21/08/26

 現代とは「話しすぎ」の時代である。皆、特に話すこともないのに何かを話すよう強いられている。だからこそ苦しんでいるのではないか。言うべきことが何もない。これは実に気持ちいいことである。

 SNSや連絡手段の発達は、私達の生活に多くの恩恵をもたらしたと言える。しかしSNS文化の発達は、同時に一つの弊害を与えたのではないか。つまり、SNSはその場にいない他者の眼差しを私達の生活に導入したのである。メッセージ、ストーリー、ツイート、ライブ配信、など。インターネットを開けば、遠く離れた誰かとたった一秒で繋がることが出来る。だから部屋に一人でいる時でさえ、その場にいない誰かの視線を気にして生きるようになったわけだ。あたかも幽霊に監視されているかのように、そこにいない誰かの存在を意識しながら生きている人々。スマートホンが震動する度に、気ままに背伸びをする喜びが奪われて、目の前にいない他人のことを考えなければならない。私達は孤独を奪われた世代なのである。しかし通知を切ることは難しい。何故ならSNSは今や第二の現実であり、SNSから逃れることは他者から逃れることに他ならないからだ。

 しかし、このようにしてひとりの世界にこもっていると、よく人に病んでいると勘違いされる。が、それはとんでもない話だ。かつてグレン・グールドは次のように語ったことがある。「人と一緒にいたら、そのx倍は孤独でいる必要がある」と。人はよく孤独について誤解している。人生、人といる時間よりも独りでいる時間の方が遥かに長い。孤独を愛することは、それ自体人生を愛することに繋がってくる。少なくとも私の場合、ある程度ひとりでいる時間を持たないと、人と関わるのが苦しくなってしまう。

 語弊を恐れずにいえば、私は人が嫌いである。特定の個人が嫌いというよりも、人といる時間それ自体が苦手だと言っていい。勿論友人や知人と過ごす時間は好きだ。しかしそれは日々の営みの箸休めのような時間である。長引きすぎると、むしろそれが苦しくなってしまう。恐らく、私はそういう病気なのである。誰かが自分の近くにいすぎると、その人を憎んでしまう病気なのだ。そして誰かが憎いあまり、どっと疲れてしまうことがある。私は人を憎みたくない。それは憎しみが人を傷つけるからではなく、自分の憎しみによってむしろ自分が傷ついていくからだ。だからこそ益々人を避けてしまうわけだ。

 一方で、人は嫌いだが、「人間」を愛しているというのも事実である。これは私の持論だが、人間の文化に感動したことのある者は、皆人間愛に満ち溢れているものだといえる。何故なら彼らは、かつて一度でも人間の生みだした偉大な技術や作品に感動したことがあるからだ。だからであろうか、芸術家であれ科学者であれ、あるいは哲学者であれ、そのような人種には人間性に対する楽観というか、人間の持つ能力に対する異様な信頼を抱く者が多い。「凄い、こんなに素晴らしい作品を、自分と同じ人間が生み出したなんて、神にも等しい偉大な所業を、自分と同じ人間が行えるなんて……」。そのような感動が、彼らに人間の持つ能力への信頼を抱かさざるを得ないのである。

 私にしてもそれと同じである。よく「人は愚かで醜いものだ」なんて語る連中がいるが、実に馬鹿げた話である。人間にはこんなにも偉大な、素晴らしい力が備わっているのに、何故それを悲観する必要があるのか。それに、もし人間が本当に「愚かで醜い」ものならば、そんな人間と好んで関わって生きている現実は一体どうなるのか。それこそ惨めで醜い生き方ではないか。私は人間の可能性を信じている。こんなにも偉大で、素晴らしい力を備えた存在を、どうして愛さずにいられよう。これらの言葉を目にして笑い出す人もいるかもしれない。しかし私は大真面目に語っているつもりである。なるほど人によって「都合のいい部分を見ているだけだ」と私を非難することもあるだろう。ならば次のように言い換える必要がある。つまり、私は人間の持つ能力を信じているのだと。

 ならば何故人が嫌いなのかとなる。その理由は簡単だ。それは、私が人に耐えられないからだ。人々の話す声、表情、仕草。唾を飛ばして語り、馴れ馴れしい態度をして、不潔な笑みを浮かべて近づいてくる。そんないやらしい連中がこの世にはよくいるものだ。集団に属する一人一人は好きでも、その集団全体に漂う噂陰口に耐えられないこともある。その場にいない誰かの悪口でも、そこに友情なり愛情なりが感じられれば全然いい。しかしそうでないと実に厳しい気持ちになる。何よりも嫌なのは、私自身がその噂陰口の一部になり、またその噂陰口に加担してしまうことだ。よく、かつて自分がした馬鹿な行いを思い出して、恥を覚えることがある。俺はなんて馬鹿なことをしたのだろう。そのような後悔が中々消えてくれない。しかし、どれだけ悔いても過去は消えないのである。そして悪気がなかったとしても罪はぬぐえないのだ。人と関わることが苦しい、もう一つの理由がここにある。つまり、誰かとの関わりの中でこちらが負わざるを得ない恥辱が耐え難いのである。

(ドゥルーズ=ガタリカフカ論にはたくさんの印象的な言葉が残されているが、その中の一つが今の私の頭から離れないでいる。「誰も法の内側を知らない。誰も流刑地における法がどんなものかを知らない。そして機械についた針は、受刑囚の身体に判決を刻み込んでいき、同時に針は責苦で彼を苛むのであるが、彼はその判決が何か知らない。男は自分の受けた傷から判決を読み解く。」)

 結果として、あまり人前に出たくないという気持ちが強まっていく。どの分野であれ、人前に出て、優秀な功績を残しつつある友人を見ると、誇らしく思うと同時に羨ましく思うことがある。そして自分ももっと人前に出て活動したいという気持ちを抱く。しかしそれが出来ない。何故か。人前に出るのが嫌だからだ。では何故人前に出たくないのか。それは人が嫌いだから、あるいは人が苦手だから、あるいは人が怖いからだ。私は自分に才能があることを、力があることを、願望があることを知っている。しかしそれが実現できないのである。何故なら人が苦手だからだ。

 この感覚が別の苦しみを引き起こす。それは必死で格闘技の練習を重ねてきたのに、試合に出れない選手の苦しみに近い。しかも、彼は怖くてそれが出来ないのである。しかし何故それが怖いのかとなれば、なるほどそこには負けることへの恐怖もあるだろうが、それ以上に必要以上に人の目に止まることが恐ろしいのである。勿論それよりもむしろ誰にも注目されないことを恐れるべきかもしれない。そして実際、誰にも注目されなければそれなりに自尊心が傷つけられることだろう。しかし結局、それは笑って済ませればいいだけの話だ。私が一番嫌なのは、不愉快な他人の眼差しが必要以上にこちらの生活に介入してきて、こちらの気持ちをかき乱すことだ。感傷的で、惨めったらしい、自己憐憫に満ちた、下らない馬鹿どものお喋りに付き合わなければならないことだ。それが一番苦しいことだ。

 それよりかはいっそ孤独にこもった方が遥かに気分がいい。実を言うと、私には他の人が言うような「ひとりでいることの不安や寂しさ」がわからない。孤独はいい、誰も私の邪魔をしないから。読書、音楽、映画、など。孤独には沢山の喜びがある。やがてより多くの喜びを求めて他者の方へと向かおうとする。しかしその時、人前に出ることの苦しさが私の邪魔をする。その時に初めて寂しさのようなものを感じる。しかしそれは、寂しさというよりかは喪失感に近い。私は喜びを感じたいのに、目の前にある世界と私との間には大きな断崖が広がっているのである。世界と私との間に断絶が生じているのだ。その溝はあまりにも深く、今の私には到底飛び越えられないように思われる。だから絶望するしかない。ああ、なんということだ。私は散々「人が嫌いだ」と述べたくせに、人を通してしか得られない喜びを求めているなんて。

 こうしてまた別の問題が提示されることとなる。つまり、いかにして世界と私との間で失われた絆を回復するか。いかにして世界と私との間に繋がりを獲得するか。「引き裂かれるのは、人間と世界の絆である。そうならば、この絆こそが信頼の対象とならなくてはならない。」