21/09/07

 時に人は、喜びのために苦しみを求めようとする。あるいはむしろ、喜びを求めて苦しみを得ようとする、と言い換えてもいいかもしれない。

 かつてはドゥルーズも『ディオニス・マスコロとの往復書簡』の中で、その事について触れたことがある。彼によれば、彼の尊敬する作家達は皆、思考を開始するために思考に苦しみを強いるものを必要としたという。キェルケゴールにおいては、それはレギーネとの婚約であった。クロソウスキーサルトルにおいては、それはカップルの(彼らの恋人との)問題であった。プルーストにおいては、それは嫉妬深い愛であり、ディオニス・マスコロとブランショにおいては、それが友情であった。種類は違えど皆、ただ誰かと語り、思い出し、喜ぶことを求めたのではなく、むしろ誰かと共に、あるいは誰かのために「記憶喪失、失語症のような、思考にとってのあらゆる試練」を体験したのである。

「ドイツのどの詩人であったか忘れましたが、彼は犬と狼の間の時刻、その時は「友でさえも」警戒しなくてはならない、そういう時刻について語っています。人はそこまで、友に対する警戒に行き着くことがある。そしてこうした全ての事は、友情と共に本質的な仕方で、思考の中に「苦しみ」を注ぎ込みます。」

 ここで私が思い出すのは、ラ・ロシュフコーの次の箴言である。「大部分の女が友情にほとんど心を動かされないのは、恋を知ったあとでは友情が味気ないからだ。」

 今どき男/女という価値観で物を語ること自体時代遅れだろうが、しかし上のラ・ロシュフコーの言葉には未だ耳を傾けるだけの価値があるように思われる。というのも、人が恋愛 (あるいは性愛) を求めるのは、何も性的欲求のためだけではないからだ。恋愛が他にはない苦しみを注ぎ込む時、人は恋愛を欲するようになる。家族や友人に囲まれていて、傍から見ると幸せそうなのに、心のどこかで退屈していて、この味気ない日々を終わらせてくれる何かを求めている。そのような人が、この世にどれほどいることか。

 勿論人が恋愛 - 性愛を求める理由は他にもある。これはよくよく考えている事だが、恋愛には非常に資本主義的な側面がある。ビジネスの基本、それは詐欺である。新しい商品を売る上で肝心なことは、それをいかに魅力的に見せるかであって、商品の中身が実際に魅力的であるかどうかは大して問題ではない。何故なら、消費者は初めから中身の善し悪しなど求めてないからである。消費者が求めているもの、それは商品の性質ではなく、ただそれが自分を満足させてくれるかどうかである。じゃがりこの新商品が発売されたとして、誰もそれが他のじゃがりことどう違うのか知りたいとは思わないだろう。ただそれが自分に魅力的に見えるかどうか、自分を満足させてくれるかどうかにだけ注目する。よって販売者は、この商品の中身がいかなるものかを知るよりも、むしろこの商品をいかにして魅力的に演出するかを考えなければならない。

 自由恋愛においては、恋愛が一つの経済となる。男性は女性から評価される商品となり、女性は男性から評価される商品となる。そして「売れ残り」のものは、誰からも魅力を感じられない商品として、恋愛 = 経済における貧困層の烙印を押されることとなる。こうして恋愛によって、目に見える経済とは異なる、目に見えない経済格差が社会に導入されることとなる。今や両性は、学歴、収入、社会的地位と同じくらいに自分の恋愛的な価値 = 需要を重要視し始める。この場合、経験人数が何人であるかは大して問題ではない。むしろどれだけ自分が異性から恋愛的に眼差されているかが問題となる。しかし、そもそもそれは計測したり推し量ったりすることが出来ない内容だ。だからこそ、今の自分がいかに異性から魅力的に見えるかどうかを、また実際に今日までに自分が魅力的に見られてきたかどうかを演出することが問題となる。これが恋愛 = 競争 = ビジネス = 社会における本質であり、今やじゃがりこの新商品に求められていたものが私達自身にも求められるようになる。ある場合において、恋愛の本質とは詐欺である。いかにして自分を魅力的に見せるかが問題である以上、恋愛とは一つの競走であり、ゲームであり、騙し合いである。自分を商品として売り込み、また相手を商品として獲得する以上、自由恋愛には経済的な格差が存在し、そこで生き残るためにはビジネスが必要とされる。

 しかし、どうやら私が話したい内容と少しズレてしまったようだ。とにかく、人が恋愛を求める理由は沢山ある。上に書いたように、恋愛 = 経済において勝ちたい、「誰にも愛されない惨めな奴」だと思われたくない(貧困層として見下されたくない)という人もいれば、単に退屈だから恋愛がしたいという人もいるだろう。もしくはもっと実直に、誰かに愛されたい、満たされたい、必要とされたい、という気持ちを抱いている人もいるかもしれない。そのような場合、人は自分の精神的な拠り所として恋愛的なパートナーを求める傾向にある。「しかし、それなら友人でいいのではないか」という指摘もあるだろう。勿論その通りだ。だからこそ、何故人は友情ではなく恋愛を求めるのかと問わなければならない。恐らくこの問いには、ふつう人が思っているよりも遥かに注目すべき価値がある。

 ドゥルーズプルースト論にはある一つのテーマが存在する。それは恋愛におけるコミュニケーションの放棄である。彼は本の中で次のように書いている。「友情は、誤解に基づく偽りのコミュニケーションを確立するだけで、偽りの窓を通り抜けるだけである。だからこそ愛はもっと聡明に、あらゆるコミュニケーションを原則として放棄する。」

 しかし、そもそも何故人は恋愛においてコミュニケーションを放棄するのか。それは、恋愛の最中にいる人々が、相手の言動を常に暗号化するからだ。相手の一挙一動が、自分の心を揺さぶり、また時には自分の心を不安にさせる、ある種の啓示のように思われる。恋愛において、人は恋人の言葉や行動をどれも解釈し紐解くべき暗号として消費するのである。

 友情とは、相手に対する信頼と尊敬に基づいて成り立つものだ。彼はこういう人物だ、アイツなら安心出来る。そのような敬意があるからこそ、人は誰かとの友情を保つことが出来る。しかしこれは、ある程度相手に距離を保つことによってしか成り立たないものでもある。必要以上に距離を詰めれば、人は次第に相手への執着心を募らせていき、そして執着するからこそ、相手の一挙一動に益々不安になってくる。次第に相手が自分の信じているような人間ではないのではないかという猜疑心が起こり始める。相手への信頼と尊敬を忘れ、酷いことをしたり、暴言を吐いたりするようになる。だからこそ友情を保つためには、必要以上に相手のことを掘り下げない、偽のコミュニケーションが必要となる。それを導入しなければ、あらゆる友情は終わりを迎えてしまうからだ。

 だからこそ、恋愛において、人はコミュニケーションを放棄する。相手に執着し、相手を疑うからこそ、相手の一つ一つの言動を暗号化し、彼/彼女が何故そんなことをするのか、あの人は今一体何を考えていて、これからどうするのだろうか、その答えを導き出そうとする。信頼と尊敬に基づいた単純な会話が終わり、腹の探り合いが、暗号の読解が、駆け引きのゲームが始まる。場合によっては、それは一方通行かもしれないし、もしくは二人が互いに誤解し合っているだけかもしれない。しかし何であれ、このゲームには苦しみが付きまとう。相手を疑うことの苦しみ、いるかわからない浮気相手を想像することの苦しみ、嫉妬と束縛の苦しみ、相手の態度が嘘か本当かで悩むことの苦しみ。普段の私達が、誰かへ信頼と尊敬を失わないために設けた距離が取り払われていき、嘘が暴かれ、更にまた別の嘘が明らかになっていく。もしくは嘘に嘘を重ねることで、このゲームが終わらないようにする。あるいは恋人を拘束し、監禁することで、相手の嘘と真実を確かめようとする。嫉妬深い恋人は、奇妙なまでに真実の探求者に似ているものだ。

 そしてこれらの苦痛と戯れが、恋する二人をドラマ化する。恋愛の不幸に苛まれる人は、あたかも自分が舞台の上の登場人物であるかのように振る舞い始めるものである。普段なら恥ずかしくて口にしないことを平気で口にするようになり、そんなキチガイじみた自分を平気で容認するようになる。

 かつてパスカルは次のように書いたことがある。「大抵の人の不幸は部屋でじっとしていられないことから始まる」と。この場合、「部屋でじっとしている」とは「正真正銘何もしないこと」を意味する。自室で一人本を読んだり、楽器を弾いたりすることは、すなわち「部屋で何かをすること」であり、決して「じっとしていること」ではない (だからこそ、パスカルは社交の喜びと並べて孤独の喜びを語ることとなる)。なるほど、確かに大体の人の不幸は部屋でじっとしていられないことから始まるだろう。しかし、このパスカルの示唆に満ちた言葉の裏には、恐らく次のような意味が隠されているのではないか。つまり、大抵の人が恐れるのは、孤独というよりもむしろ退屈なのである。そしてもし孤独に耐えがたさを感じたならば、その人にとって孤独が退屈だからである。

 これらの記述が、そのまま上に書いた問いの答えとなる。つまり、何故友情ではなく恋愛なのか、何故人は精神的なパートナーとして恋人を求めるのか。それは、恋愛がコミュニケーションを放棄するからであり、それがこちらに嫉妬と執着、束縛の念を呼び起こすからである。恋愛は、こちらが退屈をしないよう、私達の心の中に苦痛を伴う刺激を注ぎ込む。そして皆がその苦しみの中毒になってしまうのである。勿論人が精神的なパートナーに恋人を求める理由として、それが世間一般的に「普通」だからというのもあるだろう(「病める時も健やかなる時も、パートナーの事を支える/パートナーに支えられる」という「誓いの言葉」がそのいい例だ)。ただ、それだけではないのも否定できないはずだ。何故なら、時に人は喜びのために苦しみを求めるからである。

 では、そもそも何故人は恋に落ちるのか。それについては、プルーストがある偉大なモチーフを残してくれている。「私は彼女を愛しているのではなく、彼女が内包する風景をも愛していた。」

 人が誰かに執着するためには、そもそも相手が自分にとって意味深いものでなければならない。では何故相手が意味深く見えるのか。それは、相手が今の自分にないものを与えてくれるように思われるからだ。まさに人は、ただ誰かを愛するのではなく、誰かの顔が、体が、身振りが、別のものをも想起させるからこそ愛するのである。ここから、一目惚れの原理もまた説明することが出来るだろう。一目惚れとは、ただただ相手の容姿が綺麗だから生じるのではない。一目見ただけで、相手の容姿の中に、なにか自分にとって意味深いものがあるような気がする。だからこそ人は誰かに一目惚れをするのである。それはあたかも、相手が彷徨う人混みの中から、相手の存在だけを抽出するようなものだと言える。ドゥルーズ=ガタリが書いているように、誰かを愛するとは「常にその人を一個の群集の中で把握すること、その人が加わっている一つのグループから、たとえ家族などのように限られた狭いグループからでもその人を抽出すること」である。

 一方で、このロマンチックなフォール・イン・ラブの現象の裏には、やはり資本主義的なシステムが潜んでいる場合があることも否めない。そもそも、誰かにとって意味深いものとされるためには、それ相応のものをこちらが備えている必要がある。一目惚れの場合は特にそうである。結果として、容姿や身なりが重要となる、ルッキズムの問題が生じることとなる。それに、大抵の人の美的価値観とは似通ったものである。言い換えるならば、そもそもこちらを支配している美的価値観がそこにあって、一目惚れする人の大半はそこから出発しているのである。ではその美的価値観は何処から生まれるのか。無論、それは資本主義である。最初に書いた通り、自由恋愛においては恋愛が一つの経済となる。この経済化された恋愛において、両性はそれぞれがそれぞれ、異性に向けられた商品となり、獲得されるべき対象となる。そして、より優れて美しく見えるものとは、それだけ恋愛 = 資本主義において商品価値があると見なされたものである。だからこそ、その価値観から抜け出した状態でなければ、資本主義を抜きにロマンスを語ることが出来ないわけだ。


 カフカの小説には、よく官僚制のイメージが登場する。実際に役所務めをしていたカフカは、それを生き生きと描くことによって、官僚制のシステムがいかに機能しているか(または今後の世界でいかに機能していくか)を描いた、とも言えるだろう。一方で、小説内でカフカは官僚制に対して批判らしい言葉を一切投げ掛けなかったのも事実である。それを踏まえてか、ドゥルーズ = ガタリは「官僚制の解体を試みながらも、同時に官僚制に魅了されていた者」としてカフカを描いている。

 それはマルクスの資本主義に対する態度にも言えるだろう。ドゥルーズによれば、マルクスは資本主義に魅了されていたというのだ。資本主義は狂っている。それはキチガイめいた前提がなければ成り立たないものだ。なるほどそれは確かに間違いのない事なのだが、しかし資本主義ほど上手く機能するものは他にないのである。だからこそ、マルクスは資本主義に魅了されていたのではないか。でなければ、たとえエンゲルスとの共著であろうとも、あんな馬鹿長い資本主義分析の本を書こうとは思わないはずだ。敵のシステムが正しいか間違っているかはさておき、それを「面白い」と思ってしまう。だからこそ、マルクス資本論を書いたのではないか。

 このカフカと官僚制における問題、マルクスと資本主義における問題は、そのままドゥルーズとカントにおける問題にも当てはまる。ドゥルーズはカントを自らの「敵」として、哲学的なライバルとして看做したことで有名である。彼はカントを「偽の批判の完璧な権化」だと考え、理性の法廷によって一切を裁くカント哲学のシステムに「恐れながらも同時に魅了された」と語る。そして、だからこそドゥルーズはカントのために一冊の本を書く。敵はいかにして機能しているのか、敵の欺瞞は一体どこにあるのか。彼はそれを解き明かそうとしたのである。そんな彼の『カントの批判哲学』は、彼自身「お気に入り」の本だとも語っている。

甘い生活』という映画がある。フェリーニが撮ったもので、彼の作品の中では『8 1/2』と並んで私のお気に入りだ。主人公はゴシップ記者をしながら文学者として大成することに憧れる青年マルチェロ。彼は夜な夜な街を遊び歩きながら、複数の女性と関係を持ち、有名人にちょっかいを出すことで金を稼いでいる。しかし、マルチェロ自身はそんな自分を心のどこかで軽蔑している。そして出来れば早くちゃんとした作家になりたいと思っている。静かで、落ち着いた、幸福な結婚生活を営む友人の家に顔を出すと、その友人に対する憧れを語ることもある。しかし結局彼自身は自堕落な生活から抜け出すことが出来ない。退屈を恐れ、何もせずに夜が明けていくことを恐れている。久しぶりに家族と顔を合わせても、何を話せばいいかわからない。肉親と会話らしい会話をすることも出来ない。やがて自分が羨んでいた友人が、子供二人を殺した後に自殺する。マルチェロはこの世に対する救いのなさを感じる。そして益々退廃的で、軽薄な世界へと身を落としていく……。

 私はこの映画が本当に好きで、何かの節に度々観返している。勿論、私自身はマルチェロのような「甘い生活」を生きる人間ではない。しかし映画を観ていると、何か他人事とさ思えないというか、少なくとも彼に共感を覚えないと言ったら嘘になる。主演のマルチェロ・マストロヤンニが本当にいい演技をしている。マストロヤンニが同じく主演を務めたアントニオーニの『夜』という映画にも言えることだが、キザで、陰のある、作り物めいた表情をする男を演じるのが本当に上手い。動作の一つ一つが偽物めいていて、一切が嘘で出来ているかのような演技をする。私には到底なれっこないが、ああいうニヒルなイケメンに憧れないと言ったら嘘になる。

 それはさておき、こうして何度か『甘い生活』を見返すにつれて、私はある一つの事実に気づいたのである。なるほど、この映画はまさに資本主義の退廃と軽薄さを体現したような映画だ。しかし私は、そのような退廃と軽薄さをキチガイじみたものだと思いながらも、同時にそれをとても面白いものだとも思っている。カフカが官僚制に魅了され、マルクスが資本主義に魅了され、ドゥルーズがカントに魅了されたように、私もまた敵に魅了されているのである。

 初めに行った長い記述が、まさにその証である。この世界は狂っているし、間違っている。しかし、こんなにも見事に機能しているものは他にない。しかし、だからこそそれを批判しなければならない。そしてそれを乗り越えようとしなければならない。こんな事を語るのは馬鹿げているかもしれない。しかし、もし将来私が何らかの形で有名になれたら、上に書いたような恋愛 = 資本主義の関係性を真っ先に批判するような人間になりたいと思う。別に今の自分にそういったパートナーがいる訳ではないのだが、このような時代だからこそ、誠実なもの、真面目なもの、一途なものが求められてもいいのではないか。


甘い生活』や『夜』のような、退廃的な都市生活者を描いた映画と同じくらい、私には好きな映画のジャンルが一つある。それは子供を主人公にした映画だ。『大人は分かってくれない』、『霧の中の風景』、そして『友だちのうちはどこ?』。子供に焦点を置いて、子供の視線をありのままに表現した映画を眺めていると、何だか自分の失われた子供時代のことを思い出してしまい、とても胸が締め付けられてくる。

 大人になると、人はよく子供を自由の象徴として描こうとする。そしてこう語る。「あの頃はよかった」「子供の頃は楽しかった」と。しかし、本当にそうだろうか。むしろ大半の人にとって、子供の頃ほど抑圧された時代は他にないのではないか。学校の先生に友達付き合い、親の機嫌、宿題、そして家事手伝い。家でも学校でも、様々な「やらなきゃいけないこと」の間で板挟みになって、子供が本当に自由になれる場所など何処にもなかったはずだ。

 しかし、大人になるにつれて、人は次第に自由を獲得し始める。そして自由を獲得するにつれて、自由の重みをも知るようになる。独立した存在であること、責任を負うべき者であること、それが自由であることの重みである。だからこそ、何の責任も負わなくて済んだ子供の頃を、あたかも人が本当に自由であった頃のように尊び始める。しかし、実際はそうではない。大人はただ、自由であることに、孤独であることに、独立した存在であることに耐えられなくなって、子供時代を美化するだけだ。だからだろうか、街中で「子供のふり」をして遊ぶ大人を見ると、本当に不愉快な気持ちになることがある。

 いつの時代も、子供は不当な扱いを受けてきた存在だと言える。子供は動物と同じなのだ。動物は暴力的なもののイメージの具現化であり、また暴力を振るわれる対象でもある。人は獣を「野蛮」なものとして扱うが、しかし「調教すべき対象」として、獣に野蛮な暴力を行使する。そして、それは子供についても言えることだ。子供は暴力的なイメージで語られるが、しかし子供ほど大人の暴力の被害をこうむる者は他にいない。子供は野蛮なものとして扱われるが、しかし子供ほど大人の野蛮な暴力の犠牲者となるものはいないのである。子供はよく、純粋で、正直で、嘘をつかないものだとされる。しかしそれは間違いである。子供ほど嘘をつくものは他にいない。大人に叱られるのが怖いからである。ありのままに話しても、大人に怒られるだけなのを子供は知っているのだ。だからこそ嘘をつかざるを得ない。純粋だからこそ、子供は嘘をつかねばならないのである。

 昨日、『友だちのうちはどこ?』を久しぶりに観返しながら、ぼんやりとそんな事を考えていた。子供が自由だなんて、一体誰が言ったのだろう。私達の誰が「自由な子供時代」を過ごしたのだろう。あの不可解で、嫌な思い出が沢山詰まった時代は、一体いつ、何処へ行ってしまったのだろう。