21/10/23

 現代の恐ろしい所、それはあらゆるものが公的になりつつあるということだ。個人の私生活さえ、今や他人の眼を気にして演技するべき舞台となっている。最早私達を見張るのはお天道様ではなく、他ならぬ私達自身である。そこにいない他者の眼差しを気にして自らを管理する人間の姿があるわけだ。そして奇妙なことに、人によっては、むしろ好んで自らの私生活を公的にしようとする。自分の演じる姿を絶えず他人に見てもらうよう願う。こうして四六時中SNSを更新する人間が生まれるわけである。

 インターネットの発展はより広い人間同士の交流を可能にした。スマートフォンを代表とする連絡技術の発達もまた、たった一秒で遠く離れた誰かの私生活を覗き見することを可能にした。これら二つは私達に多くの恩恵をもたらしたと言える。私自身、最早スマートフォン無しの生活が考えられない程である。しかし同時に、これらネット文化の繁栄は、こちらから私的なものを奪うという現象を可能にした。私達は孤独を奪われた世代である。しかしそれは孤独を慰めることに繋がるわけではない。何故なら、孤独とはむしろ人との関わりの中でこそ苦しく感じられるものだからだ。砂場で一人遊びをしている子供は、自分の孤独に苦しみはしない。孤独に苦しむのはむしろ、酒場で大勢の人間に囲まれて笑う大人である。ここに孤独のパラドックスがある。つまり、人は他者との交流が増えれば増えるほど、むしろ孤独に苛まれるようになるのである。

 資本主義社会においては、あらゆるものが公的であると同時に、何も公に口にすることが出来ない。これはドゥルーズが語っていた資本主義社会の特徴でもある。例えば政治が権力闘争であることは誰の目に見ても明らかである話だ。政治家が戦うべき相手は社会の諸悪ではなく、むしろ同じ政治家達に対してである。しかし政治の職務につく人間は、誰もそれを公に話すことが出来ない。あくまでも政治家は自分のためではなく「世のため人のため」に働いているのだと言わなければならない。何故なら、公的であることと公に話すことは異なっているからだ。たとえ皆が暗黙裏に気づいていることでも、それは本人の口から話されなければ真実ではないのである。

 ここに資本主義社会の面白い点がある。ホストにハマる女性は、ホストが自分のためではなく金のために優しくしているのだと知っている。しかしホスト自身の口からそう語られることがない限り、彼女はそれを信じないだろう。相手がそれを認めない限り、それは真実ではないからだ。皆が知っているが、誰も口にすることが出来ない。誰もがわかっているが、しかし誰もそれを突きつめることが出来ない。均衡が崩れてしまうのを恐れるからだ。そして、政治家あるいはホストはそれを利用する。自分のしていることの意味が気づかれているとしても、あくまでも「いやいや、これは君のためなんだよ」と語る。また、人々はそんなはずがないことを知りながらも、あくまでそれを信じてしまう。まさに一切は公的であるが、しかし何も公に口にしてはならないのである。

 しかしもしかすると、私達が資本主義社会から身を守る方法は、まさにそこにしかないのかもしれない。もし自らのプライベートを守りたいならば、私達は絶えず口を開き弁明するのではなく、むしろ口を閉じて沈黙しなければならない。黙っているのを見れば、相手は好き勝手こちらに解釈を与えてくれる。沈黙とは常に他者からの解釈を許す時間である。だからこそ、公的な自分と私的な自分の分離が生じる。自らを守るための唯一の手段、それは何も語らないことである。それは政治家が記者会見で何も話さないのと同じである。


 私にはよく考えることがある。つまり、私達は生まれた時から無実である権利が奪われているののではないかと。どれだけ子供が無垢に両親を信じていようとも、その両親もまた無垢に生きているわけではない。世には問題を抱えていない家庭の方が少ないものである。だから大抵の場合、子供は大人になってから自分の家庭が抱えていた問題に気づくものだ。どれだけ清らかに見える環境にも、その裏には汚辱が潜んでいる。そして、やがてはその汚れのツケを支払うこととなるだろう。自分が知らず知らずのうちに行っていたことが、ある観点から見れば非常に罪深いことに気づく。そのために、私達は心当たりのない罪のために責められるだろう。どれだけ自分が無実だと主張しても、裁きを受けるべき人間として扱われる時が来る。この時、私達に求められるのは罪への服従ではなく、むしろ自らの無実のために絶え間ない訴訟を起こすということだ。そう、私にはよく考えることがある。少々規模の大きな話になるが、生きるとは失われた無実を取り戻す過程なのだと。

 私にはある一つの後悔がある。それはかつて、あまりにも自分の話をしすぎたということだ。この後悔には多少なりの恥も含まれている。私は人より恥や劣等感を覚えやすい人間だから、人より一層それらのものを避けようとしてしまうのである。勿論、誰かと深い仲になる上で、自らについて語ることは大切である。特に自分の過去について語ることには、ある種の自白作用がある。相手の語る内容がこちらの弱さに共鳴するものであるほど、こちらもその分自分の弱さを語らなければならないと思うようになる。辛い過去の話や、苦しかった思い出話は、こちらの感傷を誘い、自分もその分辛かったこと、苦しかったことを話さなければならないと思うようになる。これが一般にいう「心を許す」という現象の正体である。

 しかし、あらゆるものが公的になる社会において、自らを守る唯一の手段とは、自らについて語らないことしかないのではないか。何故人は沈黙を恐れるのだろう。恐らくは沈黙くらいしか、この世界から自分を守ってくれるものはないというのに。


 断言していいが、私達は誰一人として真実を求めていない。大袈裟な話ではなく、これは世の中の全ての人に共通して言えることだ。それは、一見すると真実を求めているようにみえる人でも同じである。「本当の君が知りたい」と語る若者は、実は「本当の君」なんて知りたいわけではなく、ただより納得のいく相手の姿を見たいだけである。というのも、真実への探求とは、まさにそれを促す嘘に出会った時にしか生じえないからである。言い換えるならば、真実の探求は、まさに相手の嘘を信じられなくなった時にこそ発生しうるものである。

 厳密に言うならば、人は決して嘘それ自体を憎んでいるのではない。ただ相手の嘘に気がつくことで、相手のことが信じられなくなるの憎んでいるのだ (確かこれはニーチェが何処かで書いていたことだ)。だからこそ、実生活において嘘を排除しようとする。言い換えるならば、相手の嘘がこちらを上手く騙してくれないからこそ、私達は嘘をつかれるのを憎むのである。もし相手が完璧にこちらを騙してくれるのならば、むしろ喜んでそれに騙されたいと願うだろう。何故ならば、私達は誰も真実など求めていないからである。人が求めているのは真実ではなく、より納得のいく、より程度の高い言説である。そして、それが本当か嘘かは特に重要ではないのだ。だからこそ、上の若者の例をより適切に綴るならば、次のようになる。つまり、「本当の君を知りたい」と語る若者の裏にある気持ちは、別に本当に相手の真実を知りたいわけではなく、ただより上手くこちらを騙してくれる嘘を期待しているだけなのである。

「[オーソン・]ウェルズにはある種のニーチェ主義があり、まるでウェルズはニーチェにおける真理批判の要点を辿り直しているかのようだ。その要点とは、「真なる世界」というものは存在せず、仮に存在したとしても到達不可能で、想起することも出来ず、仮に想起できたとしても、無益で不必要なものであるということだ。」


 最近、またベートーヴェンの音楽に感動する時間が増えている。アンドラーシュ・シフECMに残した録音はどれも素晴らしいものばかりだ。ベートーヴェンの一連のチェロソナタがこんなにも美しいものだったとは。改めてその素晴らしさに気付かされた次第である。

 しかし、変わらず私の心を打ち続けるものがある。それは彼のピアノソナタ第三十二番だ。この曲の第二楽章を聴いていると、思わず私は「晩年」という言葉を想起してしまう。晩年。死を目前にし、埃の積もった部屋に一人、古びたピアノに向かう老ベートーヴェンの姿を想像してしまう。特に秋や冬に聴きたくなる音楽だ。今の季節は疲労と死を思い起こさせる時期である。草木は枯れ、動物は眠り、一年が終わりを迎えつつある。生命の終わり、目覚めの終わり、一年の終わり。それは時の終わりをも意味する。ベートーヴェンの書いた最後のピアノソナタは、まさにこの終わりの時期に相応しい。

 しかし、大変奇妙なことがあるのだ。絶えず終焉を思わせるベートーヴェンピアノソナタ三十二番だが、しかしその第二楽章には、非常に開けた、解放感溢れる明るさが漂っているのである。それは嵐と苦闘を思わせる第一楽章と見事な対比をなしているが、しかし第二楽章の明るさには、何か張りつめたもの、刹那的かつ心苦しいようなものがある。そして、それがこの音楽を究極的なまでに美しく高めているのだ。

 永遠。知らず知らずの内に、私はその言葉を思い浮かべていた。これはまさしく解放の音楽、救いの音楽、自由の音楽、そして永遠の音楽だ。晩年のベートーヴェンがついに到達した解放、救済、あるいは自由。それがこの音楽に永遠の美しさをもたらしているのではないか。

 この時ふと、つい先月読み終えた『スピノザと表現の問題』のある数節を思い出した。「スピノザが救済という概念の積極的内容を完全に保持していると考えることができたのはこの意味においてである。存在そのものはまだ一種の試練として考えられる。確かに、それは道徳的な試練ではなく、むしろある素材の、金属の、器の質を検査する職人たちのなすような、物理的あるいは化学的な検査である。」

 子供時代、それは誰もがある種の隷属を強いられる時代である。子供だった頃、私達の誰もがその外的な要因に依存し続け、外部の存在に振り回され続け、ただただ自分の無力さとやるせなさを嘆くことしか出来なかった。そうだ。子供だった頃、私はどれほど早く大人になることに憧れただろう。しかし、大人になって初めて気づいたことがある。それは「大人になる」ということが決して「自由になる」と同じ意味ではないということだ。今も尚、私は他に頼らなければ物事を考えたり、行動したりすることが出来ない。そして恐らく、死ぬまでそうなのだと思われる。

 この時、死は一つの解放として考えられる。それは決して死ぬことによって生の重荷から解放されるということではなく、死ぬことによってついに何にも頼らない存在になることが、真に自由になることが可能になるのだ。「しかし、死ねば意識が無くなるのだから、自由も糞もないのではないか」という意見もあるだろう。それはその通りである。しかし、ここに『スピノザと表現の問題』の大変興味深い理論の一つが含まれている。つまり、たとえ私の肉体が土に還るとしても、私の記憶は残り続けるのである。この場合、「記憶」とは決して心理学的な意味ではなく、むしろ形而上学的な意味である。もっと単純に言うなれば、記録やアーカイブと同じ意味だと考えてもらって構わないだろう。外部に依存し続ける私の肉体がなくなると同時に、私の残した記憶 - 記録 - アーカイブは残り続ける。もし私が作品を残したとすれば、私は朽ちれど私の作品は残り続ける。それは一つの記憶となって、この世界を生き続けるのである。

 しかし、何故「記憶」という表現を用いる必要があるのか。今は亡きロックスターのファンは、本人と実際に会ったこともないにも関わらず、まるで自分の親友のように彼について語ることがある。イアン・カーティスのファン、カート・コバーンのファンは、実際の知り合いよりも深く彼ら二人のことを愛していたりするものである。このように、人は経験していないことを経験しているものと同じレベルで扱うことがある。それは、遠く離れた地で数百年前に死んだ者の音楽を聴いて、それを我が身のことのように考えている私についても言えることだ。まさに私達は、この世界の記憶、かつての死者達が残した記憶を受肉することによって生きているのである。

「記憶が我々の内にあるのではない。我々の方が、記憶 - <存在> の内に、記憶 - 世界の内に生きているのだ。」

 だからこそ、人は死によって自由になる。死は救済であり、解放である。しかし、それは決して生が重苦しいからではなく、むしろ生の中で味わえた軽やかな喜びを邪魔するものがこの世にあるからだ。人は死ぬことによって、ついに邪魔者から逃れることが出来る。『スピノザと表現の問題』には、次のような文章も登場する。

スピノザの場合、理性、力あるいは自由は、生成、形成、文化と不可分である。人間は生まれつき自由ではないし、また生まれつき理性的でもない。そして誰も我々のために、我々の本性と一致するものをじっくりと経験したり、我々の喜びを見出すためにじっくりと努力することなど出来ない。」

 ああ、まさにその通りだ。私達は誰も生まれた時から自由ではない。誰も生まれた時から理性的ではない。ただ生きる過程で、次第に自由を、理性を獲得していくのである。それはまさに失われた権利を回復する過程なのだ。だからこそ、生は一つの試練として、実験として捉えられる。何が自分の本性に合ったものなのか、何が自分に喜びをもたらしてくれるのか。それを制約の下で考え続けなければならない。そして遂に、晩年において、人は究極的な意味での自由、究極的な意味での理性に到達する。それは解放であり、救済をも意味する。つまり死ぬことによって、私は本当の意味で自由になり、本当の意味で喜びに満たされたものとなる。私は真の意味で能動的なもの、つまりこの世界を形成する「記憶」となる。

 人生は長い。糞のように長い。そして生きている間、生は試練であることをやめない。しかしそれでも、最期には解放が待っている。それは恐らく、近しい死を感じるベートーヴェンが、ピアノソナタ第三十二番を書きながら考えていたことでもあるはずだ。

「[アラン・]レネの人物たちはただアウシュヴィッツから、あるいは広島から戻ってくるだけでなく、また別の仕方で哲学者であり、思索者であり、思考の存在である。なぜなら哲学者たちとは、死を通過し、死から生まれ、多分同じ死ではあっても、やはり別の死に向けて歩むような存在であるから。(……)哲学者とは、誤っているにせよ正しいにせよ、自分が死者たちのもとから復帰してきたと信じ、またあらゆる理由で、死者たちのところに戻っていく誰かなのである。哲学者は、死者たちのもとから帰ってきて、そこに戻っていく。これはプラトン以来の哲学の生ける定義である。」