21/09/19

 人が最も恐れているもの、それは不幸ではなく退屈である。人間が自殺する理由として最も多いのは、恐らく不幸ではなく、むしろ不幸も幸福も忘れてしまうほど退屈な日常にある。退屈であればあるほど、人は自分も周りも腐っていくような感覚に陥る。よって退屈さとは、日常の耐え難い凡庸さをそのまま意味するものだと言える。

 そして、この公式にこそ、私達の生活における最大のパラドックスが存在していると言える。なるほど、人は不幸よりもむしろ退屈を恐れている。しかしある程度善良であるためには、人はある程度凡庸でなければならない。何故なら、ある人の善良さ、人間くささ、人間らしさとは、そのままある人の凡庸さを意味しているからだ。退屈から逃れるためには、凡庸から逃れなければならない。しかし凡庸から逃れれば、それだけ人は善良でなくなる。しかしあるがままの凡庸さを受け入れていけば、人は次第に退屈のせいで死んでいくだろう。

 だからこそ、私達は時に「一線を超えること」が求められる。自らの耐え難い凡庸さから抜け出すためには、一線を越えるしかない。そうする以外に助かる道はない。それ以外に選択肢はない。少なくともその時にはそう思えた。だからこそ、それは「最善」の選択だったとも言えるだろう。しかし行為の後には反省がつきまとう。やがて自分の行いを道徳的な「善悪」の価値観によって裁く時間が訪れるだろう。その時、私達は自らの罪深さに苛まれることになる。

 私はあまりいい人間ではない。今日までの自分の行いを振り返っていると、ふとその事に気がつく。それは心の内で思っていることにも当てはまる。当たり前だが、他人が何を考えているかなど、傍から見ればわからないものだ。しかし、それはこちらにしても同じである。皆、私のことを誤解していると思う。恐らく、私は周囲からよく言われるような「いい人間」ではない。尤も、これも相手がこちらを「いい人」だと思ってくれているという前提に成り立つのだが。

 白状すれば、私にはナチュラルに人を見下す癖がある。例えば今、目の前に自分と同じ本が好きな人がいるとして、その人と話をしたとする。しかし、そういう機会に恵まれる度に、私は失望を覚えた。あんなに面白い本を読んだのに、相手から程度の低いの感想しか聞けないからだ。あれを読んだのに、何故その程度のことしか考えられないのか。私は愚かにも、あれだけの本を読んで、おまけにそれが好きだと語っているのだから、それ相応の感想が聞けるものだと期待してしまうのである。しかし、その度に返ってくる言葉は、いつも当たり障りのない、在り来りで、平凡な言葉である。勿論、それで相手を嫌いになるわけではない。ただ「何故そんなこともわからないのか」とか「どうしてあんなに面白い本を読んでそんなつまらない話しか出来ないのか」とか、そんな事を真面目に考えてしまう。本でなくともいい。音楽や映画の場合でも同じだ。ああ、あんなに素晴らしいものに触れて、それが好きだと語っているのに、その程度のことしか言えない。一体何を見ていたんだ。

 勿論、どんな人にもそれぞれ異なった長所がある。私が今、失望してる目の前の相手にしても、きっとこちらが気づいていないだけで、沢山の面白い所があるのだろう。そう、私にはそれがわかってる。だからこそ、相手に対して距離を置かざるを得ない。きっと距離を詰め過ぎれば、頭では上のように理解していても、相手が不愉快でたまらなくなる。自分とは違う優れた所があるとわかっていても、相手が馬鹿に思えて仕方なくなる。

 しかしそもそも、私にはそんな風に人を裁く権利などない。人を見下す権利などない。それはわかっているつもりだ。きっと気がつかないだけで、私も相当な馬鹿な振る舞いをしているのだろう。だから、相手に感じる多少の不快さは目をつむるべきである。恐らく私にしても、そのようにして誰かから目をつむってもらっているのだろうから。

 基本、私はあまり自主的に何か活動をしたいとは思わない。その理由の一つがここにある。例えば今日から、私が主体となったバンドを組むとすれば、きっと上のような現象がスタジオで起こることとなるだろう。「何故そんな簡単なこともわからないのか」「どうしてあれを聴いてその程度の感性しか持てないのか」。そんな風に怒ってしまう自分の姿が容易に想像できてしまう。あまりにも非常識な振る舞いだ。それでは、私は「他者との生活」を生きられない。こちらも相手も居心地良く過ごすために、社会空間にはある程度の調和が必要なのである。それに私自身、人と一緒にいる時にずっとギスギスしていたら、苦しくて耐えられなくなってしまう。

 冷笑するつもりはないが、他人の言動が滑稽に見えて仕方ないことがある。たとえばあまりにも仰々しく、重々しい表現で誰かが不幸を語ってたりすると、思わず吹き出してしまうのである。別にその人のことを馬鹿にするつもりはない。ただ、どう考えても借り物の言葉で、実際よりも誇張して自分の不幸を語っているのがわかる。実に平凡で在り来りな表現だ。気分はアダルトビデオで変な喘ぎ方をする女優を観た時のそれである。もしくはジャルジャルのコントを観ている時の気分に近いだろう。

(実際、詩的な文章というものは、そこにある種の硬質さが含まれなければ、途端に知能の足りない人の書いたものにしか見えなくなる。もとい、大体の文章はそうだと思う。鉱物のような冷たさがなければ、どんな文章もポルノ以上のものにならない。どれほど語彙力が豊富でも、どれほど巧みな詩的表現の使い手でも、本当に馬鹿の書いたものにしか見えなくなる。見下すつもりはないが、内心興ざめしてしまう。)

 しかし、信じてもらえないかもしれないが、本当に馬鹿にするつもりはないのである。ただ心の何処かでそんなことを考えてしまう自分がいるだけだ。

 勿論、たとえ「馬鹿だ」と思ったとしても、決してそれを口にするつもりはない。気づかないだけで、自分も馬鹿なこと、間抜けなことを沢山しているに違いないからだ。そして今日まで、私はそんな自分の愚かさを沢山見逃してもらってきた。だから私も同じように誰かの愚かさを許容するべきである。馬鹿に見えても、馬鹿にしないことが大切だ。それに、こちらが相手を馬鹿にすることで、その返しとして相手から「痛い所」を突かれる可能性が高い。ただそれが嫌だから、何も言わないでいるとのもあるだろう。

 本心をいえば、こんな自分が嫌で仕方ない。何故私はこうなのか。何故私は「いい人」になれないのか、立派な人間になれないのか。この問題は、今日まで私を悩ませてきたものの一つである。少なくとも、自分が他人ならば、こんな人間と仲良くしたいとは到底思わない。私は屑だ。最低な人間だ。そしてどうすればここから抜けだせるのかがわからないのだ。

 だから周囲の人間は、自ずと私のことを誤解しているという結論が出てくる。このブログを好んで読んでいる人にしても同じだ。皆、私に騙されているのである。私は本が好きだし、それなりに多くの本を今日まで読んできた。だからこそ、それなりにきれいな文章の書き方を知っている。また、今の自分が綺麗な文章を書いていることも知っている。そして、そのために沢山の人が今の私を誤解していることをも知っている。皆、私のことを繊細で、優しい人間だと思っている。馬鹿げた話だ。断言していいが、そんなはずがない。

 冷静に考えてみてほしい。私は凝った文体の好きな読書家だ。だから自ずとそれっぽい文章を書くのは当然のことではないか。そして何より、文章が綺麗だからと言って人間性もまた綺麗だとは限らないのである。既に何度か書いたことがあるが、作品と作者は別物である。私のブログは作品ではないが、しかし私の書く文章と私自身は別物である。皆、文章が綺麗だからといって騙されてはいけない。人に読ませるために書いているのだから、文章が綺麗に取り繕われるのは当然のことである。実際の私は、そんなに綺麗な人間ではない。傲慢で、自分の利益ばかりを求めて生きる、卑怯な、ずる賢い人間である。ハイエナのように獲物を求めては、誰かの死体を喰らいたいと願っている人間だ。もしくは寄生虫のように誰かを利用して、欲を満たしたいと願っている人間だ。作者とは作品の影であり、作品こそがその主体である。だからこそ、私の書く文書において、私自身のことはそんなに大して問題ではない。それを踏まえた上で、騙されないよう注意することが必要だ。

(もし将来何らかの形で本を書くことが出来るのならば、理想的なのは「私」が消えた作品だ。あまり自分で言いたくはないが、自分のプライベートな内容にも触れる以上、このブログは多少なりとも私小説チックな所がある。しかし、私自身は別に私小説が好きなわけではないし、そういうものを書きたいわけでもない。むしろ私が書きたいのは、最早作者が注目されなくなる作品、ただ作品だけが注目される作品、作品がすべてを語る作品である。また、このブログに関しては、暗い内容が多い分、皆こっそり読んでほしいと思っている。「読んでます」と言ってくれるのは有難いが、正直少し恥ずかしいのである。)

 本心を言えば、この世には許せない人間が沢山いる。被害者面して、「自分はこんなにも苦しんでいる」と語るくせに、自分がどれだけ他人を振り回してきたかは気にもかけない奴。善人面して、あたかも自分が綺麗な人間可のように振る舞っているが、今日まで自分がしてきた悪事は無かったことにしている奴。どちらも吐き気がするほど気色悪い。その神経の図太さには憧れを抱かざるを得ない。

 しかし、本当はこんな皮肉も言いたくないのである。ただ自分が望まずとも、そういう考えが頭に思い浮かんでしまう。私は醜い人間だ。繰り返すが、私に他人を裁く資格などない。それはわかっている。それに、もしかしたら私自身、他人から見て「許せない」ようなことをしているのかもしれない。だからこそ、尚更他人を裁くことなど出来ない。それもやはりわかっているはずなのだ。なのに、何故こんなに嫌味たらしい言葉ばかりが思い浮かぶのだろう。


 絵画においては絵が語る。音楽においては音が語る。映画においては映像が語る。このように、優れた芸術作品とは、本来説明する機能を持たないものが「説明」を可能にするからこそ生じると言える。

 では、文学についてはどうなのか。「文が語る」とは決して言えないだろう。何故なら、文章それ自体が既に説明する機能を持っているからだ。よって、文学においては、他の芸術とは全く異なる現象が生じることとなる。文筆家は、美しい文章を生み出すために、言葉から説明する機能を排除しなければならない。文学においては、余白が全てを語るのだ。文章それ自体が決して直接描かないものを、他ならぬ文章によって表現するということ。詩人とは誰か。それは、言葉によって言葉以上のイメージを想起させる者を指すのではないか。

 これらの事を踏まえた上で、「芸術家の務め」とも言うべきものが定義可能になる。つまり芸術家とは、私達が本来持っていなかったイメージを私達の感覚に与える者である。