21/08/21

「真理はあなた方を自由にする」とは、確かキリストが『ヨハネによる福音書』で語っていたことである。しかし恐らくこの言葉は、今日までに教育の必要性が説かれてきた理由をも意味している。つまり、知識が人を自由にするということ。学習を深めることによって、こちらを縛る小さな世界から抜け出すことが出来るということ。人が教育機関の必要性を説く理由は、それによってこちらが陥りがちな偏狭な価値観から抜け出すためである。

 しかし一方で、次のような現実もまた否めない。教育とは上から下へなされるものである。だからこそ、人を自由にするため行われているはずの教育が、むしろ生徒達を抑圧しているのである。結果として発生するのが、教育 = 体制が正しいとしていることのに対する反発であり、教育が疎外してきたものに対する傾倒である。ホラー映画に犯罪心理学。学校に馴染めない子供たちは、学校側(先生そして大多数の生徒たち)が「善」としているものを嫌悪しているため、「悪」への興味と関心を深めていく。根暗な中高生達の間では、それがナチスソ連への共感を促し、ファシズムや差別を肯定する流れへと繋がる (「虐殺は駄目だと思うが、しかし自分の尊敬する人物はヒトラーである……」)。人を自由にするはずの知識が、むしろ人を抑圧している。だから子供達は教育から逃れようとし、知識から逃れようとする。これは教育が抱える一つの問題である。

 子供達が求めているもの、それは学校の外で輝いてくれる別の師匠である。かつてドゥルーズは次のように書いたことがある。「学生達は別の師が[学校の外に]いる時にしか、自分の教授の話にちゃんと耳を傾けない」と 。中高生達がヒトラースターリンに憧れないためには、学校の外にいながら、学校とは別の仕方で正義について教えてくれるアウトローな教育者が必要である。ドゥルーズにとっては、サルトルがそれであった。

 しかしだからと言って、現行の教育を非難するつもりはない。何故なら、一つのシステムに対する批判は、常にそのシステムの内部から発せられるべきだからだ。中高はともかく、私は大学を卒業していない。大卒が当たり前となった現代ににおいては、教育課程を正統に満たしていない人間である。だから今の私には教育体制を批判する資格がないわけだ。

 日本の大学教育に関して言えば、それは非常によく機能しているように思われる。未だに「いい大学に通ったからといって何になるんだ」という人がいるが、それは大いに間違っている。元々日本の教育というものは社会で使える人材を育成するように出来ている。決まった期限で課題をまとめ、決まった時間に学校に通う。大学生になれば、自分の手でスケジュールを管理することが必須となる。複雑な問題を処理して、期限以内にレポートを提出しなければならない。そしてサークル活動は社交の場として機能し、「どうすれば社会一般の場において気まずい思いをしなくて済むか」を学生達に教えることとなる。要するに、どれも会社(デスクワーク、企画、営業など)において「使える」内容である。大学四年間を真っ当に過ごすならば、社会において必要とされる優秀な人材が生まれるのは当然のことである。

 勿論それに対する批判も挙がるだろう。一番考えうるものは「大学は教育の場として正確に機能していないのではないか」というものである。しかしそれについて、私は言及する資格を持たない。何故なら大学を卒業していないからだ。前述の通り、もし現行の教育体制を非難したいならば、それは教育体制 = システムの内側からなされなければならない。そうでなければ体制側に響かないからだ。よって、私にはこれ以上何も語る資格がないのである。

(私自身、よく読書会を開いたり、または他の人が開く読書会に顔を出すこともあるから、所謂「著名」な大学に通う友人を得ることが多い。しかし、その度に驚くものである。皆本の内容を処理する能力が異様に高い。そして、だからこそ不明点を見つけ出し、問題を提議することにも長けている。皆、実に優秀な学生である。そんな彼らに交じって本を読んでいると、私は少し自分が恥ずかしくなる。私には到底出来ないことを彼らが成し遂げているからだ。)


『明日、私は誰かのカノジョ』というネット漫画を、今日まで更新される度に読んできた。はじめは内心馬鹿にしながら読んでいたのだが、気がつけば毎週金曜の更新を楽しみにしている自分がいた。サイコミというアプリを通して読んでいるのだが、『明日カノ』を読む以外にサイコミを起動することはない。だから殆どそれのためにダウンロードしていると言っていい。

 ただ、最近の展開には少し驚くものがある。しかしコメント欄を読んでみると、他の読者の人達はむしろ最近の展開に喜んでいるらしい。思わず「皆顔がよければそれでいいのか?」という疑問が湧いてくる。無論私にしても美人は好きだが、しかしそれが全てではないと思っている。ただ、それが綺麗事かもしれないこともよく理解しているつもりだ。世を見ればわかることだが、ルッキズム [外見至上主義] に苦しめられた人ほど、ルッキズムに救いを求めようとする傾向がある (見た目が醜いことでいじめられた女の子が、男性アイドルや二枚目の声優に熱中する……)。若さとは資本であり、端正な容姿はそれだけで世から身を守る道具となる。それは否定したくてもし切れない事実である。

 恋愛と資本主義の間には密接な関係がある。恋愛依存の女性というものをよく見かけるが、彼女達には共通する性質が一つある。学歴、容姿、能力、など。彼女達は必ずそれら特異なものを持った男性に惹かれる(見た目の清潔感はその最低条件として求められる)。また、スキャンダラスな性格をしていたら尚よいとされる。恋愛に依存する理由を聞いてみると、大抵は「自分に自信がないから」という答えが返ってくる。しかしそれは適切ではない。恋愛がある種の階級闘争として機能する場合がある。より「優れた」恋人を持つことは、それによって自己を他者から差別化して、自分が他より豊かな生活を送っているという実感を与えてくれる。スキャンダラスな性格をした恋人は、それだけ自分を危ない世界へと巻き込んで、ここではない何処かへ連れ去ってくれる。それは大変ドラマチックなことで、だからこそただ優しいだけの人には惹かれない。恋愛依存の人達が恐れているのは、不幸な生活よりもむしろ凡庸な生活である。優しくて落ち着いた生活など、退屈で耐えられないのである。

 しかし彼女達をそうさせるのは何かとなれば、それは社会の根底に潜む女性の物質化の現実であり、支配的な男性的価値観の現前である。この社会は間違いなく男性中心的に成り立っている。冷静に考えて、雑誌に露出度の高い女性の写真が載ることや、ポルノ女優がポルノ男優よりも遥かに多いことなどは、それ自体この世界において男性中心的な価値観が支配的であることの表れである。

 しかし男性中心主義の被害者は女性だけでなく、むしろ男性の側にも多く存在する。そして被害者の男性の多くはミソジニー[女性嫌悪]に走る傾向がある。その理由は二つある。一つは競走 - 差別化としての恋愛の現実である。前述の通り、男性中心主義においては女性の物質化が生じる。よって男性間においては「女性をより多く獲得した方が偉い」という価値観が蔓延する (だからこそ童貞が同性から馬鹿にされるというアホらしい現象が発生する) 。そして、それが結果として「女性によって優劣が決定される男性像」というイメージを男性側に与えることになる。たとえ女性側にそのつもりはないとしてもである。だからこそ一部の男性は、自分を「劣ったもの」として裁く可能性を持った「女性」全般を嫌悪し始めるのである。

 もう一つの理由は、男性の内部における女性的なものの抑圧である。男性中心主義の社会においては、女性がしてはいけないことが男性においては許される。そのような事例が多く存在する。しかしそれは、男性がしてはいけないことが女性の場合は許される(ように見える)、というケースが存在することをも意味している。これが一部の男性が女性を嫌悪する理由に繋がる。何故なら、自分が女性であったら許されたかもしれないものが、男性であるがために許されないからである。ミソジニーの男性の内には女体化への願望が潜んでいるのだ。

 こうして次の現実が見えてくる。つまり、ミソジニーの敵は女性ではなく男性であるということ、よってミソジニーフェミニズムの敵は本来同一であるということだ。何故なら、どちらも中心的な男性的価値観によって苦しめられているからだ。しかし、フェミニズム - ミソジニー側からこのような意見が出ても、中心的な男性的価値観を生きる人間からは鼻で笑われて終わりだろう。「奴らは俺らの事を妬んでいるのさ、こっちが奴らの楽しめないことを楽しんでいるから」と言うに違いない。だからこそ、まさに男性優位的な価値観でいい思いをしてきた人間からこそ、男性中心主義への否定が行われなければならない。教育の場合と同じで、システムの内部から批判者が生まれなければ体制は変わらないのである。

『明日カノ』の話に戻ろう。変な言い方になるが、ああいう漫画はとても参考になる。たとえフィクションであれ、あれに一定数共感する人がいるということは、あの漫画が何かしらの形で真実を語っていることの証である。私自身、最近の展開に驚きを隠せずにいるものの、何だかんだ最新話も既に何度か読み返している。個人的にあの漫画のコメント欄を読むことも、本編と同等に興味深い。偏った意見ではあるだろうが、私にはよくわからない多くのことが語られている。思わず「そういうものなのか……」と言葉を漏らすこともある。果たして今後の展開はどうなるのか。バシモトとルナは付き合うのか。今の私に出来ることは、来週金曜の更新を待つことだけである。


 作者は作品の影であり、作品の主役は作品それ自体である。21/08/15の日記の中でもそう書いたが、私がこう主張するのにはいくつかの理由がある。そして、その内の一つとして「でないと作者が可哀想だ」というのが挙げられる。印刷技術の革新は、より広い人々が文学に触れることを可能にした。録音技術の発達は、コンサート会場の外へと音楽を連れ出すことを可能にした。複製技術の進歩もまた、美術館の外にいる鑑賞者へと作品を連れ出した。このように、時代の発展と共に鑑賞者の権利というものは拡大されていったように思われる。しかし作者の権利 - 尊厳が守られたということは一度もないのではないか。

 クンデラがその事について、ユーモアを交えながら書き記している。先ず彼の小説の中で、ヘミングウェイが性的に不能であったことを示す本が出版される。次に、小説の登場人物達はそれを面白がる。あのマッチョなイメージで知られるヘミングウェイ、大変なプレイボーイで、誇り高き戦傷を多く負ったヘミングウェイが、実は勃起できなかったなんて。やがて小説は度重なる場面転換を経て、死後の世界にいるヘミングウェイ本人にフォーカスを当て始める。彼は嘆く。「皆私の本を読まないのに、私についての本を書く」と。皆が自分の人生を勝手に分析し、解析して、死んだ自分に対して散々な誹謗中傷を何度も重ねるのだ。怒りか、あるいは悲しみに震えるヘミングウェイの手を、同様にして死後の世界にいるゲーテが取り、そして慰める……。

 どんな人にも見て欲しい自分の姿というものが存在するものだ。人が自分について語る時、そこには他者からこう解釈されたいという自分像が提示されている。しかし、世に自分を表し、後世に名を残すことは、それを覆される研究を他から勝手に施されるということだ。不潔な、垢のついた手で、自分の過去について調べられ、こちらが恥じていて、見られたくない部分にまで照明が当てられる。そして知られたくない箇所まで知り尽くされる。要するに、散々いじめ抜かれるということだ。

 私のような何もしていない、無名な人間がこう語っても説得力はあまりないかもしれない。しかし個人的には、それではあまりにも作者が可哀想に思えてならないのである。同じ人生を生きたわけでもないのに、傍から勝手に自分の人生について判断され、解釈される。そして「あらあら、あなたって実はこんな人だったのね」なんて語られる。こちらがよく知りもしない赤の他人から、である。そしてこちらが求めていない同情や、よくわからない罪の責め苦をも受けることになるのだ。不愉快で、不潔な他人から、垢のついた手で、ベタベタと触られる。厚顔無恥な態度で、我が物顔で、自分のことを語られる。想像するだけで耐え難い話だ。

 勿論、創作と実生活というものは常に密接な繋がりを持っている。だから作者について知ることが、そのまま作品の理解に繋がることもあるだろう。しかしその場合は先ず作品の内容を先行させなければならない。世の中には作者ばかりを眺めていて、作品を眺めない人が沢山いる。しかし作者とは、まさに作品を通してしか語る言葉を持たない者のことを指すのではないか。自叙伝であれ自画像であれ、彼らは決してありのままの自分を描かない。自分がかつて見聞したことから、それ以上のものを引き出そうとする。現実に体験したことから、現実を塗り替える何か革新的なものを導き出そうとする。ゴッホが描いた自画像は、彼をうつした写真よりも遥かに大きな価値を持つ。確かゴッホの写真は残っていなかったはずだが、しかしもし残っていたとしても事態は変わらない。作者とは作品の影であり、作品の主役は作品それ自体である。作品 = 主体を理解するために作者に目を向けることは許されど、作者 = 影を語るために作品を蔑ろにするなど、本来ありえないはずの話だ。ヘミングウェイのペニスが勃起しなかったかどうかなんて、本来彼の小説を読む上で何の価値もない話なのである。


 酒は好きではない。一人で酒を飲んでいて、楽しいと思ったことなど一度もない。人と泥酔してもそれは同じで、酔っ払って楽しかったことなど殆どない。しかし、にも関わらず、私は毎日酒を飲んでいる。しかし、それはただ仕方なく飲んでいるに過ぎないのである。自室で一人で過ごすとき、頭がボーッとして、気がつけば床を見つめたまま二時間くらい経っていることがある。本当は一分たりとも無駄にしたくないのに、身体が上手く動かないのである。そういう時にはよく酒を飲む。舌から喉へと流れてくる刺激が、「何かしよう」という気持ちを起こさせてくれる。しかしもう一度断っておくが、私は決して酒が好きではないし、酒を飲んで楽しいと思ったことなど一度もない。

 私は防衛本能の強い人間である。「何かしたい」という気持ちよりも先に危険への恐怖が勝って行動できないことが多い。しかし、だからこそ時には泥酔することによって無理にでも行動を起こそうとすることがある。しかし泥酔した後の大抵は後悔が付きまとう。ダサいし恥ずかしいことをしたという気持ちに苛まれて、いても立っても居られなくなる。あとは二日酔いが酷くて、次の日の全てが台無しになる。嘔吐も何度も繰り返すし、考えうる限り最悪な体調に苛まれることとなる。そして、その度に「ああ、俺はやはり酒が好きではない」という事実を確認する羽目になる。