21/06/25

 「反復とはかけがえのないものへの行動である」とは、確かドゥルーズが『差異と反復』の序論で書いていたことだ。しかし、何故反復すること(繰り返すこと)が「かけがえのないものへの行動」に繋がるのか。それは、人が置き換え不可能なものしか繰り返されるのを求めないからだ。私達が手を伸ばし、「もう一度」と何かを求めるのは、それによってしか得られないものがそこにあるからだと言える。しかし、何故それによってしか得られないものがそこにあるのか。それ自身が常に置き換え不可能なもの、すなわち「異質なもの」であるからではないか。

 これが『差異と反復』の原理となる。人は異質なものしか、異なったものしか繰り返されるのを求めない。私達が一つの音楽を繰り返し聴くのは、それが私達にとって異質だからだ。ある一つの音楽を聴く度に、いつも同じ感動を覚える。それは、同じ音楽でありながらも、聴く度にこちらに新鮮な気持ちを覚えさせてくれるものが、一度聴くだけでは汲み取りきれないものがそこにあるからだ。このように、永遠に異なったものだけが繰り返される現象を、ドゥルーズは「永劫回帰」と呼んだ。

 置き換え不可能なものとは常に稀なもののことでもある。もし「繰り返し」を求めるのが異質なものだけならば、「異質なもの」と区別される「その他一般」が存在しなければならないからだ。つまり「置き換え可能」な大多数が存在している必要があるということだ。そして、この置き換え可能な大多数から、置き換え不可能な唯一の存在を抽出するということ。それが私達にとって愛するという行為に繋がってくる。ただ、これは私が話したい内容とあまり関わってこないから、この辺りでやめようと思う。

 変な言い方になるが、自分は今日まで置き換え可能なものであることを好んできた。私には友人が沢山いる。そして、私が彼らを愛しているように、彼らも私を愛してくれているだろう。私が死ねば、私のために悲しんでくれる人もいるかもしれない。しかし、当たり前な話だが、数日経てば皆それを忘れていく。私が居なくなったとしても、やがて皆その代わりを見つけてくれるに違いない。そして、それは決して悪い意味ではないのである。私は何も悲観してこんな話をしているのではない。誰かにとって大事な存在になることは、それ自体その誰かに対して責任が生じることを意味する。そうなれば、私はその誰かを絶えず意識して、絶えず自分の行動を制約しなければならなくなる。

 ああ、なんて息が詰まることだろう。ある程度自由な身分であるためには、誰かにとって置き換え可能な存在であるしかない。もとい、望まなくとも自ずとそうなっていくものだと思う。替えのきかないものが稀なものなら、自ずと私はその選別のテストで落選していくだろう。

 少し個人的な話をしよう。幼少の頃から親元を離れるまで、私にはある飼っている猫がいた。彼女(その猫は雌であった)の名前はララという。ララは私にとってかけがえのない、替えのきかない存在であった。ララと私との間には、多くの美しい思い出が存在する。高校生の頃、私が机に向かって勉強していると、ララが机の上に飛び乗って、参考書の上に寝っ転がってきたのである。どうやら彼女は私が勉強している姿に嫉妬しているらしかった。はじめは驚いたが、次の瞬間には笑いだし、最後には喜びが生じた。私はララと戯れ始めた。

 ララは私にとってかけがえのない存在だった。私が高校に在学している間に、ララは寿命を迎えた。それはこの世のものとは思えない苦しみを感じた瞬間でもあった。それから一、二年後に私は家を出た。今やそれから更に五年の歳月が経過しようとしている。ララは未だに私の夢に出てくる(それも大体、私が忘れた頃に、不意に出てくる)。経済的な理由から、今日までペットを飼っていないが、今でも野良猫なり、友人の飼い猫なりを見ると、真っ先に思い出すのはララの顔である。

 ドゥルーズがかつて引用したプルーストの言葉に、次のようなものがある。「私は彼女を愛していたのではなく、彼女の内包している風景をも愛していた。」私達が誰かを愛するのは、その誰かが自分のいるのとは別の世界を想起させてくれるからだ。私達は絶えず、相手の顔から、相手が語っていないことまでもを引き出す。相手の一挙一動が、自分が恋い焦がれるシチュエーションを、自分がかつて望んだ世界を想起させる。だから私達は対象に惹かれる。

 なるほど私はララを愛していた。そして今でも愛している。しかし、私は彼女を愛していると言うよりも、彼女と過ごした記憶を愛している。ララを思い出すことは、私にとって幼少期のイメージを掘り起こすことと切り離せない。言葉を持たない二匹の動物が、言語以前の状態でコミュニケーションを取る。そこには自意識に囚われた人間と言葉で交わすコミュニケーションよりも遥かに美しいものがあった。よってララとの思い出を呼び起こすことは、私にとって言語以前の状態への憧れをも想起させる。まさに「私は彼女を愛していたのではなく、彼女の内包している風景をも愛していた」というわけだ。

 私達が誰かを愛するのは、その誰かが別の世界をこちらに想起させてくれるからである。しかしこのドゥルーズ - プルーストの定式は、言い換えるならば、相手の内に自分が求めるものがないと気づいた時、こちらが相手に飽きることをも意味している。例えば今、誰かが私を慕ってくれたとしよう。その人は恐らく、私のうちに「自分とは違う何か」があるのだと期待している。よって、その人はこちらに期待していたものがないことに気づいた時、私のもとを去っていくだろう。つまり、遅かれ早かれその人はこちらに飽きるということだ。もとい、大体の話はそんなものである。だから悲観する必要もないということだ。

 対象を愛する時、対象が想起させる風景をも愛すること。そして(対象との思い出によって形成される場合もあるが)その大半の場合は求められる「風景」が先行しているということ。繰り返すこと、それは置き換え不可能なものに対する行動である。しかし、その反復を対象が必ずしも人や物であるわけではない。むしろ大抵は理想化されたシチュエーションであり、自分が演じたい役を演じさせてくれる舞台である。しかし現実がドラマのように進行するならば、私達は決して好んでドラマに触れようと思わないだろう (私達がドラマを求めるのは、ドラマが私達の日常と異なっているからだ)。

 このような重苦しい現実から抜け出す方法、それは大多数にとって置き換え可能なものであるのを肯定することだ(もとい、そう望まなくとも大抵の場合置き換え可能なものになっていくものだが)。しかし、このように、好んで置き換え可能なものであろうとすることは、やがて置き換え不可能なものに出会った時、自分がどう振る舞えばいいかわからなくなるという難点があるかもしれない。それにもう一つの問題がある。つまり、「置き換え可能なものと置き換え不可能なものの区別とは何か」ということだ。

 それに関しては、きっと時が経たなければわからないだろう。何故なら、本当に大切なものは、忘れられたとしても必ずよみがえってくるものだから。こちらにその気がなくとも、何故かわからぬがそれが頭から離れない。まるで白昼夢の内にいるかのように、不可思議な感覚に囚われる。または悪夢を見ているかのように、忘れたと思ってもいつか再びよみがえる。リルケはかつて次のように書いていた。つまり「思い出を抱くのは重要ではない、大切なのは思い出を忘れるということだ」と。「思い出を生かすためには、人はまず年をとらねばならぬのかもしれぬ。」「そして、再び思い出が帰るのを待つ大きな忍耐がいるのだ。」


 人はよく科学と宗教を相反するものとして考えようとするが、それは誤りだ。むしろ科学は唯一無二の真理を求めようとする点で宗教に似ている。そして実際、キリスト教の影響なしには近代以降の西洋文明(産業と科学)の発展は有り得なかった。進歩、有用性、「より快適な生活」の価値観は、まさに進歩の先に正解があり、その発展のプロセスが今の私達を苦しめるものを取り除いてくれる、ということへの信頼の表れである。言い換えるならば、進歩的な価値観はそれ自体宗教的な偏見の現れだということである。

 あらゆる革命は必ず失敗する運命にある。それは今日までの社会革命がどれも失敗に終わったことからもわかる話だ。そもそも、私達は一つの大きな誤解をしている。人は喜びを最大限に味わって、悲しみを最小限に抑えることを求める。しかし、人間の快と不快は相対的なものである。ある人の感じる喜びの大きさは、そのままある人が今日までに感じてきた悲しみの大きさに比例する。子供は些細なことに一喜一憂するが、大人になれば悲しみに慣れる分、喜びにも慣れてゆく。いくら不快を取り除いても、快を求める限り、そこには別の不快が生じてくる。

 だから「より善い世界の実現」なんて馬鹿げた話である。この世界がどう変わろうとも、そこには一定数の快があり、また同程度の不快がある。今後どれだけ快適な生活が用意されようとも、人々は今と同じように「私は不幸だ!」と嘆いているに違いない。私達は問題の本質を見落としている。いくら社会が変化しようとも、その社会を支える根本の価値観が変わらなければ無意味である。そして根本の価値観の変化とは、社会革命ではなく、革命への生成変化(革命的になること)によって発生するのではないだろうか。

 加速主義を例にとってみよう。近年「加速主義」という考え方が政治的な流行を見せている。その概要をざっくり説明するならば、「資本主義を加速させることで、自ずと資本主義は解体されていく」という内容だ。それを提唱したのは、私の愛するドゥルーズ(そしてガタリ)である。この考え方には色々な解釈が施されているが、今回は私なりに勝手な解釈を試みようと思っている(だからそれが合っているのかどうかは、正直な話わからないのだが)。

 先ず私達の社会には中心的な価値観が、マジョリティ - 資本主義が存在する (ドゥルーズはこれを「官僚機械」と呼んでいる)。そしてこの中心から離れたところで、マイノリティ - ノマドが存在している (ドゥルーズはこれを「戦争機械」と呼んでいる)。マジョリティは初め自分の価値観を揺らがすマイノリティを排除しようと努める。その一方で、やがてマイノリティに資本的な価値が見出されると、資本主義社会はその勢力を無視できなくなる。マジョリティはマイノリティを脱領土化して、資本主義の枠組みに引き入れようとする。近年で言うならば、アニメ - ネット文化がそのいい例だ。昔は「オタク」と言えばキモい奴だとして疎まれていたが、やがてオタクの接するアニメ - ネット文化には、マジョリティが無視できないほどの資本価値が見出されるようになった。だから資本主義はそれらオタク的なものを脱領土化し、より一般的な世界に適合できるように再領土化した。だから今ではアニメ - ネット文化は以前に比べて遥かに一般的なものとなった。このように、官僚機械(マジョリティ)を揺るがす戦争機械(マイノリティ)は、時に官僚機械に介入することでそれを変革するが、しかし同時にそれは脱領土化されて、中心的な価値観に回収されてゆくのである。

 ある意味では、それはマイノリティの敗北を意味するとも言えるだろう。何故ならマイノリティは自分の嫌ったマジョリティに適合できるよう変異させられるからだ。その一方で、あらゆるマイノリティはマジョリティに認められることを求めるのも事実である。だから自分を歓迎してくれる体制を見出した途端、彼らは簡単に自らの領土を放棄してしまう。音楽のストリーミングサービスを例にとってみよう。かつては海賊盤や違法アップロードを行っていた人が沢山いて、資本主義社会はそれを良く思っていなかったが、やがてそれを利用したビジネスを思いついたら、こうして資本主義はそれを脱領土化する。そして「ストリーミングサービス」という名目でそれを再領土化するのである。

 しかし、もし資本主義社会がこのようにして進展するのだとしたら、一体何故加速主義が資本主義社会の解体に繋がるのか。それは、マジョリティがマイノリティを自らの領土に引き入れ続ければ、自ずとマジョリティが飽和していくからだ。

 なるほどマイノリティがマジョリティの領土に回収されることは、それ自体マイノリティの敗北を意味する。しかし、個人的な話になるが、ストリーミングサービスのおかげで知ることの出来た音楽は沢山ある。そして、恐らくこれと同じことは他の人にも起きているのではないか。ネット文化のコンテンツは、今や資本主義的価値観の下に回収されたと言える。しかしその一方で、ネットが普及したおかげで知ることのできたものは沢山ある。

 こうして一つの現象が見えてくる。つまりマイノリティへの生成変化である。マジョリティがマイノリティを資本主義の枠組みで回収しようとすればするほど、資本主義の領土にいた人間は、その枠組みの外へと出ようとする。それはまさに人が革命的になる瞬間である。つまり革命への生成変化を体験する瞬間である。やがて資本主義社会は水漏れを起こし、社会の内に逃走線が引かれてゆく。だから資本主義社会を加速させれば、自ずと資本主義は崩壊する。これが私の個人的な加速主義への解釈である。

 と、こんなことを書いてみたが、実を言うと私自身、政治にまるで興味がない。昔は違ったかもしれないが、今は「この社会がどうなろうが死ぬほどどうでもいい」というのが本心である。そう、知ったことではないのだ。革命なんて馬鹿げた話だ。自分が何をしても、この世界の間抜けさが改善されるわけがない。

 ただ、自分の信条に反することが目の前で行われていた場合、恐らく私は声を挙げるだろう。それはかつてキェルケゴールが自らの信仰ゆえに当時の教会に反発したのと同じである。


 夏が来た。夜になれば窓を開けた状態で過ごしている。だから夜が来る度に、私は眉をしかめざるを得ない。何故なら最近、近隣から毎晩のように女性の叫び声が聞こえるからだ。

 声音からして、それは恐らく四十代以上の女性だろう。その近隣からして、彼女は主婦を営んでいるに違いない。実際、彼女の怒りの矛先だと思われる、大体中高生くらいの男子の声が時折聞こえてくる。彼は大抵弱々しく、何か謝るような口調で母親に話しかけている。

 私は悩んでいる。警察に通報するべきか。それとも他人の家の事情にそう軽々しく顔を突っ込むべきではないのか。しかし、あの女性のイライラとした、物を切り裂くような高い声。あれを聞く度に、何か自分まで怒られているような気がしてくる。とても不愉快で、不安になる声だ。私の夜の静寂が失われつつある。子供が心配なのもあるが、それ以上にこちらが耐えられそうにない。これは最近の生活の一番の悩みである。彼らの声を聞くたびに頭が痛くなる。そのせいか、最近はうまく眠れない。してみればやはり警察に通報するべきだろう。しかし生活に疲れていて、中々行動に移る気力が起こらない。要するに八方塞がりである。