21/06/12

 上手く言い表せないのだが、ここ二、三ヶ月の内に、ある劇的な心境の変化が生じている。何故かはわからない。ただ、かつて執着のあったものへの執着が殆ど失われつつある。たとえば家庭。私はかつて、自分の子供時代に苦しめられていた。そして子供時代に関わりのあった多くのものを恨み、憎んでいた。しかし不思議なことに、最近ではそのような子供時代の後悔や恨みのようなものがまるでなくなってしまった。父についても同じだ。面倒だから詳しい説明は避けるが、かつて私は父に対して複雑な感情を抱いていた。しかし今は違う。今は父に対して憎しみも愛情も抱いていない。あるのはただ殆ど無関心とも言える感謝の感情だ。

 何故こんなことが起きているのかはわからない。しかしとにかく、この心境の変化を理解するために、自分のパーソナルな部分への記述を試みようと思う。

 私は今日までに、恋愛的なものへの描写を何度か試みてきた。その理由は複数あるが、そのうちの一つとして、単純にそれに馴染めなかったというのがある。相手の顔色から、相手がこちらに何かを期待しているのがわかる。そしてその立ち振る舞いや言動から、彼女は自分がドラマのヒロインだと信じ込んでいるのがわかる。このような状況に直面した時、今日までの私を、ある一つの感覚が絶えず襲ってきた。そう、困惑である。相手がそのような態度を取ることへの困惑。相手が自分という人間を信じていることへの困惑。そして相手によって自分が見知らぬドラマの主役へと祭り上げられていることへの困惑、恐怖、不安。私は間違いなく相手の思っているような人間ではない。それに、嘘をついているつもりはないにせよ、相手の振る舞いになにか演技めいたものを感じている以上、相手のことを心から信じることが出来ない。それらに対する苦しみ。しかし、他にも私を困惑させる理由があるのだが、それについては、今はまだ触れないでおこう。

 とにかく上記の件に言及する上で、言いたいことは一つである。それは今日まで、自分が疎外感を感じて生きてきたということだ。相手が舞台の上に立っているのに、自分は舞台の外にいるという苦しみ。舞台の上にあがったとしても、自分がなにか場違いな人間のような気がする困惑。あたかも遠い異国の地にさ迷い込んだような不安。私は孤独を感じ、不安を覚え、自分に得体の知れない期待や信頼が寄せられているのを知る。そして恐怖を覚える。

 だから今日まで、私はそういったあらゆることから逃げてきた。そして、それが間違っていたとは思わない。きっとこれからも思えないだろう。ただ、羨ましくはあった。皆が楽しそうに舞台の上にいるのに、自分だけがその場に上がれない。恐らく、今でも恋愛的なものに執着がある理由はそこにあるだろう。だから私は今日までそういったことへの記述を試みてきた。そして、恐らくこれからも試みるだろう。

 恥を捨てて言うならば、日中に異常な性欲を感じる時がある。それは大体ひとりでいる時だ。オナニーすれば収まるから基本問題はないのだが、しかしこのように強い欲求は、何故か人前に出るとまるで感じない。それは何故なのだろう?ふとそんな疑問を抱いた。なるほどひとりで部屋にいる時には異様な欲情を覚える。しかし実際に目の前に誰か異性がいて、相手に誘われたとしても、私は手を出さないだろう。何故か。それは、単純に自分の行為への責任が負えないからだ。

 人と関わる上で、常に避けたいと思っていることがある。それは、他人に対してイライラすることだ。今はそうでもないが、昔は酷く神経質な性格をしていた。ひとりの人間に怒ると、本当に一日中相手のことが頭から離れなくて、ずっとイライラしながら部屋中を歩き回ったりしていた。とにかく私は、人に気分を乱されるのが嫌いだ。最近でいえば、ドゥルーズを読むことが私の日々の楽しみになっている。部屋にピアノもないし、生活の唯一の楽しみは本を読むことくらいだ。それを他人に邪魔されると考えると、それだけで嫌な気持ちになる。そして、これが先程書いた「困惑」の話につながってくる。こちらを困惑させるものから逃れる理由は、こちらが一人でいる時の気分を乱されたくないからだ。

 嫉妬を覚えた人は、出来る限り自分が嫉妬している相手の気分を乱そうと必死になる。そういう時、人は相手の関心を引くために嫌がらせであろうと何でもする。そうすればとにかく相手はこちらに対して無関心でなくなるし、少なくともこちらを見ている以上それがプラスな方へ転換していく可能性が考えられるからだ。私自身、そういった感情を覚えたことがあるからわかる。ただ、そういったものは実に面倒だ。私は今日まで、できる限り他人の肉体を避けてきた。理由は幾つかあるが、その内の二つだけを今ここに書いておこう。一つは前述の通り、他人に責任を負いたくないからだ。そしてもう一つは、他人に気分を乱されたくないからだ。もし私が誰かと深い仲になったとして、相手がこちらの気分をかき乱すようになったとする。その時、私には彼女が自分の邪魔をする敵にしか見えないだろう。自分を苦しめる迫害者にしか見えないだろう。よってその時、私はできる限り相手をこの生活から排除したいと願うだろう。もしくは、何らかの怒りにとらわれることがあるとすれば、一日中相手のためにイライラして、とにかく相手を傷つけることしか願わなくなるだろう。

 私にはプレイボーイの友人が何人かいる。で、実を言うと、彼らの話を聞くのが結構好きであったりする。彼らは私の代わりに「そういったこと」を楽しんでくれているからだ。もし自分がこんな風な性格をしていなかったら、私も彼らと同じように奔放に性を楽しんでいたかもしれない。それは一種の可能世界を垣間見る瞬間である。

 こうして今日までの自分が恋愛的なものへの記述をしてきた別の理由が見出される。それは「力」の問題である。例えば今、こちらに好意を寄せてくれる女性が目の前にいるとしよう。その時、私は自分に力があるのを感じる。そしてこの力を行使したいと願う。私の内には肉体への渇望がある。それを満たしたいと願っている。しかしそれが出来ない。何故ならそれを行使することによって発生する様々な事情に、自分が耐えられないことを知っているからだ。だから私は力を感じながら、力に対して躊躇いを感じている。恐怖を感じている。それを行使することを望んでいるが、それによって失われるものを恐れて、力を前にたじろいでいる。私は力を愛しているが、しかし力を恐れている。力は私の前に姿を表すが、しかし私は力を行使することが出来ないでいる。

 この力と<私>の複雑な関係に、今日まで何度か悩んだことがある。そして、自分があまりにも臆病な人間だから、自分に力があることを感じるために行動に移ったこともある。つまり、俺は臆病者じゃない、俺には力がある、それを証明したいがために異性と関係を持とうとしたことがある。まもなく自分は馬鹿なことをしていたと気がついた。しかし、これはあまりにどうでもいい話だから、この辺で書くのをやめにしよう。

 恐らくこういった事への悩みは、私をまだ解放していない。しかしそれらのものへの苦しみが以前よりか少なくなったのは間違いのない事だ。理由はわからない。最近は人との関わりも減ってきた。だから別に他者との交わりの中でそういったものを償う機会を得たわけではない。むしろ恐らくは孤独を徹底することによって、これらから逃れるきっかけを得たのだと思う。最近、本を読むのが本当に楽しい。何かに熱中できるのはとても素晴らしいことだと思う。同時に、何が今日までの自分を苦しめてきたのかにも気づくことが出来てきた。願わくばこの平穏が失われないことを祈る。

 かつて、私は熱心なクリスチャンであった。かと言って、そんなに長い間信仰生活に身を浸していたわけではない。やがてそりが合わなくなって教会に通わなくなったが、数年前、ある尊敬できる牧師が務める教会に足繁く通っていた。私は今でもこの牧師のことを愛し、尊敬している。優しそうに緩んだ口元と、厳しく寄った眉間のしわが印象的な人であった。信徒にいる前では、いつも仮面のような笑顔が張り付いていた。

 かつての私には、自分が背負っている苦しみを説明してくれるものが欲しかった。その結果見出されたのが神であり、信仰であった。しかし恐らく、それは不安に苛まれた末に人々が見出す迷信の一種に過ぎなかった。

 ただ、実を言うと、今でもまだ神の存在を信じている。迷信と言われたらそれまでなのだが、私は今日まで、自分が神に愛され、神に守られて生きてきたと思っている。旧約聖書にはヨブ記という物語がある。神に正しく暮らしていたヨブという男がいて、神はヨブの誠実さに満足していた。しかしある日、サタンが神に「ヨブを試してみないか」と持ちかける。その持ちかけに応えた神は、ヨブの子供を皆殺しにして、彼の財産を全て奪い、また彼に重い皮膚病を患わせた。ヨブは陶器の破片で自分の身体を傷つけずにはいられない程苦しんだ。

 そんなヨブのもとに、三人の友人が慰めにやってきた。しかしやがてヨブが「自分の生まれた日」を呪い始めると、彼らは揃ってヨブに反論し始めた。当時は「因果応報」という迷信があった。だから一つの悪が生じるのは、かつてのその人の行った悪事の償いであると信じられていた。要するに、ヨブの友人たちは皆「お前が苦しんでいるのは皆お前に原因がある」「お前が全部悪い」と責め始めたのである。それに対して、ヨブは応える。「いや、私は悪くない」「私は神に正しく生きてきた」と。

 ヨブ記の大半は、この「お前が悪い」「お前の不幸は全てお前の責任だ」と責める友人と、それに対し「私は悪くない」「私は正しく生きてきた」と反論するヨブの論争によって占められている。この書物の中で語られるヨブの嘆きは、実に美しいものがある。「彼らは愚かな者の子、卑しい者の子であって、国から追い出された者だ。しかし今、私は彼らの歌となり、彼らの笑い草となった。彼らは私を嘲笑い、遠く離れ、私の顔に唾を吐くことも躊躇わない。(……)彼らは私の道を壊し、私の災いを促す。これを差し止める者はない。」

 やがて話の終盤で、神はヨブを癒し、試練に耐えた彼の財産を二倍にして返す。しかし、神が何故ヨブを苦しめたのか。それが明確に語られることは一度もない。恐らく、私達は皆ヨブなのである。もしこの世に神がいるとすれば、神が私達に求めているのはただ一つである。それは強くある事だ。『ジャン・クリストフ』の第九巻では、主人公クリストフが神の声を聞く場面がある。彼は神に問う。自分は正しく生きようとしてきたのに、何故苦しまなければならないのか。それに対して、神がクリストフに対し求めるのはただ一つである。それはすなわち「戦うこと」だ。神は言う。「予は存在する全てではない。予は虚無と戦う生である。予は虚無ではない。予は闇夜のうちに燃える火である。予は闇夜ではない。予は永遠の戦いである……」それに対し、クリストフは応える。「おう、われを見捨てた汝、汝はまたわれを見捨てんとするのか?」「予は汝を見捨てるであろう。それをゆめ疑ってはいけない。ただ汝こそもはや予を見捨ててはならないのだ。」

 『ジャン・クリストフ』において、神は生であり、死または虚無と戦うともしびである。生は闇夜に輝く光であり、生がこちらを見捨てるとしても、こちらは決して生を見捨ててはならない。このやり取りを終えた後、第九巻は終わり、『ジャン・クリストフ』は第十巻(最終巻)に入る。話の盛り上がり所は第九巻で終わるから、十巻目は実質エピローグだと言っていい。この物語の全編は、私達に次のことをおしてえくれる。つまり、もしこの世に神がいたとしても、神は私達を救わないだろう。また、もし神がこの世にいなかったとしても、私達を救う存在などありはしないだろう。よって、もしこの世に救いがあるのだとしたら、それは自分によって自分を救うということだ。つまり、それは強くあることであり、生命を愛し、暗闇と戦うということである。神秘的な話になるが、もしこの世に神がいるならば、それこそが神に正しい生き方だと思っている。