21/06/29

「病気が私をゆっくりと解放してくれた。病気のおかげで私は、仲違いをしなくても済むようになったし、波風の立つ、厄介な奔走に苦しまなくてもよくなった……。病気は私に、自分の習慣を根本的に変える権利を授けてくれた。」

 上の言葉は、ドゥルーズの小論『ニーチェ』の冒頭で引用された言葉である。病むことがなければ、人は「生命とは何か」を、「健康とは何か」を問うことはしない。また、病から健康に至らなければ、人は「病気とは何か」を、「死とは何か」を知ることもない。ニーチェにとって病気とは、彼が「大いなる健康」を知るための手段だったと言える。

 友情とは何か?私は哲学者ではないが、ただ「哲学(philosophy)」という言葉には、本来「知恵を愛する」という意味が含まれているらしい。だから哲学者とは、その本来の意味に従えば「知恵を愛する者」もしくは「知恵の友」であると言えよう。これを踏まえてか、ドゥルーズ=ガタリはかつてこう定義付けたことがある。つまり、哲学者とは「知恵を求めても、明確にそれを所有することのない者」であると。

 よって友情についても次のような定義を与えることが出来る。つまり友情とは、友人を求めはしても、決してその友を所有することのない感情である、と。


 コロナの影響でめっきり人との関わりが減ってしまった。元々、私はダイニングバーの店員をしていた。去年の今頃は、よく店に出勤していたものである。それ経由で知り合った人も多い。ただ、深夜営業が停止されてから、店への出勤も数ヶ月途絶えている。かつてはよく友人が遊びに来てくれた。おかげで予定を立てなくとも、自ずと人と遊ぶ機会が多かった。ただ、今やそれも遠い昔のことのように思われる。

 幸か不幸か、最近では静かな、落ち着いた暮らしを送ることが出来ている。かつて病気がニーチェを解放したように、コロナが私をゆっくりと解放してくれたようだ。去年仲良くしていた友人と会えなくなるのは、確かに寂しい。しかし実をいえば、ずっとこのような、静かな暮らしに憧れを抱いていた気がする。

 無論、決して生活は豊かではない。少ない稼ぎで、何とか日々の生活を賄っているのが実情である。そしてその分孤独な生活を強いられている。ただ、図らずとも、「これがいい機会だ」とも思っている。あと少しで自分の学習に整理をつけることが出来る。自分の青春に決着をつけることが出来る。そのためには、ある程度孤独に過ごす時間が必要である。

 コロナが明けたら、また以前と同じような生活に戻るかもしれない。何やかんや言いつつ、私は元々働いていたダイニングバーが好きだ。それ経由で知り合った人間も多いし、またその中には仲のいい知人 - 友人もそれなりにいる。ただ、彼らとも最近では全然会わなくなってしまった……。しかしこうして、かつての友と距離が出来つつあるのはいい機会なのかもしれない。私には今、専念したいことが一つある。そしてそれに上手く専念出来る環境が与えられている。ついに今日までの自分に蹴りがつけられそうな気がする。少々ドラマチックな言い方になってしまうが、本心である。私はやっと自分の内にあるものに決着をつけることが出来る。ドゥルーズの本を読みながら、最近はそんなことを考えている。

 最近はドゥルーズの『シネマ』を読んでいる。文字通り、映画への分析を通してドゥルーズ自身の哲学を語る本である。彼の著述スタイルには幾つかの特徴があるが、その内の一つとして「仮面を被る」ということが挙げられる。彼自身、「哲学者は仮面を被らなければならない」ということを何度か語ったことがある。それは冒頭で述べたニーチェ論の中でも語られた内容である。「哲学的な力は、それがギリシアで誕生した時、生き延びるために変装しなければならなかった……」

 ドゥルーズは自分以外のものの仮面を通さなければ、自らについて語ることをしない。その初期には他の哲学者 - 文学者の仮面を通して、また『差異と反復』『意味の論理学』の時期には当時流行していた構造主義 - ポスト構造主義の仮面を通して、更にフェリックス・ガタリとの共著においては「ガタリ」という人間それ自体の仮面を通して。よって、二巻に及ぶ大著『シネマ』においては、自ずと「映画」という仮面を通して自らの哲学を語ったことになる。

 ドゥルーズはよく分かりづらく、ややこしい言い方をする作家だと見なされる。しかし、実際はそんなこともないと思う。まさに彼の主著と見なされているもの達(『差異と反復』『意味の論理学』あるいはガタリとの共著による『資本主義と分裂症』シリーズ)が、ややこしい書き方をしているからそう思われているに過ぎない。そして、私の考えが間違ってなければ、ドゥルーズは前者二冊においては当時流行のポストモダンの仮面(「知の欺瞞」として叩かれたフランス現代思想の仮面)を被り、またガタリとの共著ではフェリックス・ガタリの仮面を被っている。そして、もしその主著の中で被った仮面のために彼の哲学が「ややこしい」あるいは「胡散臭い」として断罪されているならば、それはまさに誤解である。

 よって私には、より「胡散臭くない仮面」、つまり古典的な哲学者 - 文学者、あるいは映画について言及した本にこそ、よりストレートに彼の本質が現れているのではないかと思われる (勿論、個人的にそちらの方が読みやすく感じるから好きだと言うのもあるのだが)。それは彼の書いた絵画論についても言えることだ。『感覚の論理学』の中には、彼の「古典的な哲学者」としての態度が示されている。つまり、人は死 - 暗闇にあるものを生 - 光の方へと掲げることによって、その内に秘められた力を可視化するということだ。そして、それこそが創作することの本質であると、ドゥルーズは語る。

 生活は苦しい。しかし困窮の日々の中で彼の本を紐解くことは、私の日々のささやかな幸福である。仕事の合間合間に本を開き、日差しの方へそれをかかげながら読むことは、この心を静穏な喜びで満たしてくれる。 実を言うと、最近は心身ともに安定しない日が続いている。だから仕事も休みがちである。しかしそれでも、本を読むことは私に生きる糧を与えてくれる。ニーチェリルケは、よく貧しくあることの大切さを強調している。しかし、それは彼らが元々恵まれていたからだと言える。元々何かしら形で恵まれていた人間は、何らかの苦労や貧しさを経験することで、慎ましくあることを、謙虚であることを学ぶことが出来る。リルケには次のような美しい詩がある。「何故なら貧困は内部からの大きな輝きなのだから。」

(逆に、最初から何も恵まれていない人間は、貧しい生活の中で、自ずと狡猾で、他者への復讐心の強い人間に成長する。それは黒澤明が『七人の侍』の中で描いていたことだ。)

 とにかく最近は、ドゥルーズの本を読むことで忙しい。なんと言っても今年中に(というよりかは今年の秋までに)彼の著作をすべて読み終えなければならないのだから。そうすれば、自分の中にある何かに決着が付けられる気がする。幸いなことに、日本では優れた訳者 - 研究者の方々が、美しい日本語でドゥルーズの本を翻訳してくれている。そして今、日本では彼の全ての著作を日本語で読むことが出来る。大抵の場合、訳者解説も非常に懇切丁寧でわかりやすい。おかげで私のような独学者でもドゥルーズを読むことが出来ている (言い換えるならば、私のようなちゃらんぽらんでもドゥルーズが読めるのだから、私と同じようにちゃらんぽらんな奴でも本来ドゥルーズが読めるはずなのである。それくらい彼の本質は普遍的なものである)。

 そういう意味では、コロナには多少感謝していると言える。何故なら、コロナの影響で、こうしてゆっくり腰を据えて本を読む時間を得ることが出来たのだから。その結果、疎遠になってしまった友人も少なくない。去年の今頃は毎週のように会っていたのに、今では数ヶ月に一度会えればいい方な友人もいる。皆大好きなのに、私は皆を遠ざけている、とも言えるだろう。しかし、それでいい気がする。先程も述べた通り、友情とは、相手を求めても決して相手を所有することのない感情を指す。私が友人たちを愛しているからと言って、私は友人たちを所有することは出来ない。その反対も同様であって、たとえある友人が私を愛してくれるからと言って、その友人は私を所有できないのである。

 友情。それは私の人生において、一つの大きなテーマだと言える。もし友情が相手に対する信頼と尊敬に基づいて成り立つなら、私達は自ずと友人に対して距離を取らざるを得ない。何故ならそれは、相手の嫌なところが見えて信頼と尊敬が失われるのを恐れるからではなく、むしろ信頼し尊敬するからこそ、相手と自分の独立を守りたいがためである。私は今日まで、家族に対しても、かつての恋人に対しても、勿論友人に対しても、距離を取って生活してきた。それは、どんな人間に対しても友情を失いたくないからであり、言い換えるならば、尊敬し信頼しているからこそ、距離を置いても大丈夫だと考えているからだ(もちろん時には、信頼と尊敬を保つために距離を取りたいと願ったこともあるのだが)。

 よく「男女の間に友情は成立するのか」という問題が取り上げれる。それに対して、私はこう応えたい。つまり「男女の間に友情が成立しないなら、男同士(または女同士)の間にも友情は成立しないはずだ」と。前述の通り、友情というものは両者の間にある程度の距離を導入するものだと思われる。男同士の付き合いで、「野郎ふたりでこんな事をするのも気持ち悪い」といってしない事が沢山あるに違いない。私がそうだ。特に男同士でベタベタするのはあまり好きではない。否、だからこそ同性間では友情が生じやすいのだと思われる。恋愛において、私達は自ずとその「距離」を放棄するように強いられる。よって友情が成立するのは距離の問題であって、性別ではない。

 大切なものは、失われたとしてもいつか必ずよみがえる。今は疎遠になっている友人も、もしそれが本当に大切なものならば、いつか必ずよみがえるであろう。私が今日までブログを書いてきた理由はいくつかあるが、その内の一つとして、「言い訳」が挙げられる。一時期、このブログはある特定の誰かに対する際限のない弁明であった。つまり、「そんなことないよ、僕はこう思っているよ」ということを絶えず書いてきたわけだ。そして今書いているこれらの文章は、私のある不特定な友人たちに対する言い訳であり、また弁明である。