21/07/18

 関係性の内で消費される社会。恐らく私達が生きる世界とは、その一言で表現することが可能であろう。力、それは別の力に対する関係によって成り立つ。これはかつてニーチェが打ち立てた哲学的なテーマの一つでもある。一つの力の大きさは、別の力との関係の中でしか測られない。また、一つの力は、別の力に作用し、またその力から作用されることによって成り立つ。社会とは力の、力に対する関係である。こちらが望むと望まないに関係なく、私達は別の力に対して作用し、またその力から反作用 = 反動を受けざるを得ないものとして存在している。

 この世界に絶望する理由があるとすれば、その一つがここにある。私達は社会という関係性のシステムの中でしか生きられない。そして関係性の社会で生きる以上、時にはこちらが望まない作用を他者に与え、またその反作用を他者から被ることになる。一つの喜びの芽生えがそこにあったとしても、それが開花する先にあるシステムに回収されざるを得ない。せっかく関係性の外に逃れられたと思っても、気がつけば再び関係性の内に回収されている。だからその度に、私達はシステムの汚れを被りながら、システムに対し抵抗することを求められる。

 少し壮大すぎる話に聞こえるかもしれないが、私は大真面目にこれを書いている。これは今日までの生活の経験の中で実感してきたことでもあるからだ。かつてニーチェは、反動的諸力(ルサンチマンあるいは罪悪感)から自由になった存在としての「超人」が未来において到来することを予告した。しかし、そもそも何故超人は未来にならなければ訪れないのか。何故現在では無理なのか。それは、関係性の中で生きる以上、人間とはどうあがいていもルサンチマンや疚しい良心(あるいは罪の意識)から逃れることが出来ないからだ。

 他者との世界で生きる以上、私達は他者に作用し、また他者からその反作用を受ける。誰かと共に生きるということは、常に自分の行為を善いものか罪あるものかと問われることである。よって、そこには裁きがある。そして裁きがある以上、私達はこちらを苦しめる他者を憎むか、あるいはその他者に対し罪の意識を感じるかしか出来ない。人はルサンチマンあるいは疚しい良心から逃れられない。ルサンチマンなき人間とは、もはや人間ではない。それは「超人」である。 恐らくニーチェはその事を知っていた。だからこそ、彼はよくよく未来の話をする。やがて私の時代が来る。私の予言が実現される日が来る。きたるべき未来において、「超人」の時代がやってくる。超人が到来する……。

 二十世紀フランスには、ニーチェの弟子と呼ぶべき思想家が二人いる。ドゥルーズフーコーがその人だ。そして、フーコーが「外部」の存在を問う作家だとすれば、ドゥルーズは絶えず「内部」を問題にした作家だと言えよう。かつてフーコーは「人間の死」を唱えた。それは、決して「人類滅亡」あるいは人権の無視といったふざけた話ではなく、形態としての「人間」、概念としての人間が既に死につつあるということだ。近い将来、「人間」という価値観は砂浜に書かれた文字のように消え去るだろう。しかし、私は決してフーコーの思索に明るい人間ではないから、あまり多くのことは語れないかもしれない。だからこの辺りで口を閉じるべきなのだろう。

 ただ、これは勝手な憶測だが、ドゥルーズは次のことを知っていたのではないだろうか。つまり、「超人」の実現は、少なくとも自分の生きる時代には訪れないということを。そして彼の盟友フーコーが唱えた「人間の死」も、やがて実現されることはあれど、決して今ではないということを。何故なら、社会という舞台が与えられている以上、そして不特定多数の他者と共に生きざるを得ない以上、私達はルサンチマンと疚しい良心から逃れられないからだ。そしてもしそれを拒みたいと願うなら、絶えず社会の外に身を置こうとするテロリストめいた人物になるか、それとも仮面を被って社会の汚れの中に潜伏する人間になるかを選ばなければならない。しかしそれでも私達は自分を取り囲む関係性から逃れられない。前者を選ぶならば、私達は「社会不適合者」あるいは「犯罪者」として絶えず裁かれる存在になるだろう。後者を選べば、絶えずシステムの内で恥ずべき妥協をして、したくない悪行に手を染めるよう強いられるだろう。どちらにせよ言えることだが、どんな選択に手を伸ばそうとも、何かより善いものを求めて生きる以上、私達は絶望を感じたり、自己矛盾に苛まれたり、罪悪感や他者に対する漠然とした憎悪から逃れることが出来ない。

 では「より善いものを求める」をやめればいいのではないかとなる。否、それは出来ない。人は今日までのものを踏まえた上でなければ今日以降を生きることが出来ない。だから「求めること」を辞めることは、倫理的にと言うよりかは欲望的に不可能なのである。人は自分が繰り返したいものしか繰り返されるのを求めない。既にかつての行いや知識の「馬鹿らしさ」に気づいているのに、どうしてそれが繰り返されるのを求めよう?

 これらの事を踏まえてか、ドゥルーズはよく思考の内に潜む「思考できないもの」の力を強調して語る。その一方で、人は何処に自分の思考の限界があるかを知らない。よって、確かに思考の内には「思考できないもの」が潜んでいるが、しかしその限界は問いを発する度に拡張することが可能である。そして、もしほんとうにそうだとすれば、恐らくここからドゥルーズフーコーの思想はリンクし始める。

 もし思考の内に「思考できないもの」が存在するとすれば、人はいかにしてそれに気づくのか。そう、それは外部との出会いを通してではないか。今日までの自分の常識を覆すような、困惑を覚えさせるようなものとの出会いを通して、私達は自分の内に思考できない何かが潜んでいることに気がつくのではないか。そして、もしこの思考不可能なものが思考可能になる瞬間が訪れるとすれば、それは、自分の内に思考不可能な何かがあることに気づいた時からではないか。丁度偏見を正すためには、自分の内に偏見があったことを一度認める必要があるのと同じように。

 こうして思考のうちにある思考できないものを認知した時に初めて、人は思考可能なものを掴み取る事が出来る。そして、もし外によって与えられた傷跡があるのだとすれば、それが癒されるのは同じ外との出会いによってのみなのである。自分が陥った袋小路が抜け出すために、どこに手がかりがあるのか、外に目を向ける必要がある。そして、それは決して人との出会いだけではない。むしろ過去の世界の記憶、忘却された書物、あるいは誤解され誤読されつつある芸術作品へと目を向けることによって、初めて得られるものがある。そこには過去の先人たちが未来へと向けて投げた矢がある。その矢は、先人たちが彼らよりも更に昔の人々から受け取ったものでもある。また、その矢は呼び掛けでもある。遠く離れた時代、隔たった国々を生きる人々を繋げるのは、コミュニケーションでもなければ情報技術の発達でもない。それは先人たちが放った矢が、既に現在に到来していることに気づくための趣味である。一つの作品の内には、常に自分と同じような苦悶に悩まされる人へと向けられた呼び掛けがある。読書とは自分の語るべき言葉を知るための作業である。よって本を書くという行為は、常に遠く離れたところに位置する友達を救い出すために発された呼び掛けなのである。

 既に矢は私達の手元に、あるいは足元に残されている。しかし私達はそれに気づいていないのだ。もしかすると、それは土深くに埋められていて、穴を掘らなければ気が付かないのかもしれない。だからこそ注意深く過去の文献や資料、あるいは出来事、あるいは生、あるいは芸術作品に目を向けなければならない。やがて私達は、自分の先人がいることに、自分よりはるか昔に生まれ、自分から遠く離れた地で育ち、しかし自分と同じような苦しみに直面した者がそこにいることに気がつく。そして彼または彼女が残してくれた矢が、既に自分の手の中にあることに気がつく。それに気づいたならば、今度は私達が、目の前の空間に向かって、思い切ってその矢を投げなければならない。物を切り裂き、空間を引き裂いて、私達を苛む現状から抜け出さなければならない。もし再び何らかの苦悶に苛まれたなら、私達の近くにまだ他の矢が落ちていないかどうか、確かめればいいのだ。もしくは以前使った矢がまだ使えるかを確かめればいい。なんと言っても人類の歴史は長い。たとえ私達を苛む現在の問題があまりに大きくとも、かつての世界を振り返れば、そこには自分と同じように苦しみながら、しかしそれを難なく切り抜けてきた先人が沢山いる。彼らは私達に微笑みかける。「なに、このくらいの事、なんてことないさ。きっと君なら乗り越えられるだろう……」

  私達を苦しめる現実は大きい。どんな人も時代、環境、政治、社会から逃れて生きることなど出来ない。だからこそ、どんな人も関係性の中で、恥ずべき妥協を強いられながら生きることとなる。個人の狂気は稀であるが、集団や社会はいつも狂っている。それはニーチェが語っていたことだ。恐らく、現行の社会がどう変わろうとも、この世界がマシになることなどありえないだろう。否、もしかしたらいつか「より善い世界の実現」が到来するかもしれない。しかし決してそれは私の生きている時代には訪れないだろう。あまりにも大きなシステムに対して、個々の人間はあまりにも無力である。そういう意味では、私は無力な動物である。うなり、痙攣し、にやにやし、胸を叩き、そして穴を掘る動物だ。しかし、このように動物になることによってしか乗り切れないものがあるのではないだろうか。もしくは、このような動物への生成変化には、何か今日までの私達が見逃してきた偉大な可能性があるのではないか。

 関係性の苦悩から逃れるため、時に人は孤独にこもろうとする。そうして自己を折り畳み、孤独の城に逃れることで、みずからの自由を守ろうとするのだ。しかし、このような自己決定も結局は虚しいものに終わる。私達は関係性の社会から逃れられない。だから、その度に外へと目を向けなければならない。まだ関係性の内に回収され得てない力を、または既に回収されているように見えるが、実はその巧みに被った仮面のために関係性の外へ逃れうるものを持った力を、見出さなければならない。システムの内に潜む亀裂の先を見ようとしなければならない。もしかするとそこにあるのは、かつてメルヴィルが見出したような、私達を破滅させ、あるいは発狂させるような、恐るべき力かもしれない。しかし、それすらも求めなければならないような時が来るのではないか。誰がそれを否定出来ようか。そこにこそ自分が唯一喜びを味わえるような瞬間があるのだとしたら?自由に生きれる場所など、この世の何処にも存在しない。それはただプロセスの内だけに、生成の内にだけ存在するのである。

 動物とは不思議なもので、それは暴力的なもののシンボルであり、また暴力を行使される対象でもある。「獣」は理性を持たない人間以下の存在であり、よって人間が八つ当たりをするとき最も暴力を振るわれやすい対象でもある。奇妙なことに、人は理性を持たないとされる動物に対してこそ、最も非理性的な行いをする。よって動物的なものとは、今日までの私達の世界の一般性から、最も排除され、疎外され、誤解され、忌み嫌われてきた存在である。だからこそ、大多数の中で苦しむ人間は、皆何らかの形で動物なのだと言える。私は動物だ。何故なら、私は大多数の中で生きざるを得ず、それでいながら大多数に対し絶えず疎外感を覚えているからだ。私は孤独な一匹の、無力な動物だ。今日も、明日も、明後日も、不愉快な人間どもに揉まれながら、同じような愚劣をするよう強いられ、今後の生活のために、幾度も恥ずべき妥協をするよう強いられる(これまでも、そしてこれからも、同じように)。これ以上この恥に耐えられないと思うならば、動物をやるしかない。うなり、痙攣し、にやにやし、胸を叩き、穴を掘るしかないのである。しかし、それは私が発する信号でもある。つまり、私と同じ孤独な動物に向けた呼び掛けであり、また危機に瀕した同胞達に対する応答でもある。友よ、私は無力だ。私達はあまりにも無力だ。しかし、無駄に生きているわけではない。この苦労が報われる日は必ずやって来る。そう信じなければならない。今はただ、与えられた矢を未来に向けて投げるだけである。物を切り裂き、空間を引き裂き、今在る所から抜け出すためには、そうするしかない。

 

 最近、少し疲れている。徐々に回復しつつあると信じたいが、完全に快癒するまでは今少し時間を必要とするかもしれない。心痛を伴う日々の中、音楽(特にバッハとマーラー)を聴いている時にはそれも和らぐ。そして音楽を聴いていない時には、よく耳栓をつけて生活をしている。耳栓はいい。耳栓をしていると、世界が遠くに感じてくる。不愉快な周囲の騒音が遮断されて、深海のような静けさに取り残される。すると神経が和らいで、緊張がほどけ、気分が楽になるのである。

 しかし、このまま現実逃避をして日々を過ごすわけにはいかない。私は現実に向き合わなければならない。近いうちに、なにか小説でも書こうかと思っている。二、三百ページの長編は(今の自分の力量的にも)無理だとしても、三十ページ程度のものなら一日で書ける気がする。孤独にこもりがちな一方で、上手く言えないが、まえよりかは少し活動的になることに前向きになれている(気がする)。まあ、そうなったところでどうするんだと言う話かもしれないが。とにかく書いて、どこか専用のサイトに載せるなり、または出版関係の知人に持ち込んでみたりしてもいいと思っている。恐らく、私は今年中に何かをするだろう。

 それ以外にも書きたいものがある。以前どこかで書いた気がするが、私はいつかドゥルーズについて一冊の本を書きたい。恐らく今年中に(というか今年の秋までに)彼の本を全て読み終えるだろうから、誰かご意見とご指導をいただけそうな人を探しつつ、ドゥルーズについてまとまった論考を仕上げたい。ドゥルーズ自身の言葉を借りれば、彼が本を書く理由は三つあるという。一つは、一つのものが誤解されていると思われるから。二つは、それについて何かが忘却されていると思われるから。そして三つは、それによって新しいものが生み出せると思うから。(アルノー・ヴィラニ宛て一九八六年の手紙を参照。)

 これを踏まえて言うなれば、私にはドゥルーズについて一冊の本を書く理由があると言える。日本では異様なまでにドゥルーズの人気が高い。しかし、いやだからこそ、私には彼が未だ大きな誤解を受けたままでいるように思えてならない。彼はかっこいい言葉を羅列するだけの哲学者でも、ポストモダンの胡散臭い哲学者でもない。そもそもデビューは構造主義が流行る前なのだから、時代とは関係なく語ることが出来るはずだ。それに、ドゥルーズ自身みずからを「古典的な哲学者だ」と名乗っている。恐らく彼の本質は、よく人に語られているのとは全く異なる点にある。つまり、ドゥルーズは誤解を受けており、また彼の本質は忘れられている。だからこそ、それを指摘し、そして掲げることは、それ自体新しい思考の仕方を発明することに他ならない。