21/08/05 : 夜に

 "またしばらくお話いたしましょう、親愛なるカプス君。私はほとんど何もお役に立つことは言えず、別段ためになるお話もできないのですが。

 あなたはひと時、かたわらを通り過ぎて行くたくさんの大きな悲しみをお持ちになりました。そして、この通過もまたあなたにとって苦しく、気を滅入らせるようなものであったと言われます。しかしどうか、この大きな悲しみがむしろあなたの真っ只中を貫いて行ったのではないかを、よく考えてみてください。あなたが悲しんでいらっしゃる間に、あなたの内部の多くのことが変化したのではないか、あなたご自身のどこかで、あなたの本質のどこかの個所で、変化なさったのではないかを。

 危険であり、悪いのは、一層高い音で消してしまおうとして人々の間に持ち込まれる悲しみだけです。それは丁度、上辺を糊塗したただけの愚かな手当を受けた病気のように、ただちょっと引っ込むだけで、またすぐ一層恐ろしい力で突発します。そして内部で寄り集まって、一つの生き物になります。生活を与えられず、辱められ、堕落し切った生き物となり、人の命を奪いかねないのです。もし私達に、私達の知識が達し得ない先まで見ることができ、私達の予感の出城をさらにいくらか通り越して先を見ることができるならば、その時おそらく私達の悲しみは、私達の喜びよりも一層信頼をもって堪えることのできるものになりましょう。何故ならば、それは新しい未知の何ものかが私達の中へ入り込んでくる瞬間だからです。私達の感情は照れて、もじもじと黙ってしまい、私達の内部の一切があとずさりしてしまって、一つの静寂が起こります。そして誰も知らないその新しいものは、その真ん中に立ち止まって、沈黙するのです。

 どうやら私達のほとんど全ての悲しみは緊張の瞬間であると思われるのですが、私達はこれを麻痺のように感じます。というのは、その時怪訝の念に駆られた私達自身の感情が生きて働く音が、もう聞こえないからです。家に入ってきた見知らぬ客とただふたり向かい合って立つからです。親しいもの、慣れたものが、一瞬間すべて私達から遠ざけられてしまったからです。私達が立ち止まることのできない一つの過度の真ん中に立っているからです。こういうわけで、悲しみもまた通り過ぎて行きます。私達の内部の新しいもの、加わってきたものは、私達の心の中へ入ってしまいます。心臓の一番奥の部屋へ入ってしまいますが、そこにもまたもういなくて──既に血の中にいるわけです。そして私達は、それが何であったかを知らないのです。何も起きなかったのだと、自分自身に信じ込ませることだって容易にできるほどです。しかし私達は変わってしまったのです、丁度客が入ることで家が変わるように。

 私達は誰が来たのかを言うことはできません。おそらく決してそれを知ることはないでしょう。しかし未来はそれが実際に起こるずっと前に、このようにして私達の内部で姿を変えるために、私達の中に入っていくのです。多くの兆候がこれを物語っています。だから悲しい時には、孤独でいること、注意深くあることが、非常に大切なのです。つまり私達の未来が私達の中へ入ってくる瞬間は、一見何も起こっていないかのようであり、じっと麻痺したような瞬間であるにも関わらず、そういう瞬間こそ外部から来るように思われる未来が、実際に生起するあの騒々しい偶然的な瞬間よりは、実に遥かに生に近いものだからです。私たちが悲しみを持つ者として、静かに、辛抱強く、[悲しみに対して]あけ放しであればあるほど、その新しいものは一層深く、一層迷うこと少なく私達の内部へ入っていきます。一層よく私達はそれを自分のものにすることができ、一層多くそれが私達の運命になります。そして後日、いつかそれが起こる時(という意味は、それが私達の内部から他の人々へと出て行く時)、私達は自分自身がそれと最も深い内部で親しく近い間柄であることを感じるでしょう。そしてそのことこそが必要なのです。──そしてその方向へ私達の発達も次第次第に進んでいくわけですが──私達の遭遇するものが何一つ未知のものではなく、久しい以前から私達のものであったものばかりである、というようになる必要があります。

 今まで運動の概念はしばしば考え直されてきましたが、私達が運命と呼ぶものが、人間の内部から出てくるのであって、外から人間たちの中へ入ってくるものではないということも次第次第に認識するようになるでしょう。ただ、大抵の人間はその運命を、自分自身へと変化させなかったからこそ、自分自身から出てくるものをそれと認めることができなかったのです。彼らにとって、それは誠に未知のものに思えるので、ただ驚き慌てるばかりで、それが今はじめて自分の中に入ってきたばかりに違いないと思ったのです。何故なら、こんなものは、似たものさえついぞ自分の内部に見かけたことはないと、彼らは断言してはばからないのでした。長い間太陽の運動について思い違いをしてきたように、人々は今なお、来たるべきものの運動について思い違いをしています。未来はじっとして動かないのです、カプス君。しかし私達こそ無限の空間を動いているのです。

 どうしてこれが困難でないわけがありましょうか。

 それから再び孤独について話しますと、人が選んだり、手放したりすることのできるものは、本当のところつまらないものだということが、益々明らかになってきます。私達は孤独なのです。それを誤魔化して、あたかもそうでないかのように振る舞うこともできます。しかしそれだけです。それに引きかえ、私達が孤独であることを明察し、いやむしろそこから出発する方が、どれだけよいことか知れません。めまいを覚えることも、勿論あると思います。何故なら、私達が普段そこに目を休ませていた全ての点が奪い去られ、もう近くには何もなく、遠くのものは無限に遠いのですから。自分の部屋から、ほとんど何の用意もなく一挙に大きな山脈の頂上に連れて行かれた者は、恐らく同じような感じを持つことでしょう。

 比べるものもない不安定感と、名付けようのないものの中に曝されている感じとは、ほとんど彼を破滅させるほどでしょう。彼は堕落するような錯覚を覚え、また空間の中へ投げ出されたような感じがし、あるいは自分が粉々に飛び散ったような思いがするでしょう。感覚のこうした状態に追いつくため、またその状態を明らかにするために、彼の頭脳はどうしても大きな嘘を考え出さずにはいられないことでしょう。このように、孤独である人間にとっては全ての距離、全ての尺度が変わってくるのです。このような変化のうちの多くのものは突然起こり、その時、丁度山頂に立たされたあの男の場合と同じように、堪え得る限度を遥かに越えたように思われる異常な空想や、奇妙な感覚が生じます。

 しかし私達はそれをも体験することが必要です。私達は、私達の存在をその及ぶ限りの広さにおいて受け取らねばなりません。それこそ本当のところ 、私達に要求される唯一の勇気です。私達が出会うかもしれぬ、最も奇妙なもの、奇異なもの、解き明かすことのできないものに対して勇気を持つこと。人間がこれまで、こういう意味において臆病であったことが、生に対して数限りないわざわいをもたらしたのです。「幻影」と呼ばれる体験や、いわゆる「霊界」なる一切のものや、死など、すべて私達に非常に身近なこれらのものは、日毎あまりにも生活から遠ざけられ、はばまれてしまったために、これを捉えようにもこちらの感覚が萎縮してしまっています。神のことはさておきとしてです。

 しかし、解き明かしのできないものを恐怖することが、個々の人間の存在を貧弱なものにするばかりではなく、それによってまた、人間の人間に対する関係も狭いものにされ、いわば無限の可能性の河床から、何物も生じることのない不毛の岸辺へすくい上げられてしまっています。というのは、人間関係が言うにも堪えないほど単調に、旧態依然として、一つの場合から別の場合へと繰り返されるのは、怠惰のせいばかりではないからです。それは新しい、見極めのつかない体験に対して、何でもはじめからかなわないと思い込んでいるその恐れのせいでもあります。しかし何ものに対しても覚悟のある者、何ものをも、たとえどんなに不可解なものをも拒まない者だけが、他の人間に対する関係を生き生きとしたものとして生きることができ、自らも独自の存在を残りなく汲み味わうことができるでしょう。

 何故なら、私達は個々の人間のこのような存在を、より大きいか、より小さいかの差はあれ、一つの空間として考えますが、大抵のものは彼らの空間の一隅だけを、一つの窓際とか、彼らが行きつ戻りつする一筋の場所とかを知っているに過ぎないことがわかります。このようにして彼らは一種の安定を得ているのです。けれども[エドガー・アラン・]ポーの物語に出てくる囚人達が、彼らの恐るべき牢獄がどういう格好をしているのか手探りで調べ、彼らの宿[牢獄]の言語に絶した恐怖の正体をいくらかでも知りたいと思って、じっとしてはいられなくなる、あの危険に満ちた不安定の方が、よほど人間的であります。しかし、私達は囚人ではありません。私達の周囲には落とし穴も、罠もありません。私達を不安にしたり、苦しめたりするようなものは、何一つありません。

 私達は、自分達に最も適合した要素としての生活の中へ置かれています。そのうえ私達は数千年の適応によって、この生活に本当によく似たものになり終えているので、私達がそっと静かにしていれば、巧妙にできた擬態のせいで、私達を取り囲む一切のものからほとんど区別されずに済むほどです。私達はこの世界に対して不信を抱く何らの理由もありません。何故なら、この世界は私達に立ち向かってくるものではないからです。もしそこに恐怖があるとすれば、それは私達の恐怖であり、もしそこに深淵があるとするならば、それは私達の深淵です。もし危険がそこにあるとするならば、私達はそれを愛するように努めなければなりません。そうして私達があの原則、すなわち常に困難なものに就かなければならぬと私達にすすめるあの原則にのっとって生活を立てるならば、私達に今はまだ最も未知のものに思われるものが、私達に最も馴染み深い親しいものになるでしょう。

 すべての民族の初期に見出される、あの古い神話を、どうして忘れることができましょう。それは、あわやと思う土壇場で、竜が王女に変身する神話です。恐らく私達の生活のすべての竜は王女なのであり、ただ私達が美しく勇気ある者になる瞬間を待っているのでしょう。おそろしいものとは、深く突き詰めれば、すべて私達に助力を求めている、途方に暮れたものなのかもしれません。

 親愛なるカプス君、だからあなたがまだ見たことのない大きな悲しみがあなたの行く手に立ちはだかるようなことがあっても、驚くには当たりません。ある不安が、光のように、雲の影のように、あなたの手の上を通り過ぎ、あなたのなさる全ての上を通り過ぎることがあっても。あなたはこうお考えにならなければなりません。何かがあなたの身の上に起こっている、生はあなたを忘れなかったのだ、あなたは生の手の中に受けられているのだ、と。

 生はあなたを振り落とすことはないでしょう。どうしてあなたは、何らかの憂鬱を、あなたの生活から締め出そうとされるのですか。このような状態が、あなたの上にどういう仕事をしかけているかをご存知ではないのに。何故あなたはこういう一切のものが何処から来たのか、何処へ行くのかという問いに絶えず心を悩まさねばならないのですか。あなたが過渡期にあり、自己を変革することを何よりも願っている身であることをご承知だというのに。仮にあなたの身に起こる何ものかが病的であるとしても、病気こそが一つの有機体が異物を排除するための一つの手段であるという事実をお考えになって下さい。そういう時、人はそれが病気であることに助力し、それが完全に病気の経過をたどり、そこから脱け出すことに助力するより他ありません。なんとなれば、それがその有機体の進歩なのですから。

 カプス君、あなたの中には今非常に多くのことが起こっているのです。あなたは病人のように辛抱強く、回復期の人のように信頼し切った気持ちでいなければなりません。恐らくあなたはその両方なのですから。なおその上、あなたは自身を監視すべき医者でもあるのです。しかし病気の時にはいつも、医者もただ時期を待っているより他、仕方のない日が幾日もあるものです。そしてこの待つということこそ、あなたがご自身の医者である限り、今何よりもしなければならないことです。

 あまり自分自身を観察しすぎてはいけません。あなたの身に起こることから、あまり早急な結論を引き出してはなりません。単純にその起こるがままにさせておきなさい。さもないと、あなたは、勿論あなたが今出会われる全てのことに関与しているあなたの過去を、非難(道徳的な意味で)の眼で見られるようになりかねないからです。あなたの少年時代の過誤や、願望や、憧憬の内で、あなたの内部で今働いているものは、しかしあなたが思い出したり、判決を下したりされるものではありません。孤独な、頼りない子供の頃の異常な境遇は、非常に困難な、非常に複雑微妙なもので、多くの影響に晒され、同時にまた全ての実際の生活関係から遊離しているものですから、一つの悪がそこに入り込んでも、それを無造作に悪と名付けるわけにはいきません。一体名前というものには気をつけねばなりません。一つの生命を破滅させるのも、しばしば一つの犯罪の名前であって、本当に名付けようのない個人的な行動そのものではないことがあります。このような行動は、恐らくこの生命のある定まった必然性であったことでしょうし、この生命が苦もなく受け入れるところのものかも知れないのです。

 それから、力の浪費がそのように大きく思えるのは、あなたが勝利を大切に思いすぎているからです。あなたがそうお感じになるのはもっともではありますが、勝利はあなたがやり遂げたとお思いになっている「偉大なこと」ではありません。偉大なことは、あなたがあの欺瞞の代わりに据えることのおできになったあるものが、真にして実なるあるものが、既にそこに存在していたことであります。これなしには、あなたの勝利は単なる道徳的な反動に過ぎず、なんら広い意味を持たなかったことでしょう。

 しかし今や勝利はあなたの生活の一時期となりました。親愛なるカプス君、私がいつもよかれと祈っているあなたの生活の、です。どんなにこの生が、子供から「大人」になりたいと憧れたかをお思い出しになりましょうか。私は今やそれが大人からさらに大きな者へと憧れているのを知っています。それ故にこそ、生は困難であることをやめないのです。しかしまた、それ故にこそ、それは成長することをやめないのでしょう。

 それからもう一言あなたに申し上げておくことがあるとすれば、それはこうです。あなたを慰めようと試みているこの者[リルケ]が、あなたに時として快く思われるその単純で静かな言葉のもとで苦労なく生きているとはお思いにならないように。この者の生活も苦労と悲しみに満ちていて、あなたよりずっと遅れているのです。しかし、もしそうでなかったら、彼はそういう言葉を見つけることができなかったでしょう。"


(ライナー・マリア・リルケが一九〇四年八月十二日にフランツ・カプス宛てに書いた手紙より全文抜粋)