21/08/15

 作者とは作品の影であり、作品こそその主役である。小説『ジャン・クリストフ』の中で、ロマン・ロランは彼自身とその主人公のどちらが主役であり、またどちらがその影であるのかを曖昧にしながら書いた。作者とは誰か。それは作品を通してしか語るべき言葉を持たない者のことを指すのではないか。ロマン・ロランがクリストフを通して当時の社会を痛烈に批判する時、彼はまさにクリストフを通してしか語りえないものを語っているのである。この時、作者は作品の影であり、作品こそがその主体である。書き手はただ、作品 = 主体が上手く機能するように、今日までに蓄えた栄養を放出する媒体に過ぎない。

 ここで私が綴る文章が創作物であるかどうか。それは私自身定義付けるつもりはない。ただ、自分の場合も同様のことが言えると思われる。私の書く文章の主役は、私ではない。主役は文章それ自体であり、私はその影に過ぎない。


 ドゥルーズはかつて自らを「経験論者である」と称して語ったことがある。しかし一方で、彼は「経験に基づいて創作するなんて馬鹿げている」とも語ったことがある。そして「大切なのは経験を乗り越えて創作することだ」とも。一見すると矛盾しているように見えるこれらの主張を、私達は一体どのように解釈すればいいのか。彼の文学趣味を参考にしてみよう。プルーストフィッツジェラルドD.H.ロレンス。これらの作家は皆ドゥルーズのお気に入りであるが、しかし彼らの小説には彼らが実際に体験した内容が色濃く反映されていることで有名である。これは一体どういう事か。

 なるほど、これらの偉大な作家たちは確かに自分の経験に影響されて書いた。しかし彼らは経験したことをそのまま語っているのではない。偉大な芸術作品には、かつて人が語りえなかった真実を可視化するという作用が備わっている。彼らは経験を通して感覚したことから、新しい真実のモデルを獲得したのである。「作品に触れる」とは、かつて自分が語りえなかった真実を発見するための作業である。私達が芸術作品に感動するのは、それが私たちの心を深く揺り動かしながらも、そこにはかつての自分では理解できなかった新しい感覚あるいは感情が明確に言い表されているからだ。

 だからこそ、私達は再び次のように断言することが可能である。つまり、作者 (= 経験する主体)とは作品( = 経験を抽出することによって生まれる主体)の影に過ぎないのだと。


 プライベートな内容。それは語るのが非常に難しいものだ。こちらが自慢しているつもりのないものでも、傍からすればそれが自慢話に聞こえたりする。またはその反対で、落ち込んでいるつもりはないにしても、傍からすれば勝手にネガティブになっている奴に見えることもある。だから私は自分のプライベートを話すことを好まない。するにしても出来るかぎり抽象的に(あるいは本当らしくなく)話すように心がけている。上のような誤解が生じるのを避けるには、そうするしかない。それでもなおプライベートな話をしようとする場合があれば、それは自分の内にある問題を整理しようと努めている時だということになるだろう。

 例え話を一つしてみよう。今からだいぶ前に、大きなクラブで、ある知り合いの女性と偶然会ったとする。人が沢山いるからか、それともお酒を飲みすぎたからか、女性が私の胸にベッタリもたれかかってくる。記憶が正しければ、この女性には恋人がいる。しかし大抵の世の人付き合いなんてそんなものだろう。何をするわけでもないが、私は「こういう場合」を上手く避ける礼儀作法をよく理解出来ている。つまり、笑ってその場を誤魔化すということだ。

 今、自分は二十半ばに差し掛かる年齢である。恐らく私と同年代の人間ならば、似たような体験を何度かしたことがあると思われる。そして私自身、上と全く同じでないにせよ、似たような体験を他にしたことがないといえば嘘になる。そしてその度に、上のような「誤魔化し」をしているのも言うまでもない。

 無論私にだって性欲はある。しかしその場で欲を実現するにはあまりにも根気のない人間である。いつも快楽より先に面倒への心配が勝ってしまう。だからと言ってそれで万事解決というわけではない。解消されなかった欲望は内側に残り続ける。それは次第に積み重なり、増えていく。そして増えるにつれて捻れていく。不気味な怪物のように声を挙げて、私を苦しめるのである。

 知人友人は皆好きだ。しかし今日までに、私はよく自分がいるべき場所にいないような感覚に襲われることがあった。ペソアの言葉を借りるならば、「今の自分は間違った自分で、なるべき自分にならなかった」ような感覚である。しかし、そもそも「なるべき自分」も糞もないのではないか言われればその通りである。ただ、この自己矛盾にも似た感覚は、酷く私を苦しめる。怪物のように唸る欲望と共に、私の心を抑圧するのだ。しかし私には、自分がどうするべきなのか、またはどこへ向かうべきなのか、それがまるでわからない。

 この苦しみは、罪悪感というよりもむしろ幽霊屋敷に一人取り残された時の不安感に似ている。いるはずのものがそこにいない、またはいないはずのものがそこにいる。暗闇にいて、自分が何処にいるのかわからない。そもそも何処に何があるのかがわからない。もしかしたら幽霊がいるのかもしれない。もう一度、例え話をしてみよう。私に魅力を感じてくれる人が目の前にいたとしよう。しかし私には、その人が求めている対象が「私」のように思えない。彼女は私ではない別の誰かを見ているような気がする。だから、もし相手が私に魅力を感じた理由を説明したとしても、相手が自分のことを語っているとは到底信じられない。頭では自分のことだとわかっているはずなのに、心の何処かでそれが信じられないのである。私は幽霊が怖い。しかしもしかすると、私自身が幽霊かもしれないのだ。「いる」とされているものがそこにいない。または「いない」とされているものがそこにいる。そしてそれに対して、頭ではわかっていても気持ちが追いつかないわけだ。

 過去を悔いることがある。しかし、その時に感じるのは、罪の意識というよりかはむしろ恥の念である。今日までにした数々の行いを思い返す。そして私は、今実際に誰かから責められているというよりも、かつてこちらが思いつきでした行動のせいで、誰かの人生が変化してしまったかもしれないという憶測のために苦しんでいるのである。無論思い込みかもしれないが、もしかするとこちらの感情が追いつかない価値や意味が、こちらの言動に与えられているかもしれない。人は忘れることによって生き長らえるものだ。だからきっと私のこの考えは思い込みに過ぎないのだろう。ただ、そう考えても頭から「なんと愚かなことをしてしまったのか」という意識が消えないのである。

 私は今日まで、いつ誰に責められてもいいように、他者に対して実際的に「疚しいこと」をすることだけは避けてきたつもりだ。しかし、思い込みかもしれないが、かつて私が考え無しにしたことによって、誰かが振り回されているように感じることがある。そして、こちらの言動に想定してなかった価値 = 意味が与えられているように見える場面に直面することがある。その時、思わず私はギクリとする。そして情けない気持ちになり、申し訳ない気持ちになる。勿論、相手がそれを見出したのは一時的なものかもしれないし、そういう意味では深刻に考え込む必要もないのかもしれない。しかし、時には次のような考えが頭を支配するのである。つまり、自分は誰かの人生を台無しにしている、自分は不幸をまき散らしている、自分は誰かを振り回している、と。その感覚が、私には苦しくて仕方ない。

 そんな時に自分を慰める方法はただ一つである。つまり、「全ては思い込みに過ぎないのではないか」と考えるということだ。実際、ここまでの記述は全て憶測の域を出ない(そのはずだ)。皆、私の主観に基づく思い込みに過ぎないかもしれないわけだ。たとえその「思い込み」が正しかったとしても、それを裏づける証拠もないのである。よって私は「知らなかった」の一点張りで無罪になれる。何故なら基本こちらが証拠となる言動(責任を求められるような行為)をしないからだ。だから私のアリバイは完璧なのである。

 ずるいと言われればその通りだ。そして、それがわかっているからこそ益々情けないと感じる。これでも今日まで、私は自分なりに誠実に生きることの意味を考えて生きてきた。「誠実さ」を大切にしながら生きてきた。しかし、その結果がこれである。情けない、実に情けない。明らかになったのは、ただただ今の私が間違っているということだけだ。しかし、私にはどうすればいいかがわからないのである。もしくはわかれないのである。

 ここまでの論点を要約しよう。この人物は今三つの問題に苛まれている。一つは捻れた欲望である。もう一つは「存在している」という感覚の希薄化である。そして最後の一つは、恥と誠実さの観念によって裁かれる自己自身である。これら三つの問題提起の裏には、更にもう一つの問題が潜んでいる(そしてこれら三つの問題は全てこの一つの問題に集結する)。つまり、他者と自己との間に真っ当な関係を確立することが出来なくて苦しい、ということだ。また、これらの問題の明確化は、以下の願望の発生に繋がることとなる。欲望の苦しみを解消したい。実生活において「存在している」という感覚を獲得したい。恥に苛まれることのない他者との関係を獲得したい。そして今日までの汚辱から足を洗い、新しい人間に生まれ変わりたい。


 哲学は幸福の役には立たない。もとい、あらゆる文化的なもの(哲学、科学、芸術)は、実生活では何の役にも立たない。なるほど科学は快適な生活を提供してくれる。しかし快適な生活と幸福はイコールではない。未開社会を生きる野蛮人は、インターネットがなくても楽しそうに生きている。しかし現代社会を生きる我々はインターネットがあっても辛そうである。だからこそ、次のように断言しても間違っていないはずだ。つまり、科学技術とは科学に関心がある人にしか価値を持たないのだと。それは芸術にしても同様である。傑作な音楽作品は、音楽に興味がある人にしか価値が見出されない。あらゆる文化は、それに興味 - 関心を持つ人にしか価値を持たず、実際的には何の役にも立たないのである。

 よって哲学にも同様のことが言える。人はよく「哲学なんて学んで何の役にも立つのか」という問いを発するが、それは正しいのである。哲学とは、哲学に興味がある人以外には何の用もない。だから上の問いには「いやいや、哲学なんて何の役にも立たないですよ」と答えるのが正解である。もっとも、私は哲学者ではないし、知識も浅い。だからこのように語る資格もないだろう。

 なるほど哲学は人を幸せにしない。しかし哲学は不幸と闘うすべを教えてくれる。ここで一度、幸福と快適がイコールであると考えた上で論を進めてみよう。もし「幸福な生活」がある程度不幸を排除した上で成り立つとするならば、私には、それがあまり望ましいものだとは思えない。何故なら、喜びを得るためにはある程度の修練が必要だからだ。難解な本を読み解くためには、それ相応の読解力と集中力が必要である。よって、読書には不快 = 不幸がつきものだと言える。しかし、それを乗り越えた上でしか味わえない喜びがそこにある。だからこそ読書はやめられない。

 よって、もし幸福と快適をイコールで考えるならば、幸福と喜びは同じ意味を持たない。不幸を排除した生活は、同様に喜びをも排除した生活だと言える。だからこそ、私は喜びを求めはしても、幸福 = 快適を求めはしない。勿論不幸には人の意識を歪める危険性がある。それは世の不幸な人々を見ればわかることだ。そこには迷信に駆られ、差別に走り、他者を自分と同じくらい低い地位に引き下げようとする者が沢山いる。だからこそ私達は、不幸の存在をある程度認めると同時に、不幸と闘う決心を抱く必要がある。

 この時、哲学は有用な存在になると言える。それをより明確に述べるために、ここでかつてドゥルーズの述べた言葉を引用しようと思う。つまり、哲学とは「思考不可能な力を思考可能なものに変換する」作業なのである。不幸に直面する時、それはかつてのこちらの思考では理解し得ない出来事に直面する瞬間でもある。そしてそれを利用して力を得ようとする迷信 = 錯覚が、この世にはなんと多く存在することか。それと闘うためにも、哲学は有用な存在だと言える。


 欲望それ自体には何の罪もない。もし哲学が生活の何の役にも立たないのだとすれば、生活に無用なドゥルーズ哲学をこんなにも愛好する私は、ある意味で同世代の誰よりも欲望に忠実な人間だと言える。より高い次元で考えるならば、ゴッホには類稀な絵の才能があったが、しかしだからと言ってゴッホの生活は豊かなわけではなかった。それでも彼は絵を描くことをやめなかった。ゴッホの天才とは、まさに彼が豊かな生活とは無縁なことに執着し続けた、その欲深さにあると言える。それを踏まえるならば、欲深い人間とは決して罪深い人間のことを指すのではない。少なくとも私には、欲望それ自体が間違ったものだとはどうしても思えない。

『資本主義と欲望について』の中で、ドゥルーズは以下のように述べている。つまり、「マルクスには今日まであまり触れられなかった点がある」と。彼によれば、マルクスは資本主義が狂っていることを認めながら、同時にそれが非常に上手く機能していることをも認めていたという。さて、合理的な思考が成立するためには、そこに思考しなくてもいい前提が必要である。「あれはああである」「これはこうである」「よってそれはそうである」。思考回路とは、このように、そもそも「あれはああである」と「これはこうである」という前提が正しいとされた上でしか成り立たない。言い換えるならば、合理的な思考が成り立つには、考える必要のないもの(あるいは考えが及ばないもの)がなければならないということだ。

 これは、理性が機能するにはある程度非合理的なものを前提にせざるを得ないということをも意味している。

 だとすれば、一体何故私達は普段から合理的な思考を「合理的なもの」として受け入れることが出来るのか。それは他でもない、その「合理的」と見なされたものが上手く機能しているからであり、だからこそ疑問を発する必要もないからだ。先程の例の言葉を置き換えてみよう。「あの人種はこの人種と異なる性質を備えている」「あの人種はこの人種よりも劣っている」「よってこの人種はあの人種を差別してもいいし、奴隷にしてもいい」。ここでは、冷静に考えればおかしいはずの論理が合理化 = 合法化されている。しかし、何故それが合理化 = 合法化されるのかとなれば、 そう考えた方が社会が上手く機能するからである。人が物事を判断する時に重要視するのは、それが上手く機能しているのかどうかであって、その論理が実際に正しいのかどうかではない。資本主義社会は狂っている。それは間違いのない事だ。資本主義は、非合理的な、キチガイじみた前提がなければ成立し得ない。しかし、だからといって資本主義よりも上手く機能する社会形態を他に知らない。それは資本主義社会を生きる私達の誰もが認めることだろう。だからだろうか、ドゥルーズは「マルクスは資本主義のメカニズムに魅了されていた」とさえ述べている。

『資本主義と分裂症』は、ドゥルーズガタリと共著した、邦訳文庫版にして五冊にわたる大著である。しかし実を言うと、私はドゥルーズ = ガタリのことをあまりによく知らない。正確に言うなれば、『意味の論理学』から『千のプラトー』(『資本主義と分裂症』の二巻目)に至るまでのドゥルーズをあまり上手く理解出来ないままでいる (『感覚の論理学』から始まる後期ドゥルーズや、『差異と反復』に至るまでの前期ドゥルーズは大好きなのだが)。特に『千のプラトー』が難しい。平易な文体で書かれている分、読もうと思えば読める。しかしだからこそ読んだ気がしない。運命的な本との出会いとは、常に理解よりも先に共感が先立つものである。俺はここに書かれた内容を知っている。この本は俺について語っている。勿論そこには多くの誤解が含まれているだろう。しかしそんな事を忘れてしまう程に本の内容に突き動かされてしまうのである。それは美しい音楽に出会った時の感覚に近い。まるでページの上でオペラが繰り広げられているかのようなのだ。そして、気づけば私もその舞台の上に立っているのである。ニーチェであれ、リルケであれ、ロマン・ロランであれ、ドゥルーズであれ、好きな作家との出会いには必ずそのような感覚が伴った。

『エレーヌ・シクスーあるいはストロボスコープのエクリチュール』という(タイトルは長いが)短い評論の中で、ドゥルーズは次のように述べている。「ある作家の真の新しさとは、作家自身が生み出した観点に身を置くことができた時にこそ、初めて理解されるものだ」と。本の内容に心を騒がすためには、こちらの読書のリズムと対象の本のリズムが重なり合う必要がある。コロナで体調を崩したこと、またその他の諸事情から、最近は上手く読書に取り組めないでいる。だから近頃は『無人島』と『狂人の二つの体制』(どちらも生前のドゥルーズが出版した本には未収録であった短論文・評論集)でまだ読んでいなかった文章を少しずつ読んでいる。いつか『千のプラトー』とこちらのリズムが重なり合う日が来てくれると嬉しい。


 権力とは関係である。社会とは力の、力に対する関係だ。権力関係における勝者とは、その関係内で絶大な影響力を誇る人物ではなく、それを裏で動かすことの可能な人物である。よって、権力関係において真に力を有する者とは、権力とはネットワークそのものであることを、権力 = 関係であることをよく理解した人物だと言える。

 左翼であれ右翼であれ、現代の知識人 - 文化人の殆どが無力である理由がそこにある。権力が関係である以上、この社会を変えたいならば、自ずとその関係性の内部に入り込む必要がある。 そしてその中で影響力のある人物になりたいならば、権力闘争に身を染める必要がある。政治家であれ活動家であれ、はじめはより善い社会の実現を求めていたが、次第にいかにして大きな権力を獲得するか(またはその権力を保持するか)しか考えなくなる人間が大勢いるのはそのためである。

 しかし、更に恐るべき点がある。つまり、一つの権力 = 関係から逃れたとしても、その先にはまた別の権力 = 関係があるということだ。左翼知識人として、あるいは右翼知識人として、影響力のある人間になるために、結局人はそれぞれのグループの関係性に巻き込まれることとなる。そしてどのグループにも、傍から見れば滑稽な点がつきまとう。しかしグループに馴染むためにはその滑稽さを受け入れなければならない。もはや真に自由な意見や思考を求めるならば孤独にこもるしかないわけだ。

 しかし、この関係性の社会を打ち砕く可能性が、もしかするとまだ何処かに残されているのかもしれない。それは関係性の外部から突如としてなだれ込んでくる「民衆」の可能性である。無名の民衆の介入。それはこの世界の均衡が崩れ落ちる瞬間である。