21/10/10

 愛情の反対は無関心であるとよく言われる。しかし、私はそうは思わない。愛情の反対とは、むしろ失望である。無関心、それは文字通り何の関心も持たない状態を指す。だからこそ、丁度大地に種が撒かれて芽が生えるように、無関心から関心が芽生える可能性は大いにあるわけだ。また、相手の気持ちをよく理解するために、私達は時にどんな相手に対しても多少の無関心を必要とされることがある。曇りのない眼差しで物事を捉えようとするならば、個人的な感情は捨てなければならない。よって、私には無関心がそんなに悪いものだとは思われない。

 では、失望とは何か。もし無関心が何の関心も持たない状態であるとすれば、失望とはむしろ何の関心も持てない状態を指すと言える。失望した時、人は相手に関心を持ちたくても持つことが出来ない。何故なら、相手の「たかが知れてる」からだ。だからこそ、相手が何をしても、何を言っても、聞く耳を持つことが出来ない。よって失望とは、相手に対して愛情も憎しみも抱くことが出来ず、ただ軽蔑の混じった嫌悪感だけを覚える瞬間を指す。

 何かに対して好意を寄せる時、どんな人間も相手に期待を抱かざるを得ない。その期待とは自分に対する利益への期待である。そして、それは決して物質的なものだけではなく、精神的なものをも意味している。相手が自分に金を寄越してくれることを期待して、相手が自分の心の居場所となってくれることを期待して、相手が自分の肉体的な欲求を満たしてくれることを期待して、相手が自分の精神的な苦痛を癒してくれることを期待して、相手が自分のビジネスに利用できることを期待して、相手が自分を救ってくれることを期待して……。プルーストの語るように、私達は対象を単体で愛するというよりかは、対象が想起させる別のものを踏まえた上で相手を愛すると言える。だからこそ、愛情の本質は別の世界への期待である。言い換えるならば、この期待が損なわれた時、愛は終わる可能性がある。

 どんな人であれ、友人や恋人に対して、何らかの我慢をする時が訪れる。それもかなり頻繁に訪れると言っていいかもしれない。そして相手の嫌な所を見た時、相手の美点を想起させることによって( 「あれにはあんな所もあるしな」)、あるいは自分の欠点を想起することによって(「自分にもこういう所があるしな」)、私達は相手の欠点に目を瞑ろうとする。もしくは、時には相手の欠点のために、相手を愛おしく思うこともあるだろう。だからこそ、失望した時、私達は何の曇りもない眼差しで相手の欠点を眺めることとなる。その時こちら抱く感情とは、愛情でもなければ憎しみでもなく、ただただ「不愉快だ」という感情、軽蔑すべき対象に出会った時の嫌悪感、不快感である。

 ここから疲労が生じる。そしてこの疲労は何も美しいものではない(というのも人は時に、相手のために疲労することに何か特別な喜びを見出すからだ)。失望と共に生じる疲労は、ただただ「面倒だ」という気持ちをこちらに呼び起こす。だから相手がどんなことを言っても、どんな行動をとっても、もはや「相手にするのが面倒臭い」以外の感情が湧いてこなくなる。

 ただ記憶だけは残り続ける。現在が醜く見えようとも、思い出はいつまでも美しくあり続ける。だからこそ、次第に人は目の前の相手を愛するというよりかは、記憶の中の相手を愛するようになる。失望した後にも相手と接するとしたら、それは目の前の相手を愛するというよりかは、かつての記憶の中にいる相手の姿に執着しているからである。だからこそ現在の相手に、過去の記憶が繰り返されることを願わずにいられない。ここで再び期待の反復に直面することとなる。

 何にせよ、この世には愛情や憎しみよりも大きな感情がある。それは失望であり、それに伴う疲労である。だからこそ、私は憎まれることよりも失望されることを恐れる。また、憎むよりも失望することを恐れるとも言える。


 物質的に自由になることと精神的に自由になることは同義である。金は現代において非常に重要な問題だ。資本主義社会においては、あらゆるものが物質化され、商品化されている。それは決して服や食品だけではなく、人や、愛情にしてもそうだ。今の時代、金で買えないものなど殆どない。だからこそ、金銭をより多く獲得することは、すなわち精神的に自由になることのかなり一般的な近道だと言っていいだろう。しかし、ならば次のように言うことも出来るのではないか。つまり、精神的に自由になることが、そのまま物質的な自由に繋がるのではないかということだ。

 ここで私が思い出すのは、ウータン・クランのあの有名な一曲だ。あの曲はトラックもいいが、歌詞が本当に美しい。そこではある男の話が描かれている。それは「自由」を求めて失敗した男の話だ。

 金を稼いで貧困から抜け出そうとした若者は、十五歳で刑務所に入れられてしまう。しかし彼は次第にあることに気が付き始める。つまり、"But as the world turned, I learned life is hell / Livin' in the world no different from a cell (やがて時が経つにつれて、俺は人生は地獄だと理解した/シャバを生きることもムショにいることも大して変わりはない)" と。薬物の売人をしても、警察に怯えて生きるばかりだ。そして鬱を紛らすためには薬に頼らざるを得ない。薬をやってる時だけが苦しみから逃れられる。でもそのせいで貧乏からも抜け出せない。そして自分より若い世代にその事を伝えようとしても、誰も耳を傾けてくれない。ガキ共は皆薬漬けになって、誰も彼も好き放題暴れ回ってる。しかしやがて奴らも気づくだろう。俺の言っていたことの意味がわかるだろう。つまり、"life is hectic (人生は厄介なものだ)" ということを理解するだろう。そして次の言葉が繰り返され続ける。"Cash Rules Everything Around Me (金が俺の周りの全てを支配している……)" と。

 ここでは、心身共に自由な生活をするために、金銭を獲得しようとする若者の姿が描かれている。彼らにおいては、物質的な自由を得ることが、そのまま精神的な自由を得ることに繋がっている。事実、それは正しい。恐らく私達の大半は、精神と物質の密接な繋がりから決して解放されることなく一生を終えるだろう。そして物質から解放されることは、すなわち精神から解放されること、死に至るということだ。

 では、この場合「自由」とは何か。自由とは出口を見出すということである。もし物質によって精神の自由が手に入るならば、逆の場合もあるはずだ。つまり、精神によって物質の自由が手に入るということだ。それは何も、精神的に豊かになることで金銭的にも豊かになるというわけではなく、むしろ精神的な自由を獲得することによって、あらゆるものが物質化=商品化するこの社会において生き延びる手段を獲得するということである。だからこそ、自由になるとは出口を見出すことである。

 上のウータン・クランの曲では、薬物の売人では自由になれないと気づいた男が、音楽によって自由になろうとする姿をも描いている。人間は自分が解ける問題しか設定出来ない。もし答えが出ているはずなのに、いつまでも同じ場所に頭をぶつけ続けているならば、それは答えが間違っているのではなく、問題の設定の仕方がそもそも間違っている。大切なのは答えを出すことではなく、問題を設定することだ。だからこそ、自由になるということは、別の仕方で問題を設定すること、かつての答えを捨てて別の答えを求めるようになることである。精神的に自由になることが、そのまま物質的な自由に繋がるとすれば、それは思考の向きを変えることによって、新しい物質との向き合い方を獲得するということである。


 あらゆる芸術は音楽に憧れる。少なくとも私にとって、音楽は他の芸術よりも重要なものである。美しい音楽には鎮痛剤のような作用がある。再生した瞬間に、それまでこちらを支配していた苦しみがスーッと消えていくのだ。こればかりは本を読んでいても、映画を観ていても得られないものである。こちらの意識を遠のかせ、こちらの全てを忘れされるもの。音楽。

 とりわけ悲しげな音楽にはある特別な作用が含まれている。その音楽自体が悲しいわけではないのに、あたかも音楽が自分の代わりに悲しんでくれているような感覚をもたらすのである。別の場合でも同様である。スリップノットを聴いて暴れ狂う少年は、別に元々暴れていた訳ではなく、ただ音楽が自分の怒りを代弁してくれるような錯覚をもたらすため、突然狂ったようにヘッドバンキングをするのである。ショパンの曲に涙を流す人は、別に元々泣きたかったからではなく、曲が自分の分まで泣いてくれるような気がするから、泣き出してしまうわけである。

 この音楽と「私」との間で行われる共振の作用。それが聴き手にある強い感動をもたらす。それは理解することの感動である。自分の感情が理解されるという感動、あるいは音楽によって自分の感情を理解するという感動だ。恐らくどんな芸術鑑賞にも、この共振の作用があると思われる。しかし音楽よりも強くそれを促してくれるものは他にない。音楽ほど強く、直接的に、こちらの心に響く芸術は他にないのである。だからこそ、「あらゆる芸術は音楽に憧れる」。これは確か昔の偉人が残した言葉なのだが、しかしそれが誰なのかは忘れてしまった。