21/06/08

 「私は秘密を信じている、つまり<偽なるものの力能>を信じている。だから正確さと真実への嘆かわしい信仰がしみついた物語は私に似合わない」と、かつてドゥルーズはある批評家への手紙の中で書いていた。

 ドゥルーズ哲学の内には、その最初期から一貫してあるテーマが登場している。それは「偽なるもの」がこの世界を突き動かしているという現実である。たとえばヒューム論の中で、彼は一般生活を成立させるために必要な人為の力について指摘したことがある。私達は皆、本性的にそれぞれが異なった欲望を抱きながら生きている。しかし一般性というものは、あたかも個々の違いをなかったかのようにすることで成立する。言い換えるならば、他者と共存して生きる上で、私達は自分の本心を何処かで誤魔化さざるを得ないのである。だからだろうか、「自然状態の[ありのままの]人間とは本質的に孤独なものである」と、ドゥルーズはルソー論の中で書いていた。

 しかし、私達はいかにして互いに異なる欲望に一種の調和を見いだしているのだろうか。それは「制度を生み出すことによってである」と、ドゥルーズは語る。結婚を例にとってみよう。当然のことだが、人によって結婚する理由は違う。ある人は性欲のために、ある人は寂しさのために、またある人は世間体を気にして結婚すると言っていい。何にせよ、人が「結婚」という制度に頼るのは、互いに異なる二つの欲望に折り合いをつけるためだと言っていい。要するに、社会的な制度とは、それぞれの欲望を完全に満たすことはなけれど、ただその最大公約数になるものを与えることが出来る機能として見出される。だから結婚に何かを期待する人は、自ずとその結婚生活によって期待を裏切られるわけだ。

 しかしこうして見えてくるのは、私達が生きる世界の根底で働く人為の、虚構の、「偽なるもの」の力である。人は真実のために生き長らえているというよりかは、むしろ偽物のために生かされていると言っていい。ドゥルーズが「偽なるものの力能」について初めて語ったのは、私の記憶が正しければ、確か『ニーチェと哲学』においてである。ドゥルーズによれば、ニーチェの芸術論の中心にあるのは「偽なるものの力能」であると言う。「つまり、芸術とは偽なるものの最高の力能であり、「誤謬としての世界」を賛美し、虚言を崇め、欺く意志を高次の理想にする。」「生の能動性は、偽なるものの力能として、騙し、偽り、幻惑し、誘惑することである。」

 音楽を例にとってみよう。音楽で個人的に最も興味深い点は、それが聴き手に体験していないことまでもを体験しているかのように錯覚させる点にある。失恋ソングを聴いて感傷的な気分になる人は、だからと言って失恋ソングのような体験をしたことがあるわけではない。むしろ、歌詞で歌われるような体験をしたことがないのに、聴いていている間は自分がその歌詞の主人公であるかのように錯覚してしまう。そんな人の方が遥かに多いに違いない。そして、こうして体験したことない恋愛に思いを馳せているうちに、あたかも自分が本当にその恋愛を体験したかのような気になってくるものだ。

 このように、聴き手に経験していないことを経験したかのように錯覚させること、それこそが音楽の偉大さだと言える。さて、今目の前にボーカロイドV系を好んで聴く女性がいるとしよう。恐らく彼女は楽曲の中に見受けられるような退廃的な恋愛体験を一度もしたことがない。にも関わらず、彼女はその曲の世界観に酔い、あたかも自分がその楽曲のヒロインであるかのように錯覚している。否、彼女は自分が体験したことの無い恋愛物語の主役であることを疑っていない。やがて彼女は、曲の中で歌われたような恋愛を模倣し始めるだろう。なるほど今は楽曲に共感できる体験がないが、しかしやがて彼女はその曲の世界観の物真似を始めるだろう。女優になってその役になりきるだろう。彼女は偽なるものの力能に魅せられているのである。

 人はよく真実と印象的なものを混同して考えるものだ。最近、ベルイマンの『ファニーとアレクサンドル』を映画館で観返したのだが、その中にいい例がある。二児の母であるエミリーは、歳の離れた夫と幸福な結婚生活を送っていたが、ある日その夫と死別する。悲嘆にくれる彼女のもとに現れるのは、ハンサムで、自分の話をよく聞いてくれる牧師である。彼が自分の相談に乗ってくれるうちに、彼女のうちにはある一つの考えが芽生え始める。つまり、「自分はこれまで嘘をついていた」と考え始める。彼女はかつての夫との結婚生活を否定する。思えば二人目の子供を産んだ時から、自分はずっと我慢をしてきた。しかし今、やっと真実の愛に生きることが出来る。ついに私は、本当の自分になることが出来るのだ……。ある日エミリーは牧師に求婚される。そして彼女は喜んでそれを受け入れるのである。

 「本当の自分」について語る時、人は必ず自分の過去をどこかでなかったことにしている。時に、「本物」の観念とはどのような時に見出されるのだろうか。それは自分が認めたくないものに出会った時ではないか。よって、「本当の自分」とは認めたくない自分に対する反動だと言える。だから「本当の自分」について語る時、人は必ず自分の過去の何処かを都合よく誤魔化している。「本当」に合わない部分は思考から上手く取り除いて、説明のつかない部分はその驚くべき妄想力で埋め合わせをしている。

 上記のエミリーの内に起こっている現象も、それと同様だと言える。彼女は印象的なものと真実的なものを混同してしまったのだ。やがて話が展開するにつれて、彼女は自分が誤解していたことに気づくのだが、それは映画を観てからのお楽しみである。

 さて、先述のヒューム論に戻ろう。ドゥルーズはヒュームが芸術について見事な指摘を残していたことを書き記している。たとえば非常に悲痛な苦しみについて歌った詩があるとしよう。そして私達は、その詩の感情表現が痛切であればあるほど、むしろそれに喜ぶのである。「詩人が、私達を苦悩させ戦慄させ憤慨させる術を心得ていればいるほど、私達は一層満足する。」

 これは先に書いた音楽の例にも繋がってくる。つまり、巧みな芸術作品とは、常にこちらが抱いていなかった感情を抱かせるものである。誰も詩の中で語られるような苦しみを経験したことがないにも関わらず、その詩を読んであたかも自分が苦しんだかのように語る人が沢山いる。しかもそうして詩の苦しみを語る人達は、皆苦しみについて語っているのに何処かしら嬉しそうなのである。まさに人は、芸術作品を通して、本来持っていなかった広がりを感情に与えられていると言える。

 広い目で見れば、それは社会運動に繋がる。自分と無関係なはずの人間が、作品の中で苦しんでいるせいで、自分に最も近い人間のように見えてくる。その悲痛なまでの美しさに魅了されて、作品を鑑賞した後、今日まで語ったことのない正義感について語り始め、興味も抱いていなかった人々の権利のために戦い始める。彼らは決して「真実」に目覚めたわけではない。むしろ偽なるものの力能に魅せられただけだ。そして私もまた皮肉を言おうとしているのではない。むしろそれを肯定しようと思っているのだ。

 「偽」に対立するのは「真」ではない。むしろ偽なるものには真実を生産する能力が備わっている。では偽に対立するものとは何か。それは思考の愚劣さであり、また真実を追い求める人の姿である。

 「真正な人は結局、生を裁くこと以外のことは望まず、より優れた価値や善を打ち立て、それらの名において裁くことができる。真正な人は裁くことに餓えており、人生のうちに悪を、あがなうべき過ちを見て取る。それこそ、真理という観念の道徳的な起源である。」

 かつてドゥルーズは、ルクレティウスへの言及を通して、「魂のトラブル」とも呼ぶべき現象について論じたことがある。説明のつかない苦しみに直面した時、私達は自分の苦しみの原因となってくれる対象を求め始める。人はよく原因があって結果があると考えているが、それは誤解である。実際には結果が先にあり、原因は常に後から見出されるものである。自分の苦悩の原因となってくれるものを見出そうとする時、人は今日までに考えもしなかったようなものにその責任を見出し、また突拍子もない説明によって、自分の不条理な現在を片付けようとする。こうして見出されるのが「罪」の概念であり、またあらゆる超越的な価値観(宗教的な、または観念論的な価値観)である。人が永遠に変わらないものを求めるのは、まさに変化し続けるものに、こちらを惑わし、見せかけるこの世界の本性に傷つけられたからである。そしてその時、彼らは「何故こんなことが起こるんだ」という不安に駆られ、悲しみに暮れ始める。魂のトラブルはこのような時に生じる。そして神や真実、絶対的な正しさなどに、この苦しみの償いを求めるようになる。

 こうして真なるものを求める人々が誕生する。彼らは自分を不安にさせる「偽なるもの」を排除するために、益々誰が設定したかもわからぬ「正しさ」にすがり、それに基づいて自分と他人を罰し続ける。それは自分を不安にさせるものを排除しようと恋人を束縛し続ける恋人に似ている。しかし、何故そうすることが正しいのか。それを本人に問いただしても、きっと答えに行き詰るに違いない。

 よってドゥルーズルクレティウスは、このような超越的な「正しさ」にすがる人々を、または魂のトラブルを利用してこちらを侵食しようとする超越的な価値観を、「愚劣なもの」として告発する。人はよく「哲学なんて学んでなんの役に立つのか」という疑問を発する。私は別に哲学者ではないが、そのような問いに対しては、ドゥルーズの言葉を借りつつ、以下のように論じたい。

 哲学は決して生活のために役立たない。むしろ普通に生活するならば、哲学など無用で当たり前である。では何故哲学は存在するのか。人を幸福にするためなのか。違う。哲学はむしろ、人を悲しませるためにある。誰も傷つけず、誰も悲しませない哲学など、哲学ではない。哲学は愚劣を非難し、下劣をある恥ずべきものにする。私達の思考を曇らせる程度の低い考えを、魂のトラブルに苛まれた人々を利用して力を得ようとする、そんな下劣な思考の価値観を非難する以外に、哲学の役割など存在しない。魂のトラブル。それに陥り、それに苛まれた人々の姿は、宗教/哲学に限らず、時代の至る所に存在する。時にそれは人種差別の形をとって現れる(最近この国がよくないのは、ユダヤ人のせいだ、黒人のせいだ、韓国人のせいだ……)。そして彼らに取り憑くそのような思考を「愚劣だ」といって非難する以外に、哲学は役割を持たない。しかしそれは、決して魂のトラブルに陥った人間が悪いわけではない。問題は彼らを利用して力を得ようとする悪しき思考の形態である。時にそれはファシズムの形を取り、また時にそれは新興宗教の形を取って現れる。そして私達に「正しさ」の価値観を植え付け、自己と他者を罰し続けるよう促すのである。あたかも自分と他人が存在していること自体が悪であるかのように、かの悪しき思考のイメージは説き続ける……そういった不愉快なもの共に戦いを挑むことこそ、まさに哲学の役割である。いち素人の意見だが、勝手にそう考えている。

 私達の生活の周りには、身の毛もよだつほど愚劣なもの共が多く渦巻いている。何故自分が正しいのかも知らないまま、自分の信じ込んだ「正しさ」にしがみつき、自分と他人を罰する人間が、この世にはどれほどたくさんいる事か。自分が幸せになれない分、他人の幸せを邪魔したいと願う人間が、この世にどれほどいることか。しかし彼ら自身には罪はない。問題は彼らの思考を占領している悪しき思考のイメージだ。それを打倒しなければならない。「真なるもの」など糞くらえだ。この世のあらゆる真理は見せかけである。何故なら、この世で真理として持てもてはされているものは皆、本来非合理的に見えていたもの同士の間に合理的な繋がりが見出された時にこそ、初めて発見されるものであるからだ。よって真理とは発見されるものであると同時に発明されるものでもあり、言い換えるならば、それはでっち上げられるものである。つまり真理を生産し続ける偽なるものの力能こそがこの世界をつき動かしているのだ。それは見せかけとしてのこの世界を肯定することであり、また「偽」が主役となるこの世界を信じる一つの理由でもある。私は秘密を信じている、つまり<偽なるものの力能>を信じている。だから正確さと真実への嘆かわしい信仰がしみついた物語など、私には似合わない。

 個人的な話になるが、私は元々、自分は偽物であるという気持ちに強く苛まれていた。こんな小難しい話を書いているが、元々それに見合う学歴もないし、そんなに正確な知識があるわけでもない。音楽にしても同じだ。ピアノは弾けるが、決して正当なクラシックの知識があるわけではない。私の周囲には優秀な友人が何人もいるが、彼らを見ていると、何だかとても恥ずかしい気持ちになってくる。結局自分は偽物であって、本物ではない。これは私が常々感じてきた(恐らくはこれからも感じるであろう)劣等感である。

 ドゥルーズは、まさにそのような自分を認めてくれたと言っていい。彼によれば、この世の一切はシュミラクル(見せかけ)であるからだ。だから私は今日まで夢中になってドゥルーズを読んできたと言っていい。偽物でいいではないか。何故なら、偽物こそがこの世界を突き動かしているのだから。現世とは、まさに偽なるものの力能が活躍する舞台なのである。ある人の嘘に影響されて、またある人が嘘をつく。今度はその嘘を模倣する人が登場して、次には違う人がその模倣を模倣し始める。こうして一切が生起する。今日までの歴史がこのように成り立っているのだとしたら、それは素晴らしいことではないか。

 最近、ドゥルーズへの理解が前よりも深まってきたような気がする。おかげで以前は説明できないところも説明できるようになってきた。しかし、それと同時に、彼の悪いところも見えてくるようになってきた。経験論者かつ唯物論者として知られるドゥルーズだが、彼の思想は、読み方によればスピリチュアルな観念論になりかねない。有難いことに、「理解が深まってきた」とは言っても、まだ半分も理解出来ていないのが実情である。だから先に続く読解において、徹底した経験論者 - 唯物論者としてドゥルーズを浮かび上がらせることが出来たらと思っている。

 ドゥルーズ哲学には様々な側面がある。『差異と反復』や『意味の論理学』における超越論的経験論とプラトニズムの転倒。ガタリとの共著による精神分析批判と資本主義社会の解体。しかし私が思うに、彼の思想で最も面白い点は、「偽なるもの」へのその徹底した分析、錯覚を引き起こす現象へのその執拗な追跡であり、また「真なるもの」の思考のプロセスの解体である。で、私が知る限り、それに中心を置いてドゥルーズ哲学全体を論じた文章は、未だ発表されていない気がする。上手く行けば、私が最初にそれを論じた人間になれるかもしれない。無論、こちらが知らないだけで、既にそれを論じたものがあるかもしれないし、私が筆を取る頃には、既にそのような本が発売されている可能性もありえるだろう。しかし運が良ければ、私は初めて「偽なるものの哲学」としてのドゥルーズを描いた人間になることが出来るかもしれない。少々夢のある話になったが、恐らくまだ先の話である。だからこの辺りで今日のところは終えようと思う。