21/09/25

 人が恐れるのは不幸よりかは退屈である。そして、退屈さとはその凡庸さの表れでもある。では、そもそも私達は何をもって「凡庸なもの」と見なすのか。それは他ならない、相手の底が知れた時である。もし私達が日常に耐え難い凡庸さを見出したとするならば、 それは決してそこに何のドラマも含まれないからではない。むしろ、そのドラマのたかが知れているからである。よって、私達が退屈を感じるのは、何も起こらないからでは決してなく、むしろ何が起きてもその程度が知れているからだと言える。目の前で悲劇が演じられても、見出されるのはいつも「お決まり」のパターンである。ここから遠く離れた地で紛争が起きても、繰り返されるのはかつてと同じ愚行である。私が目にするのは、いつもの、決まりきった、馬鹿の一つ覚えのように繰り返される愚劣な物事ばかりだ。これらの愚鈍さは、あたかも「現実なんてそんなものだ」と、あるいは「人間なんて愚かで醜い存在である」とこちらに伝えているかのようである。

 日常に耐え難い凡庸さを見出すのは、まさにこの時である。まるで一切が既に決まりきっていて、自分のやる事なす事全てが無意味であり、無力であって、何をしても少しもこの世界はよくならない、あるいは何があっても少しもこの世界は変わらない。凡庸なものとは、あたかもそのような絶望をこちらに味合わせるためにあるかのようだ。

 小津安二郎の映画を観ると、よくこの凡庸さについての問題を考える。小津のその舞台美術への異様なこだわり、構図の美しさへの尋常ならぬ執着は、シネフィルの間ではよく知られていることだ。スクリーンいっぱいに広がるのは、氷の結晶のように繊細で、変化に満たされた空間である。しかし、そこを行き来する人間は皆決まった言葉しか口にしないのである。いつも同じ文句ばかりを繰り返しており、顔つきにしても、あたかも場面によって決まった仮面を使い分けているかのようだ。しかしある時、不意にそれが崩れる瞬間が訪れる。それはまるで、時間の経過と共に生じる出来事が、純粋で空虚な時間の形式が、一見すると終わらないように見える凡庸な日常を壊さずにいられないかのようである。真実とはいつも時間の力によって偽に変えられるのである。だからこそ、それまで正しいとされていたものが崩れ去り、「一体何が正しいのか」と考えざるを得ない場面が訪れることとなる。

 同じ言葉、同じ表情、同じ態度が絶えず繰り返される、凡庸な日常。しかしそれに亀裂を走らせるかのように、時間の力が侵入してくる。時間の裂け目から見えてくるのは、今日までの私達の知られざる姿である。退屈と凡庸さのために隠されていた、別の真実の姿である。小津安二郎の有名な紀子三部作は、どれもそれを描いていると言える。『晩春』においては、それは結婚を迫られた時に見せる娘の険しい表情である。『東京物語』においては、今は亡き息子の嫁が語る「私はずるい人間だ」という告白がそれに当たる。そして『麦秋』においては、婚期を逃した長女の隠された本心こそが、それまでの仲のいい家族をバラバラにすることに繋がるのである。

 しかし、それでも日常は変わらない。あるいは、変わらないかのように振る舞い続ける。時間の裂け目は埋め立てられ、あたかも何も起きなかったかのように、再びかつてと同じ日常が上演されようとしている。しかしその時、既にそこにはかつてにはない何かが侵入しているのである。老夫婦の妻が死に、もしくは家族に迷惑ばかりかけていた父親が死ぬ時、登場人物の誰かが泣き出す。しかし凡庸なものの魔力は、あたかも何も起きなかったかのようにそれを覆い隠そうとする。

 ここから見出されるのは、もう一つ別の結論である。つまり、凡庸な日常を生きる私達は、愛も死も、その何もかもを自分に関係のないことのようにしか考えなくなるのである。あたかも全てが決まりきっているかのように、全てのたかが知れているかのように、一切を考えてしまう。だから純粋で空虚な時間の力が、これまでの日常に裂け目を入れても、それで変わるのはごく僅かな人間である。よって、そこに見出されるのは、変化を信じることの出来なくなった、進歩を信じることの出来なくなった人間の姿である。時間は私達の真実を偽に変える。だからこそ人は永遠に変わらない真実を求めたりするのだろう。しかし、なるほど人は変わらないものを求める。だが人生の中で、何の変化もなく生きている人間がいたとすれば、それは学習能力も持たない馬鹿だと言わざるを得ない。かつて変化を引き起こす時間のために苦しんだ私達は、今や何も変わらない凡庸さのために苦しめられることとなるのだ。

 もしある人の善良さがある人の凡庸さによって計られるとするならば、何故善良さと凡庸さがイコールになるのかが、こうしてわかってくる。凡庸なもの、変わらないものとは、私達を安心させるものなのではないか。善良さとは、時間の経過のように人を不安に陥れ、人に変化を強いる非凡なものとは、正反対なものなのではないか。言い換えるならば、私達が悪だと見なすものとは、それが実際に悪いからではなく、ただそれがこちらを傷つけるかもしれないからこそ、そう呼ばれるのではないか。安心して生きるために、私達は他者に、日常に、そしてこの世界に、凡庸であることを求めるのではないか。だからこそ、より善い世界の実現を求めるならば、私達は「一線」を超えざるを得なくなる。何故なら、絶えず繰り返される愚行から抜け出すためには、たとえ身に覚えない罪のために裁かれることになろうとも、非凡なものの方へ歩みを寄せるしかないからである。


 この世には、他人の足を引っ張ることでしか生きる喜びを感じられない人間が一定数いる。彼らの大抵は、特に容姿が優れているわけでもなければ、音楽的才能や、文学的才能があるわけでもない。また身体能力が別に特化しているわけでもない。あるいは、何か秀でたものがあったとしても、決して凡人の域を出ない。にも関わらず、彼らには妙に人を惹き付ける所がある。私自身、その手のタイプの人間に今日まで何度か出会ったことがあるが、特に何かが優れているわけではないのに、彼らの何かが異質に見えるのである。では、彼らの一体何が異質なのか。そう、彼らには特異的なルサンチマンの才能があるのだ。この世には天才的なルサンチマンの持ち主が一定数いて、彼らの喜びは、まさに他人の足を引っ張り、好んで他人を不幸にすることにある。よって、彼らの人生の目的は、自ずと他人を自分と同じかそれ以上に不幸にすることとなる。

 ここで彼らのことを、ドゥルーズライプニッツ論に倣って「呪われし者」と呼ぶことにしようと思う。何故なら、私は彼らのことを考えていると、彼のライプニッツ論を思い出さずにはいられないからだ。ドゥルーズによれば、ライプニッツの道徳とは進歩の道徳である。では、進歩とは何か。進歩とは、この場合、より広い魂の振り幅を獲得することである。音楽の偉大さは、聴覚不可能な諸力を聴覚可能にすることにある。同様にして哲学の偉大さは、思考不可能であった諸力を思考可能にすることにある。私達が進歩と呼んでいるものは、このように、より広い「感じ方」を可能にすることである。科学技術の発達は、日常生活において実在不可能であったものを実在可能にしたからこそ、進歩と呼ばれるのだ。

 では、このような進歩の道徳において、「悪」と呼ばれるものは何か。それは、魂において最小の振り幅しか獲得できない者のことである。よって、ドゥルーズ=ライプニッツによれば、「悪」あるいは呪われし者は、憎むこと以外に「感じ方」を持つことが出来ないからこそ、地獄に落ちるのである。

「彼らは過去の行為のために呪われているのではなく、彼らがその度に更新する現在の行為によって、彼らがおぞましい喜びを見出す神への憎しみによって、「罪にまた罪が重なる」ように絶えず彼らが再開するこの憎しみによって、地獄に落ちるのである。ユダは神を裏切ったから地獄に落ちるのではない。そうではなく、神を裏切りながら、彼は神をもっと憎み、神を憎みつつ死ぬからである。(……)もう少しの振り幅を獲得していたら、現在において憎むことをやめていたら、魂は即座に地獄に落ちることをやめていただろう。」

 このように、呪われし者、他人の足を引っ張る以外に喜びを感じられない人間は、まさにその憎悪に満ちた行為のために呪われているのではなく、かつての自分が抱いた憎しみを、あるいはかつて自分が体験した苦しみを、忘れられずにいるからこそ、あるいは何度もそれを思い出さずにはいられないからこそ、呪われているのである。ドゥルーズライプニッツ論における最もスリリングな理論がここにある。否、それはここから更に深い展開を見せることとなるだろう。つまり、ドゥルーズ=ライプニッツによれば、私達はこれら呪われし者の力を、他ならぬ進歩のために必要とするというのである。

ライプニッツ楽天主義は、無数の呪われたものに根拠を持っているが、彼らは様々な世界の内にある、最良のものの基盤である。彼らは可能な進歩の無限量を解き放つ。それこそ彼らの怒りを倍増し、進歩する世界を可能にする。ベルゼブルの憎しみの叫びは、[魂の]下の階を震撼させるのだが、この叫びを聞くことなしに、我々は最良の世界を考えることなどできない。」

 私の好きなヴァレリー箴言に次のようなものがある。「悲しみは喜びよりも一層真実に近い。」憎悪に満ちた者、天才的なルサンチマンの持ち主は、他人と同じ喜びを感じられないからこそ、他人が喜びのために目を逸らしている事実を直視する。あるいはシェイクスピアが『リア王』に残した言葉に従うならば、「赤ん坊がこの世に生まれた時に泣いているのは、この阿呆共の舞台に立つのが嫌で仕方ないからだ」。どんなに清らかに見える環境であろうとも、その裏には必ず不潔なものが潜んでいる。たとえ無垢な心を持って生まれてきたとしても、私達は生まれた時から無実である権利を奪われているのである。悲しみに暮れる者は、何も知らずにいた時には見えなかったものが見えてしまったからこそ悲しんでいるのだ。しかし、だからこそ、悲しみにより近い人間、憎悪に満たされた人間、呪われし者の協力がなければ、私達は進歩を可能にすることが出来ないのである。不可能であった進歩を可能にすること。感覚不可能であったものを感覚可能にすること。もしかすると、ただそれだけが呪われし者の役立つ唯一の手段なのかもしれない。

 そして、それは時間の力を可視化することでもある。時間には今日までの真実を偽に変える力がある。ならば、この見えない時間の諸力を理論化することこそ、私達における進歩と呼ばれなければならない。それは、かつての時間とは異なった魂の振り幅を獲得することでもある。時間における真実の危機に面して、求められているのは唯一無二の変わらない真理ではない。むしろ真実の危機に合わせてより広い思考の幅を獲得しようとすることである。


 人間関係には管理の問題が付き物である。それは、他人をいかに管理するかではなく、予測不可能な「他者」に直面する上で、いかに自分を管理するかということである。『差異と反復』の後半をはじめとして、ドゥルーズは時に「他者」という存在のアプリオリ性について語ることがある。家族であれ、友人であれ、恋人であれ、そこには必ず自分とは異なった意識を持つ人間がいる。だからこそ、他者の行動とは、何であれ今日までの私達の経験では予測不可能なものが多少なりとも含まれている。他者とは、常にこちらの経験を乗り越えるものであり、またこちらの経験に先立って存在するものである。だからこそ、他者に向き合うことは、それ自体今日までの自分を他者の中で見失うことに繋がる。

 ここで直面するのが、前述の通り、管理の問題である。つまり、今日までの自分を打ち崩し、新しい真実を出現させる他者と時間の形式の中で、いかにして自己との間に理性的な関係を確立するか。「私は絶えず「我」自身との間に人間的関係を創造し直し続けなければならない」のである。