21/10/17

 ニーチェによれば、私達の行為はどれも解釈に基づいて行われていると言う。たとえば子供が親に甘えるのは、「親が自分を愛している」という無意識上の解釈に基づくからである。だからこそ、いかなる言動にもその裏には必ず解釈が存在する。よって、「解釈」という行為それ自体は「解釈の解釈」ということになる。

 ここから導き出される結論とは何か。それは「この世界の一切は解釈あるいは表現である」という事だ。もし何らかの行為が必ず解釈に基づいて行われるならば、私達の言動の一切は「解釈の解釈」である。何故ならば、こちらに何がするよう促す相手の言動さえも、既に何らかの解釈に基づいて行われているからだ。そして、その相手の解釈さえも、また別の解釈に促されている……。このように、ニーチェが見たもの、それは解釈に解釈が覆い被さる世界、仮面の上に仮面が重ねられた世界である。こうしてニーチェは真理なき世界の実在を目の当たりにする。そしてそこでは、偽なるものの力能が人々を突き動かしているのである。

 この世界とは、力とその表現が支配する舞台である。私達の感情を例にとってみよう。嫉妬に狂った人間の感情表現について、「憎んでいる」というよりかは「愛しいが故に憎んでいる」とする方がより適切であろう。しかし、だからと言って後者の表現が永久不変の真理なわけではない。人が嫉妬を覚えるのはシチュエーションによって性質が異なるから、より適した表現がそこにはあると言えるだろう。

 この事から理解されるのは、真実というものはこの世になく、より適切な表現、より高い強度を持った表現だけが存在するということだ。この場合、表現されるのは力であり、また表現するものも力である。私達の感情はより説得力のある表現によって常に席を譲られる。だからこそ、私達の内に「本当の気持ち」なんてものは存在しないとも言える。ただそこには、より程度の高い表現か、あるいはより程度の低い表現だけが存在する。私達の内でうごめく潜在的な力、嫉妬という力、怒りや悲しみといった力を、より上手く表現する別の力が存在する。だからこそ、この世界とは力とその表現が支配する舞台である。

「真理なき世界の実現」というテーマについて、私達は時間の側からも直面することとなる。つまり、真実は常に時間によって危機に晒されるということだ。ある時は一つの解釈が正しく見えて、また別の時には別の解釈が正しく見える。このように、私達は常に時間によって考えを変化するよう強いられる。それは、時間が常に私達の考えを変える出来事の出現を可能にするからだ。時間の裂け目から事件が介入し、今日までのこちらの正しさを偽に変える。何故ならば、人は思考に苦しみを強いるものに直面した時にしか、思考を発展させないからだ。人が正しさについて考えるのは、常に正しさが失われつつある時のみなのである。危機あるいは苦しみを与える出来事こそが、私達の真実を偽に変える。そして人は絶えず結果から原因を考えるものである。言い換えるならば、原因の推測は絶えず現在のこちらの偏見に依存する。だからこそ、唯一無二の真実とするべきこの世界の解釈は存在せず、絶対的な因果性(「あれのせいでこうなった」)というのも存在しない。今は正しいと思っている過去の原因も、別の結果に出会えばコロッと変わってしまうだろう。

 こうして力の側から、時間の側から、真理なき世界の実現が到来する。この時、私達はどうしてもある一つの問題に直面せざるを得なくなる。それは信仰の問題である。しかし、それは決して宗教的な問題ではない。また神の問題でもない。それはこの世界を生きることへの信頼、喜びが悲しみに勝ることへの信頼の問題である。まさにそのような信頼を失いつつあるということ、あるいは既に失ってしまっていること。それこそが私達の直面する最大の危機なのだ。

「現代的な事態とは、我々がもはやこの世界を信じていないということである。我々は自分に起きる出来事さえも、愛や死も、まるでそれが半分しか関わりがないかのように、信じていない。」

 だからこそ、私達は生への信頼を再び取り戻さなければならない。この信頼あるいは信仰の問題は、そのまま倫理の問題にも関わってくる。こちらの生きる経験が、あたかもこちらの生への信仰を奪うかのように働きかけることがある。あたかも今日まで自分のしたことが全て間違ってきて、自分の積み上げてきたもの全てが、ガラスのようにバラバラに崩れ去ってしまうのである。ならば倫理とは、私達の経験に先立ち、そして私達の経験を乗り越えるものを教える存在でなければならばない。何故ならば、倫理こそが私達の生存を形成するからである。勿論、倫理学の目的は絶対的な正しさを獲得することではない。その時々にこちらの振る舞うべき動作が異なる以上、絶対的に正しい生き方などあるわけがない。ならば、倫理とは何か。それは私達がこの世界を信じる理由を与えてくれるもの、喜びが悲しみに勝ることを教えてくれるものである。そして、ただそれだけが、私が生きる上で必要なものである。

「我々は一つの倫理あるいは信仰を必要とする。こんな事を言えば、馬鹿者共は笑い出すだろう。それは他の何かではなく、この世界そのものを信じる必要であって、馬鹿者共もやはりその世界の一部なのである。」

 先のニーチェの話に戻ろう。もしあらゆる行為が解釈に基づいて行われるならば、よくよく哲学で取り扱われる「心身二元論(精神と肉体の対立)」は錯覚だということになる。あらゆる言動( = 身体)がそのままこちらの解釈( = 精神)によるのならば、人間の精神が能動的になる時に肉体も能動的になり、また精神が受動的になる時に肉体も受動的になると言える。これが所謂「心身並行論(身体と精神が並んで存在する)」という奴だ。「私達は身体が何を為すのかを知らない」とは、この心身並行論を唱えたスピノザが残した有名な言葉だが、今こそ私達はこの言葉を思い起こさなければならない。人は自分の身体が何をなすのかを知らない。何故ならば、身体とは思考と並んで存在すると同時に、決して思考し得ない何かを含んだものであるからだ。そしてこの思考し得ないものこそが、私達の思考を危機に晒すと同時に、私達の思考の拡張=拡大を可能にする。

 ドゥルーズの哲学には、その最初期から一貫したある一つのテーマが存在する。それは人間の能力の拡張=拡大である。ヒューム論において、ドゥルーズは度々「人間は本性的にエゴイストではなく偏見的である」というテーゼを取り上げる。私達には共感する能力があるが、しかその共感の幅は本来非常に狭い状態に限られている。人間は自分に近いもの、自分の原因となってくれるものほど重要視にする傾向があるからだ。よって現実問題を解決する上で、大切なのは自然を抑圧することではなく、むしろ自然を拡張することである。自然状態[ありのまま]では狭いままである共感能力を、拡大しなければならない。それこそが無駄な争いを減らす最前の手段だからだ。そして、だからこそ正義とは自分から最も遠い人間の苦しみを、あたかも自分の近くにいるもののように感じ取ることである。

 自然を拡張=拡大するということは、まさに人間が明確な本能を持たないからこそ可能なことだとも言える。同性愛や女装/男装の文化が示すように、人間は本来「自然」とされたものから次第に抜け出す生き物である。「人間は本能を持たず、諸制度を作り上げる。人間は種から脱皮しつつある動物なのである。」だからこそ、人間には明確な能力の規定が可能ではない。絶えず現状から抜け出すものである以上、人間の能力は衰退するか、あるいは増大するかのどちらかとなる。だからこそ、人間の能力の拡張=拡大は可能であり、またそうしなければならないとも言える。何故ならば、それこそが私達が直面した危機を解決する唯一の方法であり、私達の「進歩」であるからだ。

 芸術は人間の「感じ方」を拡大する。音楽の感動は、こちらが今日まで上手く表現出来なかった感情が、その中で上手く歌われているからこそ生まれるのではないか。文学の感動は、自分が今日まで上言い表せなかったものが、その本の中で見事に表現されているからこそ生まれるのではないか。同様に美術の感動は、今日まで私が捉えることの出来なかった世界の美しさが、そこで可視化されているからこそ発生すると言える。「絵画の使命とは、見えない諸力を見えるようにする試みとして定義される。同じように音楽は、音的でない諸力を音的にするよう努める。」だからこそ、芸術の目的とは人間の感覚する能力の拡大である。同じように、哲学の目的は人間の思考する能力の拡大であり、科学の目的は人間の技術能力の拡大を目的とする。

 ではこの能力の拡大とはいかにして可能になるのか。それは他ならない、身体に目を向けること、感覚し得ないもの、思考し得ないもの、体系化し得ないものに直面することによってである。

「確かなのは、信じるということは、別の世界[死後の世界]を信じるということでもなく、改造された世界を信じるということでもないということだ。それはただ単純に、身体を信じることである。言説を身体に取り戻すということである。そしてそのためには、言説以前の、言葉以前の、事物が名付けられる前の身体に到達しなければならない。」

 能力の拡大を目的とする以上、芸術、哲学、科学は本質的に生命への愛、喜びへの愛に満ち溢れている。一人の芸術家、哲学者、科学者の人生がどんなに悲劇的に見えたとしても、彼らの絶え間ない試行錯誤の裏には、必ずや生命への意志、喜びへの意志が隠されている。だからこそ「悲愴な創造などなくて、いつも喜劇的な生があるのみ」である。しかし、現実はそうはいかない。私達はありのままの生をいきる権利を、純粋状態の喜びを味わう権利を、生まれた時から奪われていると言える。子供の頃、私達は与えられた環境をそのまま生きることしか出来ない。だからこそ、どんな人でも子供の頃はある程度受動的、隷属的であることしか出来ない。そして、自分に与えられたものが、そのまま自分に最も適した生活様式なわけではない。大抵はむしろその逆である。私達は、自分の性質に見合った生活を手に入れようとすれば、必ず苦労する運命にある。だからこそ、喜びを求めようとしたら、むしろ悲しみを味わう羽目になったということが度々起こることになる。そして、子供の頃に、受動的で隷属的であった頃に犯した罪のために、大人になった後に苦しむことにもなる。そういう意味では、私達は無実でいる権利すらも奪われていると言えるかもしれない。

 しかし、奪われているならばそれは取り戻されなければならない。これは権利問題である。ここで倫理の話に戻ろう。芸術家には、新しい「感じ方」を創造する能力への信頼がある。哲学者には、新しい思考を可能にする理性能力への信頼がある。そして科学者には、新しい技術を発明する知的能力への信頼がある。しかし、これらの能力がありのまま発揮される舞台などこの世界の何処にもない。何故ならば、生まれた頃の人間は誰しも何かしらの隷属状態にあり、しかも大抵はそれから完全に抜け出すことの出来ないまま死を迎えるからだ。だからこそ、能力の拡張=拡大を求めるならば、絶えず悲しみと苦しみが付きまとう。ドゥルーズはベーコンの絵画について「叫びの彼方には微笑みがあるが、彼はそれにたどりつけなかった」と書いたことがある。まさに私達はあのフランシス・ベーコンの絵の人物のように、喜びを求めた結果、顔を醜く歪ませ、ヒステリーに駆られ、叫ばざるを得なくなるような瞬間に到達する。私達が倫理を必要とするのは、まさにそのような時である。

 無意味とは意味の欠如というよりかは、むしろ意味の過剰から生じる。だからこそ、「<理性>は神経症によって死に絶える」こととなる。考えすぎることによって、人は自らの思考の限界に直面する。ならば、問題となっているのは、いかにして理性なしで物事を済ませるかではなく、むしろいかにして理性の能力を復権させるかということである。思考の無能力に直面した時、それを拡大するチャンスを与えてくれるのは、まさに思考し得ないものに目を向けることによってでしかない。第二次世界大戦によって西洋の理性への信頼が意図も容易く失われたように、人が今日まで積み上げてきたものとは、案外簡単に壊れるものである。ならば、その逆の場合も可能であるということとなる。つまり、今日まで不可能だとされてきたことが、ある日突然可能になることも有り得るということだ。今日までの経験を乗り越えるもの、今日までの経験に先立つものが、私達の経験には内在している。ならば、そこに秘められた可能性に賭けなければならない。そして、その可能性を信じること、その可能性を生きることこそが、私達の倫理とならなければならない。信仰とならなければならないのだ。

「問題は、言葉の手前で、あるいは彼方で、世界への信頼を再発見すること、取り戻すことである。」

「諸身体を構成すること、それによって、我々が世界への信頼を取り戻すこと、理性を取り戻すこと……。」