば同情を否定したことでも有名である。何故なら、「同情とはルサンチマンの作用である」と彼は考えたからだ。ではルサンチマンとは何か。それは悲しみ - 復讐の機能である。悲しみに囚われた者は、自分を悲しませる可能性のあるものをなかったことにしようとする。言い換えるならば、ルサンチマンの本質とは、自分を苦しめ傷つける(かもしれない)力の存在を否定することにある。同情とは、相手を自分と同じかそれ以上に可哀想だと思った時に生じる。つまり、好んで誰かに同情する者とは、他人を自分と同じくらいの弱さにまで引き下げたいと願っている者だということだ。「可哀想」だから誰かを愛する人間、それはその誰かが自分の弱さの犠牲になることを求めているのである。

 これがニーチェが同情を否定した理由である。同情の本質は、他人に自分と同じくらい弱くあるようせがむことにある。言い換えるならば、同情とは無意識的な他者への復讐であり、自分の悲しみの中に他人を巻き込み、それと一緒に生全体を否定しようとする試みである。

 では苦しむ馬を抱きしめ泣いたニーチェは、その馬に同情した者なのではないか。そのような疑問が湧いてくるのは容易に想像できることだし、実際その通りだとも言えるだろう。しかし、私が思うに、ニーチェが馬に対して感じた同情は決して上記のようなものではないのだ。たしかに彼は馬の苦しみに共感して泣いた。しかし、それは同情する者がよくやるように、「この可哀想なものの苦しみに自分は責任がある」と感じたわけではなかった。きっと彼はこう考えたのだ。つまり、「自分はこの苦しむ馬だ」と。馬の苦しみに共感を覚えた彼は、自分もまた一匹の苦しむ動物であるのを感じて、その馬を抱きしめたのである。

 苦しむ人間は動物であり、苦しむ動物は人間である。苦しみ喘ぐ時、私は一般的な「人間」から仲間外れにされて、自分が一匹の孤独な動物であるのを感じる。そして苦しむ動物を見る時、私はこの動物がひとりの人間であり、自分と同じかそれ以上に尊い存在であるのを感じる。「知性とは社会化された情念である」とは、たしかドゥルーズが『経験論と主体性』の中で書いていたことだ。それは間違いのないことだと思われる。人が知的だと感じる相手は、自分の感情を整然と語ることの出来る人間である。要するに、私達が知性を感じる人間とは、自分の感覚を常識的な言語で上手く還元できる者であり、また自分の感情を上手く一般的な世界( = 社会)に適合できる人である。知性のパラドックスは、まさにここにある。前述の通り、もし人の感性が苦しみを通して繊細になり、そして繊細な感性ほど豊かな知性に恵まれるのならば、知的な人間とは必ず一度動物への生成変化を体験せざるを得ないからだ。ここには人々が認めたくない一つの矛盾が、つまり社会性と動物性の同居が発生している。

「責任を負う」とは、私には傲慢不遜なもののように思われる。無論、それも場合によるのだが、少なくとも苦しむ動物に対して「自分は責任を負うべきだ」と考えるべきではない。何故なら、「責任を負う」とは「強い自分がより弱い者を背負う」というように聞こえなくもないからだ。それは自分が「責任を負うべき相手だ」と感じている存在を見下していることの表れでもある。ただ、先程も書いたが、やはりそれは場合によって異なるだろう。しかし私には、次のことが否定し難いことに思われるのだ。つまり、時には「責任を負う」という行為それ自体が、相手を見下し相手を背負うことで、自分を正当化する手段となるということだ。

 私には、ニーチェが苦しむ馬を見下していたようにはどうしても思えない。無論、結局この話も上記の逸話が本当だとすればの話になってしまう。ただ、もし本当だとするならば、彼は馬の苦しみに同情するというよりかは、むしろそれに応答していたように思われるのだ。そう、同情し責任を担うのではなく、むしろ苦しむ者に応答する動物であるということ。同じように苦しむ二匹の獣が、同胞の呼ぶ声に応答し、相手の孤独を抱きしめ泣くということ。それは強き者と弱き者の関係ではなく、同じように強く、また同じように弱い、同じ線の上に置かれた二者の関係である。


 責任、それは私が長らく悩んできた問題でもある。何故なら、(語弊を恐れずに言えば)私は絶えず「責任」を負うことから逃れてきたからだ。しかし、それが決して間違ったことだとは思わない。負えない(または負えるかわからない)責任を無理に負おうとしても、結局相手を裏切って終わってしまう。ならば最初から責任を追うような行為(または関係)から手を引くべきである。それなら誰も苦しむなくて済む。そして苦しんだとしても、その苦しみは最小限で終わる。誠実な人間とは無責任な人間のことを指す。かと言って、自分を誠実な人間だと言うつもりはないのだが……。

 異性の知人友人でこのブログを読んでいるひともいるだろう。だからあまりこういう事は書きたくないのだが、白状すると、私は今日までに、そういった知人友人に対して、変な気持ちを起こしそうになったことが何度かある。ただ、これもまた自分で言うことではないのだが、私は忍耐強い人間だ。相手にそもそもその気があったかが問題だから、結局すべて自分の独り舞台だったのかもしれない。ただ今日までに、私は色々と我慢をしてきた。変な気持ちを起こしても、決して実行に移すことをしなかった。それは私の臆病さの表れでもあった。が、同時に自分の選択は常に最善の判断であったとも思っている。何故なら、「そういったこと」に走ったとして、私には取れる責任がないからだ。言われたことはないが、「責任は取らなくていいよ」という甘い誘惑が放たれたことがあるとしよう。しかし、そういった場合においてさえ、言葉の裏では結局何かを期待するのが人間というものだ。だから相手の言葉通りに誘惑に乗ったとしても、結局最後に自分が責められるのは目に見えた話である。ならば、はじめから責任が発生する行動/関係から逃れるのが正しい選択だと言える。そう、私は今日まで、自分が間違ったことをしてきたとは微塵も思っていない。

 なるほど、これは自分の性質上の(本性上の)問題でもある。下品な話になるが、ある友人と会話している時に、突然十一歳の女の子とセックスすることになったとして、日本の子供と東南アジアの子供のどっちがいいかという話題になったことがある(「どんな話題だ」というツッコミはこの際控えてもらいたい)。その時、私は迷わず「東南アジアを選ぶ」と言った。日本の子供が相手だったら、恐らく私は自分が子供の頃に仲の良かった女友達のことや、または自分が今現在仲のいい異性の友人のことを思い出すからだ。そうなると、悲しくなって行為に興奮できないだろう。しかし、もし東南アジア系が相手だったら(大変失礼な話かもしれないが)、自分の過去も現在も気にせず行為に没頭できる。相手は自分と同じ母国語を話すこともないから、会話だって通じない。だからそれだけ一層コミュニケーションが欠如して、自分という存在を感じることもなく行為を楽しむことが出来る (なぜなら「自分」という存在は常に自分が繋がっているものとの関係によって定義付けられるから) 。

 責任を逃れたいのは、自分自身から逃れたいからだ。そうとも言えるのかもしれない。他者から責任を要求される時、相手がこちらに求めているのは他でもない、私自身である。『ラストタンゴ・イン・パリ』という映画があるが、それがこちらの話したい内容を手助けしてくれるように思われる。マーロン・ブランドが演じる主人公は、アメリカから移住してきたフランス(パリ)である若い女性と知り合う。彼はある部屋で彼女との密会を重ねるが、しかし彼女が名前を聞くと彼は怒り、また彼女が自らを名乗ろうとしても怒る。彼らは幾度も密会を重ね、愛し合う。しかし決してお互いの名前も、生活も知ることがないまま関係は続く。何故ならそれは主人公が禁止した内容であったからだ。

 私にはこのマーロン・ブランドの気持ちがよくわかる。自分を忘れたいのに、何故わざわざ「自分」を思い出させようとするのだろう。人から求められることは嬉しいが、それがとても苦痛に感じる時がある。のんびりとした休日、優雅にひとりの時間を楽しもうとする時に、SNSを開くのはとても苦痛である。不愉快な他人が私の生活に厚顔で入り込んでくる。Twitterを開けば、毎日誰かが何かをツイートしている。Instagramを開けば、毎日誰かが何らかのストーリーを載せている。否、こちらが勝手に覗いているだけだから、誰も私のことなど見ていないのだろう。しかし重要なのは、そこでは誰かが、いつも他の誰かから見られるのを前提にして何かをしているということだ。その様は実に不気味である。眼差しはいつもその視線に相応しいものを演じるようこちらに強いる。嘘をつかずにいられる時間、それは他人の視線を気にせずにいられる時間であり、よってそれは自分一人でいられる時間である。しかし、今ではプライベートすらも他人の眼差しの下にあるのではないか。SNSを運用している人達を見ていると、思わずそんな事を考えしまう。そして本当に嫌な気持ちになる。

 昔から、匿名性のあるものに憧れる。そして私が思うに、「自分から逃れる」ということは、決して人々が思うほど悪いものではないように思われる。ニーチェの話に戻るが、彼は何重にも仮面を被ることによって、自らを守ったのだという。発狂後の彼、病床にある彼ですら、ニーチェの友人のうちには彼の最後の仮面なのではないかと疑う者さえいたという。ニーチェにおいては、一切が仮面であった。彼は自分にまつわるもの全てを自らの仮面として生きた。おそらく彼は、そうすることによって自らの匿名性を守ったのである。

 ニーチェ!あまりにも孤独で、あまりにも革命的であった人。さて、何故「自分から逃れる」が悪い事だと思わないかの話になるが、それは、今日まで経験からの憶測でしかない以上、私達は「本当の自分」というものを持つことが出来ないからである。否、「本当の自分」はあるとしても決して誰にも(自分でさえも)理解できないものである。ならば、「自分はこうだ」と決めつけることはとても危険なことのように思われる。

 無論、それだけが自分が「自分から逃れる」のを好む理由ではないことくらいわかっている。私は臆病な人間だから、「本当の自分」を知られることをいつも恐れてきた。多分幼い頃からずっとそうだったと思われる。自分自身を求められるということは、要するに自分の向き合いたくないものに向き合わなければならなくなるということである。私には、必要以上に誰かから求められると、なんだか自分がいじめられているような気分になってくる。本当に、とても惨めな気持ちになる。とても苦しく、何かを無理やり押し付けられているような気がしてくる。

 ただ、それは少し言い過ぎかもしれない。それに、上のように考えながらも、心のどこかで私は誰かと結合することを熱望している。恐らく、この矛盾を解決するすべが何処かにある。ただ今の自分ではそれに気づけないだけだ。