21/09/01

 時間は常に真実を危機に晒す力を持っていた。そう断言しても言い過ぎではないだろう。例えば今目の前にいる子供がいるとして、子供の両親がある日突然離婚したとしよう。この時、その子供には二つの事実が避けがたいものとして突きつけられることとなる。一つは、不可能から可能が生じるということだ。今日まで「当たり前」だと思っていた両親の関係が、ある日突然「当たり前」ではなくなる。有り得ない、不可能なはずのものが、有り得るものに、可能なものになっている。

 この事実は、よってもう一つの事実をも呼び起こす。つまり、過去は必ずしも真ではないということだ。「自分の両親は離婚しない」という信頼のもとで暮らしていた子供の心は、破局を目の前にすることで、親子三人で仲良く暮らしていた頃の記憶が信じられなくなる。時間の経過によって起きた出来事が、子供から過去の真実を奪い去ったのである。

 時間は常に真実を危機に晒す力を持つ。あらゆる事件 - 出来事は時間の経過とともに生じる。もし時間によって真実が壊されるのを裂けたいならば、時間の静止した空間へと、永遠へと逃れなければならない。しかしこの世とは時間の支配する舞台である。もし時間の力から逃れたいならば、自ずとこの世で生きることを諦めなければならない。

 かつてライプニッツは、この時間における真実の危機の問題を、彼の可能世界論によって片付けようとした。つまり、子供の両親が離婚する世界線もあるが、しかし両親が離婚しなかった世界線も存在するということだ。これについては、『バタフライ・エフェクト』や『シュタインズ・ゲート』辺りの映画・アニメを思い浮かべてみれば理解しやすいと思う。時間の経過によって分岐し、枝分かれし続ける世界線がこの世にはある。あの世界線も可能だが、この世界線もやはり可能である。そう考えることによって、ライプニッツは真実の危機を救済しようとしたわけだ。

 しかし、それでも分岐し続けるそれぞれの世界線を共存させることは出来ない。ひとつの未来を選ぶならば、どちらかの未来を諦めなければならない(これをライプニッツは共不可能性と呼んだ)。人が過去を疑うようになるのは、現在から未来にわたって過去を疑わざるを得ないような出来事に直面するからだ。言い換えるならば、人は未来の出来事によって過去の出来事の意味を考慮するようになるということだ。 未来の出来事によって過去の意味が左右される以上、結局時間における真実の危機は解決されていないということになる。

 こうして私達は次の段階に移ることになる。つまり、あらゆる物事は真実であることをやめ、一切が偽である舞台が登場するのである。そして私達は、ライプニッツからニーチェへと席が譲られる瞬間を目撃することとなる。何故ならば、ニーチェこそが初めてこの世界における偽なるものの力能を解き明かしたからである。

 ニーチェによれば、私達の発言や行動はどれも一つの解釈に基づいて行われているという。たとえ本人が意識していないとしても、そこにはその人が信じる世界線が存在し、その解釈に基づいて何からの言動を行う。しかし、それが解釈でしかない以上、常にこちらの信じる世界線は変動し、変化せざるを得ない。また、こちらの信じる真実も姿かたちを変える可能性がある。子供が無邪気に両親に甘えるのは「両親が仲睦まじく、また自分を愛しているからだ」という解釈に基づく行動である。しかし両親が離婚し、父と母のどちらかが子供の前から消えることで、もはや子供はその「解釈」を信じることが出来なくなるのである。

 こうして見えてくるのは、嘘つきの裏にはまた別の嘘つきがいるという事実である。当たり前だが、仲のいい夫婦がある日突然離婚するわけがない。子供の前では気を使って仲良しこよしを演じていたが、しかし実際は冷え切っていたからこそ、ある日突然離婚するわけである。だからこそ、二人の関係が冷えきれるまでには、そこでまた別の嘘が作動していたと言わねばならない。嘘に嘘が連鎖しているのだ。勿論、この連鎖は子供にも伝染する。子供がやがて大人になり、かつての両親と同じような危機に直面したとしても、この子には自分と同じ悲しい思いをさせたくないと思い、その危機を必死に隠そうとするだろう。だからこそ、偽造者はさらにまた別の偽造者を産出するわけだ。

 こちらのあらゆる言動がある解釈に基づいて行われるのだとすれば、私達が意図的に何かを「解釈」するということは(「あれはどういう意味なのか」と考えたりすることは)、自ずと「解釈の解釈」ということになる。こうして更に次の帰結が導き出される。つまり、解釈の上にまた別の解釈が積み重なることで、更にまた異なった解釈 (あるいは行動)が引き起こされるということだ。『ウルフ・オブ・ウォール・ストリート』にそのいい例がある。主人公は自分の妻の叔母と二人でベンチに座っているが、彼女の親しげな様子から「俺を誘っているのか?」と勘ぐり始める。叔母は彼より遥かに年上だが、しかし今後のビジネスのために利用する価値はある。やがて彼女の態度を観察し続けるにつれて「やはり俺を誘っている」という確信を得た主人公は、叔母に身体を密着させ始める。すると叔母はこう考え始める、「この男、私を誘ってるのかしら?」と。やがて主人公の態度を観察し続けると、彼女もまた「やはり私を誘っている」という確信を得ることになる。こうして二人とも、不本意ながらにキスをすることになるのである。

 解釈が別の解釈を引き起こし、それが更にまた別の解釈 - 言動を引き起こすということ。そう考えてみると、どうやらこの世界を突き動かしているのは真実というよりかは、むしろ真実的に見えるものだということになる。つまり、偽なるものの力能がこの世界を突き動かしているのである。真実とは発見されるものではなく、発明されるもの、創造されるものだ。言い換えるならば、それは量産され、でっち上げられるものなのである。

 だからこそ、私達には次のことが必要となってくる。現働的な真実を覆すということ、別の真実を生み出すということ。それは今の自分にとって支配的な解釈を打ち砕くような、新しい解釈を生み出すということでもある。両親の離婚によって危機に晒された子供の心は、彼が世界を解釈するその仕方において危険に晒されているのである。かつてのものが信じられなくなった今、彼はこの世界の全てへの信頼を失おうとしている。ならば取り戻さなければならないのは、この世界に対する信頼である。世界と「私」との間おいて、引き裂かれた絆を取り戻さなければならないのである。
 

 この世界とは、力の、力に対する関係である。言い換えるならば、力は本質的に別の力にしか関係して来ない。この定義は、次の定義をも導き出すことに繋がるだろう。つまり暴力とは、力から派生するものであって、力の本質ではないということだ。レスリングや柔道は、まさに力と力の関係を表している。しかし静止物に対して一方的に当たることは、力以外のもの対し関係することを意味する。力の本質とは、別の力に作用し、また別の力から作用を受けることにある。こちらに関係してこないものに一方的に関わろうとする暴力は、決して力の本質ではないのである。

 しかしこの事実は、同時に、この世には暴力よりも恐るべき力があるということをも意味している。ナチスは戦時中に多くの人を殺したが、しかしそれを行ったのはナチスの兵士であり、ナチスの親玉ではない。ヒトラーは自らの部下を通して暴力を指示したが、しかしヒトラー自身はその最前線で暴力に加担したわけではない。私達が恐れるべきは、暴力ではなく、暴力を行使するよう強いる別の力の存在なのである。しかも、何より恐ろしいことは、それが今なお裁かれることなく生き続けているということだ。ナチスなき今、ナチスに憧れる若者がどれほどいることか。現働化された暴力は、結果的に戦後の裁判によって裁かれた。しかしその行使を強いた別の力は、今なお裁かれることなく生き続けているのである。


 人は好んで人生を自分の知る物語に似せようとする。若い頃は特にそうだ。かつて自分が憧れた物語、自分が心から感動し、共感した物語と、自分の人生を同一視するのである。

 しかし、歳を重ねるにつれて、自分の程度というものを理解する人が増えてくる(「ああ、俺なんてこんなもんか……」)。そうなると、今度は今日までの自分を模倣し始めるのである。過去の自分を繰り返し、再生産することで、馬鹿な目を見ないようにするわけだ。このように、生きるということは、なんであれ自分が模倣する対象を見つけるということだ。

 しかし、ここまでの話を踏まえるならば、私はどうしても物語の持つ力というものを認めざるを得ない。果たして今日まで、どれほど多くの人が物語に魅せられてきたことか。どれほど多くの人が物語に突き動かされてきたことか。シンデレラや白雪姫に憧れた女の子が、かつてどれほどいたことか。しかもこの場合、「物語」とは必ずしも童話や小説のみに限らないのである。かつて実在した人物の生涯さえ、私達の目にはフィクションとして映ることがある。ジム・モリソンにカート・コバーン。若くして死んだロックスターの物語に憧れた少年が、かつてどれほどいたことか。

 物語は民衆を生み出す。もし物語を模倣することによってある一定のタイプの人間が生まれるのだとすれば、新しい物語を描くとは、それ自体新しいタイプの人間が誕生することに繋がる。「人間なんてこんなものだ」と説いて、人間を悪しきものとして描く作品は、よって悪しき物語である。それを模倣して、自ら醜くなり、好んで堕落しようとする若者がどれほどいることか。

 傑作とは、常に人間のもつ新しい可能性を切り開こうとするものだ。今の自分には未知な「力」を描くことによって、今日までの自分には生きることが出来なかった、新しい世界線を提示するのである。ゴッホの描いた絵によって、どれほど多くの画家が新しい絵画のスタイルを見出したことか。ドビュッシーの生み出したピアノ曲によって、どれほど多くの作曲家が新しい作曲法を見出したことか。優れた作品とは、決して今日までの私達の生き様をただ描くだけではなく、未来に誕生する新しい人間のあり方をも提示するものである。ならば物語もそうあらねばならないはずだ。物語とは常に不在の民衆への呼び掛けでなければならない。今はまだ集まることの出来ていない、バラバラになった人々が結束するためのモチーフを描き出さなければならないのだ。新しい人間の生き方を示し、未来の民衆を生み出すことこそが、物語の、フィクションの、偽なるものの力能の役割である。


 自傷行為とトレーニングは似ている。どちらも身体にある一定の刺激を与えることで、身体を緊張させ、元々考えていたことを忘れさせる作用を持つ。やがて身体の緊張が解けた時、それによって人は安心感を得ることも出来るだろう (このように、快楽の発生は、時に不快あるいは緊張からの解放と密接に関わっている場合がある)。

 私が両手をげんこつの状態にして腕立て伏せをする時、当たり前だが、時間の経過とともに拳は潰れるような痛みを感じ始める。しかしそれに伴う緊張が、こちらの苦悩を緩和し、物事をより乾いた眼差しで見ることを可能にする。リストカットをする女性は世に多くいる。彼女達がそれに走る理由はきっと様々だろうが、その内の一つとして、自分の身体を傷つけることによって自分の悩みを忘却させようとしているのではないかと思われる。痛みが体中を駆け巡り、最初はそれに顔を歪める。しかし痛みのおかげで別の痛みを忘れることが出来る。おまけに緊張が解けた時には安息も得られるわけだ。

 しかしこの事は、私達に別の理由をも想起させてくれる。つまり、人が自傷あるいはトレーニングをする理由は、暴力を振るう対象を求めているのに、それが何処にもいないからである。だから暴力の対象を自分にするしかないのだ。痛みによって別の痛みをかき消そうとするのは、そもそも当人が痛みあるいはストレスを抱えていなければ起こさない行動だ。誰かを切りたいが、誰をも切れない。だから自分に刃先を向ける。誰かを苦しめたいが、誰をも苦しめられない。だから自分を苦しめるしかない。自傷と運動は、どちらも力が発散する瞬間、自分に対して力が行使される場所である。