21/07/31

 私が高校生の頃、父はよく酔っ払って学生時代の話をした。父はよく自分の同級生をいじめていたらしい。「俺はあいつを四つん這いにさせて、馬乗りになって、けつを叩きながら歩かせたんだ……」

 しかし、学校ではいじめる側ではあった父も、家の中ではいじめられる側であったらしい。誰にか。そう、父の「父」、つまり私の祖父にあたる人物にである。今では年老いて温厚になった祖父だが、かつては非常に厳しい人だったという。父はよく自分が祖父に殴られながら育ったことを話した。また、祖父は祖母をまるで召使いのようにこき使っていた。あまりにも扱いが酷いから、祖母は病気になってしまった。しかしそれにも気にかけず、祖父は祖母を道具のように扱い続けた。その影響でか、祖母は祖父より若いが、祖父より遥かに早く死んでしまった。勿論、祖父はそれに対して微塵も自責の念を感じていない(以前私に語ったことがあるが、もっと別の理由で亡くなったと信じているらしかった)。そして、それに対する父の悔しさも、よく酔っぱらいながら語られたことである。

 では全ては祖父が悪いのかとなれば、そんな事はない。祖父は大正が終わり、昭和が始まる頃に生まれた。つまり、祖父は戦争を直に体験した世代のひとりである。太平洋戦争は、丁度祖父が思春期を過ごす頃に生じた。だから戦争が祖父の心に大きな印象を残したのは言うまでもない。

 一つの問題は常に別の問題との繋がりを持っている。個人の問題の裏にはよく家庭の問題が存在し、また家庭の問題の裏にはよく社会(あるいは政治)の問題が存在する。小山田圭吾のいじめに関する問題が、少し前にメディアを大いに騒がせた。私自身は、別に彼の音楽のファンでもなんでもない。だから擁護するつもりは更々ないのだが、あれらのニュースを眺めていると、よくよく次のような疑問を抱いたものである。つまり、何故皆彼だけを責めるのか。問題にすべきは、彼がした行いではなく、何が彼をそうさせたのかということではないのか。どんな欲望も別の欲望との関係の中でしか生じえない。たとえ誇張された内容であれ、彼が雑誌の上で自慢げに過去のいじめを話すのは、彼が「そうしたい」と思うような触発を外部から受けたからではないか。よって批判の対象となるべきは、ひとりの人間のした行いではなく、彼をそうさせてしまった他者との関係性、すなわちシステムにあるのではないのか。何故なら、ひとりの人間が問題を起こす場合、その裏では必ずそうするように強いる別の何かが存在するからだ。

 権力とは関係(ネットワーク)である。絶対的な権力者がそこにいたとしても、その裏にはその権力者をそそのかす別の人間がいる。だからこそどんな権威的な存在も関係の内にしか(関係に依存した上でしか)存在し得ない。これは、言い換えるならば、関係の一部が変化したとしても、全体が変わらないならば、結局変化した一部も全体に回収されて終わるということである。勿論それで微細なりとも変わる何かがあるかもしれない。しかし、根本的な問題がそれで解決される場合は殆どない。政権が交代したところで、国民全員の意識が変わるわけではない。党首が変わったところで、政党全体が変化するわけではない。党首になる人物は、一度党員からの支持を獲得するために、党のしきたりに馴染む必要がある。権力関係を変化させることを願うならば、一度その関係の中で力を獲得する必要があるからだ。そしてそのために、人は自ずと関係 = システムの中で同じ汚れを被るよう強いられるのである。

 それが嫌ならテロしかない。しかしテロを起こしたところで何になる。勿論時にはゲリラあるいは戦闘行為が許容されるべき場合もあるだろう(PLOがそのいい例である)。しかし、日本はパレスチナではない。私達の戦うべき敵は、私達の内部にある。それは同じシステムの内部に侵入しなければ打ち倒せない敵だ。テロに走ったところで、現状は益々悪化するのみではないか。ニーチェはかつてこう言った。「個人の狂気は稀だが、集団や時代は常に狂っている」と。現行の世界が大きなあやまちを犯している。それは間違いのないことだ。しかし、その上で、個人にできることがあまりにも少ないのもまた事実である。連日、不愉快なニュースが私達の目に飛び込んでくる。この世界は腐っている。いつまで私達はこのふざけた茶番に付き合わなければならないのか。そのような怒りを感じることも少なくない。そしてその度に「やはりこの世界は変わらなければならない」という気持ちが強くなる。しかしその一方で、今の自分があまりにも無力であるのもまた事実である。

 二十世紀は敗北の時代である。ファシズムの台頭、二つの世界大戦、共産主義の失敗。これらは、人間の文化の敗北、理性の敗北、哲学の敗北をも意味している。かつて人類は「より善い世界の実現」を夢見た。しかしそれは見事なまでに無惨な敗北に終わったわけだ。もっとも、私は二十世紀をほとんど生きていない。だからこのように語る資格もないのだろう。

 二十一世紀は二十世紀の敗北の延長線上にあると言える。そして、共産主義の敗北はそのまま資本主義の勝利をも意味していると言えるだろう。しかし、私には、資本主義が最善の選択のようにはどうしても思えないのである。勿論、共産主義の方がより優れているとは言わない。ただ、私達の「豊かな生活」のために、どれほど多くの犠牲が支払われていることか。それを考えるべきではないか。かつてナチスが行ったユダヤ人差別と、アメリカが行ったベトナム戦争あるいはパレスチナ問題への関与。その行いの愚劣さという意味では、この二者の間にそう違いがあるように思えない。日本にしても、どれだけ多くの外国人労働者が搾取と差別の現実に直面していることか。にも関わらず、私達はそれから目を逸らして生きているのだ。これは恥ずべき、非常に恥ずべき妥協の現実である。勿論「豊かな生活」の中では別の問題が存在している。最近のメンヘラカルチャーのブームがそのいい例だと言える。「豊かな」はずの生活の中で、誰もが自分の貧しさに苦しんでいる。なるほど、私の意見は少し偏りすぎているかもしれない。それに、結局政治にも大して明るくないのが正直なところである。しかし、次のことだけは事実であるように思われる。私達の世界には、少し目を向けるだけでも、こんなにも多くの問題が、未解決のまま残り続けている。なのに誰も、何もしない。それは私にしても同じだ。恐らくは皆、生きることに疲れていて、そんな大きな問題に関心を持つことが出来ないのかもしれない。しかし、自分がよければそれでいいのか。否、そんなことはないはずだ。

 正義とは何か。そのような問いを発すること自体がそもそもの間違いなのかもしれない。しかしそれでも今、あえて私はそのような問いを発してみたいと思う。そう、正義とは何か。正義とは、自分から遠く離れているものの苦しみを感じ取ろうとすることではないか。人は自分の近くにあるものを愛し、遠くにあるものに対しては無関心な傾向にある。自国の人間の苦しみには敏感だが、外国人に対してはそうではない。しかし、何故そもそも外国人よりも先に自国の人間を大切にしなければならないのか。その理由は、恐らく自国の人間の方が自分の近くに存在するからではないか。しかし、もしそうだとすれば、それはなんと非合理的で、非論理的な意見だろう。かつてヒュームは次のように語った。つまり、「人間の本性はエゴイズムではなくその意見の偏りにある」と。よって、私達に必要なのは、偏った意見を矯正すること、自然状態では狭いままである共感の幅を拡大することだ。だからこそ、近くにあるものの苦しみを感じ取るのと同じくらい、遠くにいる人間の苦しみをも感じ取らなければならない。正義とは、自分から遠く離れたものの苦しみをも感じ取ろうとすることなのである。勿論、今の私に正義を語る資格があるとは思わない。しかしそれでも、もしこの世に正義と呼ばれるものがあるのだとすれば、それこそが正義の行いに思えてならないのである。

 人は人を救えないし、救うべきでもない。何故なら、「救う」という行為には必ず「上から下へと手を差し伸べる」という意味がつきまとうからだ。それを踏まえるならば、「苦しんでいる人を救いたい」という気持ちには、前提としてその苦しんでいる人を見下しているという事実が含まれている。だからこそ、私は誰も救うべきではないし、また誰にも救いを求めるべきではない。ただ、同じ線の上で苦しむ仲間として、手を貸し合うことは可能なはずだ。その時、私達は互いに同じ汚れを被りながら、この苦しみの底からはい上がろうとする二匹の動物である。苦しんでいる誰かを救うつもりはないが、ただ同じ苦しむ動物として、誰かに手を貸したい(または手を貸してほしい)とは常々思っている。それは救世主と病人の関係ではなく、協力し、利用し、助け合う、対等なもの同士の関係である。

 冒頭の話に戻ろう。父が学生時代に同級生をいじめた要因として、父が祖父から受けた酷い扱いが影響していたとする。そして祖父は祖父で、戦争の苦しみ、また当時の土地と時代の名残から(祖父が生活していたのは未だ多くの偏見が蔓延る閉鎖的な田舎であった)、父や祖母に対して酷い扱いをしたとする。こうして見えてくるのは、悲しみが連鎖しているという現実である。不幸が別の不幸を呼んでいるのだ。だからこそ、この連鎖の先端にいる人間は、これら不幸と悲しみの連続を断ち切らなければならない。小山田圭吾のいじめ問題についてもそうである。重要なのは、既に起きた出来事を責めることではなく、いかにしてこの連鎖を切断するかであり、またいかにして次にくる不幸を未然に防ぐかである。

 勿論、これらの意見が理想論だと言われればその通りである。しかし人間、理想でも持たなければ現実に立ち向かえないのも事実ではないだろうか。