21/10/06

 何かを「美しい」とする行いは、それ自身無関心なものである。たとえば「彼女の肉体は美しい」「彼の顔はとても綺麗だ」など。これらの美的判断は、ある種の客観性をもって行われている。「美しい」という価値判断は、本来他者と共有されたものだからだ。そのことは、世間一般における誰かを「美形」だと見なす価値観が共通のものであることからもわかるだろう。

 よって、美的判断とは本質的には無関心な行いである。ここにカントが『判断力批判』の中で展開した最もスリリングな理論が含まれている。つまり、カントによれば、高次の感情は無関心なのである。何かを「美しい」と判断する上で、個人的な関心は必要とされない。むしろ美が普遍的なものであるならば、それは無関心な状態でしか認識され得ない。よって、高次の感情(より美を認識するのに適した状態)とは無関心である。

 一方で、別の場合が存在する。それはドゥルーズが『カントの美学における発生の概念』の中で触れている事である。そこには苦痛を伴い、こちらに苦しみを強いるような美の啓示が存在するというのである。ドゥルーズ=カントはそれを「崇高」と呼んでいる。

「理性と構想力 [想像力] は、緊張、矛盾、苦痛を伴う分裂の真っ只中でしか一致しない。一致が、しかし不協和の一致が、つまり苦痛の中での調和が存在するのである。そして、こうした苦痛だけが快を可能にする。カントは、構想力が暴力を受け、その自由を失うことさえあるという点を強調している。」

 こちらにとって何か意味深く感じるもの、こちらが考えずにはいられないものは、勿論こちらを魅惑するが、一方でそれが把握しきれないからこそ、私達はそれに魅了されているのだとも言える。だからこそ、意味深いもの、崇高なものとの出会いには、ある種の苦痛が、不快が伴う。今日までのこちらの想像力を飛び越えるほどのものとの出会いが、こちらに理解しえない苦しみを強いる。しかし、だからこそ、理性と想像力は一致する。それは自分に苦しみを強いるものの認識である。そして、そこから更に認識することの喜びが生じる。不快から快が生じるのだ。悲しみの中で何かを発見した時、人は悲しみを覚えながらも喜びを感じるものだ。たとえ悲しんでいても、そこに何か特異的なものを見出した。だからこそ理解する喜びが生じているのだ。よって、次のように言うことも出来る。つまり、悲しみが人を特別にさせるのだと。

「しかし、極めて一般的な共通概念 [一般とされているもの] が我々に不一致を理解させる時 [我々が一般的なものと一致しないのを理解する時]、そこにまた能動的な喜びの感情が生じてくる。つまり、常に我々が理解することから能動的な喜びが生じてくるのである。」

 ここにドゥルーズはユーモアを発見する。つまり、こちらに悲しみを強いるはずのものが、解析されることによってむしろ喜びに転じるということである。そして、このユーモアの問題こそが彼の関心を寄せる作家に共通しているものである。「テクストを解釈することは常に、テクストのユーモアを見極めることと同じではないでしょうか。偉大な作家とはよく笑う人なのです。」

 ユーモアの問題は、彼がマゾッホ論を書いて以来、定期的にドゥルーズの著書に登場するテーマである。マゾヒズムの本質は、快楽を禁止するものから、むしろ快楽を引き出すことにある。罰は対象に快楽を禁止することを目的とする。おしりペンペンをするお母さんは、子供に「してはいけないこと」を教えるためにそれをする。つまり、子供が「したかった楽しいこと(味わおうとしていた快楽)」を禁止するために、母はおしりペンペンをするのだとも言える。マゾヒズムのユーモアはここから生じる。もし罰するという行いが快楽を禁止するためにあるのだとすれば、マゾヒストはこの「罰」を通して禁じられた快楽を味わうのである。このように、マゾヒストは、こちらに禁止を強いるものを通して、むしろ禁じられた快楽を味わおうとする。マゾヒズムの本質はユーモアにあるのだ。

 しかし、ならば何故マゾヒストは罰されることを求めるのかという問題が出てくる。私の理解が正しければ、その理由は大まかに二つに分けられる。一つは贖罪のためである。自らに罰を下すことで、罪を償い、禁じられた快楽を味わう権利を得ようとしているのだ。しかし個人的には、もう一つの理由の方が興味深い。それは、マゾヒストが罰を通して快楽への期待を高めているということである。「快楽[の実現]は欲望を中断させてしまう。従ってプロセスとしての欲望の構成は、快楽を払い除け、無限に斥けなければならない」。

 マゾヒストは待機の状態を好む。こちらに下される罰は、その分こちらに「よりよい状態」を、理想的な世界を想起させる。マゾヒズムの本質はその理想主義にある。実際、快楽の発生は緊張の状態と密接な関係にある。人は緊張から開放された時にこそ快楽をよりよく感じるのである。「興奮の拘束のみが、興奮を快へと「解消しうる」ようにする、それのみが興奮の放出を可能にする。」

 だからこそ、マゾヒズムは拘束されることを求める。それは、拘束されることによって、より高い次元にある快楽を期待するからだ。この待機の状態が続けば続くほど、実現される理想への期待は高まる。だからこそ、マゾヒストは自らを罰する更なるものを求めようとする。そして罰されることによって、中吊りになることによって、快楽が完全に実現されないことによって、自らの理想への妄想を深めていくのである。

 ドゥルーズマゾッホ論の比較的最初の部分で、次の点について触れている。つまり、マゾヒストは自らの理想のために、自らを罰する者をむしろ教育するのである。事実、マゾヒズムの本質は自ら服従することによって相手を支配する点にある。『毛皮を着たヴィーナス』のヒロインは、別に元々サディストなわけではない。むしろ純粋な心の持ち主だが、マゾヒズムの教育によって、マゾヒストを調教するよう強いられる。理想には犠牲が付き物である。理想主義の本質はその残酷さにある。マゾヒズムは自らの理想のために犠牲者を求めるが、それ故マゾヒストは自らを罰する者に対して残酷になるのである。そして、この理想と残酷さを実現するためにも、マゾヒズムは契約を相手に求める。そして契約を結ぶことで、相手が自分を調教する者になるよう教育する。また、理想を求めるからこそ、マゾヒズムの本質はその現実への否認にも見受けられる。

(実際、ドゥルーズマゾヒズムの特徴を説明する上で最も強調するのはこの「契約」の問題である。マゾヒストは契約を好み、契約によって自らの理想を実現させようとする。一方で、ドゥルーズによれば、サディストはむしろ「純粋理性を好む」という。サディズムの喜びは、より確かな論理を組み立てることで、かつて正しいとされていたものを(「自然」を)転覆することである。「重要なのは、推論自体が一個の暴力であることを示すこと、そしてまったき厳格さ、平静さ、静けさを伴う推論が、暴力的なもの達の側にあるのを示すことなのだ。重要なのは誰かに対して示すことですらなく、論証者の完璧な孤独と全能性とに一体化する論証を用いて、論証してみせることである。」だからこそ、マゾヒズムの残酷さに対して、サディズムの冷淡さが対比される。「サドの主人公達は、推論の全能性によってのみ到達可能なあの観念に比べれば、自分達の現実の犯罪があまりにもちっぽけなものであるのを見て絶望し、怒り狂いもするのである。」)

 ユーモアの話に戻ろう。このように、ドゥルーズマゾヒズムに大いに関心を寄せていた (事実、ドゥルーズマゾッホ論が発表されて以来、マゾヒズムを論じる上で「契約」の概念は必要不可欠になったらしい)。しかし、だからと言って彼自身が別にマゾヒストであるというわけではない。それは彼が『欲望と快楽』の中で否定していることだ。恐らくドゥルーズマゾヒズムに関心を寄せる上で、最も注目していたのはユーモアの問題だ。ユーモアは、自らの喜びを得るために悲しみを利用する。丁度マゾヒストが罰を通して禁じられた快楽を得ようとするように、ユーモアは本来悲しむべきはずの現実を解析することで、そこから喜びを引き出そうとする。それは彼の苦痛への趣味を示すものではなく、むしろ喜びへの大いなる愛を表している。たとえ悲しむべき現実であろうとも、そこには認識することの喜び、理解することの喜び、思考することの喜びがある。この時、より高次な理性の発展のために、悲しみは利用される。

「病人よりも医者に近いため、この作家は診断を行う。だが、その診断は、世界の診断である。彼は一歩一歩病の跡を辿ってゆく。だが、その病とは人間の類としての病のことである。彼は健康へのチャンスを算定する。だが、その健康とは新たな人間の偶然敵誕生のことである。」

 こう考えると、ドゥルーズの哲学は弁証法なのではないかという疑問が生じてくるだろう。その通りである。事実、彼はヘーゲル弁証法に否定的なだけであって、プラトンの弁証術に対しては肯定的である。「つまり、プラトンにおいて、分有の原理はとりわけ分有する側から求められたということである。分有は大抵の場合、外から突然やって来る出来事として、分有されるものが受ける暴力として現れる。」人はこちらに苦痛を強いるものと出会った時にしか、こちらに暴力を振るうものに出会った時にしか、自らの思考を発展させない。これはドゥルーズが『差異と反復』の第三章において展開した基本的なモチーフでもある。

 では、ヘーゲル弁証法ドゥルーズ弁証法の間には、いかなる違いがあるのか。これはあくまでも個人的なイメージだが、ドゥルーズの場合、思考を発展させれさせるほど、「一なるもの」が、全体が、解体されていくのである。彼の哲学の本質は、絶対的なものをバラバラにする点にある。だからこそ、同じ弁証法の趣味があれど、より高次な「絶対知」に到達しようとするヘーゲルの哲学とは正反対なものだと言わざるを得ない (そんなにヘーゲルに詳しくないから、この表現が合ってるかがそもそも不安なのだが)。ドゥルーズの哲学は反弁証法弁証法である。これは財津理氏が『差異と反復』の「訳者あとがきに代えて」でも触れていたことだ。

 先日、ドゥルーズの『スピノザと表現の問題』を読了して、大いに感動した。非常に難解な本で、一時間で二十ページを読むのがやっとであったが、決してポストモダン的な胡散臭さがなく、学術的な意味で難しかった。しかし、本当に読んで感動した。これまで私がスピノザに対し抱いていたイメージが一八〇度変わったと言っていい。そこには静的な、東洋思想の賢人にも似たものが全くなく、むしろ徹底した唯物論が、動的な力の哲学が展開されていた。これを読了することで、私は前より遥かにドゥルーズ哲学への理解が深まったような気がする。このまま上手く行けば、来年の春までには、纏まったドゥルーズ論が書けると思われる。

 ドゥルーズへの理解が一段落したら、今度はマルクスフーコーネグリ辺りの本を読むことが出来たらと思っている。権力論に興味があるのだ。この世界とは、力の、力に対する関係である。私達は、労働においてだけではなく、むしろ休息や、恋愛や、抵抗や怒りにおいてさえ、何らかの形で機械の一部となっている。どんな人間も、自分が他に影響を与える力であり、また他から影響される力であることから逃れられない。力と力の関係であることから逃れられない。権力は関係性の内にしか存在しないのである。そして、社会が権力=関係である以上、そこには必ず権力闘争が存在する。私が興味があるのはそこなのである。そして、この考えをもっと徹底することが出来たなら、きっと今よりもずっと面白い結論が導き出せる気がする。

 そういう意味では、いつか社会学や経済学もちゃんと勉強したい。あとは生物学なんかも学べたらと思っている。暇な時によくYouTubeで動物の動画を観たりするのだが、驚くことが非常に多い。シャチは知性が高く、基本的に無駄な狩りをしないが、好奇心から人間に近づいて、じゃれるつもりで人間を傷つけてしまうらしい。シロナガスクジラは非常に大きな声を出すため、そのおかげで一五〇キロメートル先にいる仲間ともコミュニケーションが取れるという。カバは縄張り意識が強く、基本的に草食性なのだが、縄張りに入ってきた動物には必ず攻撃する。だからアフリカで人間が死ぬ一番の原因はカバなのである(勿論、動物から襲われた場合のみに限るが)。皆、私と同じ哺乳類なのに、私とはまるで別の進化を遂げている。しかし同時に、私が共感を覚えずにはいられない点が幾つかある。実に興味深い話だ。

 以前日記の何処かで書いたが、幼少期の私の夢は動物学者になることだった。「学者になったら解剖もしなきゃいけないんだぞ」と言われて、当時はその夢を諦めたが、今ではむしろその仕組みが気になっているのだから、一度くらい解剖に立ち会ってみたいという気持ちがある。