21/05/19

 月日は流れる。ついこの間まで冬だと思っていたのに、気がつけばもう五月の下旬である。じめじめとした、湿っぽい天気が続いている。私は額の汗を拭う。もう初夏が始まろうとしているようだ。最近、時の流れのはやさに驚く。一体こんなにも歳月というものは過ぎ行くものなのだろうか。私は驚きとともに恐れに駆られる。そして願う、時が止まってくれることを。しかし、何とも不思議な話だ。留まりたい時間などないにも関わらず、時を止めて欲しいと願っているなんて。

 時折、とても美しい夢を見る。しかし悲しいことに、私は目が覚める度にその夢を忘れてしまう。ただ夢の幸福な印象だけが残り続けている。しかし、一体何故なのだろうか。何故幸福な夢はすぐ忘れ去られるのに、いつか見た悪夢についてはいつまでも覚えているのだろう。これは人生の謎である。

 美しい音楽、それは人に孤独を感じさせるものである。現代とは関係性の社会だ。ある人について語るならば、自ずとある人が関係を持っているものについて語る必要がある。それに対して、美しい音楽は私を孤独にさせる。音楽でなくてもいい。本にしても映画にしても、美しく、また感動的なものは皆、こちらを他のわずらわしい関係性から切り離してくれる。

 しかし、こんな事ばかり書いていると、これを読む人に誤解を与えてしまうかもしれない。最近よく思うのだが、私はひとに誤解を与えることが人一倍得意らしい。否、語弊のある言い方ばかりをしているから、よく周囲の人間にあらぬ誤解を与えている気がする。では「言い方を変えろ」という話になる。まったくその通りだが、しかし、中々それが出来ないのである。「何故できないのか?」と問う人もいるだろう。それについては、この際聞くのを避けていただきたい。

 どんな人間にも「お前が言っちゃいかんだろう」という話題があるに違いない。そしてそれを意識しながら、皆毎日を生きているのだろう。ある人には権利があるが、またある人には語る権利がない。では「何故それを語ってはならぬのか」という疑問が湧いてくる。それは、ある一定の人が語ると日常生活が壊れてしまう可能性がある、そんな話題がこの世にはあるからだ。「お前がそれを言うのか」「それをわかっていながら生きているのか」「なんて傲慢な奴だ」と、そのような非難が出てくる(または出てきても仕方ない)話題である。もしそれが本当にあるならば、はじめから何も言わずにいるのが最善だと言える。

 このように、私達の日常は、「距離」によって成立している。常に他者との距離をはかり、それによって「言っていい内容」と「言ってはならぬ内容」とを区別する。日常会話には暗黙のルールがあり、それが私達に「知っているが言わない」という嘘を強いるのである。

 私個人としては、特にそれが悪い事だとは思わない。こういった社交のルールは、よく軽薄なものとして見なされる。しかし「軽薄で一体何が悪いんだ」という気持ちがある。無論、自分自身どんな人とも軽薄な関係を保ちたいとは思わない。ただ、無闇やたらに互いの本心をぶつけあい、ただただ意味も生産性もないような会話に耽るよりかは、軽薄であろうと居心地のいいコミュニケーションを交わす方が遥かに好ましい。私が嫌うのは社交の場よりも、むしろ窮屈な内輪ノリだ。顔を出せばいつもその場にいない誰かの噂陰口で盛り上がる友人関係。吐き気がするほど不愉快だ。しかし、この話はもう何度か既にしている気がする。だからこの辺でやめにしよう。

 昔、いくつかの「耐えられない」と思うようなことがあった。今でも自分が何に耐えがたさを見出したのかはわかっている。しかし最近になって、今の自分ならそれに耐えられるかもしれない、それを乗り越えられるかもしれないという気がしてきている。私は今、自分を試したいように感じている。そう、今の私なら耐えられる。今の私なら乗り越えられる。今の私ならやれる。しかし、何に耐え、何を乗り越え、何が出来るのだろう?それについては、あえて言わないでおこうと思う。

 他人に責任を負いたいとは思わないが、同じ動物として、誰かの苦しみに応答したい。それは常に考えている事だ。今ではこのように孤独であることに喜びを感じているが、昔はそうではなかった。とりわけ思春期の頃は、「どこにも自分の居場所がない」とか「寂しい」とか、誰に嘆けばいいかもわからず悩んでいた気がする。しかし、そんな悩みももう忘れてしまった。今では他人事のように過去の自分を振り返ることがある。ただ、当時の私は、その孤独の苦しさのあまり、してはいけない事までもしてしまいそうになったことがある。否、もしかすると私はその「してはいけない事」をしてしまったのかもしれない。だからだろうか。かつての自分と同じように孤独に苦しんでいる人間を見ると、「早まるな」という気持ちになってくる。だからと言って相手の孤独を埋められる訳でもないし、また何か特別なことがしてやれるわけではないが、同じ種である動物として、その苦しみに応答したいとは思える。

 たとえばホストにはまる女の人が、この世には一定数いる。私の周りにそういう人がいないからなんとも言えんのだが、自分では勝手に「私はそういった人達に近いものを持っている」と思っている。そう、きっと思い違いなのだろうが、そのような人達の気持ちがわかるような気がしている。嘘にでもしがみつかないと埋まらない孤独がある。私はそれを知っているのだ。ただ、だからと言って何もしてやれないのが実情である。私が女性であれば話は別かもしれない。しかし生憎、私は男性である。だからどんな綺麗事を言おうとも、結局は女性を搾取する側に立つことしか出来ない。もし自分が搾取する側であることから逃れたいならば、そもそも異性を性的対象として見ていないことを表明することが、つまりゲイかオカマになることが必要となる。しかし残念ながら、私は異性愛者である。要するに、自分に出来ることなど何もないということだ。もしそういった人から愛情を求められても、一定の距離を置いて接することしか出来ないわけだ(もとい、そのようなことがあればの話だが)。

 確かグレン・グールドは「人と一緒にいたら、そのx倍孤独でいる必要がある」とか語ったことがある。私にはその気持ちがよくわかる。人と一緒にいたら、それと同じかそれ以上孤独でいる必要がある。それは決して人が嫌いだからではない。孤独でいないと、本なり音楽なりが楽しめなくなるからだ。結果として、心の内で関わりたいと思いながら、今日まで疎遠になってしまった人が何人かいる。蔑ろにしているつもりはないが、そのような誤解を与えてしまった人もいる。申し訳なく思っている。私はこういう人間なのだ。どうか許して欲しい。

 ジャン・ルノワール(西洋絵画の巨匠ピエール=オーギュスト・ルノワールの次男坊)に『大いなる幻影』という映画がある。主人公は自らの上官である大尉と共に敵軍の捕虜になり、自分と同じフランス兵達がおさめられた収容所へと送られる。しかし、一見すると彼らは特に不自由のない暮らしを送っている。戦争にしても、決して自国の敗色濃厚というわけではなく、どうやら接戦であるらしい。となれば、いつかはこの捕虜の生活も終わるだろう。たとえこのまま捕虜であるにしても、ある程度身分の守られた生活を送ることになるだろう。

 にも関わらず、主人公とその仲間たちは脱走を試みるのである。見つかれば射殺されるかもしれないし、実際に彼らは同じフランス兵が脱走を試みて殺された事実を知っている。にも関わらず、彼らは逃走をはかる。何故か。それは、身の上の安全よりも、実際の生活よりも遥かに大切なものがあるからだ。ではそれは一体何なのか。誇りか、義務か、または愛国心か。しかし実を言うと、作中で何故彼らが脱走するのか、その理由が語られたことは一度もないのである。ただ、次のようなセリフだけある。つまり、「脱走は捕虜の仕事である」と。

 非常に象徴的なシーンがある。主人公と大尉はやがてある収容所へ向かうのだが、その収容所の管理者は大尉との古くからの友人なのである。やはりそこでの生活も決して不自由なものではない。大尉に関しては管理者の部屋へと招かれ、昔話に花を咲かせることもある。にも関わらず彼らは脱走を試み、大尉は主人公たちを逃すために命をかけるのである。

 これが抵抗行為の意味である。私達は生きるためになにかに抵抗するのではない。生きるよりも大事なもののために、それでいて上手く言葉では言い表せないもののために、そのためにこそ抵抗するのだ。その結果、命を落とすことになろうとも、それは大した問題ではない。この世には、幸福な個人の暮らしよりも遥かに大事なものがある。その「大事なもの」が何なのか。それは個々人によって違うだろう。しかしそれでも全ての人々に共通していることがある。それは、しあわせな生活よりも大事なものとは、常に何故か知らぬがこちらを突き動かし、また時にはそのためにこちらを狂わせるようなものであるということだ。たとえ平穏な生活が冒されることになろうとも、そのために体を張り、命をかけることの方が遥かに大切なのである。そして結果として、こちらが死に至ることになるとしても、その行為はそれ自体、既に退廃的な死に対する一つの抵抗となっているのである。何故なら、その行為こそがむしろ私達の生に奉仕する手段となるからだ。

ドストエフスキーにおいて、登場人物たちは、恒常的に様々な緊急事態にとらわれているわけですが、生死を問うこうした緊急事態に囚われていると同時に、それよりもっと緊急な問いが一つあるということを知ってもいるのです──ただし、それがどのような問いなのかは知らないままでいます──。そして、このことが、彼らを立ち止まらせるのです。最悪の緊急事態──「火事だ、私は行かなければならない」──に置かれながらも、登場人物たちは「いや、もっと緊急な何かがある。それがなんだかわからない限り、私はここを動かない」と心に思う、あたかもそのようにして全ては起こるのです。これこそまさに《白痴》[ドストエフスキーの小説のタイトル]というものです。これが《白痴》の定式なのです。」