21/06/19

 顔というのは不思議なもので、それは言葉が語る以上のものをこちらに想起させる作用を持つ。今目の前にスクリーンがあって、そこに一つの映画が流れていたとしよう。カメラは突如登場人物の顔をクローズアップし、キャラクターはそこで僅かに口を開く。そして少しの言葉を口にする。しかし私達は、この登場人物に今語った以上のものがあるのを知っている。何故ならキャラクターの表情は、その口元からこぼれた言葉よりも遥かに多くのことを語っているからだ。

 感情。絶えずその輪郭から溢れ出て、言葉以上のものをこちらに想起させるもの。顔とはまさに感情の舞台である。そして彼または彼女の顔は、その人自身の感情の舞台だけではなく、まさに私達自身の舞台ですらある。何故なら相手の感情を読み取る時、それは相手の顔色に言葉以上のものがあると信じ込むことでもあるからだ。他者の顔色に対し、私達は相手の感情だけでなく自分の感情までもを展開する。よって顔とは感情の舞台であると同時に常に発散する不定形な暗号である。それは相手の感情を察する手がかりであると同時に、自分自身に内在した情念を知るための手がかりでもあるわけだ。


「毛糸の端から飛び出ている小さな糸くずが、ひょっとしたら鉄針のように堅くて危ないのではないかという不安な気持ち。パジャマのボタンが、 ひょっとしたら僕の頭よりも大きくて重たいのじゃないかと思ったりする恐怖。そして僕は、今ベッドから落ちたパンの欠片がガラスのように下で砕けるのではないかと考えたりする。するともう、何もかもがそんなふうに壊れてしまって、取り返しがつかなくなるように、何もわからぬ苦しさが胸を押し付けてくるのだ。」

 上に掲げた言葉は、リルケの『マルテの手記』の冒頭に出てくるものだ。しかし、上記の文章の中で、果たして語り手マルテは何を語っているか。それは「実際にはありえないことがありえるのではないか」という不安である。では何故彼はそんな不安に駆られるのか。それは、彼自身がかつてありえないような出来事をありえるものとして経験してしまったからだ。生活への不安、それは常に日常の異常さに気づいてしまった時に生じる。

 よって『マルテの手記』の前半部分には、語り手マルテの過去のトラウマが多く登場する。パリで孤独な都市生活を営む彼は、自分の見るもの聞くもの一切が「僕の心の底に沈んでいく」ような奇妙な体験をする。彼が目にする一切、彼が耳にする一切が、あたかも彼を不安にするための呼び掛けのように生起し始める。

 次第に彼は過去への追憶に逃れ始める。あたかも自意識にこもる事で、外部の触発から逃れるかのようである。否、もしかするとその外部の触発が、彼に不安の原因となる過去ばかりを思い起こさせたのかもしれない。彼は自分の幼い頃の記憶について語り始める。祖父の死、幽霊の出る屋敷、父との微妙な関係、不気味な幻覚、または幻影、自分を女の子として育てる母、絶えずこちらを苛む病気の発作、そしてその苦しみ、など。

 マルテが不安に苛まれるのは、まさに彼がかつて日常だと思っていたものが異常であること気づいてしまったからだ。私達が幼い頃の記憶を責め始めるのは、いつも私達がある程度大人になってからだと言える。何故なら大人になり始める瞬間とは、かつての頃の記憶に後悔や憎悪を覚え始める時でもあるからだ。『マルテの手記』の中で、語り手は過去の思い出に異様なまでの執着を示す。それは彼が成長してからかつての日常のおかしさに気づいたからであり、それ故に彼が信頼出来る「正常な世界」を失ったからである。

 物語の中盤に至るまで、この小説には暗い記述が目立つ。とりわけ嘆かれるのは、前述のようなトラウマであり、次に嘆かれるのは現在の生活の孤独、貧困、または病気である。しかし物語の中盤から、突如その記述は明るさを帯び始める。恐らく、鍵を握るのはアベローネという女性である。

「僕がアベローネを初めて見たのは、ママンが死んだ翌年だった。」

 彼女が『手記』に登場し始めてから、マルテは次第にこの世界への信頼を取り戻すこととなる。しかしこの時にも、やはり奇妙な現象が再び生じている。彼の父や母については、マルテははっきりとした記述を残している(二人がいつ死んだのか、どのような人間だったのか、など)。しかしこのアベローネについては、マルテとの間に何があったのか、または今どうしているかなど、まるで記述されていないのである。彼自身、次の言葉を残している。

「アベローネ、僕はお前のことを書きたくない。それは僕達がお互いを偽っていたから書かぬというのではない。お前は一生忘れ得ないただ一人のひとを、その時から愛していた。お前は愛せられる女ではなく、『愛する女』だ。なのに、僕は女という女の全てをお前の中で愛していたのだった。そこには大きな埋められぬ距離があった。しかし、僕はそれは怖くない。ただ書けば何かしら事実を下手に歪めるだけなのを恐れるのだ。」

 一体ふたりに何があったのか?それは読者にとって最後まで謎であり続ける。そして『マルテの手記』の読後にも、やはりマルテとアベローネの関係は謎のままだ。しかしここで強調しておくべきことは、恐らくマルテはアベローネと思い出から何らかのヒントを得たということだ。

 この小説のヒロインとも言うべき彼女の登場から、『手記』の描写は再び彼の内部から外部へと向かい始める。しかし、彼が外部へと眼差しを向けるにつれて、同時に多くなる描写がひとつある。それは彼を襲う死の恐怖である。しかしそこにあるのはただ「死」の存在に苛まれるマルテの姿だけではない。彼は死に怯えながら、死に対してある一つの考えを持っているように思われる。

「子供の頃、僕はよく頬を打たれて臆病者と罵られた。僕はつまらぬことを恐れていた。しかし、それから少しずつ本当の恐怖を知ってきた。本当の恐怖というのは、それを生み出す内部の力が強ければ、恐怖もまたかえって強くなる態のものに違いない。そして僕達は恐怖より他に人間内部の力を見ることができぬのかもしれぬ。(……)僕達にとって、死の恐怖は強すぎるに違いないが、それでも本当は僕達の最後の力だと、僕はそんな風に考えている。」

  恐怖とは何か。人が不安を覚えるのは一体何故か。それは、今の自分には理解できないような、あまりにも不可解な出来事を体験してしまったからである。かつてマルテは過去の自分の記憶に苛まれていた。そしてひとり不安に苦しんでいた。それは、「何故自分にこんなことが起きたのか」という理解不能な出来事への恐怖に苛まれていたからだ。言い換えるならば、私達が恐怖や不安に苛まれるのは、私達を苛むそれらのものが得体の知れないものであり、またそれを覆う暗闇があまりにも大きいからである。

 ならば、この苦しみを解消する方法はただ一つである。それは、こちらを不安にさせるもの、恐怖させるものを覆う暗闇を追い払うことであり、「得体の知れないもの」の得体を知ることである。死の恐怖は大きすぎるに違いない。しかしそれでも死には一つの大きな力が含まれている。私達を苛む暗闇は大きい。しかしその中にあるものを光の方へと掲げた時、私達の生に内在された力能は輝き出す。生とは死の力を借りながら死と戦うことでなのある。

 この世には、恐怖や不安、または苦しみなどに強制されなければ成長しないものが存在する。私達の思考がそのいい例だ。人が意志によって思考できるものなど限られている。思考の発達は、常に思考に暴力が振るわれた時にのみ生じる。何故ならその時、思考は不眠症に陥って、これまで考えなかったことを考え始め、全く新しい力能を獲得するからだ。私達を苛む迷信は大きい。しかし人が迷信を克服するためには、いつだって迷信の内にあるものが何であるかを探りに行かなければならない。暗闇への恐怖を解決するためには、一度暗闇に手と足を突っ込まなければならない。そしてその中で獲得したものを光の方へ掲げるからこそ、人に秘められた力能は発揮される。

「花や果実は自然に咲き、自然に熟して落ちてしまう。禽獣は互いに求めあい、近づき、仲良く群れをなしてのどかな日を暮らしている。しかし人間のみは(神を帰結として選んだ僕達人間だけは)そのような充足がどこにもないのだ。僕達は与えられた自然の限界をどこまでも無限に延ばさなければならぬ。僕達には無限の時間がいるのだ。一年がなんであろう。百年千年がなんであろう。ろくろくまだ神に取り掛かりもせぬうちから、僕達は神に向かって祈るのだ。夜に耐えさせたまえ。病気に耐えさせたまえ。愛に耐えさせたまえと。」

 人間は自然を持たない。私達が「本能」と呼ぶものは全て、今日までの歴史を眺めた上で、ある種の憶測として発明される。だから科学の議論は常にそれまで正しかったものがひっくり返ることによって発達する。よって私達人間は「本能」を持たない。人間的自然は常にでっち上げられるものである。そして人は、「神とは何か」と問う前から神に対して祈り始める。自分の信じている存在がなんなのか、それがどんな起源を持つのかわからない。にも関わらず、既にそれを知っているかのように一切を語り始める。

 リルケについて語る時、人は時に感傷的な、またはロマンチックな印象をもって語ることがある。しかしそれはなんと的外れな感想だろうか。私にとって、リルケの文学には、硬質かつ力強い響きと共に、小川のせせらぎのような繊細さと、秋の夕暮れのような甘美さが備わっている。それはベートーヴェンの書く緩徐楽章に似ている。あたかもハンマークラヴィーアの第三楽章のようにリルケの一切は生起する。暗く重い描写と思索的な雰囲気。かと思うと階調は明るくなり、溢れ出る水のように軽やかになる。そして日は暮れてゆき、黄金に輝く夕焼けのように甘く麗しい音色がこぼれていく。

 日常生活の含む異常さに苛まれたマルテは、一体いかにしてそれを克服したのか。それは、「異常な日常」としての現実を受け入れることによって克服したと言える。では、いかにして彼はそれを受け入れることが出来たのか。それはまだ、はっきりと断言することが出来ないかもしれない。もしかすると、生にはこちらを苦しめる多くのものが存在するが、しかし生とは決して苦しいだけのものではないと気づいたからからではないか。


 人生は観客を求める。人は皆、何らかの形で誰かしらに見られるのを求めるものだ。たとえばSNSTwitterを開けば、誰もがあたかもそこに観客がいるかのように何者かである振る舞いをしている。Instagramを開けば、いつも他人の注目を引くストーリーが投稿されている(このように、SNSの恐ろしさとは、安易に観客ができてしまうことにある)。


 現在にはある種のパラドックスが存在する。今この瞬間も現在は過ぎ去るが、しかしこの過ぎ去る一瞬は、まさに今日までの過去を土台として成り立っている。よってこの過ぎ去る一瞬は、常に今日までに過ぎ去った一瞬の総体の上に成り立っている。しかし、このように過ぎ去りつつある現在は、常にこの一瞬の次にくる一瞬(つまりは未来)を内に含んでいなければならない(でないと時の流れは成り立たないだろう)。よってその次に来る一瞬も、やはりその次の次に来る瞬間を内在させている必要がある。

 こうして考えると、理屈上、時間には動かない一つの総体があると言ってもよさそうである。時にそれを、ベルクソンは「純粋過去」という名で呼んだ。しかし何故彼はそれを「過去」と名付けたのか。それは、私達が存在しているものについて考えをめぐらす時、自ずと存在していたものへと目を向けるからではないか。

 何かとても不安になるような出来事に直面した時、少年は「一体何故こんな事が起きるんだ」と自問する。または「自分は一体どういう人間なんだ」と疑問に思う。この「私とは何か」の答えを得るために、人は自ずと自分の過去へと目を向けるだろう。そしてかつての過去 = 存在していたものへと目を向けることで、今存在しているもの = 私への答えを見出そうとするだろう。よって、存在しているものとは常に存在していたものだと言うこともできる。現在が常に過ぎ去り、それが今日までの過去をその内に含み、また次に来る瞬間とその次に来る瞬間をも内在させる以上、ベルクソンが次のように断言しても言い過ぎにはならないだろう。つまり、「現在は存在せず、一切は過去である」。

 この純水過去のパラドックスを理解するために、いい例が一つある。それはあるクローン羊の話だ。一九九〇年代、この世界で史上初のクローン動物が発明された。その名はドリーである。雌羊のクローンで、通常の年齢の半分くらいで死んでしまった。しかし奇妙なことに、彼女が命を落とした年齢は、彼女の「原型」となった雌羊の当時の年齢と一緒だったのである。ドリーは六歳で亡くなったが、しかしドリーが生まれるきっかけとなった乳腺細胞が「原型」の雌羊から摂取されたのもまた彼女が六歳の頃であった。ドリーの一生は、あたかも初めから生きる時間が決まっていたかのように(または生きるべき過去が決まっていたかのように)生起したのである。

 さて、私達は生きて自ずと「そうせざるを得ない」ように思われる選択を強いられる時がある。自分にはこうするしかない、またはそうする以外の選択肢がないように思えた。こうして何かの行動を取る人がなんと多いことか。しかし「そうするしかない」と思われたはずなのに、大体の人は後になってそのことを後悔し始める。「あの時ああすればよかった」「何故ああしなかったのか」など。当時は一つの選択肢しかないように思われたのに、今では無限にあったかもしれない別の世界線のことを考えてしまう。

 しかしこの現象は、一体何故生じるのか。それは、「そうせざるを得ない」「それ以外に選択肢がない」と思い込んでいる時、人は自ずと「そうする以外の選択肢」を排除しているからだ。言い換えるならば、「そうせざるを得ない」選択肢を選ぶ時、私達は知らず知らずの内に「そうせざるを得ない」以外の選択を排除するという「選択」を行っている。実際はそうする以外にも選択肢はあったのに、保身からか、または追い詰められた心の弱さからか、他の選択肢を「存在しないもの」として扱い、「それ以外の選択はない」と思い込んでしまうのである。

 だから「そうせざるを得ない」選択には、常に何らかの欺瞞がつきまとう。「自分にはそれ以外考えられない」そう言いながらも、やはり何処かで「それ以外」の世界線のを考えてしまう。そして後悔する。しかし、もしその選択(「そうせざるを得ない」以外の選択を排除してしまうという「選択」)を知らず知らずの内に行っていたのだとしたら、それはその人の罪ではない。そう言ってもいいのではないか。過ぎ去る一瞬が常に次に来る瞬間を含んでおり、また次に来る瞬間もやはりその次に来る瞬間を内在させているならば、またそれらの瞬間が常にそれまでの時間の総体の上に成り立っているとするならば、この世界には動かない時間の総体があって、それによって私達の生きるべき時間は予め決定されていると言っていい(ちょうどクローン羊のドリーがそうであったようき)。もしそうなのだとしたら、私達の自由とは一体何処にあるのか。

 ここで私が思い出すのは、有名なオイディプス王の神話である。オイディプスはある日、自分の国に災害が起きている原因が、ある罪人がこの国に逃れているせいだと知る(そう神託から告げられる)。オイディプスは国のため、罪人の正体を暴き出そうと真実を求める。その結果、彼はまさに自分こそがこの国のわざわいの原因であると知る。王になる前、オイディプスは路上である男を殺したことがあった。そして、その男は彼の生き別れの父親だったのである。そして彼がこの国に着いた時、女王イスカリオテは未亡人であった。その頃、この国には別のわざわいが生じていた。やがてオイディプスはそれを解決し、そして王となって未亡人イスカリオテを娶るのだが、しかしこの国の前王は、彼が殺したかつて殺した父親だったのだ。だから彼が今妻としている女性は、彼の生き別れの母親なのだ。まさにオイディプスは自分が知らぬ間に罪を犯し、その罪のために罰を受けたのである。私達はいつも罰された後でしか罰するものの存在を知ることが出来ず、また罪を犯すことによってしか「罪」の存在を知ることが出来ないのである。

 先ほどのドリーの話に戻ろう。ドリーは六歳で亡くなり、それは彼女の「原型」が乳腺細胞を取られた時の年齢と同じであった。よってドリーの生きる時間はドリーのクローン細胞が生まれた時に既に決定づけられていたと言える。一方で、ドリーがこのように死ぬとは誰も想像していなかった。だからこのクローン羊は事件となったのである。だいぶうろ覚えだが、リチャード・ドーキンスは「私達の身体は入れ物であり、遺伝子がそれを通してレースをしている」という内容の本を出版したことがある(『利己的な遺伝子』)。なるほど、私達の遺伝子によってある程度私達がどのような人間になるかは決まっているのかもしれない。しかし肝心なのは、誰も遺伝子の形からは自分がどのような人間になるかを知ることは出来ないということだ。

 自分の過去がこうだからといって、未来の自分がどうなるかは誰も知らない。だから未来の時間を生きようとすることには、常に一種の賭けがつきまとうこととなる。その時私達に必要とされるのは、他でもない幸運への意志である。なるほどベルクソンの言う通り、この世には純粋過去なるものがあって、それによってある程度私達の生きる時間は決まっているのかもしれない。一方で、自分がどんな時間を生きるのか、それを知っていたら人は自分について考えることもないだろう。まさに自分を不安にさせるような時間に出会うからこそ、人の自我は発生する。そして私達を不安にさせるようなものとは、どれも私達が思いもしなかったものなのである。だからそれは不安を呼び起こすのだ。よって不安が予期せぬ時間の流れの中で生まれ得るなら、私達を喜ばせるものもまたそこから生まれてきてもおかしくないはずだ。

 未来を生きること、それはかつての選択を再開することに繋がる。過去が繰り返されることと、過去を繰り返すことは違う。前者は知らず知らずのうちに繰り返されていたあやまちであり、後者はかつてのものをもう一度現在に甦らせることを願った行動である。そして人が好んでかつてを繰り返す時(つまり過去を再び始める時)、それは決して個人の過去に限らないのである。私達の現在とは、かつての自らの行いの繰り返しであると同時に、かつて見聞きした他者の行いの繰り返しであるのだ(マルクス『ルイ・ボナパルトブリュメール十八日』)。そして私達が何かを繰り返す時、そこには繰り返したいものがあるだけでなく、繰り返したくないものを知らず知らずの内に排除する傾向にある。だから過去を繰り返す時、自ずと私達はかつてを再び始めると同時に新しい現在を生きると言えるのではないか。