21/06/04

 かつて、私には過去にいくつかの後悔があった。最近ではそれに苛まれることが少なくなったが、しかしそれでも、時折ある一つの思いが頭をよぎることがある。

 ベルイマンの『鏡の中にあるが如く』には次のようなセリフが登場する。「人は皆、自分の周りに円を描いて生きている」と。また、そのテリトリーが壊れないようにすることで自分を守っていると。それはその通りだと思う。テリトリーのようにこちらを囲む「円」の大きさは、きっと人によって異なるだろう。しかし誰しもその円の内側を触れられるのを恐れているはずだ。

 自分にしてもそれは同じだ。私には仲のいい友人が何人か(または何人も)いる。しかし、白状すれば、その誰に対しても隠し事をしていると言っていい。唯一隠していないことと言えば、「自分は隠し事をしている」ということくらいだ。また、それを悪いとも思っていない。友人の中には、そんな私を気に食わないと思う人もいるだろう。「こちらに距離を取っている」と感じられても仕方ない話だ。しかし、断っておきたいことがある。それは、私は自分の友人を皆愛しているということだ。なるほど私は誰に対しても距離を取っている。しかしそれは他人が嫌いだからではない。むしろ人と一緒にいすぎると心がソワソワしてくるくらいだ。だから距離を取らざるを得ないのである。気が乱れれば集中したいことに集中できなくなる。それならいっそ気を乱されるものを避けるべきだ。そしてもし気が乱れるくらい誰かと仲良くしていたら、私はおそらくその友人のことを「自分を邪魔する者」として嫌いになってしまうだろう。傲慢なのはわかっているが、こういう人間なのだ。どうか許して欲しい。

 しかし、後悔していることが頭をよぎる、と最初に書いた。そしてこの話は上記のような距離感の問題に関わってくるものだ。では、一体何処から話せばいいのだろう……そう、私には、人と関わる上で一つ気にかけていることがある。それは、出来るかぎり居心地のいい空気を演出することだ。理由は単純である。あまり居心地の悪さを経験して、それを後で引きずりたくないからだ。私は孤独を愛している。孤独な時間、それは自分一人に全てが許された時間でもある。暗い部屋に閉じこもれば、私は天体を動かす神にもなれる。そんなにも幸福な時間が恵まれているのに、何故それを他人と過ごした時間に邪魔されなければならないのだろう。

 一方で、別に人と関わるのが嫌いなわけではない。誤解を免れるために、これは何度も断っておく必要がある。特に普段話さない人と話すことには一種の新鮮さがある。他者との出会い、それは折り開かれる新しい世界を垣間見る瞬間である。そういう意味では、私は人と知り合うのが好きだと言える。だからまた人と関わるのも好きだと言えるはずだ。

 しかし、何かずっと遠回りをして物事を話している気がする。単刀直入に話そう。そう、かつて、私は浮気をしたのだ。しかも断っておきたいが、それは性欲からでもなく、「その場しのぎ」のためにしたと言っていい。前述の通り、私は人と関わるのが好きだ。そして何より上っ面のいい、居心地のいいコミュニケーションが好きだ。何故ならその方がこちらの気分を乱されずに済むから。言い換えるならば、私は他人と関わる時、できる限りいい顔をして過ごすことを心がけているということだ。他人に好かれていれば、普段の平穏を乱される可能性を少なく済ますことが出来るだろう。一番嫌なのは、どうでもいい人間から要らぬ敵意をむけられ、こちらの日常を乱されることだ。だから私は好んで上っ面のいい人間でいようとしている。そして繰り返すが、それを悪い事だとは微塵も思っていない。

 が、その結果として一つの事件が招かれた。要するに、私は他人を誤解させてしまったわけだ。そしてこの不快さを凌ぐためには、恐らく「関係」を持つのが一番だと判断した。なるほど、私にだって性欲はある。一日に何度勃起するかは知らない。ただ、そんなものは抑えようと思えばいくらでも抑えられる。何故ならその場の情で動いたところで、「後」が怖いということを知っているからだ。たとえ性欲が満たされたとしても、場合によって相手はこちらを無責任な人間だとして憎み、または我が物顔でこちらについて語り始めるだろう。どちらにせよ、それは私の孤独が迫害され始めることを意味する。考えただけ最悪であり、信じられないくらいに不愉快だ。ならば初めから何もしないのに尽きる。

 上記のあやまちは、それが最善だと思ったからしたことである。今後何かの攻撃に遭うことを考え、それを最小限に抑えるためには、一度関係を持つべきだと判断したわけだ。さて、先程私は「浮気」と書いたが、それもまた表現に難しさがつきまとうものである。何故なら、当時の私には恋人のように愛していた異性がいたが、実をいえば、彼女とは何らかの名のある関係になったことがないからだ。私は彼女を愛していた。しかし、今でも彼女が私にどんな感情を抱いていたのか疑問に思うことがある。

 彼女はよく私のことを責めた。思えば毎日のように怒られていた気がする。きっと私の性格が気に食わなかったのか、それとももっと他のことに怒っていたのか、もしくはただこちらに呆れ八つ当たりしていただけなのか。それは結局わからないのだが、とにかく私は、よく彼女に悪いことをしているような気持ちになっていた。

 そんな関係であったからこそ、私は他の人と「そういった関係」を持ったことを隠した。それは保身のためでもあるが、やはり他の理由もあった。思い上がりかもしれないが、真実を知れば、きっと彼女が悲しむだろうと思った。人は困惑を覚えた時に初めてなにかの存在を認識する。「それは一体なんなんだ」と問わない限り、ひとつの真実が私達の前に現れることはない。

 私は彼女に隠し事をした。しかしそこには問題があった。つまり、当時の私は感情が表に出やすかったということだ。間もなく彼女は私のもとから去った。恐らく、私の態度が変だったことに気づいたのだろう。その癖こちらが何も打ち明けないのに嫌気がさしたのかもしれない。もしくは他に別の理由があったのか。それは結局、今でもわからないままだ。

 実際、私は本当に愚かだった。本当に、本当に馬鹿者であった。それから一層周囲に「円」を描くのに注意を払うようになった。そして変な関係に陥る前に一歩足を引くということを学んだ。要するに、私は昔より利口になった。友、それは相手を求めはしても決して所有することのないものである。私は友情の身軽さを愛してきた。そしてその「身軽さ」を保つためには、ある程度距離を取る必要があることを知った。

 恐らく、今でも付き合いの続いている友人たちは皆、私の上のような点を許容してくれていると思う(もとい、こちらが勝手にそう思っている)。だから出来るかぎり、私も友に対して寛容でありたいと願っている。

 彼女とやり直したいとは思わない。ただ、いつかまた会いたい。それは常々思っていることだ。かつての私には、恐ろしくて話せないでいた事が沢山あった。また同じように、恐ろしくて聞けないでいたことも沢山あった。それはどちらも、彼女を失うのが怖かったからだ。しかし、今の私ならそれが出来る。恐れず全てを打ち明けることが出来る。相手の話を聞くことが出来る。そのような気がしている。無論、これも結局思い込みなのかもしれないが。

 出来ればいつか、彼女に謝りたい。かつての自分には「何故こんな簡単なことも言えなかったんだ」と思うようなことが沢山ある。しかし、今の私なら、目を逸らさずにそれを話すことが出来る気がする。しかし恐らく、それはまだ先の話になるだろう。そもそも向こうが私と会ってくれるかもわからないのだから。


 ある種の友人関係には、足の引っ張り合いとも言うべきものが存在する。「自分もこれだけ汚いところを見せたのだから、お前も同じくらいに汚くなれ」というわけだ。そのような友情は、傍から見れば唯一無二の親友のようにも見える。しかしそれが、お互いに足を引っ張りあって、結局引くに引けなくなったからずっと一緒にいるように見えるのは、果たして私だけだろうか。

 いつからか、私はそのような内輪の狭苦しい人間関係に耐えられないものを感じるようになってきた。お互いを貶し合い、一緒に馬鹿になるよりか、むしろ距離を取りながらでも互いに尊敬 - 愛情を保てる関係の方が遥かに好ましいように思われるのは、果たして私だけだろうか。


 週が終わり、また週が始まる。そしてこれから話そうとは思うのは、今から少し前のことである。

 その日、私は途方に暮れていた。ある事件に直面せざるを得なかった。水道料金を支払い忘れたせいで、水道が止まってしまったのである。それだけならまだいい。問題は、私がその「事件」に気づいたのが金曜の十九時頃であったということである。水道局は平日の十六時までしかやっていない。要するに、これから続く二日間、私は部屋での水道の仕様が禁止されてしまったのである。

 シャワーはいい。近くにあるネットカフェ(シャワーが無料で利用出来る)または銭湯に足を運べば済む話だ。飲食も問題ない。基本自室で調理をしないから(そもそも部屋に冷蔵庫がない)、いつも食料/水分は外で買って済ませている。問題は排泄である。うんこだったら一日にする回数が少ない分、近くにコンビニのトイレを借りれば済む話かもしれない。しかし小便は違う。私はよくコーヒーを飲む。それに一日に一リットルは必ず紙パックのオレンジジュースを飲む。だから自ずと人より尿の頻度が多くなる。これが私を途方に暮れさせた最大の要因であった。

 しかし間もなく解決策は見つかった。さて、前述の通り、私はよく紙パックのオレンジジュースを買って飲む。だから部屋には空っぽの紙パックが沢山ある。そしてこの文脈から考えれば、「その中に放尿すればいいのではないか」というひらめきに襲われるのは、恐らく当然のことだと言えるだろう。

 その時だった。不意に私は尿意を感じた。おもむろにチャックを開けると、私は近くに転がっていた空の紙パックを拾った。そしてその中に自分の性器を突っ込んで、膀胱に溜まった小便を流し始めた。えもいわれぬ開放感と喜びを感じた瞬間であった。紙パックへの放尿を通して、私は自由であることを実感した。

 しかしそれはつかぬ間の快楽であった。今や私が別の問題に向き合わなければならぬことは明白であるからだ。「紙パックに用を足すのはいい。しかしこれを一体どう処理すれるのか?」

 紙パックをキッチリ閉めれば臭いは何とかなるだろう。ただそれを二日間部屋に置いておくのか?それはさすがに嫌だ。しかしこれにしても、答えは案外すぐ見つかった。そう、外に捨ててしまえばいいのである。当たり前だが、マンションの外に出れば道路がある。そして何処の道路にも必ず脇の方に排水口がある。そこに流し込めばいいのだ。使用済みの紙パックについては、マンションのゴミ捨て場に捨てればいい。我ながら名案である。

 こうしてその土日は、満タンになった黄色い液体を捨てるために、何度も紙パックを片手に家の出入りを繰り返した。その都度ゴミ捨て場にはオレンジジュースのゴミが増えていった。臭いに関して言えば、幸いなことに殆ど気にならなかった。私のおしっこは無臭であった(そう信じたい)。ゴミ収集を行う人も、一体何故こんなにも紙パックのゴミが置かれているのか、きっとそう疑問に思って終わるに違いない。

 衛生面について気になる人もいるだろうから注釈をしておく。私の部屋にはいくつかの使い捨てのおしぼりがあって、この二日間はそれで尿をした後の手洗いを済ませていた。シャワーについては言えば、先述の通り、ネットカフェ/銭湯で済ませることができた。その他の問題について言えば、私は普段の食生活をカップ麺とプロテイン(栄養不足を補うために摂取している)で済ませているのだが、プロテインは粉末状であるため、流し込むためにやはり水分が必要であったということだ。流石にコーヒーやオレンジジュースでプロテインを飲むに気にはなれない。酒は尚更嫌だ。結局、近くの公園にある蛇口を捻ることに落ち着いた。水筒の中に水を入れて、プロテイン用の水分を確保すると、ついでにそこで顔も洗った。一石二鳥である。

 週が開けた月曜日には、払っていなかった分の水道代を払い、当局にそれを連絡した。こうして日常生活に再び「水」がよみがえることとなった。で、改めて思ったことだが、駆け込みたい時にトイレに駆け込めるというのは、実に素晴らしいことではないだろうか?素晴らしい日常生活、美しい凡庸さ。