21/05/24

 夏が近づいている。私は今、暮れる一日を背景にしながら、薄暗い部屋でひとり (僅かな明かりを頼りにして) こうして文章を書いている。夏を思わせる匂いを感じ取る度に、およそ五年前の日々を思い出さずにはいられない。あの頃、私はほとんど他者と関わりを持たず、いつまでも、いつまでも自室に籠って本を読んでいた。当時読んでいたのはドストエフスキーの小説であった。有名な五大小説を全て読んだのも、確かあの頃であった(『罪と罰』は例外で、それより二年ほど前に既に読んでいたが、しかしそんなことはどうでもいい話だ)。

 こうして思い返してみると、当時の記憶が昨日の事のように蘇ってくる。私は今と同じような薄がりの中、小さな電灯に本を掲げ、夢中になって綴られた文章を読んでいた。日が暮れてゆき、夕暮れはもう私の見張りをしてくれなかった。夜が訪れつつあった。やがて辺りには艶かしい、夏の夜の空気が漂い始めた。それは熱っぽくも冷ややかな、人を感傷的にするような空気だった。私は静かに興奮していた。そしていつまでも一冊の本を読んでいた。それは『カラマーゾフの兄弟』であった。ああ、あの美しい、夏の夜の思い出。二度と返らない私の青春の日々。やがて夏は過ぎていった。そしてあれ以来、どれほどまた同じように読書に熱中した日々を過ごしたいと願ったことか。

 あれから幾年が経過した。実を言うと、今はもう昔ほどドストエフスキーを読むことがない。なるほどドストエフスキーにまつわる評論を読むことはあれど、彼の小説それ自体を開くことは殆どなくなってしまった。当時に比べれば、読書の趣味も大分変わってしまったような気がする。

 しかし、当時熱中して、今もなおかつてと変わらぬ(またはかつて以上に大きな)愛情を向けている作家がいる。ニーチェリルケがそれだ。どちらも私を悩ませ、また私を苦しめた作家であった。二人とも他の作家のようにスラスラと読み進めることが出来なかった。しかし、それだけに一層深く私の心に残った作家でもあった。それは決して燃え上がるような読書の体験ではなかった。ただ深い喜びと傷跡を私の心に残していった。

 やがて私はドゥルーズに出会った。初めに読んだ彼の本は『記号と事件』であった。それは私に大きな衝撃を与えた。次に開いたのは彼の二つのニーチェ論だった。どちらも、あまりにも驚異的な読書体験だと言わねばならなかった。特に『ニーチェと哲学』の方は、今日までの私のニーチェ観を一変させた。否、むしろ私のこれまでのニーチェ観を決定づけたと言ってよかった。ニーチェを論ずる人のほとんどは、ニーチェに対してある程度距離を取って語るのが常である(記憶が正しければ、ハイデガーにしてもヤスパースにしてもそうだった)。ニーチェの哲学には常人に耐えられないものがある。やがて発狂して死に至るニーチェだが、その悲劇的な生き様それ自体が、彼の思想に無理があることを証明している。そう、彼自身が自らの思想に耐えられなかったのである。ただ「否定的に捉えるべきだが、それでも彼の思想には学ぶべきものがある」として、ニーチェの書物は紐解かれ、そして批判的に検討されるわけである。

 それに対してドゥルーズは、ニーチェに対して一切の批判を投げかけない。ドゥルーズニーチェ論の面白いところは、彼がニーチェの思想を真に受けるところにある。処女作『悲劇の誕生』から遺稿集『力への意志』まで、ニーチェの全著作(そして彼の書簡までも)を参照して、論理的にニーチェの哲学を再構築していく。その鮮やかな手さばきに私は魅せられた。そして何より感動的だったのが、他の人がニーチェに距離を取ってニーチェを語るのに対して、まるでドゥルーズニーチェと共に自らの思想を語るのである。それは二人が協奏することで鳴り響く一種の交響楽であった。ふたつの異なる彗星が夜空を過ぎることで煌めく一つの天体であった。そして、ドゥルーズニーチェを肯定してくれたおかげで、自分までもが肯定されたような気がした。皆が距離を置いていたところに距離を置かなくていい、ニーチェは決して間違っていない、だからニーチェに共感する君も間違っていない。あたかもそう語り掛けてくれているかのような気がした。

 それから私とドゥルーズの日々が始まった。私はドゥルーズを愛し、彼を理解したいと願った。しかし彼の本は難解で、必ずしも夢中になって読み進められるわけではなかった。 むしろ途中で頓挫した読書の計画がいくつもあった。しかしそれでも何かが私を惹き付け続けた。もしかすると私は、あの運命的な出会い(『記号と事件』と二つのニーチェ論)がもたらした強烈な印象が忘れられなくて、あるかもわからない幻影を追い求めているだけかもしれなかった。しかしそう思ってもやはり彼の本を読むのをやめることが出来なかった。幾度とない遠回りをした。十ページを読むのに一時間をかけたりもした。結局言っていることがわからなくて本を投げ出したりもした。やがて少しの間、ドゥルーズから距離を取ろうという気持ちになる時期が来た。

 その時出会ったのが、ロマン・ロランであった。『ジャン・クリストフ』は恐るべき小説であった。豊島与志雄の書いた序文には胸が震えた。情熱的で、高潔な文章であった。そして訳者がこのような序文を付ける小説に対して、自ずと期待が高まった。やがて物語をめくり始めると、それが期待以上であることがわかった。恐らく翻訳が優れているのもあるのだろうが、音楽のように美しく、流動的な文体と、しかし決して軟派にならず、硬質で格調高い文章を楽しむことが出来た。ロマン・ロランというと、ガンジーに共感した理想的ヒューマニストとして有名だが、彼は理想的であれど決して夢想的ではない。むしろ『ジャン・クリストフ』を開いてわかることは、その鋭利な心理観察眼と、時には冷酷ですらある人間または社会への描写が彼に備わっていることである。そして何より、ヒューマニズムと言うと何か道徳臭いイメージを思い浮かべるかもしれないが、私の記憶では、たしか『ジャン・クリストフ』の主人公(クリストスその人)は人を二回殺し、その都度国外に逃亡している。ロマン・ロランの高潔な文体には、このように、何か非常に奇怪なものが潜んでいて、それが私を魅せたのである。

ジャン・クリストフ』を読み進めながら、やがて私は再びドゥルーズを読むようになった。そして間もなく、ドゥルーズロマン・ロランの間に何か似通ったものがあることに気がついた。なるほど、私の記憶が正しければ、ドゥルーズロマン・ロランに言及したことは殆どない。『スピノザ  実践の哲学』の最後でロランのスピノザ評からの一節を引用したくらいである。ただ、この二人に共通していることが幾つかあるのは間違いのない事だ。二人ともニーチェベルクソンスピノザを愛していること。自分以外の作家/芸術家を語ることで自分の思想を語ろうとすること。ロマン・ロランと共に仕事をしたシャルル・ペギーをドゥルーズが愛読していたこと。そして何より、二人とも退廃的なものを、死を想わせるものを憎み、生命と健康とを愛したこと。

「生はそれ自身ひとつの美徳であって、その美徳を欠いでいる者は、たとい他のあらゆる美徳を備えていても、完全に正しい人間にはなれないのである。」

 では、そのように語るロマン・ロランにとって、「正しい人間」とは一体なんだったのだろうか。ジャン・クリストフは作中で二度人を殺し、不倫も一度体験している。一般的に見れば決して「道徳的」とは言えない人物である。しかしそれでもクリストフは誠実であり、正しく生きることに取り憑かれた人物として(彼を導く神の声を聞く人物として)描かれている。これは一体どういうことなのか。

 恐らく、それを紐解く鍵はスピノザが握っている。スピノザは人間に自由意志があることを否定した。私達の抱きうる感情や知性は、私達がその時々に出くわす「事情」によって決定される。言い換えるならば、私達の意志とは、外部からの触発によって決定されるのである。よって、もし人間になんらかの「自由」があるとすれば、そのような事実を受け止めることで初めて得られるものだと言えるだろう。人間の意志が時にその場で決定され、突き動かされる以上、時には「罪」と呼ばれる行為に至ることもあるだろう。では、問題はそれを踏まえた上でどう生きるべきかということになる。そして、そのような現実において「正しく生きる」とはどういうことなのかと問わなければならない。私にはジャン・クリストフが、そのようなスピノザの倫理を実践しているように思えた。そして同じようにスピノザから多大な影響を受けたドゥルーズを読むことは、私にとって、ロマン・ロランの助けなしでは不可能であった。

 しかしそれでも読書が常に捗ったわけではない。むしろ上手くいかないことの方が多かった。そして、ドゥルーズを読み始めてから二、三年ほど経った最近になって、やっとその思想が何であるのかを掴み始めた気がしている。以前は読むのに苦労した本も、遥かにスラスラと読むことが出来ている。しかし、それでも余白が、空白がつきまとう。だが問題はそこではない。以前にはない、尋常ではない程のスピードで、ドゥルーズを読み進めることが出来ているということだ。

 それは当時私がドストエフスキーに熱中していた時と同じであった。長い間、私はあのように熱く、狂ったように本を開き続ける夜を恋しく思っていた。そして今、知らぬ間に私はそれを実現していたのである。ある晩、その事にふと気がついた。そして思った。「俺は気が付かないうちに自分の願いを叶えていたのだ」と。それは静かな感動であった。私は自分の苦労が報われたような気がした。しかしここで満足してもいけないとも思った。まだまだこれからだ。私の読書の喜びはまだ拡張することが出来る。ページを読むスピードを止めることは出来ない。もっと先へ行かなければならぬ。そう、私にはまだ読めていない本があるのだから。きっとこの喜びはまだこれからなのである。

 そしていつの日か、この青春の日々の全てを注ぎ込んだ本を書きたい。先ずドゥルーズのために一冊の本を書くことは間違いのない事だ。しかしそのためには彼の著作を全部読むことが必要だろう。だからきっともう少しの時間が必要となる。そして次に、私が狂い熱中したあれらの作家たち ── リルケニーチェロマン・ロラン、そしてドゥルーズ ── を下敷きに、何かひとつの、自分の名前によって語るための小説を書かなければならない。それがどんな形を取るのか。それはまだわからない。しかし、やがてそれを書く時が来るだろう。その事については、大いに確信を持っている。