21/05/29

 この世の中には、やたらと自分の活動 - 作品に意味を持たせようとする人がいる。「自分はこれこれこういう理由と目的をもって制作をして、このような意図を持って活動している」というわけだ。白状すると、私にはそういった人が皆傲慢に思えてならないのである。

 どんなものであれ、教養と呼ばれるものはこちらに二つの苦労を強いる。一つは学習面での苦労であり、もう一つは金銭面における苦労である。作品に触れるためには金がかかる。しかし作品に触れるために金を払ったのに、作者の意図 - 意味を押し付けられて終わるなど、鑑賞者が可哀想な気がする。

 鑑賞者は作者の存在意義を証明するための道具ではない。もし作者の説明に意味が見出されるとすれば、それは作品それ自体に意味が見出された後だと言える。よって作品には作者の意図が表される必要はない。もし自分の活動理由を理解して欲しいなら、立場を逆にすればいい。自分の話を聞いて欲しいのなら、むしろ作者が鑑賞者にお金を払うべきだ。もう一度繰り返すが、人は作品に触れるために足を運ぶのであって、作者の話を聞くためではない。そして作者の制作意図 - 意味を理解して欲しいと願うのなら、むしろ作者が鑑賞者側にお金を払うべきである。

 なるほど、傑作であれば耳を傾ける価値があるかもしれない。しかし傑作が何故「傑作」と呼ばれるかとなれば、それが世に稀であるからだ。なるほど、鑑賞者が「傑作だ」と思った作品なら、金を払って作者の声に耳を傾けるだけの価値はあるだろう。しかしそれが傑作であるかどうかは、作品に触れてからでなければわからないはずだ。作品を知らずに足を運んで、退屈なものに金と時間を費やさなければならない人間の気持ちを、一体考えたことがあるか。凡庸な作品に、何故耳を傾けなければならないのか。「自分は創作者だ」と言って威張っているが、何故そんなに自信が持てるのか。時には自分の趣味を誇って他の作品を貶したりするが、何故自分の意見にそれほど価値があると思えるのか。何故もっと謙虚になろうとしないのか。自分に恥を覚えることが出来ないのか。私には不思議でならない。

 私もまた芸術を愛するひとりの人間だ。それに、生涯を通して芸術に関わっていくつもりである。だからこそ、上のようなことを考えざるを得ない。無論、世の中には創作活動に携わっていて「素晴らしい」と思える人格を有した人間が沢山いる。私はそれを知っている、何故なら知人友人にそういった人がいるからだ。一方で、ある一定の人間には疑問を覚えずに居られない。何故そんなに自分を凄い人間だと思えるのか。一体どうしてそんなに威張れるのか。作品に触れる側の人間が可哀想だと思わないのか。他人の貴重な時間と金を無駄にさせたことに恥を感じないのか。


 私はと言うと、実を述べれば、他人に言いたいことがまるでない。伝えたいこともなければ訴えたいこともない。よって社会に対する意見や、政治的な思想も皆無だと言っていい。そんなもののために活動するなんて馬鹿げているとも思っている。まあ、それもあって今日まであまり活動的にならずに過してきたとも言える。そういう意味では、上のような馬鹿になるのも必要なのかもしれない。

 しかしそれでも、やはりただ一つだけ人様に言いたいことがあるかもしれない(だから私は上の言葉を撤回しなければならないだろう)。もし何かを世に問う事が許されるならば、私は次のことを問題にしたい。つまり、それは生命の価値だ。

 そう言うと何か説教臭く聞こえるかもしれない。だが私は何も道徳的なことを言おうとしているつもりはない。いつからは知らぬが、この社会では病的なものや退廃的なものが持て囃されるようになった。「メンヘラ」という言葉も一般的に使われるようになった。現代の流行は病的であることだ。なるほど、どんな人にも欠点がある。そしてモデルとなる「普通」に当てはまる人がどこにも見当たらない以上、私達は皆どことなく病人であるのかもしれない。そういう意味では、病気は肯定されて然るべきだろう。しかし、だからと言って生を悪と見なし、生を否定することは間違っているのである。

 個人的な話になるが、かつて精神科に通ったことがある。ジプレキサという、とても効き目が強い薬を処方されていた。思い出すのも嫌な時代である。だから、病んで後ろ向きになっている人の気持ちがわからないでもない。しかし、ある人の悲しみの大きさは、そのままある人が今日までに感じた喜びの大きさに比例する。それは丁度日差しが強くなるほど影もまた色濃くなるのと同様だ。だからどんなに似通った境遇同士の人間でも、それぞれの抱く悲しみには微妙な違いが存在する。同じ「死」でも、戦争で死んだ人間の悲しみと事故で死んだ人間の悲しみは違う。そういう意味では、私は誰の悲しみも理解できないし、誰の喜びも理解できないのだろう。だからこんな御託を並べるのが先ず馬鹿げているのかもしれない。

 では少し話の観点を変えてみよう。白状するならば、私は別に自殺が悪だとは思っていない。人は生きていれば必ず「死にたい」と思うような瞬間に出会うものだ。しかし「死にたい」と思った人間の数と、それで実際に死んだ人間の数とは、恐らく月とすっぽんくらいの違いがある。私にしてもそうだ。今日まで何度「死にたい」と思ったかわからない。では何故今日まで死ななかったかとなれば、それは死ぬのが怖いからだ。昔、首をくくろうとしたことがある。首に縄をかけて、全体重を自分の喉元にあるそれに託したわけだが、結び目が甘かったのか、途中で縄がほどけてしまった。だから結局死ねなかったし、また首を吊ろうという気持ちにもならなかった。何故か。それは、縄が喉元を締め付ける時、自分の心臓が耳元で鳴ってるかのようにバクンバクンと聞こえてきて、その感覚がとても恐ろしかったからだ。以来、自殺する気など毛頭も起きないでいる。

 ここでまた前言撤回をしたく思うが、私が今日まで死なないでいる、もう一つの理由がある。それは、単純に生きることを愛しているからだ。なるほど、人生には悲しみが付きまとう。あらゆる人と同様に、私も今日まで様々な悲しみを体験してきた。がしかし、もしそこに悲しみがあるならば、それと同じくらいに大きな喜びも今日まで経験してきているはずだ。要するに、私は今日まで色々な悲しみを経験してきたが、それと同じくらいに大きな喜びも経験しているはずなのである。

「人生は美しい」と言うつもりはない。ただ、この世界には美しいものが沢山あることを知っている。私は今日まで、どれほど多くの音楽に感動させられてきたことだろう。私は今日までに、どれほど夢中になって本を読んできたことだろう。私は今日までに、どれほど強い感銘を与えてくれる映像作品に出会ってきたことだろう。私は今日までに、どれほど多くの美しい、偉大な作品に出会ってきたことだろう。そしてこれら全てのものを創り出したのは、皆私と同じ生ける人間なのだ。これは驚くべきことではないか。まるで神のように創造的なもの、永遠に朽ちることのない魅惑を内在させたもの、それを自分と同じ人間がつくっているなんて。そして生きていれば私も、彼らと同じように偉大な瞬間を生み出すことが出来るかもしれないのである。そう、生きていれば私も、この私でも、彼らの仲間に入れるのかもしれない。

 私は老いるのが怖い。髪が抜け落ち、筋肉が衰え、皮膚がただれて皺だらけになっていく。肉体から新鮮さが失われてゆき、身体が思うように動かなくなる。そんな醜い老後のことを考えると恐ろしくなる。今の自分が持てる力と、その力を行使出来る喜びから切り離されていくなんて。なんていうことだ。しかしそれでも、矛盾していると思うだろうが、長生きはしたいと思っている。何故なら、長生きをすればするだけ、私を感動させてくれる美しい作品に出会うことが可能になるからだ。本にしても、今日までまだどれほど多くの傑作を読んでいないことだろう。それを読まずして死ぬなんて考えられないほどだ。

 このように、いつからかは知らないが、私は力と喜びのことしか考えられなくなってしまった。それは決して「力と喜びを獲得する」という意味ではない。ただ自分の内に眠っているそれらの力 - 喜びを解放したいのである。

 自分には、まだ味わうことの出来ていない力と喜びがある。何故それを知らずして死ぬ事ができるだろう。何故それに諦めをつけて生きることが出来るだろう。私は生命を愛している。なるほど、いくらこちらが生命を愛したところで、生命がこちらを愛してくれるとは限らない。しかし、そんな事はクソほど問題にもならないのである。大切なのは、生きることに魅せられているという、まさにそのことなのだ。

 私の周りには、私より若く、しかも私より後ろ向きに生きている知人 - 友人が沢山いる。とても勿体ないと思う。人生はつらいが、生きることは素晴らしい。それをもっと知っていいはずだ。昨日食ったラーメンが美味かったとか、今日初めて聴いた音楽がとてもよかったとか、君を喜ばせているものはこの世に沢山あるはずだ。何故それに目を向けない。確かに、人は苦悩に苛まれると、悲しみがこの世の全てのように思われてしまうものである。悲しみの本質は、生を否定し、喜びをなかったことにすることだ。それに実際、悲しみは喜びよりもいっそう真実に近い。私のお気に入りのシェストフの言葉に、次のようなものがある。「発見されたばかりの真理は生まれたての赤ん坊のように醜く見える。」実に見事な言葉だ。実際、私達が何かを発見するのは、いつも何らかの困惑を覚えた時である。「何故こうなってしまったのか」と問わずにはいられない。こうして発見された真実がどれほどこの世にあることか。

 しかし、それでも私は次のように主張したい。つまり、「生を否定することは間違っている」と。それは生きることが素晴らしいからでもあるし、この世に美しいものが沢山あるからでもあるが、それ以外の理由もある。前述の通り、悲しみは喜びをなかったことにする作用を持つ。悲しみは自分を悲しませる可能性のあるものから生を切り離していく。こうしてどれほどの力が断罪されてきたか知らない。何故なら、ある人の持てる力は (決して相手にそのつもりはなくとも)悲しむ者を傷つけるように思われてしまうからだ。時に、私は芸術を愛している。芸術こそ人間の持てる生の力能が解放される場所である。そしてある人の感じる喜びとは、その人に固有の力能が発揮された時にこそ最も強く感じられるのである (たとえば画家が絵を描く理由は、「絵を描く」という能力を通してしか感じられない喜びを感じたいからだ)。しかし悲しみがこの世を支配していけば、私達は自らの持ちうる力から切り離されていく。

 そして、これが私が「生を否定するのは間違っている」と主張する理由である。要するに、悲しみ - 否定のせいで力 - 喜びが生から切り離されていくのが許せないのである。死と悲しみは私の敵だ。なるほど人は悲しみの反動で何かを見出す。しかしその時、悲しみは既に生に奉仕する手段になりおおせているのである。私が死と悲しみを許すのは、それが生命に奉仕する時だけだ。この地上には美しいものが沢山ある。それを私から切り離すなんて許せないことだ。しかし苦しむ人の望みは、いつも自分と同じかそれ以上に他の人にも苦しんでもらうことだ。

 私はそういう人達に対して言いたい。「生きることはそんなに悪いことではない」と。今日まで文章を書き続けてきた理由として、やはり自己満足というのが挙げられる。先日掲載した日記(21/05/24)にしても、書きながら「我ながら美しい文体をしている」なんて考えていた (その分、後日読み返した時に結構恥ずかしい気持ちになったのだが)。しかし、次のような考えがないと言えば、それもまた嘘になってしまう。つまり、これを読んでくれた人が、少しでも慰めと喜びを知ってくれたら嬉しい、ということだ。

 自分で言うのもなんだが、今日まで私なりに「美しい」と思える文章が書けるよう心がけてきた。しかし、当たり前のことだが、私より美しい文章を書く人間なんて数え切れないほどいる。もしこうして私のブログを読むことが楽しみになってくれている人がいるならば、それをきっかけに、私より美しい文を書く人に出会って欲しいと願っている。そうして美しいものに沢山出会ってゆけば、おのずと生命を愛するきっかけにもなるだろう。綺麗事かもしれないが、一応本心である。