『差異と反復 - はじめに』に対する個人的な注釈

『差異と反復』のアメリカ版への序文の中で、ドゥルーズは次にように書いている。「……私を襲い熱狂させたヒューム、スピノザニーチェプルーストを研究したあと、私は「哲学すること」を試みたのだが、その最初の著作こそ『差異と反復』であった」と[※1]。

 この一文の中では挙げられてないが、ドゥルーズに対して、上記四者と同等かそれ以上に影響を与えた哲学者がいる。そう、ベルクソンである。よく知られている通り、ドゥルーズは「差異」の概念を、ソシュールレヴィ=ストロースからではなく、他ならぬこのベルクソンから学んだ。また、後年に発表する著作『シネマ』では、その構成が「『物質と記憶』の注釈のような形態」をとっていると、『ベルクソニズム』の訳者である檜垣氏も指摘している[※2]。一方で、ドゥルーズベルクソンの関係は非常に微妙なものであったと思われる。恐らく彼にとって、ベルクソンは生涯にわたり乗り越えるべき「敵」だったのではないか。

 また、ベルクソンと同様に、ドゥルーズ哲学の基盤となった哲学者がもう一人いる。ヒュームである。『差異と反復』の「解説にかえて」でも触れられている通り、ドゥルーズの処女作はヒューム論(『経験論と主体性』)であり、しかもそれは構造主義が流行る前に出版された[※3]。しかしそのヒューム論の発表後から八年間、彼は自らの著作を公表しない空白の期間に陥ることとなる。そして、その沈黙を破ったのが、彼のニーチェ論(『ニーチェと哲学』)であったのだ。『記号と事件』に収められているクレソールへの手紙の中では、こう書いている。つまり、「自分を窮地から救ってくれたのは、ずっと後になってから読んだニーチェだった」と[※4]。

 よって私には、ドゥルーズ哲学におけるベルクソン、ヒューム、ニーチェの関係性を読み解くことが、そのまま彼の哲学への理解に繋がると思えてならないのである。否、恐らくドゥルーズ哲学の根底にあるのはベルクソンとヒュームであり、その二者で生じた行き詰まりを解決するためにニーチェが用いられたのではないか。そして自らの哲学観を深めるために、彼は絶えずスピノザプルーストを参照にしたのではないか。そう推測することは、決して野暮な話ではないはずだ。

 では、ドゥルーズベルクソンから何を学んだのか。それについて先ず最初に挙げられるのは、問題の設定の仕方である。ドゥルーズによれば、ベルクソンは次のように考えたという。「答えを出すことよりも、問題をいかに設定するかの方が重要である」と。何故なら、思弁的に言えば、問題とは設定されれば必ず解けるように出来ているからだ[※5]。人間は自分が解ける問題しか創らない。我々の日常では、よく次のような人物を見かける。もう答えが出ているはずなのに、いつまでも同じところに頭をぶつけて、まよい込んだ迷路から抜け出せない。しかし、それは答えが間違っているからではなく、そもそも問題の設定の仕方が(つまり物事の捉え方が)間違っているのだ。よって、真に創造的な思考とは、答えを出す能力ではなく、いかにして問題を設定するかにある。やがてドゥルーズは「哲学の仕事は概念を創造することだ」と絶えず繰り返すようになるが[※6]、その考えはここから取られているのではないか。

 では、いかにして問題を設定すればいいのか。ここにドゥルーズベルクソンに見出した二つ目のものがある。つまり、問題は差異の本性に沿って設定されるべきだということだ。ドゥルーズによれば、ベルクソンは程度の差異と本性の差異の二つを区別したという[※7]。程度の差異、それは分割しても本性が変わらないものである。たとえば単位としての時間は、細分化していけばキリがない。一時間を細かく分割していけば六十分になるが、しかし一時間も六十分もその本性は違わないはずである。一方で、本性の差異とは、分割すれば自ずとその本性が変化するものを指す。一分をふたつの三十秒に分割すれば、双方の時間の本性は一分のときとは異なってくる。時間とは絶えず異なったものが産出される形式なのである[※8]。そして、ドゥルーズはこれを「差異化 = 微分化」という表現を用いて語る。

 ここでひとつ、過去の自分を例にとって考えてみよう。ひとりの人間の人生には色々なことがあるが、その節々で人間の価値観とは変わっていく。人は時間の経過と共に変化することを強いられるからだ。あらゆる真実とは時間の真実なのである[※9]。ある時には正しいと思えていたことが、また別の時には既に正しくない。これが何度も繰り返される。それが人生というものだろう。しかし、だとしたら、この現象は何故起こるのか。それは、その時々に出会う出来事または事件によって、私達が抱きうる感情が異なるからではないか。

 ここでドゥルーズの哲学はベルクソンからヒュームへと繋がっていく。ヒュームによれば、我々はその時々に生じる情念に突き動かされて生きている。では、この「情動」とも呼ぶべき現象は、一体どのようにして発生するのか。それは私達がその時々に出会う「事情」のためではないか[※10]。我々はよく原因があって結果があるのだと考えたがるが、それは誤解である。実際は結果が先にあり、原因はいつも後から見出されるものなのだ[※11]。では、何故ひとは結果から原因を憶測するのか。それは(ヒューム的に言うなれば)そう憶測せざるを得ないような「諸事情」に出会うからである。ここからドゥルーズとヒュームが見出すのは、人間の妄想的な本性である[※12]。人はよく、経験していることから経験していないことまでもを語り出す。一つの経験と別の経験を勝手に結び付け、そこから推論可能なものをあたかも自明な事実であるかのように妄想する[※13]。そういう意味では、我々の精神の本質は理性ではなく、その想像力にあると言える[※14]。では、もし一つの経験と別の経験の因果性 - 繋がりが空想上の産物であり、でっち上げられたものであるとするならば、我々の経験とは本来それぞれがバラバラなものであり、細分化すればキリがないものであり、また別の経験との繋がりを分割すればするほどその性質(見え方)が変わってくるものでもある[※15]。つまり、差異化 = 微分化されるものなのである。

 ここでドゥルーズにおけるヒュームへの考察は、彼のベルクソンへの考察へと回帰していく。さて、ドゥルーズベルクソンから問題設定と差異の本性について学んだと先に書いたが、それに並んで彼がベルクソンの内に見いだした三つ目のものがある。それは潜在的多様体であり、すなわち記憶の概念である。我々が過去の記憶に基づいて生きる存在だという考えは大きな間違いだ。むしろ我々は、現在の観点に基づいて、記憶の間を移動する存在なのである[※16]。前述の通り、我々は現在において出会う「諸事情」、出来事や事件の影響で発生した情念に動かされて、本来なんの繋がりも持たない過去のバラバラな記憶に一つの繋がりを見出し、結果から原因を憶測し、そうして「事実」というものをでっち上げる。この時、我々は差異化 = 微分化し続けるもの達を、現在の観点に合わせて変形させているとも言える[※17]。このような現象を、ドゥルーズは「異化 = 分化」と呼んでいる (この微分積分にたとえて自身の哲学を語るやり方も、彼はベルクソン(とライプニッツ)から着想を得たと思われる[※18]。そしてそのためにソーカル事件で叩かれたことは、人のよく知るところだろう)。

 では、このようにベルクソンとヒュームを下敷きにして発展したドゥルーズの哲学は、ニーチェによっていかなる解決がもたらされるのか。それはきっと人の解釈次第なのだろうが、私が思うに、ドゥルーズニーチェを援用することで、この二人の考え方を徹底させていくのだ。彼はよく本を道具箱として用いることを推奨する。「読み手にとってどう機能するのか。もし機能しないしならば、もし何も伝わってこないならば、別の本に取りかかればいい」[※19]。まさにドゥルーズニーチェ哲学を「利用」することで、自らの哲学を深化させていくわけである。

 ニーチェによれば、我々の生を突き動かしているのは、我々に内在している「力への意志」の運動である 。あらゆる力は、別の力との関係にある[※20]。人間の意識の裏側では、何かを望み肯定する意志と、何かを拒み否定する意志が入り乱れている。そしてそれらが複合することによって我々の意識を突き動かしている。このように、ニーチェは前 - 個体的なものに、無意識によって突き動かされる個体 - 意識を見出した[※21]。ニーチェの哲学はよく「力の哲学」または「意志の哲学」と呼ばれるが、それは決して「力を獲得する哲学」ではなく、むしろ我々の意識/意志が、どれほど我々の無意識的/無意志的なものによって突き動かされているかを暴いた点に、その特徴があると言えよう。だからだろうか、ドゥルーズニーチェ哲学をカントの理性批判を継承するものとして捉える[※22]。

 さて、あらゆる力が別の力との関係にある以上、力 = 生の本質とは変化すること、生成することにあると言える[※23]。何故なら、別の力との関係の中でしか把握し得ない「力」とは、すなわち不定形なものであり、その都度によって形を変化させるものであるからだ。このような力の現実において、「強さ」とは最早ひとりの人間が権力を欲し、または権力を維持しようとすることではない。むしろ何かを手に入れようとすること、または何かが失われないよう同じ状態に留まろうとすることは、それ自体弱さの現れである。ならば強さとは何か。それは過剰であること、激しくあることであり、自らからはみ出て何かを生みだし、自らから溢れ出てエネルギーを贈与する者である[※24]。

 我々にとって本質的なものとは、変化すること、生成することであり、また絶えず流転し、流動し、運動することである[※25]。ならば、自己同一性というものはどのようにして見出されるのか。それは、過去の自分をパロディすることによって、つまり過去を省みて過去を反復することによってではないか[※26]。そして、人は自分の望むものしか繰り返そうとしないのである。過去の記憶は、反復される時に既に偽装されている(異化されている)のだ。「反復されるのはまさに諸反復であり、異化 = 分化させられるのは、まさに異化 = 分化させるものである」とは、こういうことではないか。

 この絶え間ないパロディの連続。オリジナルを持たず、自己同一性を欠きながら絶えず変化し変容する存在。そういう意味では、我々の世界の一切はシュミラクル(みせかけ)である。しかし我々の生きる社会は、変わらない一般法則の存在を、自己同一性を前提にして成り立っている。それは何故なのか。ニーチェによれば、それこそルサンチマンの作用である[※27]。人が変わらないものを求めるのは、いつだって変わるものに傷つけられた時のみである。よって明確な自己同一性、基盤となるべきものの設定は、それ自体ルサンチマンの作用( = 変わらないものを求める作用)によるものだ。そして、ニーチェはそれを批判する。ルサンチマンが生を、生成変化するものを断罪するために機能しているからだ[※28]。ドゥルーズニーチェを通してあらゆる思考の愚劣さ、下劣さ、その欺瞞を批判する時[※29]、彼が念頭に置いているのは、まさにこのルサンチマンに対する嫌悪感であり、生を退廃させようとする、あらゆる死の誘惑に対する敵意なのである[※30]。

 そのような同一性 = ルサンチマンの作用に対して、ドゥルーズニーチェ永劫回帰を対置させる。人は自分が望んだものしか繰り返されることを求めない。我々が繰り返しを求めるのは、同じものではなく、異なったものに対してである。我々はよく好きな音楽を繰り返し聴いたりするが、それはまさにその曲が、それまでの自分にとって異質であるからだ。それまでにない感動をこちらに与えてくれるからだ。この異なったもの( = 差異)の回帰、美しい偶然への求愛こそが、ドゥルーズニーチェ永劫回帰の内に見いだしたものである[※31]。異なったものだけが回帰するということ。全ての喜びは永遠を欲するということ。つまり、永劫回帰を求めるということ[※32]。

 人間の意識とは反動的なものである[※33]。誰も「自分はこうだ」と思い込まなければ生活をやっていくことなどできない。ただ、「自分はこうだ」と思い込もうとする時、明確な自己同一性を確立させようとする時、そこで働いているのはルサンチマンなのであり、ドゥルーズ = ニーチェの指摘する「欺瞞」なのである。それに対して、ドゥルーズは語る。「永劫回帰は人間を拒み、追い払う」と[※34]。異なったものが回帰し続けるならば、自ずと「自分はこうだ」という考えは打ち砕かれるからだ。そして、我々を喜ばせるものが異質なものであるならば、回帰するものは常に自我 - 個体に属さないものであり、前 - 個体的なものであり、非人称なものなのだとも言える。だからこそ、ドゥルーズの哲学は非 - 人間中心主義であり、脱 - 人間中心主義であり(「人間」を大事にしようとするなら自ずとルサンチマンに囚われざるを得ないから)、また生の躍動と「力」の解放を求める生命中心主義でもあるのだ[※35]。

 もう一度ヒュームの話に戻ろう。前述の通り、ドゥルーズはヒュームの内に人間の妄想的な本性を見出した。我々は皆、妄想する主体である。しかもこの主体は、能動的に(自らもとめて)妄想するのではなく、受動的に、あたかも何かに突き動かされるように妄想するのである[※36]。我々は常に主体化のプロセスにあると言える。そして恐らく、ひとは自分が知っていること(経験していること)について語るよりも、むしろ知っていないこと(経験していないこと)について語ることの方が遥かに多いのである。見たこともなければ聞いたこともないことを、あたかも自明な事実のように扱うことで我々の生活は成り立っている。ドゥルーズとヒュームが見出したのは、このように、人為 = 虚構が介入することでしか成り立たない我々の文化と生活である[※37]。 我々は経験していることから経験していないことを妄想し、この世界全体を妄想する。この世界とは、言わば一つの虚構(フィクション)なのである[※38]。

 音楽は我々の感情に寄り添うというよりと、むしろ我々の感情をその場で突き動かす[※39]。人が音楽に感動するのは、その音楽を聴くことによって、自分がそれまで感じなかったものまでもを感じるように促されるからだ。美しい音楽の本質とは、このように、聴き手に経験していないことをあたかも経験していることのように錯覚させる点にある。これをドゥルーズ = ニーチェは「偽なるものの力能」と呼ぶ[※40]。この世界を突き動かしているのは錯覚させるものの力能であり、それが我々を誘惑し、我々を生成変化させ、我々の生きる世界に一つの真実をでっち上げるのである。

『差異と反復』の序文で、ドゥルーズは次のように書いている。「実在する過去の哲学の書物を、まるで見せかけだけの想像上の書物であるかのように、まんまと語ってしまうことが必要である」。また、彼は最初の方で書いた『記号と事件』に収められているクレソールへの手紙の中で、哲学史とは「オカマを掘るようなもの」または「 処女懐胎」に近いものがあると語っている[※41]。実在する哲学者の書物を扱いながら、その哲学者が語っていないことまでもを、あたかも語っていることのように扱う必要がある。だからこそ、哲学書とはある種のサイエンス・フィクション(知の虚構)なのである。この世界がひとつの大きな妄想なのだとしたら、この世界を突き動かすのものまたひとつの大きな妄想である。すなわち、それはフィクションなのだ。そして、優れたフィクションの本質は、常にそれがあたかも現実と同じかそれ以上の価値を持っているかのように錯覚させる点にあるのではないか[※42]。

 
※1『狂人と二つの体制 一九八三 - 一九九五』p.157-158
※2『ベルクソニズム』p.157-158
※3『差異と反復 下巻』p.393-394
※4『記号と事件』p.18
※5『ベルクソニズム』p.6
※6『記号と事件』p.57
※7『ベルクソニズム』p.14-18
※8『ベルクソニズム』p.40
※9『プルーストシーニュ』p.125
※10 『経験論と主体性』p.162-163
※11『ドゥルーズ・コレクション 1』p.198
※12『経験論と主体性』p.122
※13『ドゥルーズ・コレクション 1』p.283-284
※14『ヒューム』p.60
※15『経験論と主体性』p.146
※16『シネマ*2 時間イメージ』p.136、『ベルクソニズム』p.76
※17『ベルクソニズム』p.67
※18『ベルクソニズム』p.21
※19『記号と事件』p.21
※20『ニーチェと哲学』p.23
※21『ニーチェ』p.18
※22『ニーチェと哲学』p.111
※23『ニーチェと哲学』p.378
※24『ニーチェ』p.44
※25『ニーチェと哲学』p.60
※26『ドゥルーズ・コレクション 1』 p.172-173
※27『ニーチェ』p.149-150
※28『ニーチェ』p.50-51
※29『ニーチェと哲学』p.210-211
※30『ドゥルーズ・コレクション 2』p.325-327
※31『ニーチェと哲学』p.69
※32『ニーチェ』p.67
※33『ニーチェと哲学』p.225
※34 『ニーチェ』p.70
※35『批評と臨床』p.208-210
※36『経験論と主体性』p.14
※37『経験論と主体性』p.79-81
※38『ヒューム』p.80
※39『ドゥルーズ・コレクション 2』p.106-107
※40『ニーチェと哲学』p.206
※41『記号と事件』p.17-18
※42『ドゥルーズ・コレクション 1』p.27

本の名前は全て邦訳のタイトルであり、また重複出版されているものは全て最新の訳のほうである。著者はすべてジル・ドゥルーズのもの。

 

読書会向けに書いたが特に使うこともなかったのでここに供養する。