21/07/24

 年に幾度か、不眠に悩まされる夜々を過ごす。早ければ一週間で終わるが、長ければ一ヶ月以上それが続く。そして今、まさにその時期である。今日も眠れず夜を明かしてしまった。しかし、決してそれを悲観する必要はない。「打ち勝ちえぬ病に冒された時、重要なのは病を "経営すること geret" であり、病に人間的関係を投射していくことである」と、かつてドゥルーズは書いていた。まさにその通りである。大切なのは病と折衝することであり、それを嘆くことではない。そして、やがて病を「経営」できなくなった時、私の生命は終わりを迎えるであろう。しかしこれは、少し大袈裟に書きすぎたことかもしれない。

 正直に言うと、最近人と会うのも少し苦しくなっている。特にどうでもいい他人から、不愉快な手つきでベタベタと触られるかもしれないと考えると、耐え難い気持ちになる (実際にそういうことが起きるかどうかはさておき) 。何故世には孤独を恐れるひとがいるのか、私にはわからない。不潔な連中と関わるよりも、独りでいる方がよほど気が楽ではないか。

 苦しみを題材にした作品というのは世に多くある。しかし、何故人はわざわざ苦痛を描こうとするのか。それは恐らく、そもそも何故その人がそれに苦しんでいるかに由来する。人が苦痛を強調する理由、それはその苦しみが特異なものだからだ。そして、それが特異だからこそ人は苦痛に襲われるのである。慣れない、今日までの自分の生命を覆すような、あまりにも大きな経験がこちらを襲う。その時、この人生は「自分が担うには重すぎるもの」のように思えて仕方なくなる。こうして人はヒステリーに襲われる。身体がこわばり、顔がひきつり、震えが止まらなくなる。そして自分の苦しみを強調して語りたくて仕方なくなる。世の中で自分だけがこんな風に苦しむのはおかしいと思うようになり、他の人々にもこの苦しみを伝染させたいと考えるようになる。

「ヒステリー患者とは、自己の現存を強要する人であり、またこの人にとっては事物や存在が現前し、あまりにも現前するのである。この人は過剰な現前を、あらゆるものに与え、あらゆる存在に伝染させる。」

 しかし、それが何故創造行為に(作品を創造することに)繋がるのか。それは、苦しみに覆われて見えなくなったもの達を見えるようにするためであり、こちらを取り巻く苦痛を追い払うことで、喜びを獲得するためである。かつてフランシス・ベーコンは次のように語ったという。つまり、自分は頭脳的には悲観的であると。「描くべきものとして、彼には恐怖しか、世界のもろもろの恐怖しか見当たらない。」しかしベーコンは次のようにも語る。つまり、自分は神経的には楽天的であると。

 ヒステリーを引き起こす出来事が私達の前に現れる。その時、苦痛が私達を襲う。しかし、私達は決して苦しみによって何も見えなくなるのではなく、むしろ何かが見えすぎてしまうからこそ苦しんでいるのである。だから私達は再びそれが見えなくなるよう、盲目になるよう、目を閉じようとする。しかし、それではせっかくの苦しみが無駄に終わるのと同じではないか。よって、こちらを苦しめるものを、自分にはあまりにも大きすぎるように見える生の暴力を描き出し、それを白日のもとに晒さなければならない。それによって苦しみを克服し、苦しみが覆い隠そうとした〈力〉の大きさを描き出そうとするのである。

 しかし、そもそも何故それを描き出す必要があるのか。それは、その力を見出すことによって、初めて生きることが可能になる世界が存在するからだ。かつてシェストフは次のように語った。「発見されたばかりの真実は産まれたての赤ん坊のように醜い」と。しかし、それを踏まえた上で初めて獲得することの出来る喜びがあるのではないか。発見されたばかりの真実は、見えすぎた〈力〉は、私達の頭脳に恐怖を与え、この世界には不気味なものしか存在しないかのような錯覚を与える。しかし、それは妄想である。私達にはそれを明晰にすることによって初めて知ることの出来るものがあり、得ることの出来る力があり、生きることが可能になる世界が存在する。そしてその時、悲しみは喜びに変わる。過去の苦しみが償われ、贖われ、未来への快楽が解放される。悲劇は終わり、喜劇が始まるのである。

「実際、芸術の根底にあるのは、ある種の喜びであり、芸術の目標とはまさにこれなのです。必然的に創造の喜びというものがある以上、悲劇的な作品などというものはないのです。つまり芸術とは、是が非でもすべてを炸裂させる解放であって、それは先ず悲劇的なものを炸裂させるのです。悲愴な創造などなくて、いつも喜劇的な生があるのみです。」

 ドゥルーズフーコー論の後半で、「性との関係はそのままその人の自己との関係を表している」と、ざっくり言えばそんな感じのことを書いていた。実際、その人がいかに性に関係しているかによって、その人の実存様式は決定されるように思われる。

 私は今日まで、性から逃げてきた。そして、それを間違った判断だとは思っていない。異論はあるかもしれないが、自分は同世代の人間の中でも比較的禁欲的な方の人間だと思っている。しかし、それは決して倫理的な判断からそう選択したのではない。ただ面倒だからそうしたまでだ。世の中には色んな人がいる。中には何もしていないのにこちらにいやらしいくらい馴れ馴れしい態度をとる人間もいる。そういう連中が嫌なら、初めから何もしないでいるべきであり、また身を引くべき時に身を引くべきである。

 では、関係を持ちたいと思うような相手と出会ったことはないのかとなれば、そんなこともない。私にだって心惹かれる相手に出会うことはある。ただ、普段から一線を引いているせいで、よくわからないのである。何処までが自分の錯覚で、また何処までが信じるに足るものなのか、自分で自分がわからない。こんな悩みは、もしかすると思春期の頃に大半の人が終わらせているものなのかもしれない。してみると、私は未だに思春期から抜け出せていないことになる。我ながら、情けない話だ。

 

 昨日からオリンピックが始まった。これから幾ばくの間、私達はとんでもない茶番に付き合わされることとなる。日本には優秀な人材が多い。昨日の開催式でゲーム音楽を流したのは見事な英断だと言わざるを得ない。しかし、それで簡単に手のひらを返すのはいかがなものかと思う。今日まで、私達は開催側から(国家そして委員会から)あんなにも多くの屈辱を負わされてきた。あんなにもたくさんの恥をかかされてきた。それを全てなかったことにするのか。おひとよしもいい所だ。私達は怒らなければならない。これ以上あの馬鹿どもの不正を見逃すべきなのか。違うはずだ。

 とまあ、こんな所で怒りを露わにしても何にもならない。私程度の人間が騒いだところで、結局何も変わりはしないのである。今はただ、日々自分の出来る限りの最善を尽くすのみである。